— Delirious New York Diary

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Tag "建築"

このところいろいろ刺激を受け、「古典的な手法」が生み出す力を見直そうと試みている。手描きによる建築図面作成である。

きっかけは、建築設計で用いられるCADソフトのように、利便性を追及し、誰にでも使いやすく汎用性が高くて「間違いのない」結果が得られるシステムを用いる過程を見直した時、何を得、何を失うかを考えると実は重要なものがこぼれ落ちていっているのではないかと常に感じることから来ている。「手描き」図面や立面図などから始まる一連の「図法」を見直してみる機会が必要だと考え始めたのだ。

建築図面は今、余程の意図がない限り手描きすることがなくなった。実際にCAD(図面ソフト)で図面を仕上げるのはけっこう力技なのだが、それでも線を位置指定で描き、それを平行移動し、いらない部分を削除し、といった作業は数値入力などしくじらなければぱっぱと進む。線は要素ごとにまとめられたレイヤーに指定された太さで出力されるが、画面上では確認できない。

となると、はたして設計/デザインを進める過程でCADに依存した場合、「その1本の線」や「線と線の隙間の意味」といったもろもろの要素について判断する瞬間から何かがこぼれ落ちて行きはしないか、と思うのである。もちろん、設計のプロセスから作者の主観を消す、という点においては手助けになる部分もあるかもしれない。ただそうした機械的な作業による作図方法は、頭の中で繰り返し試し、最適解と思われるものを選択し、適用しては確認するというプロセスを再現し得ているとは言いがたい。(実践的な意味合いの建築要素に関して試行錯誤を許容するーー例えば壁面の移動による面積変更や、その逆に面積指定による壁位置の決定などーーソフトは既に多用されるものとなってはいる)

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「図法」には、単なる情報の可視化としての作図以上に、不在のイメージを実在化させる図を作成し表現するという、動機と思考過程を記録し固定する意味合いがあった。そして、このようにして出来上がったものを見ることで、作者の中に存在したものを追体験することができるのである。その手法としての透視図法や投影図法などの発見があり、逆にこうした手法を用いることで新しい動機や思考過程も生み出され、哲学や文学との相互作用も可能にした。そこでは、単に視覚に訴求する「可視化」という点のみならず、空間や物質性に透明に重ね合わされる科学や哲学、文学の文脈思考の可能性も追及されていたのである。

その可能性は、物体としてより現実に近付けられた三次元模型以上に形而上的な側面が強い。それはそもそも3次元の物量を持つ建築の肉体が、平面という2次元のフォーマットに落とし込まれる際に変換を強いられることから始まり、視覚という限定された知覚を通じて訴求しなければならない点から抽象化のプロセスが必然であるからだ。この抽象化を強いるプロセスが、新しい建築や様式を生み出す源泉となって来たことに注目するのは重要であり、だからこそ「作図する上での利便性」や「作図プロセスより完成した図面」が目的となるCADの過剰な依存に、ある種の危機感を感じているのかもしれない。<<もちろん、最近は思考プロセスを補助する側面がより強い3次元ソフトの完成度が高まり、これらを分けて利用することでかけた部分を補完することが可能になりつつあり、さらには新しい思考プロセスを促す「手法」としての役割を担っているとも言える>>

IMG 0233 思考手法としての作図法

建物は肉体性とそれがもたらす様々な効果に加え、その姿を写し出し明示する視覚性が主な要素になっているが、こうした建築の主要テーマは何にウェイトをおき注目するかという部分では時代を通じて大きく変化してきた。その上で、建築物がどのような姿を見せるのか、という問いには限りない可能性があり、これらをいかに平面上に表現するかを追及する中で、我々の知る図法の数々が開発されてきたのである。平面図、立面図、断面図、アイソメ図法などの立体図ーーは、フォトリアルなCGレンダリングとは異なり、図示化された内容を追体験し、理解し、再構築するツールとして示されたものであり、その追体験を通じて作者の意図を読み取ることができる。一本の線をとってみても、その線がが示すものが何であるのか、なぜその線が引かれ、どのように他の線と関連付けられ、全体の中の部分として役割を果たすのかを読み取りやすくなる。平面分割の意図や、リズムを刻む建築要素のバランス、あるいはそうしたオーダーやバランスを崩す意図などを特定の図法によってより明快に示すことができる。

これは、自分で作図してみればさらにわかりやすい。
手始めに、ルネサンス初期の建築であるブルネレスキ設計のサン・ロレンツォ教会にある、こちらはルネサンス中期以降マニエリスム時期にミケランジェロの手で設計されたラウレンツィアーナ図書館の断面立面図を模写している。これは、「奇跡の前室」と呼ばれる美しい階段室を持つ建物であるが、ルネサンスの透明な明快さを示し始めたブルネレスキの設計に対し、コントラポスタと呼ばれる歪みや圧縮、過剰な分節、オーダーの変形など、バロックの過剰へと続くマニエリスムの手法を示したミケランジェロの意図をどこまで読み取れるかを、模写という手作業を通じて試みている。図面を「見る」だけでは気付かない部分も読み取って理解し、再現することが作図には求められるからだ。

実践的な建築設計の現場において、こうした点に重点を置いてプロジェクトを進めることは弱くなっている。実際に建築物を建てることが目的として定められている場合、図面はその実現のための理解手順の明示が主な目的になるからだ。
しかし、建てることが絶対的な目的でない建築を指向するならば、そこには表現手法として無限の可能性がある。ルネサンス期以降、ピラネージやルドゥー、ブレーといった建築家(思索家)がその思考の具現化の方法として図法を駆使して作品を残した。
最近、それがフォトリアルなコンピューターグラフィックスの絵やビデオに取って代わられている。広く一般に容易に理解を促すメディアとして非常に優れたものではあるものの、視覚や経験に比重を置くために受動的な受け取り方に陥りやすい。
ダイヤグラムなど、CG以外にもプレゼンテーションメディアは発明され続けている。また、従来の手法では2次元的に表現しづらい建築も現れている。これらがどういった意味をもつのか、更なる表現手法はないのか、そうしたことを考えていく意味でも、まずは古典的手法から見直してみようと思うのである。

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今年最初の文章を、訃報から始めることとなってしまった。

建築家の菊竹清訓が亡くなったというニュースが今テレビで流れている。

菊竹は自邸「スカイハウス」で、ピロティによってピアノ・ノービレ(主階)を地上レベルから浮遊させる手法を、東京という都市の既存環境に当てはめる過程でまったく独自のものへと変容させることに成功した。高度経済成長の只中に忽然と現れたこの新しい住宅の姿は、日本現代建築史に燦然と輝き、今なおその影響力を失わない強さを秘めている。
黒川紀章とのメタボリズム主唱もまた時代の先駆けとして、今後再び見直される時が来るだろう。

カザフスタンの新首都アスタナを訪れた際、盟友黒川が手掛けたマスタープランを地元建築家が説明する中で、名立たる海外建築家と共に菊竹の名が挙げられた時の不思議な強い感動を覚えている。あるホテルの設計計画が持ち上がっているとのことだったが、あれはどうなったのだろうかー

日本の高度成長期を支え、海外の新しい都市設計にも寄与してきた建築家がまた一人消えていく。我々後の世代は、その高い志を受け継いでいるだろうかーーそんな思いを寂しさと、一抹の不安と共に抱いている。

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このところ全く時間がなく更新を怠っている。写真も写さず、本も読まない。乾いた焦燥感から自分のブログを読み返してみたが、その中でメールでのやり取りやコメントとしてエントリ化されていないいくつかのテーマをあげてみるのもいいかと思い、この機会を利用して紹介する。

三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller

20070719011317 三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller

”荒川修作の近作、これはいつものことだが世間ではキワモノ的扱いを受け、完全な誤解を生んでいると思われる。この誤解は80年代しばらくの間一世を風靡したポストモダン建築に対する昨今の嫌悪感に近い拒絶の対応のあおりを一心に受けた格好だ。
荒川はマドリン・ギンズという哲学/理論家と組んで活動しているが、その中で場/立地(サイト)、個の存在(エンティティ)、そして個の知覚という非常に微妙で繊細なテーマを追求している。我々個人個人はどこまで自分を規定し得るのか、それは自分の存在する空間を規定しているのか、またはあらかじめ存在するサイトや空間というものを知覚しながら我々は自らを規定するのか。そもそも知覚とは我々が規定し記号化したものの”確認”なのか、それとも視覚や触覚、空間認識を通して獲得する”関係”とそのプロセスなのか。そういった諸々の問いかけに対する実験の場として、荒川は活動し、その形と空間提案が三鷹天命反転住宅という方法で提示されている。

20070719011332 三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller

この住宅作品の個々の要素が強烈に感じられるとすれば、その強烈さの程度の分だけそれは彼の仕掛けた問いかけととらえるべきであるはずだ。視覚的な知覚なのか、もしくはそれが建造物、あるいは住宅といった<我々が既定し想定している”物”の要素を記号化したもの>なのか、それとも記号の認識というレベルを超えて、我々が生活しあの場に居るなかで行為として”物”と関わっていきながら、知覚そのものが我々の存在を想定し規定するよう仕向けるのか。こうした問いは、機能的であることを謳いながら実は社会的に作り上げられた住宅イメージ(マーケティングやらその他もろもろ)に限定された現在の住宅に対する反旗と、実験であると言えるだろう。建築家という枠の中では、あのような方法で住宅のあり方、ひいては家族や人と空間との関わりについて問うことは難しい。より広い一般へ向けてのポピュラリティを持ちつつ、実は根本的な部分で多くの凡庸な建築家住宅作品がまったくなし得ない”根本的な人と空間への問い掛け”をなし得ているのではないだろうか。(“In Memory of Helen Keller” という副次的なタイトルが付けられている点も、これらの問い掛けの意図に気付きやすくするためだろう)

ポストモダンと呼ばれる建築に限らない社会的な動きは、記号化のような翻訳作業によって様々な要素を再解釈し、できるならば認識/操作しやすくできないか、というところから生まれて来たとポストモダン以降には定義されている。ポストモダンは、建築においては表層的な修飾言語の記号化とその操作と受けとられてしまった。その操作の先に暗示されるもの、問いかけられるものが重要だという点が完全に欠落していたために、またバブル経済のもたらした人と物質との完全な分離の文脈と完全に符合したために、形式としてのポストモダンはヒステリックなまでに全否定されてしまった。

101 build1 image 三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller

果たして、ポストモダンの本来の問いである、モダニズムの持っていた権力性や暴力性を暴き出し異化することによって消去していく操作としての手法追求自体が比定されるべきなのか? 昨今の、特に日本において高度にスタイル化されているネオモダンと呼べるような、無機質で、故に「写真写りの良い」現代建築ーー動機そのものからして言語/構築的ではなく、モダニズムを標榜しながらその実手法はポストモダンと何ら変わらない表層操作によるモダニズム引用のネオ・モダンーー知覚/感覚を曖昧にさせる表皮の操作やそのもたらす浮遊空間のような「もの」を提供し、それがために刹那的でエフェメラルな人と空間の関係を作り出し、さらには建築自体の立ち位置すら責任回避の背信のもとに消し去ろうた昨今の建築ーーに対する荒川の「身体感覚と物との関係」への回帰という側面こそが、今「三鷹天命反転住宅」から読み取られ、かつ議論されるべきものではないのだろうか?

