— Delirious New York Diary

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Tag "感覚"

5/22付朝日新聞の磯崎新による記事で、荒川修作の訃報にふれた。

“Inter Disciplinary”という生き方をつらぬくことで、磯崎の言うように彼は詩人であり、画家、彫刻家、インスタレーション・クリエーター、映画評論家、写真家、そして建築家であった。そしてそれらを行き交いながら、人間存在の不可思議と、それでも求め続ける人間の可能性を体現した。

「あなたは私ではない。
あなたがそこに立ちあなたとしての世界を確保(フィールド)するとき、そのことは私が世界の中に存在することとは同じではない。
なぜならあなたは私ではないから。
あなたと私は決して同じ場所を画することはない。
たとえ私たちが同じ部屋の中にいるとしても。
その場合は立地(サイト)が異なると言ってよいだろう。
人間に関するそうした立地についてはどうしてあまり語られないのだろうか。」(Anywhere, 1992)

ーーマドリン・ギンズとの共作を続ける中で、その最も近しい人の存在を「自らを投影し反転する」フィールドとして認めていたことについて、どこか哀しみの念のこもる言葉で語っているように思えなくもない。訃報に接しての感傷だろうか。

「人間として存在することの驚きが真っ先に優先されてしまう、、、
(故に)われわれは存在(エンティティ)と場所(プレイス)というものを別のカテゴリーとしてみなす習慣がついた。
人間は場所でなく存在として分離され、立地(サイト)は存在ではなく場所として考えられねばならなかったのである」
20100525020600313 荒川修作という「アーキテクト」がいた

彼の例示する「物語=ナラティブ) / 「逸話的=アネクドートル)/ 「記述=リポート)という言葉の定義に限定され型に収まっていく「記憶」、その上部構造としての「精神」や「自己」という固定された観念。我々の個としての存在は、今この時に、独立して、単独に、点として「立地=場所)に存在することに意味があるのか。それとも個がその寄って立つ「立地=サイト)をフィールドとして、その活動し得る「空=間)の拡がりと他のフィールドとの関わりに意味があるのか。そしてその関わりを枠組みや固定観念を超えたところで感知し、知覚しつづけていくにはどのような方法と可能性があるのか。
我々の身体は知覚の媒体でありながら、精神というものが「逸話的に」紡ぎ出す「物語」を「記述」して「存在」を「記憶」に還元して規定してしまうーーとなれば、我々の身体を通じて受ける知覚には「既知」の要素が影響しているる。そして多くの場合、我々が建築と呼ぶものはその「既知」の要素を基にして形作られる。
荒川はそこに、建築の限界、さらに言えばその内部に置かれる人の「死」の姿を見ていた。
常に変わりゆく純粋な生命として、身体を持った有機体としての混じり気のない知覚が取り結ぶものとは何か。その先にはあらゆるものがその対象として見据えられる。メディアの横断という狭い捉え方はとうに超え、乳児の身体感覚から「退化して行く」我々の知覚の前に彼の生み出す装置は突きつけられてきた。これこそが生の源へと還る世界だと。

磯崎曰く、
「そして、あの地獄の崩落を見たのだった。
古風な言い方をすれば、無明の境地をさまよいはじめた。
美術はとっくに超えていた。
建築もやり過ごしてしまったのではないかと私は思った、、、
、、、そしてむかい合っていたのは宇宙。
もはや生命の存在を、昔ながらのやりかたで探るほかなかったのではないか。
だから私には、「アラカワの死」がきわめつきの作品のように思えるのだ。」

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先日Kathyさんのブログで紹介されているあるリサーチ・スタディのページに、インターラクティブ・インターフェイスのプロジェクトをデモするビデオクリップがある。これは感動的だ。ぜひ、このビデオクリップは見てほしい。

