— Delirious New York Diary

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Tag "モダニズム"

幾度かこのブログにも登場している磯崎新は、数多くの著書を残している。建築が「建築」という言語による思考と構築作業であるとするならば、そのプロセスを記述する方法は、ドローイングや模型、ダイヤグラムといったリプレゼンテーション的なものから、そのコンセプトや主旨を主観的に(あるいは客観的に)語る行為である「文章」も、その有用な方法として用いられるのが自然といえる。そこにはもちろん実際の建築との齟齬も発生するだろうが、逆にその空隙に入り込んでくる社会や文化的視点を利用して建築そのものを客観的に捉え直す事も建築成立にとってなくてはならない作業である。そしてそこが建築というフィールドを超えた、異分野間の意見の交換が生まれる素地ともなる。新たな思考へのより広い踏み台ともなる。

「磯崎新の思考力」は、建築に関わる狭い範囲に向けられた言説集というよりは、建築を成立させる社会的広がりに向けられた、建築の外側にいる人にこそ読んでもらいたいと書かれたエッセイ集だ。もちろん専門的な言葉、人物も多くその点すんなりとは読めないかもしれないが、多くの人に読んでもらいたい本だ。タイムリーな話題と、今だからこそ再考されるべきテーマのどちらもがあふれている優れたエッセイだと思う。

昨年、近代建築の二人の巨人の訃報が届いた。アメリカのフィリップ・ジョンソン、そして日本の丹下健三、どちらも両国の近代建築を率いた中心的人物だった。磯崎は、この二人との個人的な関わりを交えながら、彼らの存在を物語っている。

ーーフィリップ・ジョンソンは非常に複雑な生き様とそれを反映したかのような建築への取り組みを見せた、個性豊かな人物だったという。ヨーロッパに起こった近代建築の萌芽に遅れをとっていたアメリカに、啓蒙としてそれらを持ち帰ったのも彼だった。
彼自身は異質の存在となるべく定められた人だった。ファシズムに傾倒し、ナチス・ドイツを崇拝してポーランド侵攻に従軍したこともある。後にはゲイである事を公表し、アメリカの建築/美術界の中で派閥のような権力のサークルを作り出しもした。生まれては消える建築の活動を取り込んではもてあそぶかのように自己解釈して作品に反映していく。それ故に皮肉にも彼は非常に長い間にわたってアメリカの建築界で影響力を持ち続けた。
磯崎はそんなジョンソンの、きらびやかな光と影に彩られた人生を様々な陰と陽の視点を交えて見つめている。

フィリップ・ジョンソンを世に知らしめた作品は、彼のデビュー作となった「ガラスの家」である。(近代建築史再考のエントリを参照されたし)これは同じくガラスと鉄による建築を目指したミース・ファン・デル・ローエの住宅作品、たとえば「ファーンズワース邸」と比較検討されてきた。どちらの邸宅も豊かな自然の中に建ち、とくにガラスの家はダンテ云うところの”アルカディア”とも言えるかのような素晴らしい土地の中に建っている。
20050928151315 王国社「磯崎新の思考力」
フィリップ・ジョンソン「ガラスの家」

磯崎は、その「ガラスの家」の中にイーゼルに載せられたニコラ・プッサンの絵を認める。プッサンは数多くのピクチャレスクな田園風景を”アルカディア”として描いた画家として知られているが、プッサンの絵にはパッラディオが田園風景の中に配したフォリー(フォーカルポイントとなる休憩所等の小さな建造物)がよく描かれており、ジョンソンはガラスの家を建てた後、その周辺の広大な敷地にフォリーのような小さな建物をその時代に流行したスタイルを用いていくつか設計し、風景の中に配置していった。
裕福な家庭に育ったジョンソンは家族のコレクションの多くを処分する中でこの絵を自らの枕元に残したという。それも専門家に鑑定を依頼し、その結果”偽物”であることが判明した後にである。

最後にガラスの家を訪ねた時、磯崎はその絵の左下に、数人の男が棺を担ぎだしている姿が描かれているのに初めて気がついた。アルカディアに死はない。もしくは、死は気付かれない間に消し去られる。ジョンソンは数十年にもわたりそんな絵を枕元に掲げながら、目前に広がる風景には自らの好む建物を一つ一つ作り上げ、自分の求めるアルカディアの風景を作り上げていったのだろうか。
そこにはジョンソンの生き方と考え方が強く反映されている気がしてならないと磯崎は語る。ミースのファーンズワース邸に対し、コピーとは言えないとしてもそのコンセプトを借用した、「偽物」としての「ガラスの家」。ヨーロッパの戦火に崩れ落ちた石造りの伝統都市に対する、ピクチャレスクな自然とそこへ開かれた鉄とガラスの透明な邸宅。その中に掲げられたアルカディアのイメージと、その影を描いた絵画。そこには近代建築の描いた単純な未来像、ユートピアとは明らかに異なる、ジョンソンの心象風景の中にのみ閉じた世界観が垣間見える。