視覚的/記号的表層そのもののみにではなく、(上記のように、その点で最近の日本の建築はモダニズムの皮を被ったポストモダン的思考の産物にとどまったままとも言える)その先の、それがもたらす問いと、実際の経験の中に荒川の意図は存在し、それはまた非常に「わかり易い」「目に見え易い」ものとして提示されている。それはどこかのアーティストやインテリアデザイナーが装飾的な味付けを後付けでした、ということとは根本的に違うということが議論されない限り、「日本建築業界」が陥っている現在の「見えない停滞」から抜け出ることはできないだろう。最近の「建築ポピュラリティ」を支える雑誌等のメディアは、「モダニズムのポストモダン的消費」という原理に完全に縛られてしまっており、消費そのものの束縛(と未来を志向するための可能性)を議論する場には成り得ていない。その浸透力は認知され得ないように水面下に暴力的で、またかつ権力的である。その上辺はへりくだった物言いの陰に、マジョリティへの情報操作が隠れていることを、この建物は乾いたユーモアとともに暴き出しているのかもしれない。

三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller
写真は建物ホームページより抜粋

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幾度かこのブログにも登場している磯崎新は、数多くの著書を残している。建築が「建築」という言語による思考と構築作業であるとするならば、そのプロセスを記述する方法は、ドローイングや模型、ダイヤグラムといったリプレゼンテーション的なものから、そのコンセプトや主旨を主観的に(あるいは客観的に)語る行為である「文章」も、その有用な方法として用いられるのが自然といえる。そこにはもちろん実際の建築との齟齬も発生するだろうが、逆にその空隙に入り込んでくる社会や文化的視点を利用して建築そのものを客観的に捉え直す事も建築成立にとってなくてはならない作業である。そしてそこが建築というフィールドを超えた、異分野間の意見の交換が生まれる素地ともなる。新たな思考へのより広い踏み台ともなる。

「磯崎新の思考力」は、建築に関わる狭い範囲に向けられた言説集というよりは、建築を成立させる社会的広がりに向けられた、建築の外側にいる人にこそ読んでもらいたいと書かれたエッセイ集だ。もちろん専門的な言葉、人物も多くその点すんなりとは読めないかもしれないが、多くの人に読んでもらいたい本だ。タイムリーな話題と、今だからこそ再考されるべきテーマのどちらもがあふれている優れたエッセイだと思う。

昨年、近代建築の二人の巨人の訃報が届いた。アメリカのフィリップ・ジョンソン、そして日本の丹下健三、どちらも両国の近代建築を率いた中心的人物だった。磯崎は、この二人との個人的な関わりを交えながら、彼らの存在を物語っている。

ーーフィリップ・ジョンソンは非常に複雑な生き様とそれを反映したかのような建築への取り組みを見せた、個性豊かな人物だったという。ヨーロッパに起こった近代建築の萌芽に遅れをとっていたアメリカに、啓蒙としてそれらを持ち帰ったのも彼だった。
彼自身は異質の存在となるべく定められた人だった。ファシズムに傾倒し、ナチス・ドイツを崇拝してポーランド侵攻に従軍したこともある。後にはゲイである事を公表し、アメリカの建築/美術界の中で派閥のような権力のサークルを作り出しもした。生まれては消える建築の活動を取り込んではもてあそぶかのように自己解釈して作品に反映していく。それ故に皮肉にも彼は非常に長い間にわたってアメリカの建築界で影響力を持ち続けた。
磯崎はそんなジョンソンの、きらびやかな光と影に彩られた人生を様々な陰と陽の視点を交えて見つめている。

フィリップ・ジョンソンを世に知らしめた作品は、彼のデビュー作となった「ガラスの家」である。(近代建築史再考のエントリを参照されたし)これは同じくガラスと鉄による建築を目指したミース・ファン・デル・ローエの住宅作品、たとえば「ファーンズワース邸」と比較検討されてきた。どちらの邸宅も豊かな自然の中に建ち、とくにガラスの家はダンテ云うところの”アルカディア”とも言えるかのような素晴らしい土地の中に建っている。
20050928151315 王国社「磯崎新の思考力」
フィリップ・ジョンソン「ガラスの家」

磯崎は、その「ガラスの家」の中にイーゼルに載せられたニコラ・プッサンの絵を認める。プッサンは数多くのピクチャレスクな田園風景を”アルカディア”として描いた画家として知られているが、プッサンの絵にはパッラディオが田園風景の中に配したフォリー(フォーカルポイントとなる休憩所等の小さな建造物)がよく描かれており、ジョンソンはガラスの家を建てた後、その周辺の広大な敷地にフォリーのような小さな建物をその時代に流行したスタイルを用いていくつか設計し、風景の中に配置していった。
裕福な家庭に育ったジョンソンは家族のコレクションの多くを処分する中でこの絵を自らの枕元に残したという。それも専門家に鑑定を依頼し、その結果”偽物”であることが判明した後にである。

最後にガラスの家を訪ねた時、磯崎はその絵の左下に、数人の男が棺を担ぎだしている姿が描かれているのに初めて気がついた。アルカディアに死はない。もしくは、死は気付かれない間に消し去られる。ジョンソンは数十年にもわたりそんな絵を枕元に掲げながら、目前に広がる風景には自らの好む建物を一つ一つ作り上げ、自分の求めるアルカディアの風景を作り上げていったのだろうか。
そこにはジョンソンの生き方と考え方が強く反映されている気がしてならないと磯崎は語る。ミースのファーンズワース邸に対し、コピーとは言えないとしてもそのコンセプトを借用した、「偽物」としての「ガラスの家」。ヨーロッパの戦火に崩れ落ちた石造りの伝統都市に対する、ピクチャレスクな自然とそこへ開かれた鉄とガラスの透明な邸宅。その中に掲げられたアルカディアのイメージと、その影を描いた絵画。そこには近代建築の描いた単純な未来像、ユートピアとは明らかに異なる、ジョンソンの心象風景の中にのみ閉じた世界観が垣間見える。

建築においてはつねに伝統と形式の授受が次の世代の建築を生み出す先駆けとなる。それはまるで突然変異のように捉えられがちな近代建築についても実は同じだ。その限られた範囲内からのみ特別なオリジナリティを探し求めることは意味不毛なものである。近代建築には何らかの歴史や伝統様式への参照と模倣が成立の過程で認められるのだが、その点でジョンソンは同時代のミースを参照した。それは時代や権力に寄り添う嗅覚をもったジョンソンの、非常に鋭い洞察であったのだろう。(ミースはシンケルという新古典派を、コルビュジエはルネサンス後期のパラッディオを参照したとされる)
そしてアメリカにおける近代化の遅れを、取り戻す啓蒙活動も行ったのである。ニューヨーク近代美術館MoMAは彼がプロジェクト成立に携わり、近代美術のアメリカへの紹介と近代建築を「インターナショナルスタイル」として紹介する場を作り出す手助けをした。(彼はファシスト活動によってその職は追われているが、モダニズムは第三世界の大規模計画に寄与したのみならず、社会革命を推進するロシアや急進的なファシズムに突き進んでいったイタリアに寄り添っていったこともまた事実であり、その点での検証もモダニズム、そしてジョンソンの建築を理解する上で必要だと思われる)

彼は「後追い」である事を自任していた。その後の建築への取り組みにも、それははっきり現れている。後追い故の、参照と模倣、そしてそこに込められたスパイスのような皮肉と批評。世界規模で模倣され粗製濫造のうちに増殖していった近代建築の未来を、既に見据えていたのだろうと磯崎は見るーーー
ーーもう一つ、磯崎の丹下健三との関わりとつながりの深さを物語るエピソードとして、次の部分を引用したい。丹下健三が広島の原爆メモリアルに携わった際、建築中の建物とかつては墓地であったその建設地を撮った一枚の写真について語った部分である。
「今広島平和記念館となっている建物の位置は、かつて墓地だった。丹下健三は自らシャッターを押してその状態を記録してあった。磯崎新は学生の頃同じ位置に立って、原爆の死者とその先祖達とがともに埋められながら、ここにあらためてその死者を祀る施設をつくろうとして、生と死が重層して見えるその過程に関わる仕事があり得る事に感動して、その写真の作者のもとに弟子入りする事に決めた」

つながりとは、かくも偶然のようでありながら深く強いものなのかと思う。建築の表層的なスタイルの移り変わりの裏に、綿々と続く強固な存在としての蓄積は存在する。それにいかに対峙するかは人それぞれのものであるとしても、それを引き継ぐ役割を、我々は負っているのである。そこから、何かは生まれてくる。

