建築の停滞

建築の停滞という前回の話は、「建築」をアーバニズム、いわゆる建築による都市的開発の中に据えて見た内容だ。そこには都市部の公共整備開発だけでなく、開発の影響としての都市近郊の宅地開発なども含まれるため、今も継続的に開発が続いているところも少なくないので一概に全体が停滞している、とは言い難い点はここでは留め置く。

建築はその経済規模の大きさや公共に与える影響の大きさから社会情勢を最も如実に反映する要素の一つであり、そうである以上、建築に求められるものにはその当時の社会情勢が大きく反映される。そのような社会の要請は、建築の歴史そのものよりも、その国の地政学的な歴史とその時々の社会情勢を振り返った方がわかりやすい。大まかに言えば、日本は太平洋戦争敗戦を一つの境として、経済復興に邁進した1950年代以降に都市部の再建と新規開発が進み、大きな進展を見せた。 この時代に建築に求められたものは非常に大きく、社会発展と輝かしい未来を目指す中で新しい建築のイメージは非常に有用だった。そんな中で1970年には大阪万博が開催され、日本の国内外からまさに近未来の象徴として多大な関心が寄せられたと聞く。

大阪万博 70′ の中央会場である「お祭り広場」には岡本太郎の「太陽の塔」がそびえる。広場を覆う大屋根は総合プロデューサーを務めた丹下健三が設計し、磯崎新らが設計に参加している。なお大阪万博の入場者数は6422万人。国民の半数が訪れた計算になる。Photo: nippon.com

ひるがえって、今年開催予定のEXPO 2025 大阪・関西万博はどうなっているか?テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」を謳っている。しかし聞こえてくるのはどうもネガティブなイメージばかりである。工事の遅れなどはともかく、埋立立地や会場の木製リングなど、建築要素に対する社会の「攻撃的な批判」が今も続く。これは2020年東京オリンピック開催時にも同様のことが起こっていた。1964年開催の東京オリンピックとは全く対照的な反応が日本の幅広い層から巻き起こった。

ザハ・ハディド国立競技場案。上がコンペ勝利案(Webサイト掲載イメージ)、下がコンペプレゼンテーション時の修正案。都市機能との連続よりも、敷地範囲内に収まるよう改変されている。

その象徴的な出来事と言えば、ザハ・ハディドによる国立競技場設計案の廃棄とコンペやり直し、という建築にまつわる事件である。それ以前に、国立競技場建て替えについてもその是非を問う声が非常に大きかった。設計案の良し悪しはここでは置くとして、なぜ今日本社会はここまで大規模建築開発に対して批判的なのだろうか?

建築家 藤本壮介による設計監修の万博会場リング。 会期後に解体される木造リングの総工費は344億円と伝えられる。リサイクル可能な木材は1/4と聞くと暗澹たる気持ちになる。Photo: 大阪関西万博ホームページ

日本の高度成長期において、現代社会が求める「都市としての機能」を大量に必要としたことは紛れもない事実だ。そしてそれまで存在しなかったような大規模公共施設から市区町村ごとの役場施設、体育館や図書館、交通インフラや生活インフラ、宅地開発に至るまで、日本は非常に短期間でそれらを整備していった。もちろん明治・大正、さらには江戸時代以前に整備された日本の社会インフラが役に立たないものだったと言うには日本の社会は相当成熟していたと言えるのだが、高度成長期の社会・都市基盤の開発スピードと品質向上は凄まじかった。実際に世界を旅してみれば見えてくるのだが、ここまで整備された国は世界でも本当に限られる。

当時の建築に対する社会的要請が非常に強かったことは想像に難くない。都市開発の途上において強く求められるテーマをあげるとすれば、未来への「先進性」人々の希望を受け止める「象徴性」実現の「スピード感」実社会における「機能性品質」があるだろう。これらを戦後日本は有能で献身的な建築家と、大手から中小まで広大な裾野を持つゼネコンの力で成し遂げた。海外に行けばこの点において日本は別格だとわかる。

建築に携わったことのある人間として、現在の日本の都市や社会インフラを含めた全国の建築全てが優れている、などとは言わない。しかし、成し遂げられたものの大きさにも深く頭の下がる思いがする。そうした感想は多くの人に共感してもらえると思うのだが、そうであるが故に「もう十分」という感想が口を付くのもまた事実なのではないだろうか?昨今の環境意識やSDGsの機運の高まりもそんな中から生まれてきた。

建築家は先達による多大な知見を獲得してきたはずだ。職業人としての建築家はあるプロジェクトに対して「NO」ということは容易でないのかもしれない。しかし、大きな建築という枠組みの中から、そのプロジェクトの実現の是非について意見を述べることはできるだろう。昨今の建築に対する批判、ひいては建築家に対する批判のおおもとには、「経験値の高い建築家でありながら、なぜそのようなプロジェクトの是非について言及してこなかったのか」という気持ちが隠れているのではないだろうか。