建築においてはつねに伝統と形式の授受が次の世代の建築を生み出す先駆けとなる。それはまるで突然変異のように捉えられがちな近代建築についても実は同じだ。その限られた範囲内からのみ特別なオリジナリティを探し求めることは意味不毛なものである。近代建築には何らかの歴史や伝統様式への参照と模倣が成立の過程で認められるのだが、その点でジョンソンは同時代のミースを参照した。それは時代や権力に寄り添う嗅覚をもったジョンソンの、非常に鋭い洞察であったのだろう。(ミースはシンケルという新古典派を、コルビュジエはルネサンス後期のパラッディオを参照したとされる)
そしてアメリカにおける近代化の遅れを、取り戻す啓蒙活動も行ったのである。ニューヨーク近代美術館MoMAは彼がプロジェクト成立に携わり、近代美術のアメリカへの紹介と近代建築を「インターナショナルスタイル」として紹介する場を作り出す手助けをした。(彼はファシスト活動によってその職は追われているが、モダニズムは第三世界の大規模計画に寄与したのみならず、社会革命を推進するロシアや急進的なファシズムに突き進んでいったイタリアに寄り添っていったこともまた事実であり、その点での検証もモダニズム、そしてジョンソンの建築を理解する上で必要だと思われる)

彼は「後追い」である事を自任していた。その後の建築への取り組みにも、それははっきり現れている。後追い故の、参照と模倣、そしてそこに込められたスパイスのような皮肉と批評。世界規模で模倣され粗製濫造のうちに増殖していった近代建築の未来を、既に見据えていたのだろうと磯崎は見るーーー
ーーもう一つ、磯崎の丹下健三との関わりとつながりの深さを物語るエピソードとして、次の部分を引用したい。丹下健三が広島の原爆メモリアルに携わった際、建築中の建物とかつては墓地であったその建設地を撮った一枚の写真について語った部分である。
「今広島平和記念館となっている建物の位置は、かつて墓地だった。丹下健三は自らシャッターを押してその状態を記録してあった。磯崎新は学生の頃同じ位置に立って、原爆の死者とその先祖達とがともに埋められながら、ここにあらためてその死者を祀る施設をつくろうとして、生と死が重層して見えるその過程に関わる仕事があり得る事に感動して、その写真の作者のもとに弟子入りする事に決めた」

つながりとは、かくも偶然のようでありながら深く強いものなのかと思う。建築の表層的なスタイルの移り変わりの裏に、綿々と続く強固な存在としての蓄積は存在する。それにいかに対峙するかは人それぞれのものであるとしても、それを引き継ぐ役割を、我々は負っているのである。そこから、何かは生まれてくる。

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帰国中のためいくつかの展覧会などを見て回ることができた。まず印象に残っているもののうち、建築家吉村順三の回顧展についてまずは書こうと思う。

1908年生まれの吉村順三は、アメリカ、ペンシルバニア州ニュー・ホープで建築を学び、1931年から10年間、建築家アントニン・レーモンドの事務所で働いた。(レーモンドは建築家フランク・ロイド・ライトの弟子であり、吉村はいわばライトの孫弟子にあたるが、レーモンドはライトのフロアプラン手法を取り入れつつも、当時ヨーロッパで影響力を持っていたバウハウスの影響が強く見られる。当時上野の東京文化ホールの設計者前川國男も同じ事務所に在籍していた。現在、東京ステーションギャラリーで前川國男展<http://www.maekawa-assoc.co.jp/100th/>が開催中)ニューヨークにあるジャパン・ソサエティの建物や、MoMAの中庭に展示用に建てられた日本伝統建築、そしてロックフェラーの別邸などのアメリカでの作品群は、そうした日本とアメリカのつながりを示す優れた作品群である。強いモダニズムの影響を受けながら、そこに日本の伝統建築から学び取った建築性をも盛り込みながら、単なる西洋近代建築の焼き直しではない吉村独自のモダニズム建築を生み出し、また西洋にも自らの建築を通して実態を伴った日本の伝統や分化を伝える上で少なからぬ影響を与えてきたことが見て取れる。

ーー日本国内において、建築史の流れの中で伝統建築の意義や重要性が見直されるようになったのはそう昔のことではないとされる。ドイツの建築家ブルーノ・タウトが桂離宮や伊勢神宮を日本文化に根差した伝統建築としてその著作「ニッポン」で再紹介したことをきっかけに、一般にもこれらの伝統建築が広く知られ、見直されるようになったことはよく知られている。ではなぜ、ヨーロッパ近代建築の薫陶を受けつつあったタウトが日本の古い伝統建築に強い関心を示していったのだろうか?