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先日の伊東豊雄講演会の感想では、彼が感じているらしい西沢立衛による「森山邸」に対する何らかの距離感について、自分が感じている所と重ねて話を展開したために、少し感情的になりほとんど「森山邸」に対する批判と疑問に終始してしまった。ただ話を伊東の語った「感覚」と「社会性」にほぼ限定したために、建築的な解釈はごくわずかにとどまっている。勢いに任せて、今回はその角度からの検証もしてみたい。

まずはリンク先「森山邸」でプランや、QuickTime VRによる360° viewで雰囲気をつかんでいただければわかりやすいかと思う。

森山邸の存在させるための操作として、周辺住宅地における図と地の関係を用地内において断つための常套手段ーー白紙化、いわゆる<タブラ・ラサ>が行われる。そんな命名は別にどうでもいいことのように思われるが、この行為の持つ重要性とここから始まる用地の特異化の始点としての意義を留めるために、あえて一般的な呼び名を呼び起こしておく。なぜならば<タブラ・ラサ>とは建築家にとって、諸刃の剣ともいえる呪文だからだ。<建築><タブラ・ラサ>といった抽象化の文言によって、周囲との圧倒的齟齬をも白紙化し、その存在理由を肯定できる。

まず、2次元のグリッドが用地に重ねられ、その特異性によって周辺との切断と領域化<territorialisation>がなされる。この時点で用地は自らの操作対象としての領域に近付けられ、あるいは同化する。これを建築家は抽象化と呼ぶことが多いようだ。西沢やSANAAのプロジェクトにおいてこの行為が大前提となることは、彼らがプランに固執することを見れば明らかだ。
これは重要なポイントだ。その行為は建築/建築家にとって、非常に大きな責任を伴うものであることは、最低限認識されねばならないからだ。異化し、特異な異空間を結果的に現出させることの、宣言でもあり引責の責務を負うことの自覚なしに、用地の操作領域化がなされることはできないのだから。しかし彼の説明には、そうすることの動機が見当たらない。完成後の至極一般解的で ”一見素朴と見える” 利用イメージを語る中に、この最も強烈な操作を始点とし、建築を発動させていることはまったく見えてこないし、抜け落ちている。

ーーー 一時そのことは脇におこう。
集合住宅ということで、高さ状況が個別住宅よりも強く意識される。数階層に重ねる必要があるためだ。よってこの時同時に、SANAAの作品では要素の薄い高さ軸への注意が必要となり、敷地に対する3次元のデカルト空間もが想起されることになる。もし西沢が周辺環境に言及するのであれば、このデカルト・グリッドのマトリクスが、周辺環境を参照し、建造物やボイドのスケールやボリュームを規定するよう定義した、というのが彼の論点なのだろう。2次元と3次元のグリッドによる領域の規定から、そうしたネガティブとポジティブのボリューム化が特異空間化された中で成されていく。実際の所、あまり周辺環境との連関性は見受けられない。それは、住宅設計のプレゼンテーション全体からも明らかだ。建築は、特異なものであるという前提がどこかにある。

kanazawa21 thumb 続・森山邸〜SANAA 西沢立衛による集合住宅
SANAA, 金沢21世紀美術館. プロジェクト生成プロセスに関して言えば、同じSANAAの「金沢21世紀美術館」と森山邸は非常に似ている。金沢が周辺と緑地によるバッファーゾーンと、丸い平屋根と局面ガラスによる薄い皮膜/スキンを持って周囲との緩やかなつながりや切断を現象化しているのに対し、森山邸はそれらが取り払われているプロダクトと見ることができる。「金沢」では美術館というパブリックなプログラムの関係上、都市あるいは自然という環境からの移行/逸脱が求められるためそうした手続きをとっているが、森山邸の場合、「住宅区」の「一角」がこの作品の成立のために「更地化」された時点で、「金沢」では要求されたそうした’手続き’としてのバッファーやさらなる保護皮膜(プログラムの高さを規定する丸い”落とし蓋”屋根や、周辺環境とのつながりを可視化する曲面の透明ガラス)を持ち込む必要性がなくなっているーーと西沢は見なしたのだろうか

住宅としてのプログラムを挿入するにあたり、西沢は新たな生活形態や生活プログラムによる住宅の変容については感覚的言及以上のことはしていないので、ごく一般的な住居プログラムを想定し、主に2次元グリッド上による領域内でのプログラムの分散によってボリュームのマスを決定し、その決定をもってボイドのボリュームが自動的に規定されているように思われる。その2次元領域における再領域化は、この住宅というプロジェクトに固有のプログラミングではあるとしても、そのコンセプトと成立プロセスは他の(公共建築を含めた)プロジェクトと大きく異なるものではない。またそうすることで、ボリュームとその境界たる建築の肉体部分がスキンあるいは膜という西沢の求める概念に落とし込むことができる。

そして個々のプログラムーー独立した居室、または共有のバスルーム、そうした個別化された一般的プログラムが、生成されたボリュームに挿入されていく。もちろんこれまでのプロセスで各ボリュームは各プログラムにある程度沿って生成されてきてはいるだろうし、またこの時点で、ボリュームの調整操作、またはボイドの調整操作が行われているかもしれない。形態に関しては操作がないというより、ボリュームそのものが形態であるという割り切りがあるようだ。たぶんここまでの一連の行為ーーボリュームの分散による、個別のプログラムの結果的な分散ーーに、その手法を選択する上での主張や意識的なものがないために、このプロジェクトは様々な論点が宙づりにされたまま残されている。その帰結すら、意図するものではないのかもしれないが、それがためにこの「住宅」は今までにないものという感覚ーー違和感や距離感という曖昧さの感覚ーーとともに感じられるのだろう。

そして、ボリューム内の個々のプログラムが、3次元デカルト・グリッド内におけるボイドに対して関係性を明らかにする操作として、ボリュームに開口部がもうけられる。居住空間の快適さ、周辺環境との兼ね合いなどという理由を基にした開口部ではないことは明白だ。開口部のリテラルな透明部は、内部空間とその機能性を映し出すファサードとしてのフェノメナルな透明性とは重なり合わない。シーンとしての、言い換えればカタログ的なモダンライフスタイルをフレーム/額装化し、ガラス平面に投影するメディアとなることで、こうした開口部の透明性は非常にフェノメナルな現代社会的な透明性をも獲得し得るわけだが、ここではそのプロセスが意図された行為/都市的戦略としてではなく、結果的に生成されたボイドとボリューム+プログラムとの相関関係を示すものとしてその境界<スキン>の上に立ち現れてきたものだと考えられる。それは、この(あるいは彼らの他の)プロジェクトにおいては、ボイドがボリュームに従属的な存在ではないことーースキンによって内包された空間、また一般的プログラムとしての生活空間というボリュームの実存的存在と、その実存を受け止めるバッファーとしてのボイドが対極的な関係にはないこと、またそこに主従の、あるいはプライベート/パブリックといった従来的なネガティブ/ポジティブ、もしくはパブリック/プライベートの関係を結ぶものではないことーーからも説明される。

この特異な領域内で、視線はついにボイドのリテラルな透明性をも、またリテラル+フェノメナルな透明性を両立させるガラス平面をも透過することなく、この領域内にとどまり続ける。伊東が語った、「人が建物の影やガラス開口にすっと現れ、すっと消える」かのような感覚は、そうした自らの視線の浮遊し続ける感覚と、また意図せずフレーム化され続ける(それゆえ逆にステレオティピカルな)都市居住者とその生活シーンの自動生成/再生から来る感覚と言えるかもしれない。<生の声は、聞こえない>

02 1 続・森山邸〜SANAA 西沢立衛による集合住宅
SANAAによる別の住宅作品<梅林の家>。ホワイトキューブと電信柱/電線が映るとなぜか非常に日本の都市風景らしく感じられる「ようになってきた」。(皮肉ではなく) どこか乾いた感覚と、白くテロんとした外観にも関わらず、主張しない、故に肩肘の張らない ”薄さ” が感じられるのは確かであり、また実際施工方法でも鉄板を壁面に用い薄さを追求している。その感覚はどちらかといえば空間的なものから来るのではなく、最近目にする機会の増えた日本の「郊外」の写真イメージーー色のサチュレーションが落とされ彩度の抜けていく、強い印象がすみずみまで廃された写真ーーを見たときの、感覚が茫洋と広がっていく日本の「90年代以降」都市独特の感覚を呼び起こすイメージから来るのかもしれない。その上で、「白い」のではなく、「脱色」されたようなこうしたホワイトキューブは、格好の被写体であるのだろう
ph 14 続・森山邸〜SANAA 西沢立衛による集合住宅西沢による「鎌倉の家」

asahiyamagata 続・森山邸〜SANAA 西沢立衛による集合住宅
<朝日新聞山形ビル>上の住宅作品とよく似たオフィスビル。同じビルを別の角度から見たのかと錯覚する。プログラムやボリュームはもちろん異なるとしても、それを包み込むスキンは同じコンセプトのもとに作られている

こうした建築物とプログラムの生成プロセスを、都市的であると言えば、現在の社会背景が産み出した精神構造的に見てもそうであろう。冒頭で述べた、社会的/物理的軽さは、人的存在の軽さという所にいやがおうにもたどり着くし、また実際、そうした帰結を追求も否定をもしないことによって、結果的に社会的/物理的軽さ追求の肯定をしていることになる。それを、現在社会状況の反映だということもできるし、モダニズム的主張に対する(結果的な)アンチテーゼともいえる。

言ってしまうと、建築言語や観念的な見方をとれば、森山邸は非常に簡潔だ。プログラム性とその社会的な意味合いがはっきりされていないだけのことだ。そしてその完成物については、解釈をしやすい、しずらいうんぬんというより、その解釈ということに西沢はさして必要性や重きをおいていない。抽象性を抽象性とすら語らずに、それをあるがままポンと現出させる。させる、というより「している」。だからこの時、それが意識的な決定なのか、自動的な生成なのかと問われたならば、後者であると答えざるを得ない。(抽象を抽象であると語る意思表示があれば、それは建築にマニフェストとしての役割を与え、社会的存在として肯定も批判も受ける対象となるのだから)社会的存在の軽さ、そして物理的存在の軽さを求めて来たポスト・ポストモダン日本建築は、ある意味、その両方を極めた形でこの森山邸に行き着いた。