原広司の「500Mx500Mx500M」Photo: 藤塚光政

日本社会は成熟期に、すでに相当早くから到達している。人口減少が始まった時点でその点にもっと注意を向けるべきだった。都市には新陳代謝が常に必要だと言うことはできるが、人々が共に「夢」見るようなものを都市や建築が提供し得ないほどに成熟してしまったのだ。海外の旅行者などはそれらを享受できるとして、若年層が年々急速に少なくなっていく日本において、そしてそんな若年層に経済縮小の皺寄せをモロに受けさせている社会において、都市や建築の魅力を説いて説得力を持ち得るはずがない。故郷にUターンしてまちづくりに貢献せよ、という上から目線の説教も、彼らが自分で選ぶなら話は別だが、真に心に響くことはない。

先日建築家の原広司が亡くなった。個人的に大きな影響を受けたと言える建築家ではないのだが、母の実家である京都を訪れる際にあの巨大な駅ビルを利用すると、京都の南北への分断をいつも思い知らされる。思えばあの頃から日本の都市開発の斜陽は見え始めていたのか。 ただ彼は当時「地球外都市」という構想で月面基地の未来予測をしていた。また「500M×500M×500M」という、500メートル四方の立方体内にプラトン形態で構成された都市を構築する提案も、すでに見え始めていた都市開発の限界を前に、それを超えた近未来の象徴を生みだそうとしていたのかも知れない。

都市の成熟は、かつて開発があった以上必然である。しかし成熟の先には新陳代謝や再生もまた求められる。コロナ禍により一時進展したリモートワークは定着すれば大きな社会と都市の変革を生むだろう。AIなどの進化によっても我々の生活が変容する道筋は見えている。建築はこれにどのように応えていくのだろ?まだ手探りの提案しか見受けられないのが実際だが、若手建築家こそ自らの未来予想図としてそうした提案を積極的に成していくべきではないか。

新年明けて

新年最初の投稿に何をテーマにしようか少し考えたのだが、去年アートに本腰を入れて取り組むと決めた以上、自分のこれまでの活動から避けては通れない「建築」にまつわるものにした。
建築を学び始めた頃は実務というより概念上の建築とは何かを叩き込まれるわけだが、建築ではその場所の背後にある歴史や物理的状況、社会的・文化的文脈といったさまざまな要素をどのように建築に反映させていくか、個人としての判断や理解をどう公共的な、普遍的なものに昇華できるのか、という問いが常に求められるものだ。
ただこれはざっくりと言えば、の話であり、何処に重きを置いて設計をするかという点については、逆に社会が求める「建築家像」の変遷によっても大きく変わってくる。
そこに個人である「建築家」は翻弄される。スター建築家としてブランド化を目指すことが社会の要請の一つの方向性となったここ数十年の建築界では、設計手法の独自性やユニークさが求められてきた。そこに公共性や普遍性の面で矛盾を孕んでいたとしても、だ。
最近、建築家という職種の仕事に対して批判的なニュースを目にすることが多くなった。公共建築が「箱モノ」と呼ばれるようになって久しいが、ブランドとして売り込みやすいスター建築家を要請しておきながら、彼らが作り出したブランド品を今度は社会にとって過剰な余剰品であると断罪する。まあ、客観的に見ればどっちもどっちだと思うのだが、やはりこれは社会を牽引する象徴としての役割が建築から失われていることに起因するのだろう。今、建築は最も停滞している。
時代や社会が「建築」に活路を求める時はあった。ただ今はその時ではないのだろう。現実世界より「異世界」を求める今の若者文化を見ればそれは明らかだ。ならばいっそのこと、異世界の中の建築を目指す時なのかもしれない。いつか、現実世界の中にそうした建築が再び持ち込まれるよう時代が要請してくる時まで。

埋もれたものを、掬い上げる

銅版画を始める上で、まずはかつて自分が描いた絵や撮影した写真、ポートフォリオや箱の中にしまったままになっている自分のかけらを ”掬い上げ、再び磨いてやることからスタートしようと考えた。今後の活動を見据えた上で、これはぜひやらなくてはならない初歩だと思う。美術制作にずっと邁進してきたのならともかく、自分はずっとその手前で留まってきた。再始動するにあたってはやはり、このプロセスを経ることが必要不可欠だろう。

ポートフォリオの中身を引っ張り出して、最初に目についたのは6枚で1セットになるパステル画だった。

高校卒業後にアメリカ留学した際、そして大学卒業後に建築事務所に勤務して中央アジアに派遣された際、いずれの際にも日本に一時帰国した折には日本の「伝統的な」部分に目を向けがちな気がしていた。日本の外の世界と、日本の間にはどのような違いがあるのかに注目せずにはいられなかったからだ。これは意識的にそうしていたわけではなく、やはり海外在住時の日本への「渇き」のような感情に引きずられていたのだろう。