建築におけるモダニズムが、近代に沿った新しい言語の確立と文化のゆりかごとなるべき新たなものを目指していたことは確かだ。そうした新興運動がしだいに外部や周辺へと波及していく中で、土地や文化の違いの上で様々に受け止められ、その文化/土地に根差した活動を生み出していった。北欧フィンランドの建築家、アルヴァー・アールトの目指した、風土や文化環境に即したヴァナキュラーな建築などは、機能主義の名の下に剥奪されていった、自然と人間の暮らしのつながりという、時に厳しく時に緩やかな関係から生まれる”共生生活”に重点をおいた、そうした点の先に見える素朴さや暖かさの重要性に建築のあり方を模索し、近代建築ムーブメントにおいても大きな支持を得るに至る。そして、実はここに古来より日本の伝統建築の、そして吉村の求めた足場を見いだすことができるように思うのだ。

ブルーノ・タウトは、ヨーロッパでモダニズムが興り始めた頃の巨大な渦の中で、そうした新たな社会と文化への憧憬の中に一つの形として日本の伝統建築を見いだしていったように思う。より深く充実した文化の創成が自然の「獲得」ではなく「調和」を通して成され、物質としてではなく、文化と暮らしに静かに満たされた空間としての日本の建築は、一つの理想型として、タウトの目に映ったのかもしれない。
では、実際に「建築」という言語を通してみた時、そうした日本の建築はどのように成立しているのか。また吉村は、伝統建築に何を見いだし、現代に即した建築へと昇華させていったのか。

展覧会の図録の冒頭、吉村の言葉が記されている。

「日本建築を学ぶなら、数寄屋から入っちゃいけません。まず書院を勉強しなさい」
この時同時に、彼が以前語っていた言葉の中に建築を見る上でのポーシェの重要性を述べたものがあったことを思い出した。ポーシェ:ーー建築の肉体、というべきものーーについては以前「西洋建築史再考」でも軽く触れたが、ルネッサンス期の建築家アルベルティが追求した、「建築の肉体性」への問いを表記するとき用いた方法は、平面図で建物を水平に切った場合に壁=建築部分が黒、空洞=空間部分が白で表される「地と図」の関係を表す表象方法だった。建築が単なるパーツ、すなわち古典様式要素の集合体ではなく、肉体としての、あるいは空間を現出させるため手法であるという根本的な問いかけに建築の根源を問いただそうとするものだ。

日本の伝統建築は、「書院造」をもとに形作られてきたとされる。現在も和室の基本要素として残っている、書院(元は読書のための作り付け机のような空間で、採光のために壁面を押し出して出窓とし、障子窓の下に平になった部分)書物や筆記具を収納する違い棚、床の間(これも部屋の空間の一部を小さく囲い込み、季節の物を飾り付ける空間)などが一般にも浸透している。こうした空間要素がしだいに形式化され「もどく=コピーする」ことで伝統的な日本建築空間が再現され一般化されていった。
もともと書院造りの本質は、空間における機能性を高めるためにーー例えば採光のため壁面を押し出してみたり、あるいは雨よけのためにせり出した軒の下で室内とは異質の回廊や縁側、月見台を水平方向に延長してみたりーーといった空間を変容させる操作が行われており、そうして生まれた独特の空間が住まう人の日常生活への要請と、また周辺の自然との緩やかで、しかし確かなつながりを建築と生活を通して確立していた点にある。そしてそれは北欧のヴァナキュラーなモダニズム建築などの目指した建築のあり方に強く通じるものがある故に、タウトのような鋭い視野を持った建築家に日本の伝統建築は見いだされ、モダニズムの目指す一方向として学ばれることになったのかもしれない。

20051230005806 吉村順三建築展
俵屋 京都市中京区 1965. 幾重にも重なる建物の要素が、様々なレベルの透明度や素材の違いを持ち、それによっていろいろな機能を組み合わせによって変えながら、室内空間と外部空間を非常に深みをもったグラデーションでつなぐ
20051230005749 吉村順三建築展
視覚による透明性の違いが、空間構成の違いをも体現するーリテラルで、かつフェノメナルな透明性
20051230005828 吉村順三建築展
南台の自邸 1957 音楽室. 限られた壁面空間を押し出しによって操作し、機能的にかつ均整のとれた空間を生み出している

一方で、日本の伝統建築のそうした形式化した空間要素の「空間」ではなくそのディテールに注目し、モノ作りの妙と趣味嗜好の追求に重点を置いた和風建築=数寄屋の流れが、特に千利休による茶室の完成とともに次第に主流となっていった。(数寄屋とは「好き屋」が当て字によって変化したもの、とも言われている)自然素材を用いた職人的手工芸は次第に洗練を極め、建築空間を成立させる書院造の本来の目的から、プロダクトとして現前する物質性に注目が移っていく。そのため数寄屋では伝統建築を通して生み出されて来た室内/室外の様々な要素を個々のパーツとして見なし、それらを型として、その形式や様式のあり方を問うことはあえてせずに、それら要素のディテールの追求を旨とした。具体的には素材や、壁面を区切り、装飾する2次元的なコンポジション要素としての窓、その桟、指物、土壁と柱のコントラスト、etc.を操作しながら内部空間をそれら完成品の物質性で満たし、いわば装飾物として住まう人を精神的/感覚的に充溢させるために数寄屋の洗練が追求された。もちろんその素材の吟味や趣味追求、あるいは結果として伝統建築の様式のもたらす周囲自然環境の屋内空間への影響といったものに(侘び寂びの世界、あるいは谷崎潤一郎の語る「陰影礼攅」の妙、そして日本の自然素材を工芸に昇華させる職人技の本質)当時の人々の自然への強い関わりを見いだすことができるが、今日の視点に立ってみれば、数寄屋自身の本質は、現代の美術館の(無色透明な)インテリア空間のように、インテリアを満たす物質的要素と建築空間そのもののが分離独立し始め、双方が一人歩きを始めたと言えなくもない。