しかし、現在の都市において、我々はすでに数々の新しいマトリクスを持ち始めている。わかりやすい例として、インターネット、携帯のもたらす物理的空間性を超えた人と人、人と物の関係性が、そこに新たな距離の概念ーー物理的存在と内的存在のずれと揺らぎという概念をもたらしていることは、すでに長い間議論されてきた。それは、軽さといった従来型の対比/対置的な存在定義とは根本的に異なった、相対的で可変的な存在規定の手法となり得るものではないのだろうか。
あるいは、東京という都市が、もともと西洋的な歴史的都市とその近代化過程におけるグリッドのような強固なマトリクスが存在しない中成長してきた点をふまえれば、デカルト空間の固定的なマトリクスに依拠した都市住宅の創成プロセスは、それ自体特異なプロセスを要することになろう。何か新たなマトリクス、あるいは環境や状況に揺らぎ、変容していくマトリクス/グリッドのシステムが、必要とされているのではないか。

<リキッド・アーキテクチャー。流動性を持った、変容の可能性とプロセスを同時に内包した、建築という行為> そのようなものが、都市において、あるいはそうした特定の領域を超えた所で、求められる時が来るかもしれない。

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赤坂御所前の草月流(勅使河原本家)草月会館にて、ギャラリー・間20周年の節目にギャラリー・間「21世紀の住宅論」と題した4回にわたる講演会シリーズが催された。
(第一回 磯崎新 第2回 安藤忠雄 第3回 藤森照信 そして第4回の伊東豊雄)

残念ながらこの講演シリーズを知ったのは第4回講演会の2日前で、外してはならない磯崎新の講演を逃してしまい最後の伊東豊雄の講演しか拝聴することができなかったのだけれど、この講演の間中、磯崎が講演タイトルとした「住宅は建築か」という問いが頭から離れず、なにかモヤモヤとした不満を感じながら講演を聞いていた。

伊東は講演を、SANAAの西沢立衛の最近の住宅作品「森山邸」の紹介で始めた。実はこの住宅に関しては、そこにすむ一人の女性(妹島和世事務所の元所員とのこと)に伊東がインタビューし、そのビデオを流す事によって講演を締めくくる事にもなるのだが、この作品を取り上げたことに、この「住宅」というものに関する講演のテーマと、さらに伊東の「住宅設計」に対するある種の距離感が感じられるのでそれについて考えてみたい。
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講演自体の流れは、基本的に伊東本人の住宅作品を紹介するもので、個人的にはそのパーソナルな扱い方に伊東らしさを感じた。特に彼の最初の作品である「中野本町の家」には特別の感情と思い入れが感じられる。

「中野本町の家」は、夫を病気で若くに亡くしたという伊東の姉とその2人の小さな娘の為に設計した1976年の作品だが、そこに込められた、「都市」と「そこに住まう家族」との関係を見いだそうとする伊東の取り組みは、外壁のようなU字のボリュームが周辺には開口を持たず内に閉じながら、U字によって取り込まれた中庭の空間には解放され、空へと開くという、小さな家族が都会に暮らすための小さな意思表示と、そのナイーブさを同時に体現したような姿にあらわれている。もちろん、コンセプト/モチーフとして始まった「コの字ーU字」が、デザインを主導しながらしだいに背景にある「物語性」を離れて、「建築」という独立した別のステージで成立していく側面をも伊東は経験した。そうして完成した「都市住宅」と「住人」の間に新たに生まれていった距離感が、実際に住まう者にとって次第に違和感や苦痛となっていった事が、家族の証言によって明らかにもされ、20年の歴史の後に解体されていった。
「中野本町の家」後藤暢子/幸子/文子著

その様は、人と人との関係、また住宅に人の住まうことの、実は濃く、時にはドロドロとした姿を表してもいる。
そうしたパーソナルな都市への視線、また身内という近い人との関係の中から生まれた自身初期の作品の紹介の前に、伊東が西沢の「森山邸」を引き合いに出した理由には、この森山邸に垣間見えるそうした距離感への問題を感覚的に捉えているからなのではないかと思われる。

西沢による森山邸は、閑静なごく標準的な都市近郊の住宅街にある。その中に白く直線的なボリュームの箱がいくつか建ち並び、ある意味それだけで現状の周辺環境とは異質なものとなっている。(乱暴な言い方をすれば、金沢21世紀美術館の外周のガラス壁と蓋となっている天蓋を取り払い、周囲の芝生のクッション空間が存在しない状況)視線や動線はこの敷地内をコントロールされた範囲内で通り抜けることは出来るようになっていて、それによって区切られた小さなモジュールのような箱がそれぞれの機能を持ち、(共同浴室とか)また6人の住人が生活できる単位となって集合住宅の形をとっている。

ここでポイントとなるのは、この白い壁が実は鉄板であり、実際には厚みが薄く、また鉄板の外壁というコンセプトとその平面性が視覚的、感覚的にも薄い皮膜/スキンとしての認識を与える、という点ではないかと思うのだ。加えて、白い平面的な壁には大きなガラス開口がとられていて、透明なガラスを通して内部が見えている。垣間見えるというレベルではなく、開けっぴろげにマル見えと言っても良い。
–伊東は現代の都市生活が新たな形をとり始めたことが「目に見える形」として現れ始めたのが、「サランラップの透明フィルムに包まれたコンビニ野菜」からではないかと語った。都市生活者にとって、野菜とは畑で穫れる土のついた自然の姿の野菜ではなく、きれいに洗浄され、規格に沿った大きさと形に選別され、そして透明なフィルムにくるまれパッケージされたものを指すようになった。サランラップにくるまれる事で都市的プロダクトとなり、その存在は違った価値を持つようになる。
この時、この透明なフィルムは、その透過性によって中にくるまれた野菜の姿を目に見えるようにし、またその薄さによって野菜という「物」と消費者との物理的な距離を限りなく近づけるかのようだ。しかし、その透明フィルムを通して見える「物=野菜」は、もはや以前の野菜からは違った別種の価値を持ち、それによって消費者と物=野菜の距離は異なった物に変化した。透明フィルムは、その物理的な特性とは逆に、人と物との関係が変化し、距離を持ったことを示す、ある種のメディア、あるいは境界といったものではないかと、伊東は述べようとしていると思われた。

西沢による森山邸の「薄さ」と「透明」というコンセプトは、西沢によれば物理的にも感覚的にも周辺環境への距離感をなくすため、またコミュニティ/共同体を潤滑する近さを生み出すためと説明されている。しかし、私にとってこの建物の実態は、実はあのコンビニ野菜をくるむ「サランラップ」のように薄く透明でありながら、何か絶対的な境界を生み出す膜/スキンのように感じられてならないのだ。伊東はここを訪れた時、「人が建物の影やガラス開口にすっと現れ、すっと消える」感じがしたと語った。大きく透明なガラス開口からまるで開けっぴろげに見えるかのような生活風景は、この透明な薄い膜を通り抜けようとはせず、また実態としての生活の存在を主張表明しようとせずに、何かカタログ的なピクチャレスクのシーンと型を映すかのように、距離をとって、内に閉じている。そしてそのような曖昧さは結果としてでなく、シンセティックな自動生成のように、前提も帰結もないところにただ現出している。そうした光景が、現代的な若い世代の人間関係のあり方や方法に即しているのではないか、またコミュニティや共同生活体の姿が変化したのだ、とは言っても、その姿に従来の素朴で純粋なコミュニティの姿を延長線上に見ようとし、重ね合わせようとする西沢の(あるいはその他建築家ーー講演を訪れていた、展覧会の監修を務めた建築家千葉学は森山邸にコミュニティの新たな形と可能性を見る、と西沢を強く(?)肯定していた)住宅論は、こじつけられた、あまりにもナイーブで閉じた世界観と感じる。「自分はここには住めない」と伊東は述べ、それを「多分世代的な差なのだろう」と語ったが、その感覚は実は多くの、若い世代をも含めた一般人の感覚ではないかと考えられないか。

インタビューに答える若い女性はくったくなくしゃべり、笑い、そして彼女の部屋は本や雑貨などで埋められ、生活感がぷんぷんする空間に変貌していた。それは、エネルギーだ。内に閉じるようなものではない。伊東は、「彼女の声が外まで聞こえてくる住宅」を求めたいと語った。開いた空間。それはそんなに簡単なものではない。安易に語りすぎることを、伊東は直感的に感じているのではないだろうか。

西沢、あるいは妹島の建築は、そうしたエネルギーを否定はせずとも想定していない。結果としてそれを受容できる空間になったとしても、都市と人のエネルギーを翻訳し、周辺環境に透過し、または隠蔽するという、建築の肉体存在を介在して都市と人との、人と空間との関係性を反映する建築という考えを、始めから欠落させている。(結果として出来上がったSANAAプロダクトとしての建物のいくつかが、そう機能することはあっても)それは意図的なものか?(というより、本当に、ポーンと、「ない」のだ)もしそうならコミュニティを、周辺環境との調和を口にする事に矛盾があると言えないか? 彼らが求めるものが、結果として膜と境界で空間と人を閉じ、均質化の彼方に生活イメージを薄め、生を主張するエネルギーを剥奪していくアーティフィシャルな装置であるならば、それは東京という複雑な都市空間において、その帰結として、自閉した、異質の、さらに言えば「異物」の空間、そしてそれを表象するマテリアルとなっていく。成立段階とそのプロセスにおいていかに中性化/中立化を求めようとも、内向化していることをいかに表層的な透明性で被い打ち消そうとしているとしても、猥雑な都市空間に異物を挿入する事はそれ自体ある種の暴力であることを認める責任を持たねばならない。建築は、本質的にそうした暴力性を持っている。ポストモダン建築にはそれを自ら認めていた潔さが、少なくともあった。それが宙づりにされたままの、無邪気という無責任さ。