最近Apple Computerがタッチスクリーン式のコンピューターインターフェイスに関する特許をとったことが明るみに出て、ちまたでは次期Video iPodに装備されてiPodをタッチスクリーンで操作するようになるのではないか、あるいはPDAのPalm社を買収し、PDAの機能を搭載するのではともっぱら評判だ。
これと直接関係があるかは定かでないが、このニューヨーク大学の研究室ではスクリーンに映し出される映像や写真、あるいはプログラムや何らかの機器のグラフィカルな表示や操作インターフェイスに直接手で触れ、全ての指の動きを駆使して様々な操作を可能にするグラフィカル・インターラクティブ・インターフェイスの研究を行っている。

20060211231508 インターラクティブ・グラフィカル・インターフェイス

ディスプレイに触れることでシステムをナビゲートする方法は、銀行のATMなど現在かなりおなじみのものだ。しかし、パソコンのようにいくつもの汎用ソフトを扱う上ではまだ標準的でなく、そのため我々はまだかなり限られたインターフェイスを介して操作する。今やキーボードやマウス、トラックボール、もしくはタブレット、スタイラスなど、いろいろな操作デバイスが存在するが、革新的だった”マウス”の登場以来、そうした新しい操作デバイスは基本的にマウスの欠点を補うというものが大半で、デバイスそのものがパソコンそのものの操作体系を革新するようなことには至っていない。

今やおなじみのマウスも、Apple社がマウス操作を基本にしたオペレーティング・システムを一般化したことにより広まっていったが、それはマウスというデバイスが、オペレーティング・システムを介して直感的に、緊密に連携してパソコンの操作を可能にするインターフェイスとしてのわかりやすさ、簡潔さ、エレガンスがあったからだ。

それでも今日、汎用化したコンピューターは利用目的と方法が複雑になったために、しだいに直感的なインターフェイスではなくなってきているといえるかもしれない。まず、マウスを操作しても、あまり楽しくはなくなった。Appleのコンピューターに初めて触れたときの、あの楽しさ、ワクワク感は、残念ながらあまり感じられない気がする。(あれはOS 7だった)

今やパソコンで出来ることがあまりにも高度化し、実際に高度なデジタル情報を扱っているという感覚を持ちづらくなっている。先日のゲルハルト・リヒターに関してのエントリで「4096の色彩」という作品についてわずかながら書いてみたが、色彩という我々が持つ感覚について、逆にデジタルという概念(ここでは8ビットの色情報)が持ち込まれることによって、我々は色という概念に対して、また「見る」という行為について認識を深める機会を再び得たといえる。このプロジェクトの興味深い点は、デジタル情報というものの可視化についての再定義を行いながら、それを認識し、利用することの意味と可能性を追求している所だ。そしてさらに我々の体の一部を使い、ごく普通にジェスチャーとして日常用いる手の動作を直接、操作として反映できるインターフェイスであることで、直感的で、誰もが使え、楽しく、わかりやすいものになっている。
ぜひとも、実用化してほしい!(使ってみたい。。。)

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どちらも英和辞書を引くと”共感”という単語がまず目に入ってくる。

ただ”Sympathy”は一般的に”同情”という意味で使われることが多い。”共感”と”同情”という、二つの単語の意味の相違に、自我とその外部との関わりにおける重要な鍵が隠されている。いわば、全ての始まりとなるべき最も大切な鍵。

DSC03276 「見る」ということーEmpathyとSympathy

Sympathyにおいては、外界の事物・事象そのものの存在を受け止めた上での、自らの心象に自動的に発生した”鏡像”への受動的共感・同情である。それに対して、Empathyは外界に対し、自ら働きかけることによってそれら事物・事象を抽象化/認識/理解/再構成/構築というプロセスを通して自我に内在化させる。ここでの”共感”は、自我内部に自動的に発生したイメージに対してのものではなく、事象の内在化プロセスー自発的な自我の働きかけを指しているのだ。

DSC03277 「見る」ということーEmpathyとSympathy

建築においても写真においても、いやあらゆるものに対して、Empathyを持って外界に踏み出すこと、それが鍵になる。Existence–外への/スタンス/一歩。 全ては、そこから始まる。

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