現在、「ポーシェ」の意味するところの、壁あるいは床スラブ、柱、etc.の本質的な問いかけがなされぬまま、無化された直線や無機質な平面/率面図がそのまま立ち上がり、実存する建築として物質性や肉体性を持つというより、抽象化された記号として個々の要素が空間に現出したという建造物が増えつつある。もちろん、そうすることは技術の進歩とともに記号は記号に近いまま実現可能となり、現実的要求による建築要素を隠蔽しながら虚の肉体性を獲得している。(ミースの求めた抽象空間のように、エントロピーの彼方に散逸霧散することを究極とするのと差こそはあれ似た方向性を持っているとは言える)
しかし現在、果たしてそれら建造物は建築の意義を、また空間を生み出し、空間に物質として存在し、肉体として我々に対峙し包容する力を持った存在として実存し得るのか。吉村の残した日本の近代建築の先駆けたる作品群を目にしながら、そのような疑問を抱かずにはいられなかった。

20051230010255 吉村順三建築展
 (クリックで拡大) 軽井沢の山荘 1962. コンクリートの基礎によって住空間を中空に持ち上げ、軽井沢の高湿の気候に対応しながら、二階部分は木造により軽くより大きな空間と、森の木々の間に存在するつながりを保つ。北欧モダニズムのバナキュラーな建築と呼応しながらも、日本伝統建築の要素を取り入れ、この地に存在する建造物としての意義を主張する。

elevations 吉村順三建築展

(クリックで拡大) 左:東面立面図. 右:南面立面. コンクリートの基礎部分がキャンティレバーで水平方向に張り出し、二階部分より上を持ち上げている。基礎部分も、異なった大きさの四角面が重なり合いながら開口部となり、グラデーションと視覚透明性によって単純な面ではなく立体的な奥行きを持った立面として立ち上がる。

section 吉村順三建築展
立面断面図. コンクリートの基礎部分、キャンティレバーの張り出し、二階部分を強調してみた。その張り出したキャンティレバー部分(さらに軒のような木造構造がわずかに外側に張り出し、メインスペースと地続きのバルコニーになる)とコンクリート基礎の壁面、そこにうがたれた出入りのための玄関、そしてその隣の地面に設けられた月見台は、このコの字型のピロティのようなスペースを、たんに外部へと分離し独立したスペースではなく、日本伝統建築に見られるような外部/自然との緩やかな関係、幾重ものグラデーションを持ったバッファーゾーンとして機能させている

20051230010817 吉村順三建築展

(クリックで拡大) 単に自然環境の中に立つ建物だから木造である、というのではなく、コンクリートと木造の組み合わせが構造としても優れていることに着目し、後に都市部でもこの方法を用いていくつか住宅を設計している。インテリアスペースにも「書院造」の空間的な捉え方ーー面を押し出したり引いたりすることによって生み出される空間要素ーーによってスペースが組み立てられている。壁面や床面の幾何学的なコンポジションのみに執着していない点に着目

吉村は「書院造」の、インテリア空間としてだけでなく外部環境とも通じ、かつ状況に応じてコントロールし得る、「変容する空間性」に日本近代建築の進むべき方向を見ていたように感じるのだ。それは建築の肉体性を体現する「ポーシェ」が、様々な様式や建築言語、テクトニックを伴いながら変化し、さらに日本の伝統建築の要素(例えばふすまや鎧戸、雨戸、障子戸などの流動性を持ち、かつ様々な透明度を持った壁面)を用いることで外部と内部の様々なつながり関係を獲得する。果たして、吉村建築に多く見られる特徴として、壁面は単なる柱の間に打ち付けられた板の集合体ではなく、時に非常に厚みを持ち、そこに様々な機能性を内包させた、故に建築の肉体に昇華された要素となる。さりげなく、しかししなやかで明快な吉村の「建築をする」軌跡の結実。明確に現れたこうした思考の軌跡は、吉村独自の、そして建物の存在する環境と状況独自の生み出したものであり、それを目の当たりにした多くの人々を魅了するゆえんだろう。