森山邸がモダニズムの言語を用いてそのユートピア的イメージをもオプティミスティックに語りながら、今、現在の東京に投げ込まれることの意味が、この昨今のプロダクト的建築ブームの中、もっと問われなければならない。至高の閉じられた空間、薄い皮膜の中にひっそりと身を置く場所などにはなり得ぬということーー東京という街は、そんな白く、無機質で、ミニマルだと主張するものさえ数えきれないほどに飲み込み、それを浸食し、変容し、並列化し、あるいは自らの増殖のプログラムとしていった。そんな牙を剥く強大な力ーー「ジャンクスペース」を作り出していった責任を、都市建築はらんでいるということ、そのなかで建築をするということの意味を、問わなければならない。<住宅には人が住むのだ–それはそんなに単純なことなのか?>

伊東本人は、あまり住宅を手がけて来てはいない。そして最近の公団とのプロジェクト(公団がCODANなどと横文字化してプロジェクトを有名建築家数人に依頼し、共同住宅を建ち上げた)を通じて、住宅、とくに共同住宅のストーリーと未来図を描く事の難しさと向き合うことになったと述べ、今後こうしたプロジェクトに距離を置くことを示唆していた。伊東の云わんとした「住宅論」ーーまた磯崎が掲げた「住宅は建築か」という問いは、建築という大文字のプロセスの中に、人、そして生活といったものを本当の意味で埋め込んでいく難しさを問うているのではないかと思われる。都市の姿を、そしてそこに生きる人々の姿と生活を住宅という形に反映する事が建築の目的なのか?それとも、そうする事が今までの都市をいびつに歪め、ジャンクスペースを増殖させて来たのか?あるいは、都市本来のエネルギーはそもそもジャンクスペースを生み出すものであり、その中にそれを超越したかのように透明な建築を埋め込む事の逆に破壊的な意味をこそ、本来都市建築は問うのではないのか?

伊東が感覚に捉えている住宅(と住宅論)に対する「違和感」(本人は、「新しいものが出てくる<可能性>かもしれない」と和らげたが)の出所を考えるにつれ、「住宅論」をストレートに語る時代では、もはやないと感じざるをえない。

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帰国中のためいくつかの展覧会などを見て回ることができた。まず印象に残っているもののうち、建築家吉村順三の回顧展についてまずは書こうと思う。

1908年生まれの吉村順三は、アメリカ、ペンシルバニア州ニュー・ホープで建築を学び、1931年から10年間、建築家アントニン・レーモンドの事務所で働いた。(レーモンドは建築家フランク・ロイド・ライトの弟子であり、吉村はいわばライトの孫弟子にあたるが、レーモンドはライトのフロアプラン手法を取り入れつつも、当時ヨーロッパで影響力を持っていたバウハウスの影響が強く見られる。当時上野の東京文化ホールの設計者前川國男も同じ事務所に在籍していた。現在、東京ステーションギャラリーで前川國男展<http://www.maekawa-assoc.co.jp/100th/>が開催中)ニューヨークにあるジャパン・ソサエティの建物や、MoMAの中庭に展示用に建てられた日本伝統建築、そしてロックフェラーの別邸などのアメリカでの作品群は、そうした日本とアメリカのつながりを示す優れた作品群である。強いモダニズムの影響を受けながら、そこに日本の伝統建築から学び取った建築性をも盛り込みながら、単なる西洋近代建築の焼き直しではない吉村独自のモダニズム建築を生み出し、また西洋にも自らの建築を通して実態を伴った日本の伝統や分化を伝える上で少なからぬ影響を与えてきたことが見て取れる。

ーー日本国内において、建築史の流れの中で伝統建築の意義や重要性が見直されるようになったのはそう昔のことではないとされる。ドイツの建築家ブルーノ・タウトが桂離宮や伊勢神宮を日本文化に根差した伝統建築としてその著作「ニッポン」で再紹介したことをきっかけに、一般にもこれらの伝統建築が広く知られ、見直されるようになったことはよく知られている。ではなぜ、ヨーロッパ近代建築の薫陶を受けつつあったタウトが日本の古い伝統建築に強い関心を示していったのだろうか?

建築におけるモダニズムが、近代に沿った新しい言語の確立と文化のゆりかごとなるべき新たなものを目指していたことは確かだ。そうした新興運動がしだいに外部や周辺へと波及していく中で、土地や文化の違いの上で様々に受け止められ、その文化/土地に根差した活動を生み出していった。北欧フィンランドの建築家、アルヴァー・アールトの目指した、風土や文化環境に即したヴァナキュラーな建築などは、機能主義の名の下に剥奪されていった、自然と人間の暮らしのつながりという、時に厳しく時に緩やかな関係から生まれる”共生生活”に重点をおいた、そうした点の先に見える素朴さや暖かさの重要性に建築のあり方を模索し、近代建築ムーブメントにおいても大きな支持を得るに至る。そして、実はここに古来より日本の伝統建築の、そして吉村の求めた足場を見いだすことができるように思うのだ。

ブルーノ・タウトは、ヨーロッパでモダニズムが興り始めた頃の巨大な渦の中で、そうした新たな社会と文化への憧憬の中に一つの形として日本の伝統建築を見いだしていったように思う。より深く充実した文化の創成が自然の「獲得」ではなく「調和」を通して成され、物質としてではなく、文化と暮らしに静かに満たされた空間としての日本の建築は、一つの理想型として、タウトの目に映ったのかもしれない。
では、実際に「建築」という言語を通してみた時、そうした日本の建築はどのように成立しているのか。また吉村は、伝統建築に何を見いだし、現代に即した建築へと昇華させていったのか。

展覧会の図録の冒頭、吉村の言葉が記されている。

「日本建築を学ぶなら、数寄屋から入っちゃいけません。まず書院を勉強しなさい」
この時同時に、彼が以前語っていた言葉の中に建築を見る上でのポーシェの重要性を述べたものがあったことを思い出した。ポーシェ:ーー建築の肉体、というべきものーーについては以前「西洋建築史再考」でも軽く触れたが、ルネッサンス期の建築家アルベルティが追求した、「建築の肉体性」への問いを表記するとき用いた方法は、平面図で建物を水平に切った場合に壁=建築部分が黒、空洞=空間部分が白で表される「地と図」の関係を表す表象方法だった。建築が単なるパーツ、すなわち古典様式要素の集合体ではなく、肉体としての、あるいは空間を現出させるため手法であるという根本的な問いかけに建築の根源を問いただそうとするものだ。

日本の伝統建築は、「書院造」をもとに形作られてきたとされる。現在も和室の基本要素として残っている、書院(元は読書のための作り付け机のような空間で、採光のために壁面を押し出して出窓とし、障子窓の下に平になった部分)書物や筆記具を収納する違い棚、床の間(これも部屋の空間の一部を小さく囲い込み、季節の物を飾り付ける空間)などが一般にも浸透している。こうした空間要素がしだいに形式化され「もどく=コピーする」ことで伝統的な日本建築空間が再現され一般化されていった。
もともと書院造りの本質は、空間における機能性を高めるためにーー例えば採光のため壁面を押し出してみたり、あるいは雨よけのためにせり出した軒の下で室内とは異質の回廊や縁側、月見台を水平方向に延長してみたりーーといった空間を変容させる操作が行われており、そうして生まれた独特の空間が住まう人の日常生活への要請と、また周辺の自然との緩やかで、しかし確かなつながりを建築と生活を通して確立していた点にある。そしてそれは北欧のヴァナキュラーなモダニズム建築などの目指した建築のあり方に強く通じるものがある故に、タウトのような鋭い視野を持った建築家に日本の伝統建築は見いだされ、モダニズムの目指す一方向として学ばれることになったのかもしれない。

20051230005806 吉村順三建築展
俵屋 京都市中京区 1965. 幾重にも重なる建物の要素が、様々なレベルの透明度や素材の違いを持ち、それによっていろいろな機能を組み合わせによって変えながら、室内空間と外部空間を非常に深みをもったグラデーションでつなぐ
20051230005749 吉村順三建築展
視覚による透明性の違いが、空間構成の違いをも体現するーリテラルで、かつフェノメナルな透明性
20051230005828 吉村順三建築展
南台の自邸 1957 音楽室. 限られた壁面空間を押し出しによって操作し、機能的にかつ均整のとれた空間を生み出している

一方で、日本の伝統建築のそうした形式化した空間要素の「空間」ではなくそのディテールに注目し、モノ作りの妙と趣味嗜好の追求に重点を置いた和風建築=数寄屋の流れが、特に千利休による茶室の完成とともに次第に主流となっていった。(数寄屋とは「好き屋」が当て字によって変化したもの、とも言われている)自然素材を用いた職人的手工芸は次第に洗練を極め、建築空間を成立させる書院造の本来の目的から、プロダクトとして現前する物質性に注目が移っていく。そのため数寄屋では伝統建築を通して生み出されて来た室内/室外の様々な要素を個々のパーツとして見なし、それらを型として、その形式や様式のあり方を問うことはあえてせずに、それら要素のディテールの追求を旨とした。具体的には素材や、壁面を区切り、装飾する2次元的なコンポジション要素としての窓、その桟、指物、土壁と柱のコントラスト、etc.を操作しながら内部空間をそれら完成品の物質性で満たし、いわば装飾物として住まう人を精神的/感覚的に充溢させるために数寄屋の洗練が追求された。もちろんその素材の吟味や趣味追求、あるいは結果として伝統建築の様式のもたらす周囲自然環境の屋内空間への影響といったものに(侘び寂びの世界、あるいは谷崎潤一郎の語る「陰影礼攅」の妙、そして日本の自然素材を工芸に昇華させる職人技の本質)当時の人々の自然への強い関わりを見いだすことができるが、今日の視点に立ってみれば、数寄屋自身の本質は、現代の美術館の(無色透明な)インテリア空間のように、インテリアを満たす物質的要素と建築空間そのもののが分離独立し始め、双方が一人歩きを始めたと言えなくもない。

