— Delirious New York Diary

「Irma Vep」と「CLEAN」のマギー・チャン

「CLEAN」はマギー・チャンが「Irma Vep」以来再びオリヴィエ・アサヤスとコンビを組んだ最新作。マギー・チャンはこの作品でカンヌ映画祭主演女優賞を受賞した。ほかにニック・ノルティがすばらしい演技で映画を支えている。

Irma Vepにおいて、マギー・チャンは「有名女優」の映画撮影シーンを「演じて」いる。すでに映画撮影現場を映画化するという時点で虚構の世界をさらに虚実入り交じったあいまいなものへと変容させているのだが、「マギー・チャン」という女優としての存在そのものが、社会において認知される時には一人の人間という実体ではない「アイコン」としてのものであることを前提にこの映画はスタートしている。香港、アジアの映画界では名実共にトップであるはずの彼女が、ヨーロッパの撮影現場においてはまるで無名の扱いを受けるあたり、(その設定には無理があるにせよ)「有名」であるということがいかに作り上げられた虚像であるかをまずは浮き彫りにする。

スターの虚像をはぎ取られたマギー・チャンは、香港のスターではなく、一人の人間として実体を持つ対象に還元されている。(オリヴィエと彼女は当時恋愛関係にあり、その後結婚、離婚)しかし撮影が進むにつれ、Irma Vepを演じるマギー・チャンと、役柄であるIrma Vepの境界がしだいにあいまいになっていく。女優という実体を超えた存在が、自分ではない「役」になりきるということにどんな意味があるのかをオリヴィエは問うことで、一人の人間が実存するということと周囲がそれを認知するということのあいまいさ、脆弱さを浮き彫りにしていた。

「CLEAN」においても、マギー・チャンはロックスターの妻、自らもMTVのホストという社会においてはアイコン化された実体のないイメージを背負っている。その実彼らはドラッグにはまり、そのことで喧嘩の絶えないのが実際の姿だ。その限られた世界の中では、日常生活も、自らが生んだはずの子供ですら彼らにとって実体ではなかった。
しかし、彼女から多くのものが抜け落ち始める。有名人という虚像がはがれ落ちたとき、彼女に残ったのはドラッグ中毒である現在の荒んだ自分という実体と、自らが生んだ子供の存在だけだった。すがりついていた虚像を失い、現実と向き合う決心をして初めて彼女は実体としての、一人の人間としての存在として歩み始める。

インタビューにおいてマギー・チャンは、「この映画においては「演技」はしなかった。役になりきった上で、それが新しい自分となり、その自分を出しきることに努めた」と語っている。すばらしい演技で映画を支えるニック・ノルティーも同じことを言っていて、その意味でもこの映画が「映画」という虚構に「生きる」人間たちの存在を捉えたものであると言えなくはないだろう。映画という世界の中での現実。それが、見るものの現実と交差したとき、映画が虚構を超え我々に入り込むきっかけを創りだす。


追記:今度「Clean」が日本で公開されることになったようだ。(さるつながりから公開を知ったのだが)
この映画は多くの人に見てもらい、感じ、考えてもらうべき映画だと思う。お手伝いをかねて下記公式ホームページと予告編のリンクを。
公式ホームページ:
http://www.clean-movie.net/index.html
YouTube予告編
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=kQ_pUTk80WU

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