20051230011435 吉村順三建築展
田園調布の家 1971. 手前の閉じ切り窓の壁厚と、その奥の開放可能な窓部分の壁厚と外壁面の押し出し度合いの違いが機能の違いを表している
20051230011417 吉村順三建築展
(クリックで拡大) NCRビル 東京港区 1976. 吉村は「床スラブを重ね上げて、外壁はカーテンのように薄く張りボテのカーテンウォール」といった既存のビルに対する考え方を飛び越え、近代ビルに厚みと実体を持った”肉体としての外壁”ーー「ポーシェ」の概念ーーを持ち込んでいる。外壁に厚みを持たせ、それを二重のスキンに翻訳して、その内部空間では空気を自然循環させ、冬場の保温、(空気層による断熱)夏場の空冷(対流空気の上昇による対流と冷却効果)といった、環境コントロール機能を持ったインテリジェントな壁面へと昇華させていった。こうした’機能する壁、建物の肉体としての厚み’は吉村の住宅設計のテーマにも取り入れられ、断熱材などのなかった時代にも、石や砂などの自然素材を充填して保温、防湿、防音などを追求していた

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前回を引き継いで、今回はモダニズムとポストモダニズムの関連について考えてみようと思う。

西洋世界の長い歴史の中では、社会や文化を根底から覆すに至る変革や革命を促す事件が時に起こってきた。時の権力や体制は社会的な中心として求心力を持つものをわかりやすい形で提示する責務に駆られる。こうした時代の変化の中で、建築は社会体制/権力の確立を可視化するために利用された。それはその体制や社会に於ける新たな言語の模索の一環であり、建築はその中でも最もはっきりと多くの要素を可視化しえる言語である。
ではモダニズムとポストモダニズムを差異化するものは何だろうか。

前回見たように、モダニズム期には社会体制やその中核を担う人々が急速に変化し、また同時に新しい素材や技術の革新が進んだ。古い体制を革新することで生まれた新しい社会では、人々は新たな世界を体現できる自らの正統を目指すために、過去の遺産である形式や様式を再製することは望まない。そこで意識的にもたらされた言語の空白は、白紙から何かを生み出す期待と、未完である未来の世界をユートピアとして空想させる自由をもたらし、新たな技術の持つ可能性と相まって無限の自由を手にしたかのように思わせる魅力を放っていたかもしれない。また、過去の形式からは建築の根本にある普遍性を持った要素を抽出し学び取る合理性をも得る事で、形式の持つ様々な付随要素ー神聖性や権力性ーの呪縛からは解放されつつも、抽象性や純粋性を表現し新たな正統となり得る素地を手にしていく。ここで人々は未来という新たなベクトルをその視線の先に見いだすことが出来た。モダニズムは希望の時代であり、その輝きそのものが正統性を担った時代であったのだ。

しかし技術革新の行き着いた究極は二つの世界大戦である。ユートピア思想は幻想として廃墟を前に力を失った。ポストモダニスト達はここにモダニズムの求めたものの限界と終わりを認め、この廃墟に建築の未来の姿を見いだす負の視線をもって歩き始めている。

20050928151315 西洋建築史再考〜2.モダニズムとポストモダニズム
フィリップ・ジョンソン、「Glass House」1947. モダニズムとポストモダニズムの両方の言語を用いたかに見えるフィリップ・ジョンソンも、最もモダニズム建築を体現しているとされる「Glass House」について語ったとき、そのインスピレーションを爆撃で破壊され基礎や骨組みをむき出しにしたヨーロッパの市街から得たと暗にほのめかしている。彼は後ほどポストモダンに移っていくが、あるいはもともとそういったポストモダン的思考によって建築に取り組んでいたのかもしれない

社会や一般の人々へ還元されるべく目的を定めていたモダニズム本流の活動も、様々な壁に突き当たりながら次第に求心力を失っていく。例えば、ミースの求めた抽象的な純粋性は、建築の肉体性を解体し尽くし、霧散させてしまうために、実践や実用の観点からは広く受け入れられなかった。(その思考方法はポストモダニズムの中に吸収されていくことになるが)建築の純粋性に不必要であるとされその過程で削ぎ落とされていった様々な要素は、ある意味でわかりやすい一般性や人間性を反映するものでもあったのだ。
そうしたミースの方向性に対し、コルビュジエは我々人間にとっての建築の機能性を求める方向性を取りモダニズムが社会に受け入れられていく先駆けとなったが、彼の生み出した原型が現実社会で複製され乱造される中で、機能の単純化をコストダウンの方法にのみ集約したために人間性や本来の機能性を求める姿勢を次第に失い、無機質な建造物で都市をあふれかえらせる循環に陥ることになってしまう。

Pruitt Igoe collapses 西洋建築史再考〜2.モダニズムとポストモダニズム
後に世界貿易センターを設計するミノル・ヤマザキにより設計され、1951年に完成したセントルイスの高層アパートメント「ブルーイット・アイゴー団地」は、コストや機能性などに考慮したモダニズム建築であったが、住み心地や使い勝手に対する住民の不満は高かった。低コスト住宅としてしだいにスラム化し犯罪の巣窟となったために、最終的には住民自身の手で、1972年7月15日ダイナマイトで破壊された。モダニズム建築の終焉を象徴する事件として記憶される