現在、「ポーシェ」の意味するところの、壁あるいは床スラブ、柱、etc.の本質的な問いかけがなされぬまま、無化された直線や無機質な平面/率面図がそのまま立ち上がり、実存する建築として物質性や肉体性を持つというより、抽象化された記号として個々の要素が空間に現出したという建造物が増えつつある。もちろん、そうすることは技術の進歩とともに記号は記号に近いまま実現可能となり、現実的要求による建築要素を隠蔽しながら虚の肉体性を獲得している。(ミースの求めた抽象空間のように、エントロピーの彼方に散逸霧散することを究極とするのと差こそはあれ似た方向性を持っているとは言える)
しかし現在、果たしてそれら建造物は建築の意義を、また空間を生み出し、空間に物質として存在し、肉体として我々に対峙し包容する力を持った存在として実存し得るのか。吉村の残した日本の近代建築の先駆けたる作品群を目にしながら、そのような疑問を抱かずにはいられなかった。

20051230010255 吉村順三建築展
 (クリックで拡大) 軽井沢の山荘 1962. コンクリートの基礎によって住空間を中空に持ち上げ、軽井沢の高湿の気候に対応しながら、二階部分は木造により軽くより大きな空間と、森の木々の間に存在するつながりを保つ。北欧モダニズムのバナキュラーな建築と呼応しながらも、日本伝統建築の要素を取り入れ、この地に存在する建造物としての意義を主張する。

elevations 吉村順三建築展

(クリックで拡大) 左:東面立面図. 右:南面立面. コンクリートの基礎部分がキャンティレバーで水平方向に張り出し、二階部分より上を持ち上げている。基礎部分も、異なった大きさの四角面が重なり合いながら開口部となり、グラデーションと視覚透明性によって単純な面ではなく立体的な奥行きを持った立面として立ち上がる。

section 吉村順三建築展
立面断面図. コンクリートの基礎部分、キャンティレバーの張り出し、二階部分を強調してみた。その張り出したキャンティレバー部分(さらに軒のような木造構造がわずかに外側に張り出し、メインスペースと地続きのバルコニーになる)とコンクリート基礎の壁面、そこにうがたれた出入りのための玄関、そしてその隣の地面に設けられた月見台は、このコの字型のピロティのようなスペースを、たんに外部へと分離し独立したスペースではなく、日本伝統建築に見られるような外部/自然との緩やかな関係、幾重ものグラデーションを持ったバッファーゾーンとして機能させている

20051230010817 吉村順三建築展

(クリックで拡大) 単に自然環境の中に立つ建物だから木造である、というのではなく、コンクリートと木造の組み合わせが構造としても優れていることに着目し、後に都市部でもこの方法を用いていくつか住宅を設計している。インテリアスペースにも「書院造」の空間的な捉え方ーー面を押し出したり引いたりすることによって生み出される空間要素ーーによってスペースが組み立てられている。壁面や床面の幾何学的なコンポジションのみに執着していない点に着目

吉村は「書院造」の、インテリア空間としてだけでなく外部環境とも通じ、かつ状況に応じてコントロールし得る、「変容する空間性」に日本近代建築の進むべき方向を見ていたように感じるのだ。それは建築の肉体性を体現する「ポーシェ」が、様々な様式や建築言語、テクトニックを伴いながら変化し、さらに日本の伝統建築の要素(例えばふすまや鎧戸、雨戸、障子戸などの流動性を持ち、かつ様々な透明度を持った壁面)を用いることで外部と内部の様々なつながり関係を獲得する。果たして、吉村建築に多く見られる特徴として、壁面は単なる柱の間に打ち付けられた板の集合体ではなく、時に非常に厚みを持ち、そこに様々な機能性を内包させた、故に建築の肉体に昇華された要素となる。さりげなく、しかししなやかで明快な吉村の「建築をする」軌跡の結実。明確に現れたこうした思考の軌跡は、吉村独自の、そして建物の存在する環境と状況独自の生み出したものであり、それを目の当たりにした多くの人々を魅了するゆえんだろう。

20051230011435 吉村順三建築展
田園調布の家 1971. 手前の閉じ切り窓の壁厚と、その奥の開放可能な窓部分の壁厚と外壁面の押し出し度合いの違いが機能の違いを表している
20051230011417 吉村順三建築展
(クリックで拡大) NCRビル 東京港区 1976. 吉村は「床スラブを重ね上げて、外壁はカーテンのように薄く張りボテのカーテンウォール」といった既存のビルに対する考え方を飛び越え、近代ビルに厚みと実体を持った”肉体としての外壁”ーー「ポーシェ」の概念ーーを持ち込んでいる。外壁に厚みを持たせ、それを二重のスキンに翻訳して、その内部空間では空気を自然循環させ、冬場の保温、(空気層による断熱)夏場の空冷(対流空気の上昇による対流と冷却効果)といった、環境コントロール機能を持ったインテリジェントな壁面へと昇華させていった。こうした’機能する壁、建物の肉体としての厚み’は吉村の住宅設計のテーマにも取り入れられ、断熱材などのなかった時代にも、石や砂などの自然素材を充填して保温、防湿、防音などを追求していた

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今回は、前回最後に引用した磯崎新の言葉から始めてみようと思う。

「庭園を<自然>の虚構として構成した時代から始まって近代と呼ばれる知の一つの形成が波紋のように世界を何度か襲ったあげくに、その虚構をあらためて虚構として描くほかに採用する手段の無い時代を私たちは生きさせられている。記号が実態から剥離して時元と位相をかえて操作可能になるべく再配列させられている。その記号の波のさなかに投企される新しい記号はあくまでも、揺らぎを起こし、波紋を増幅するだけなのだが、それが、オーバーレイされたマルチスクリーン上の映像のように、際限のない振動を続ける。それ故に…18世紀中期に始まる<建築>の危機も、その危機の内容こそが実像であって、それを説明する諸事実は、スクリーン上の映像のように、流動し点滅せざるを得ない。”廃墟図”というクリシェも異なる文脈の中で意味を変え、しばしばレトリックとして政治的な作動をする。それが未だに有効な手段にしうることにこそ実は注目すべきであって、この虚構を虚構として描く時代がやはり、あの18世紀中期の”危機”に始まる近代の連続である証拠の一つと言えるのだろう」

ーー過去を<イベント>の蓄積とその記録として客観性を与え、<歴史>として解釈や引用の自由を得たかにみえる<現在を生きる我々。> もちろん、そうした事実とされる<イベント>を再定義し体系化していくことが過去を可視化し、認識し、イベントの連なりを見いだす指針になることは確かだ。しかしそうして再構成されたものは、我々が取り上げ、解釈し、引用する過程においては記号としてその意味するところを限定され、また実態とは異なった意味や物語性を与えられる危険性をはらむ。ではその定義化/体系化を促す推進力となるものはいったい何なのか。そこでは常に外部からの影響力が及び、認識の歪曲が起こる危険性を常にはらんでいる。あるいは逆に体系化の隙間をこぼれ落ちていった見えない事象は、現在と未来に影響を及ぼすすべを全く失ってしまうのだろうか。その取捨選択を行う理由は、権利は、能力は、現在の我々にあると言えるのか?

wtc11 西洋建築史再考~3. リベスキンドの描く世界
この写真を掲載することもはばかられるところではある

我々は同時多発テロやホロコースト(あるいはヒロシマ、その他多くの過去の記憶)をメディアの目を通して「理解可能な物語/体系化された歴史の流れ」として知り、それらを過去のものとして距離を保ったまま安全な場所から眺めながら、過去を記録として固定し<現在の我々>との関わりを知らず断ってしまうことに加担しているのではないのだろうか。
<現在>の我々が過去を扱う難しさと責任は、重い。

前々回は Jewish Museum Berlinを紹介したが、その理由はリベスキンドのコンペ案が世界貿易センター復興計画案として採択された経緯には、彼がユダヤ人であり、その文化的背景を色濃く反映させることで完成したJewish Museumの存在が大きいからだ。ユダヤ系移民の多いニューヨークでは、彼の背景とJewish Museum誕生の経緯を、同時多発テロと復興計画に重ね合わせたいところがあるとは考えられる。

しかし上でも述べたように、リベスキンドの作品やプロジェクトを読み解く中で、彼のユダヤ人としての生い立ちや経緯に重点を置き、彼の使命や創造の源泉の在処を問うことは、彼のプロジェクトの想起や展開をうかがい知る手がかりとなることは確かだろうが、同時にそれのみを注視すると彼のプロジェクトの持つ可能性や問題提起の視点を限定してしまう可能性があることも明記しておく必要がある。

リベスキンドのプロジェクトに限らず形式を踏まえたところで活動することを余儀なくされるポストモダニズム全体に言えることだが、リベスキンドの打ち出すコンセプトが「正しい」ものであるのか、その方向性はユダヤ人の歴史やホロコーストといった過去の<記憶>を伝え行く上で本当に意義を持つものなのか、そしてそれを建築という言語によって翻訳し、表象することにどのような意味があるのかという問いを、彼の建築そのものが投げかけてくる。もちろんそこには何を可視化し、建築の肉体としてゆくのかという問いも当然生まれ、ポストモダン的記号論に対する批判と同様にリベスキンドのテーマの取りあげ方と取り扱いに対する批判ともなっているが、リベスキンドはそうした誤解の可能性や拒絶反応をも含む数多くの過去と、我々の過去への関わり方ーー目に見えるだけでなく、記憶、思考、感情/詩性といった不可視であるものも全てーーを新たな言語によって再構成し表象する際のテーマとしてコンセプトの想起プロセスに内在させ、歴史的形式や定型化した建築言語によって表象されてきた「建築」を解体し、知と記憶の融合と構築を模索する新たな肉体と精神を建築として創造しようとしているのではないか。我々は抽象性という言葉を容易に使うが、その意味するもの、抽象性がもたらす影響とは何かを問うことで、彼は<過去の記憶>という、”客観的事実の記録ではない過去”に向き合う意味を我々に再考させる。

脱構築主義という運動は、ある意味でこうした様々な批評/解体活動をすべて盛り込むことを目指し、実践しようとした、不安定で転覆の危険をはらんだ運動であると言えるかもしれない。その上さらに過去の歴史や記録、あるいは記憶をも取り込み、建築がそれらを記述する言語として、あるいは空白、不可視なもの、無意識といったものさえわれわれに認識させる可能性の言語として、脱構築主義はあった。その意味では、磯崎が語るように、脱構築主義は「記号が実態から剥離して時元と位相をかえて操作可能になるべく再配列させられている。その記号の波のさなかに投企される新しい記号はあくまでも、揺らぎを起こし、波紋を増幅するだけなのだが、それが、オーバーレイされたマルチスクリーン上の映像のように、際限のない振動を続ける」という<状況>を現出し、そうして可視化された建築の肉体性は常に解体し変容し続ける運命を背負っている。

次回は、実際にリベスキンドがどのように不可視なものを扱うかについて、いくつかの例を取り上げながら見ていく。

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前回を引き継いで、今回はモダニズムとポストモダニズムの関連について考えてみようと思う。

西洋世界の長い歴史の中では、社会や文化を根底から覆すに至る変革や革命を促す事件が時に起こってきた。時の権力や体制は社会的な中心として求心力を持つものをわかりやすい形で提示する責務に駆られる。こうした時代の変化の中で、建築は社会体制/権力の確立を可視化するために利用された。それはその体制や社会に於ける新たな言語の模索の一環であり、建築はその中でも最もはっきりと多くの要素を可視化しえる言語である。
ではモダニズムとポストモダニズムを差異化するものは何だろうか。

前回見たように、モダニズム期には社会体制やその中核を担う人々が急速に変化し、また同時に新しい素材や技術の革新が進んだ。古い体制を革新することで生まれた新しい社会では、人々は新たな世界を体現できる自らの正統を目指すために、過去の遺産である形式や様式を再製することは望まない。そこで意識的にもたらされた言語の空白は、白紙から何かを生み出す期待と、未完である未来の世界をユートピアとして空想させる自由をもたらし、新たな技術の持つ可能性と相まって無限の自由を手にしたかのように思わせる魅力を放っていたかもしれない。また、過去の形式からは建築の根本にある普遍性を持った要素を抽出し学び取る合理性をも得る事で、形式の持つ様々な付随要素ー神聖性や権力性ーの呪縛からは解放されつつも、抽象性や純粋性を表現し新たな正統となり得る素地を手にしていく。ここで人々は未来という新たなベクトルをその視線の先に見いだすことが出来た。モダニズムは希望の時代であり、その輝きそのものが正統性を担った時代であったのだ。

しかし技術革新の行き着いた究極は二つの世界大戦である。ユートピア思想は幻想として廃墟を前に力を失った。ポストモダニスト達はここにモダニズムの求めたものの限界と終わりを認め、この廃墟に建築の未来の姿を見いだす負の視線をもって歩き始めている。

20050928151315 西洋建築史再考〜2.モダニズムとポストモダニズム
フィリップ・ジョンソン、「Glass House」1947. モダニズムとポストモダニズムの両方の言語を用いたかに見えるフィリップ・ジョンソンも、最もモダニズム建築を体現しているとされる「Glass House」について語ったとき、そのインスピレーションを爆撃で破壊され基礎や骨組みをむき出しにしたヨーロッパの市街から得たと暗にほのめかしている。彼は後ほどポストモダンに移っていくが、あるいはもともとそういったポストモダン的思考によって建築に取り組んでいたのかもしれない

社会や一般の人々へ還元されるべく目的を定めていたモダニズム本流の活動も、様々な壁に突き当たりながら次第に求心力を失っていく。例えば、ミースの求めた抽象的な純粋性は、建築の肉体性を解体し尽くし、霧散させてしまうために、実践や実用の観点からは広く受け入れられなかった。(その思考方法はポストモダニズムの中に吸収されていくことになるが)建築の純粋性に不必要であるとされその過程で削ぎ落とされていった様々な要素は、ある意味でわかりやすい一般性や人間性を反映するものでもあったのだ。
そうしたミースの方向性に対し、コルビュジエは我々人間にとっての建築の機能性を求める方向性を取りモダニズムが社会に受け入れられていく先駆けとなったが、彼の生み出した原型が現実社会で複製され乱造される中で、機能の単純化をコストダウンの方法にのみ集約したために人間性や本来の機能性を求める姿勢を次第に失い、無機質な建造物で都市をあふれかえらせる循環に陥ることになってしまう。

Pruitt Igoe collapses 西洋建築史再考〜2.モダニズムとポストモダニズム
後に世界貿易センターを設計するミノル・ヤマザキにより設計され、1951年に完成したセントルイスの高層アパートメント「ブルーイット・アイゴー団地」は、コストや機能性などに考慮したモダニズム建築であったが、住み心地や使い勝手に対する住民の不満は高かった。低コスト住宅としてしだいにスラム化し犯罪の巣窟となったために、最終的には住民自身の手で、1972年7月15日ダイナマイトで破壊された。モダニズム建築の終焉を象徴する事件として記憶される

ーーモダニズムとそれ以後について考える時、その語が示唆するようにポストモダニズムがモダニズムそのものに対して何らかの変化を目指したものと考えることはたやすい。しかし、ポストモダニズムの様々な手法や方法論を見渡すと、それらがモダニズムの目指したものと直接対峙しているというよりは、モダニズムの活動をルネッサンス以降西洋に於ける正統と考えられてきた古典主義的精神の回復運動の一つとして捉え、西洋美術/建築史で時に見られた、そうした正統主義に対しての反応/反動活動であると考える事もできる。
例えば歴史に於ける変化は、新たな正統となろうとする求心的な動きによる場合と、中心を担う正統から次第にずれていく分化、あるいは異化といった変化とに分けられる。前者の場合、用いられる言語は既に正統と定められ一定の訴求力をもった形式や様式を再現するか、またはそうした過去と決別し得る大きく異なった新言語を求める。過去の正統の再現、そして未来に向けての正統となるべき宣言であり、ルネッサンスやモダニズムの求めた方向性だ。
対して後者のような変化は、正統とされるものの周辺で、あるいは正統に対する外部よりの影響力によって起こる。そこには正統とのずれが存在し、そのずれによって異化が表出する。ずれが極大化すれば、新たなスタイルとして分化する可能性もあるだろう。ここに、モダニズムに対してのポストモダニズムの意義を考えるポイントがあるのではないか。

mix1 西洋建築史再考〜2.モダニズムとポストモダニズム
ジュリオ・ロマーノ、「パラッツォ・デル・テ」1526-35.  力を失いつつあった教皇のローマは1527年、「Sacco di Rome」と呼ばれる破壊と略奪を受ける。中心を失いつつあった時代背景の中で、パラッツォ・デル・テは正統建築要素からの異化と逸脱を駆使し逸楽の館として作られた。左:中庭から東側ファサードを見る. 普通、パラッツォは2階建て以上の建物であり、2階部分(ピアノ・ノービレ)が主生活空間なのだが、ここではピアノ・ノービレ(列柱飾りのある面)が下にずり落ち、地階(ルスティコ/粗い石組み部分)にスーパーインポーズされている。逆に、ペディメント(ゲートの上の三角部分)の内部にルスティコが侵入している。右上:列柱の中間の格間(列柱上の水平部)からトリグリフがずり落ちている。右下: 西側ファサードのペディメント。中央のキーストーン(アーチを固定する中央の石)が肥大化し、バランスをとるはずの要素がバランスを崩している

事実、ポストモダニストの多くが参照するのは、ルネッサンスによる古典の再定義化/中心化という主流から離れ、異化していく中から生まれたマニエリスム、また建築要素の装飾化が進んだバロック/ロココ様式に対して18世紀中頃起こった古典主義復古活動のNeo Classicism (新古典主義)の中に生まれた変種的スタイルである。
ごくごく手短かに言えば、前者の建築におけるマニエリスムは ”古典主義によって定義化された美しいとされるプロポーションを歪め、引き延ばし、黄金比のようなバランスを崩してまでも要素の対置によるダイナミズムや新たなスケールへの対応を目指した手法” である。
また後者のNeo Classicismは、古典主義復古の運動として始まりながら、フランス革命の気運の高まりに乗って新たな社会の創造としての建築が模索される中で数々の独創的なプランを生み出したことで知られる。その多くは実現されることはなかったが、古典主義の表現言語を受け継ぎつつ新たなプログラムや社会性を体現する建築を目指したために、しだいに古典主義の表現言語やプロポーションそのものに対する大胆な翻訳/変容が提案された。こうしたNeo Classicismの活動は後に起こる市民革命や産業革命の中でその意思を受け継がれながら、モダニズム、あるいはポストモダニズムにも影響を与えていったと言える。

20050928151956 西洋建築史再考〜2.モダニズムとポストモダニズム
エティエンヌ・ブレー、「ニュートン記念堂」1784. プラトン立体を用い理想空間を形象化しながらも、その空間に抽象性を充溢させることで自然物理学を体現し、かつ体験し得る新しいプログラムを提案している新古典主義の変種
20050928152335 西洋建築史再考〜2.モダニズムとポストモダニズム
クロード・ニコラ・ルドー、「モーペルチュイの畑番の家. 球のような純粋形態を一般人の家に用いるという大胆な試みがなされた。

では、ポストモダニズムとはいったい何なのか。
ポストモダニストの立場は、マニエリスムや新古典主義に見られた、正統/本流から距離を持つ視点によるそれら正統の客観的な読解と、距離を認識した主観に乗って読み取ったものを解体し、再構築していく異化を伴う行為とその手法をまずは踏襲すべき位置にあった。歴史的形式としての、実態を伴った形としてのモダニズムはそうしたアプローチによってなんとか消化し得るかもしれない。しかし、激烈な近代という記憶をどのように捉えるか、また捉え得るのかといった問いの狭間で揺れ続けてもいる。モダニズムのような正統への希求行為も、またそれによって取捨選択されとり残されていったものをも同時に、また同列に受け止める中から始める責務を負ったポストモダニズム。正統の意味するものは宙づりにされ、モラトリアムや停滞すらが活動としてにじみ出る。立ち位置すら距離や差異を意識させる所にあり、異化を強調することでしか存在意義を表象し得ない。現代にとって過去の建築は形式・要素の墓場であり、それらを解体し再構成して出来上がる建築は廃墟を見据えることで実存の意思表示を拒否しながら過去・現在・未来の狭間に漂流する。それがポスト・近代の生き方であるとポストモダニズムは語る。今や建築は何物かを体現するために何かを読み、記述していくメディアとしての方法を、不可視で、無意識の彼方に広がる、あるいは記述不能である記憶の領域まで拡げる責務を負ったのだ。