ーーモダニズムとそれ以後について考える時、その語が示唆するようにポストモダニズムがモダニズムそのものに対して何らかの変化を目指したものと考えることはたやすい。しかし、ポストモダニズムの様々な手法や方法論を見渡すと、それらがモダニズムの目指したものと直接対峙しているというよりは、モダニズムの活動をルネッサンス以降西洋に於ける正統と考えられてきた古典主義的精神の回復運動の一つとして捉え、西洋美術/建築史で時に見られた、そうした正統主義に対しての反応/反動活動であると考える事もできる。
例えば歴史に於ける変化は、新たな正統となろうとする求心的な動きによる場合と、中心を担う正統から次第にずれていく分化、あるいは異化といった変化とに分けられる。前者の場合、用いられる言語は既に正統と定められ一定の訴求力をもった形式や様式を再現するか、またはそうした過去と決別し得る大きく異なった新言語を求める。過去の正統の再現、そして未来に向けての正統となるべき宣言であり、ルネッサンスやモダニズムの求めた方向性だ。
対して後者のような変化は、正統とされるものの周辺で、あるいは正統に対する外部よりの影響力によって起こる。そこには正統とのずれが存在し、そのずれによって異化が表出する。ずれが極大化すれば、新たなスタイルとして分化する可能性もあるだろう。ここに、モダニズムに対してのポストモダニズムの意義を考えるポイントがあるのではないか。

mix1 西洋建築史再考〜2.モダニズムとポストモダニズム
ジュリオ・ロマーノ、「パラッツォ・デル・テ」1526-35.  力を失いつつあった教皇のローマは1527年、「Sacco di Rome」と呼ばれる破壊と略奪を受ける。中心を失いつつあった時代背景の中で、パラッツォ・デル・テは正統建築要素からの異化と逸脱を駆使し逸楽の館として作られた。左:中庭から東側ファサードを見る. 普通、パラッツォは2階建て以上の建物であり、2階部分(ピアノ・ノービレ)が主生活空間なのだが、ここではピアノ・ノービレ(列柱飾りのある面)が下にずり落ち、地階(ルスティコ/粗い石組み部分)にスーパーインポーズされている。逆に、ペディメント(ゲートの上の三角部分)の内部にルスティコが侵入している。右上:列柱の中間の格間(列柱上の水平部)からトリグリフがずり落ちている。右下: 西側ファサードのペディメント。中央のキーストーン(アーチを固定する中央の石)が肥大化し、バランスをとるはずの要素がバランスを崩している

事実、ポストモダニストの多くが参照するのは、ルネッサンスによる古典の再定義化/中心化という主流から離れ、異化していく中から生まれたマニエリスム、また建築要素の装飾化が進んだバロック/ロココ様式に対して18世紀中頃起こった古典主義復古活動のNeo Classicism (新古典主義)の中に生まれた変種的スタイルである。
ごくごく手短かに言えば、前者の建築におけるマニエリスムは ”古典主義によって定義化された美しいとされるプロポーションを歪め、引き延ばし、黄金比のようなバランスを崩してまでも要素の対置によるダイナミズムや新たなスケールへの対応を目指した手法” である。
また後者のNeo Classicismは、古典主義復古の運動として始まりながら、フランス革命の気運の高まりに乗って新たな社会の創造としての建築が模索される中で数々の独創的なプランを生み出したことで知られる。その多くは実現されることはなかったが、古典主義の表現言語を受け継ぎつつ新たなプログラムや社会性を体現する建築を目指したために、しだいに古典主義の表現言語やプロポーションそのものに対する大胆な翻訳/変容が提案された。こうしたNeo Classicismの活動は後に起こる市民革命や産業革命の中でその意思を受け継がれながら、モダニズム、あるいはポストモダニズムにも影響を与えていったと言える。

20050928151956 西洋建築史再考〜2.モダニズムとポストモダニズム
エティエンヌ・ブレー、「ニュートン記念堂」1784. プラトン立体を用い理想空間を形象化しながらも、その空間に抽象性を充溢させることで自然物理学を体現し、かつ体験し得る新しいプログラムを提案している新古典主義の変種
20050928152335 西洋建築史再考〜2.モダニズムとポストモダニズム
クロード・ニコラ・ルドー、「モーペルチュイの畑番の家. 球のような純粋形態を一般人の家に用いるという大胆な試みがなされた。

では、ポストモダニズムとはいったい何なのか。
ポストモダニストの立場は、マニエリスムや新古典主義に見られた、正統/本流から距離を持つ視点によるそれら正統の客観的な読解と、距離を認識した主観に乗って読み取ったものを解体し、再構築していく異化を伴う行為とその手法をまずは踏襲すべき位置にあった。歴史的形式としての、実態を伴った形としてのモダニズムはそうしたアプローチによってなんとか消化し得るかもしれない。しかし、激烈な近代という記憶をどのように捉えるか、また捉え得るのかといった問いの狭間で揺れ続けてもいる。モダニズムのような正統への希求行為も、またそれによって取捨選択されとり残されていったものをも同時に、また同列に受け止める中から始める責務を負ったポストモダニズム。正統の意味するものは宙づりにされ、モラトリアムや停滞すらが活動としてにじみ出る。立ち位置すら距離や差異を意識させる所にあり、異化を強調することでしか存在意義を表象し得ない。現代にとって過去の建築は形式・要素の墓場であり、それらを解体し再構成して出来上がる建築は廃墟を見据えることで実存の意思表示を拒否しながら過去・現在・未来の狭間に漂流する。それがポスト・近代の生き方であるとポストモダニズムは語る。今や建築は何物かを体現するために何かを読み、記述していくメディアとしての方法を、不可視で、無意識の彼方に広がる、あるいは記述不能である記憶の領域まで拡げる責務を負ったのだ。

20050928175636 西洋建築史再考〜2.モダニズムとポストモダニズム
左:ジョセフ・マイケル・ガンディ、「イングランド銀行廃墟図」1830. 右: 磯崎新、「つくばセンタービル廃墟図」1983.
当時イギリスで起こったピクチャレスクは、意図的に設計された廃墟を人間の手で疑似再現された自然内に点在させ、虚構の自然を作り出した。イングランド銀行を手直しした建築家サー・ジョン・ソーンは自らの建築が遺跡のように発掘される様を描くことで、古代建築の崇高さ、アルカディア的な理想モデル、パラディオの明快な空間秩序に比すものと宣言しようとした。磯崎はそれを手法として用いている。

磯崎新は上述の廃墟図に関して次のように語っている。それは、あるいはポストモダニズムの存在意義を言い表しているように思える。
「庭園を<自然>の虚構として構成した時代から始まって近代と呼ばれる知の一つの形成が波紋のように世界を何度か襲ったあげくに、その虚構をあらためて虚構として描くほかに採用する手段の無い時代を私たちは生きさせられている。記号が実態から剥離して時元と位相をかえて操作可能になるべく再配列させられている。その記号の波のさなかに投企される新しい記号はあくまでも、揺らぎを起こし、波紋を増幅するだけなのだが、それが、オーバーレイされたマルチスクリーン上の映像のように、際限のない振動を続ける。それ故に…18世紀中期に始まる<建築>の危機も、その危機の内容こそが実像であって、それを説明する諸事実は、スクリーン上の映像のように、流動し点滅せざるを得ない。”廃墟図”というクリシェも異なる文脈の中で意味を変え、しばしばレトリックとして政治的な作動をする。それが未だに有効な手段にしうることにこそ実は注目すべきであって、この虚構を虚構として描く時代がやはり、あの18世紀中期の”危機”に始まる近代の連続である証拠の一つと言えるのだろう」

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リベスキンドの一連のプロジェクトは、「脱構築主義」というスタイル(形式ではなく)にカテゴライズされる。本来、脱構築主義は定型化し形骸化した(故に問いかけることなく乱用される)建築の言語、形式などを解体し、問い直す過程が建築プロセスとして視覚化した、批評を内包した方法論である。(哲学者ジャック・デリダが言語において提唱し実践しようとしていたことに影響を受け、連動する形で建築においても実践された)

脱構築主義を掲げ活動する多くの建築家は、ロシア構成主義などのモダニズム創成期に興った、過去に対する批評的な方法論やその実践、またその創造のエネルギーや社会への関わり方に大きな影響を受けた世代であり、その主義主張を受け継ぐ形で彼らは形骸化していった過去の形式/様式に対しての批評的方法論としてその活動を興している。脱構築主義という命名は、(上述したように)この運動がまず過去の建築とその成立様式を読み取るために形式における様々な要素を分化/解体し、それを批評/翻訳する行為に由来するはずであった。

今回はここで脱構築主義について見てみる前に、その活動の前提となっている、西洋における建築の成立と、ポストモダニズムに至るまでの経緯について駆け足で再考してみようと思う。

ヨーロッパが西洋文明として成熟していく中で、その成熟の度合いと強度を示すものとして建築は成立していった。ギリシャ・ローマで成立した古代の建築様式はいったん歴史の水面下に影を潜めたが、宗教と権力を体現しながら中世のゴシック建築は技術的/美術的観点において最初の頂点に達する。
その後ルネッサンス期に透視図法の発明により、幾何学に基づくプロポーションの純粋性や透明性が空間において実現されるようになる。それはギリシャ・ローマ建築様式の純粋性を再発見することにつながっていった。中世までに確立された建築技術や形式を吸収し、それまでのプロポーションの再考がなされ、目に見える装飾要素や表現方法を置き換えていった。クラシック形式/様式(古典主義/Classicism)として体系化されながら急速に浸透し、いくつかの反動運動を招きながらも産業革命前後まで続く。

pastedGraphic 西洋建築史再考〜1. ポストモダニズムまでの西洋建築史
Piero della Francesca and Luciano Laurana, “View of an Ideal City.” 1460. 透視図法で描かれた空想上の理想都市。透視図法によって建物のプロポーションを求め、パースペクティブの消失点に建物の中心がきている