20050928175636 西洋建築史再考〜2.モダニズムとポストモダニズム
左:ジョセフ・マイケル・ガンディ、「イングランド銀行廃墟図」1830. 右: 磯崎新、「つくばセンタービル廃墟図」1983.
当時イギリスで起こったピクチャレスクは、意図的に設計された廃墟を人間の手で疑似再現された自然内に点在させ、虚構の自然を作り出した。イングランド銀行を手直しした建築家サー・ジョン・ソーンは自らの建築が遺跡のように発掘される様を描くことで、古代建築の崇高さ、アルカディア的な理想モデル、パラディオの明快な空間秩序に比すものと宣言しようとした。磯崎はそれを手法として用いている。

磯崎新は上述の廃墟図に関して次のように語っている。それは、あるいはポストモダニズムの存在意義を言い表しているように思える。
「庭園を<自然>の虚構として構成した時代から始まって近代と呼ばれる知の一つの形成が波紋のように世界を何度か襲ったあげくに、その虚構をあらためて虚構として描くほかに採用する手段の無い時代を私たちは生きさせられている。記号が実態から剥離して時元と位相をかえて操作可能になるべく再配列させられている。その記号の波のさなかに投企される新しい記号はあくまでも、揺らぎを起こし、波紋を増幅するだけなのだが、それが、オーバーレイされたマルチスクリーン上の映像のように、際限のない振動を続ける。それ故に…18世紀中期に始まる<建築>の危機も、その危機の内容こそが実像であって、それを説明する諸事実は、スクリーン上の映像のように、流動し点滅せざるを得ない。”廃墟図”というクリシェも異なる文脈の中で意味を変え、しばしばレトリックとして政治的な作動をする。それが未だに有効な手段にしうることにこそ実は注目すべきであって、この虚構を虚構として描く時代がやはり、あの18世紀中期の”危機”に始まる近代の連続である証拠の一つと言えるのだろう」

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リベスキンドの一連のプロジェクトは、「脱構築主義」というスタイル(形式ではなく)にカテゴライズされる。本来、脱構築主義は定型化し形骸化した(故に問いかけることなく乱用される)建築の言語、形式などを解体し、問い直す過程が建築プロセスとして視覚化した、批評を内包した方法論である。(哲学者ジャック・デリダが言語において提唱し実践しようとしていたことに影響を受け、連動する形で建築においても実践された)

脱構築主義を掲げ活動する多くの建築家は、ロシア構成主義などのモダニズム創成期に興った、過去に対する批評的な方法論やその実践、またその創造のエネルギーや社会への関わり方に大きな影響を受けた世代であり、その主義主張を受け継ぐ形で彼らは形骸化していった過去の形式/様式に対しての批評的方法論としてその活動を興している。脱構築主義という命名は、(上述したように)この運動がまず過去の建築とその成立様式を読み取るために形式における様々な要素を分化/解体し、それを批評/翻訳する行為に由来するはずであった。

今回はここで脱構築主義について見てみる前に、その活動の前提となっている、西洋における建築の成立と、ポストモダニズムに至るまでの経緯について駆け足で再考してみようと思う。

ヨーロッパが西洋文明として成熟していく中で、その成熟の度合いと強度を示すものとして建築は成立していった。ギリシャ・ローマで成立した古代の建築様式はいったん歴史の水面下に影を潜めたが、宗教と権力を体現しながら中世のゴシック建築は技術的/美術的観点において最初の頂点に達する。
その後ルネッサンス期に透視図法の発明により、幾何学に基づくプロポーションの純粋性や透明性が空間において実現されるようになる。それはギリシャ・ローマ建築様式の純粋性を再発見することにつながっていった。中世までに確立された建築技術や形式を吸収し、それまでのプロポーションの再考がなされ、目に見える装飾要素や表現方法を置き換えていった。クラシック形式/様式(古典主義/Classicism)として体系化されながら急速に浸透し、いくつかの反動運動を招きながらも産業革命前後まで続く。

pastedGraphic 西洋建築史再考〜1. ポストモダニズムまでの西洋建築史
Piero della Francesca and Luciano Laurana, “View of an Ideal City.” 1460. 透視図法で描かれた空想上の理想都市。透視図法によって建物のプロポーションを求め、パースペクティブの消失点に建物の中心がきている

次第に装飾的性格に論点が移り建造物の純粋性や透明性の議論から離れていったていったClassicismは、修辞性や象徴性を表す徽章の役割を持つものとして再び広く社会的な利用がなされるようになる。(Neo Classicism。最たる例として、後にナチス・ドイツはClassicismを国家の理想の象徴として利用した)
しかし、国力の高まりを目指す中次第におこっていった産業革命は、新たな素材や技術を次々に生み出しながら、それらが社会に還元される中で労働者革命をも引き起こして、急速に社会を変革していった。技術的な革新が労働者革命の描くユートピア思想に盛り込まれていく過程から、必然的にモダニズム運動が起こってくるのである。

モダニズム運動においてまず求められたのは、建築の技術的/表現的パフォーマンスを根底から覆し拡大する新たな素材と技術を手にした上で、どのような建築が可能なのかを模索することだった。ガラスや鉄などの工業マテリアルは、石造りの重厚で不透明な壁によってのみ可能だった大規模建築を、軽く透明な素材で作り出すことを可能にした。そうして生み出された新たな建造物は、Classicismの修辞的/象徴的/装飾的性格に対して強い疑問を投げかける。

20050921193015 西洋建築史再考〜1. ポストモダニズムまでの西洋建築史
セント・ピエトロ寺院のプラン断面図。左は最初の設計者ブラマンテのもの、右がミケランジェロのもの。分厚い壁をカットして現れる黒塗りの部分を「ポシェ」と呼ぶが、ブラマンテはポシェを描くことから設計を始め、細部のディテールを建物のmassに集約し、肉体化していった。内部空間よりも、建築の肉体性の地位が高くなったことを示す

ここでモダニズム運動のとった行動は、ルネッサンス期になされたギリシャ・ローマ建築の純粋性の再発見が建築の再考につながっていったことに習い、まずは「重力に抗い建ち上がり、そこに内部あるいは外部空間を創出する」という建築の原点に回帰する活動であった。
モダニズムの騎手の一人であるル・コルビュジエは、ギリシャのアクロポリスに建つパルテノン神殿の姿に建築のオリジナルとしての姿を見ている。それは、神聖域として定められた水平面を地面上に作り、その聖域を列柱によって取り囲み、またその列柱によって聖域を覆う屋根を持ち上げた、最も基本的でありながら原点であるべき建築の姿であるとしている。そして、コルビュジエは水平なスラブ(床)を地面に置き、もう一つの水平スラブを柱によって持ち上げることで内部空間を生み出す「ドミノ・システム」という建築の原型をまず宣言した。こうしてサンドイッチされた内部空間は自由に設計することができ、装飾要素以前に空間の性格を考え得る基本言語を作り出したのだ。

pastedGraphic 1 西洋建築史再考〜1. ポストモダニズムまでの西洋建築史
ル・コルビュジエの「Dom Ino」(ドミノ)システム。水平スラブを「持ち上げ」2平面の間に自由空間を作る。これにより「壁」によって立ち上げていた今までの建築から壁を解放し、自由な壁の配置、そして建物の表皮が自由になる
20050921192021 西洋建築史再考〜1. ポストモダニズムまでの西洋建築史
ヘーリット・T・リートフェルト. シュローダー邸。壁はmassというより面として捉えられ、空間において自由に拡散/配置され、素材とその大きさ、厚み、透明性、色等様々な意識化/可視化された壁の違いによってその存在意義が定義された。真ん中はテオ・ファン・ドースブルグによるドローイング「反構成」

もう一人の旗手ミース・ファン・デル・ローエは、コルビュジエの原型に近い考え方を持っていたが、原型というオリジナルに回帰するというより、原型の持つ透明性、純粋性という性格を始点、あるいはゴールに定めている。ミースは「Less is more」という方向性を建築に求めた。では、まずここでの「Less」とは何を意味し、表しているのだろうか。

ガラスや鉄などの工業マテリアルを用いることで物理的な透明性を獲得するのみならず、グリッドの均質空間に数学的規則性やプロポーションバランスを体現した抽象空間を作り出すことを求め、意識と認識における透明性をも獲得しようとした。

20050921192206 西洋建築史再考〜1. ポストモダニズムまでの西洋建築史
Mies van der Rohe、イリノイITT Crown Hall, 1950~56. 対称性、均等性などから無限に繰り返すグリッドの抽象性が想起される。こうして水平スラブの空間が形而上的に無限に拡がり、拡散していくエントロピーを夢想させる

ミースの目指したものは、この二つの透明性の形而上の認識による空間を限定する建築の消失=エントロピーであり、一つの建築の解体であったと言える。この流れを汲んだ、グリッド、フレーム、パターンなどを多用し反復させることでエントロピーを目指す建築の解体方法も、ポストモダニズムの一スタイルとして力を持っていく。

Cube 西洋建築史再考〜1. ポストモダニズムまでの西洋建築史
シェルピンスキーのスポンジ/四角形の側面の穴は、その1/3サイズの8つの穴に囲まれている。それら8つの穴も同じ法則で8つの穴に囲まれている。その操作が無限に反復される結果、全体積はゼロに近づきながら逆に全側面面積は限りなく増加していく。そうしてこの立方体は二次元と三次元の立体の狭間に存在することになる

次回、ポストモダニズムと脱構築主義を取り上げる。

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