次第に装飾的性格に論点が移り建造物の純粋性や透明性の議論から離れていったていったClassicismは、修辞性や象徴性を表す徽章の役割を持つものとして再び広く社会的な利用がなされるようになる。(Neo Classicism。最たる例として、後にナチス・ドイツはClassicismを国家の理想の象徴として利用した)
しかし、国力の高まりを目指す中次第におこっていった産業革命は、新たな素材や技術を次々に生み出しながら、それらが社会に還元される中で労働者革命をも引き起こして、急速に社会を変革していった。技術的な革新が労働者革命の描くユートピア思想に盛り込まれていく過程から、必然的にモダニズム運動が起こってくるのである。

モダニズム運動においてまず求められたのは、建築の技術的/表現的パフォーマンスを根底から覆し拡大する新たな素材と技術を手にした上で、どのような建築が可能なのかを模索することだった。ガラスや鉄などの工業マテリアルは、石造りの重厚で不透明な壁によってのみ可能だった大規模建築を、軽く透明な素材で作り出すことを可能にした。そうして生み出された新たな建造物は、Classicismの修辞的/象徴的/装飾的性格に対して強い疑問を投げかける。

20050921193015 西洋建築史再考〜1. ポストモダニズムまでの西洋建築史
セント・ピエトロ寺院のプラン断面図。左は最初の設計者ブラマンテのもの、右がミケランジェロのもの。分厚い壁をカットして現れる黒塗りの部分を「ポシェ」と呼ぶが、ブラマンテはポシェを描くことから設計を始め、細部のディテールを建物のmassに集約し、肉体化していった。内部空間よりも、建築の肉体性の地位が高くなったことを示す

ここでモダニズム運動のとった行動は、ルネッサンス期になされたギリシャ・ローマ建築の純粋性の再発見が建築の再考につながっていったことに習い、まずは「重力に抗い建ち上がり、そこに内部あるいは外部空間を創出する」という建築の原点に回帰する活動であった。
モダニズムの騎手の一人であるル・コルビュジエは、ギリシャのアクロポリスに建つパルテノン神殿の姿に建築のオリジナルとしての姿を見ている。それは、神聖域として定められた水平面を地面上に作り、その聖域を列柱によって取り囲み、またその列柱によって聖域を覆う屋根を持ち上げた、最も基本的でありながら原点であるべき建築の姿であるとしている。そして、コルビュジエは水平なスラブ(床)を地面に置き、もう一つの水平スラブを柱によって持ち上げることで内部空間を生み出す「ドミノ・システム」という建築の原型をまず宣言した。こうしてサンドイッチされた内部空間は自由に設計することができ、装飾要素以前に空間の性格を考え得る基本言語を作り出したのだ。

pastedGraphic 1 西洋建築史再考〜1. ポストモダニズムまでの西洋建築史
ル・コルビュジエの「Dom Ino」(ドミノ)システム。水平スラブを「持ち上げ」2平面の間に自由空間を作る。これにより「壁」によって立ち上げていた今までの建築から壁を解放し、自由な壁の配置、そして建物の表皮が自由になる
20050921192021 西洋建築史再考〜1. ポストモダニズムまでの西洋建築史
ヘーリット・T・リートフェルト. シュローダー邸。壁はmassというより面として捉えられ、空間において自由に拡散/配置され、素材とその大きさ、厚み、透明性、色等様々な意識化/可視化された壁の違いによってその存在意義が定義された。真ん中はテオ・ファン・ドースブルグによるドローイング「反構成」

もう一人の旗手ミース・ファン・デル・ローエは、コルビュジエの原型に近い考え方を持っていたが、原型というオリジナルに回帰するというより、原型の持つ透明性、純粋性という性格を始点、あるいはゴールに定めている。ミースは「Less is more」という方向性を建築に求めた。では、まずここでの「Less」とは何を意味し、表しているのだろうか。

ガラスや鉄などの工業マテリアルを用いることで物理的な透明性を獲得するのみならず、グリッドの均質空間に数学的規則性やプロポーションバランスを体現した抽象空間を作り出すことを求め、意識と認識における透明性をも獲得しようとした。

20050921192206 西洋建築史再考〜1. ポストモダニズムまでの西洋建築史
Mies van der Rohe、イリノイITT Crown Hall, 1950~56. 対称性、均等性などから無限に繰り返すグリッドの抽象性が想起される。こうして水平スラブの空間が形而上的に無限に拡がり、拡散していくエントロピーを夢想させる

ミースの目指したものは、この二つの透明性の形而上の認識による空間を限定する建築の消失=エントロピーであり、一つの建築の解体であったと言える。この流れを汲んだ、グリッド、フレーム、パターンなどを多用し反復させることでエントロピーを目指す建築の解体方法も、ポストモダニズムの一スタイルとして力を持っていく。

Cube 西洋建築史再考〜1. ポストモダニズムまでの西洋建築史
シェルピンスキーのスポンジ/四角形の側面の穴は、その1/3サイズの8つの穴に囲まれている。それら8つの穴も同じ法則で8つの穴に囲まれている。その操作が無限に反復される結果、全体積はゼロに近づきながら逆に全側面面積は限りなく増加していく。そうしてこの立方体は二次元と三次元の立体の狭間に存在することになる

次回、ポストモダニズムと脱構築主義を取り上げる。

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