大学在学中、冬休みで帰国した際に「嬬恋宿」を訪れたことがある。当時はまだデジカメやスマホが存在せず、フィルムカメラで限られた数の写真を撮るのが普通だったため、数枚の写真を撮ったのみで帰宅した。しかし嬬恋の印象が非常に強かったため、帰宅後すぐに絵に描こうとしたのである。それも小さな画面に描くのではなく、できるだけ大きな画面に描き出したかった。大きな画面に描く技術や知識などがなかったため、画用紙6枚を並べて一気にパステルで描いてみた。その絵はそのままポートフォリオにしまったままになっていたのだが、今回これを引っ張り出し、写真を撮ってパソコン上で繋ぎ合わせ、加筆と調整を加えて一枚の絵に仕上げてみた。これをジークレー版画で仕上げたものが次の写真だ。

この絵を仕上げながら、不思議な高揚感を感じたのは事実である。ああ、やはり自分はこちらの方が合っている、と素直に感じられた。もしこれがもっと若い頃であったら、これを続けていくことの不安やら何やら余計なことを考えただろう。それがなかったことで、銅版画や絵画に関わることをあまり深く意識せずに決められた。その点は非常に良かったと思う。

これからは少しずつ出来上がったものを紹介していけたらと思う。

銅版画、始める

出雲旅行の道中、ずっと考えていたことに「今後どう生きるか」という、大きなテーマがある。翻訳という仕事の将来性が急速に見えなくなってきたことが主な理由ではあるものの、それ自体はこんなことを考え始めるきっかけに過ぎず、自分のやっていることに何か足りないものを長年感じ続けていたのだと、旅の中ではっきりと認めたことが大きい。

またレーザー加工機を導入して模型を作りながら、実際に手で作り出し、「物」として触れ、感じられるものにやはり強い力を感じたことも確かだ。デジタルデータ化された写真や音楽などに「足りない感」を感じるのに通じるものがある。アナログレコードを集め始めたのもそんな気がしてならないからだろう。


次に進む前にまずはこれまでの自分の総括をすべきだと考え、そこにレーザー加工機をなんとか活用できないかと考えていた中、「銅版画」の工程の一部にレーザー加工機を導入することを思いついた。

銅版画にはさまざまな技法があり、表現できるものもいろいろあるのだが、広く「銅版画」として知られている技法は「エッチング」である。これは、銅版にグランドと呼ばれる保護膜を塗り、これをニードルなどで引っ掻いて剥がした後腐食液に浸けることで、保護膜の剥がれた部分が腐食されて銅版に線が刻まれる。

最も古典的な銅版画は銅板に直接ニードルなどで線を「けがく」ドライポイントと呼ばれる手法だが、この彫り込まれた線にインクを詰め、圧力をかけて紙に刷るのがいわゆる「凹版画」である。

浮世絵などで用いられる木版画は木を削った部分にはインクが載らず、削らなかった部分にインクが載るいわゆる「凸版画」で、銅版画はこの逆にあたるものだ。

この一連の工程の中で、グランドをニードルで引っ掻いて削る部分をレーザー加工機で置き換えることを考えた。銅版に直接レーザーで線を刻み込むことも可能ではあるが、刻み込まれる線のコントロールなどを考えるとグランドを削り取り、エッチングを施す方が良い結果が得られる予感があった。実際、テストしてみると予想通りになった。エッチングの結果が思ったようにならなくても、ニードルを使って手を加えることもできる。そして何よりも、この方法だとニードルの線とは違い、原画の持つ線のニュアンスが再現される。

もちろん、このニードルの線による繊細な線も銅版画の魅力ではあるのだが、一般的に銅版画の世界では「原画の再現」という点に関して言えば少し欠点がある。銅版画では原画を銅版上に「写し取る」という工程が必要だからだ。

その後銅版画の工房に通い、技法を習いながら、版を準備して実際に刷り上げてみると、版画ならではの表現力に手応えを感じた。まずはこのエッチング技法で線画の銅版画制作を行い、抽象画などに面表現に適した「アクアチント」技法を、写真的表現には光の濃淡表現に適した「メゾチント」技法を用いて制作を進めていこうと考えている。写真そのものを版画化するにあたっては、「フォトグラビュール」という写真原板を用いる技法の応用で、原版に活版印刷で用いるフォトポリマーを利用する手法で凹版印刷を試みる予定だ。

まずはこれまで描いてきた絵や写真を版画の形で「掬い上げる」ことで原点を定め、そこから徐々に新しい表現へと拡げていければいい。何はともあれ一歩を踏み出すことにした。

初夏の旅 6. 旅における移動について

旅をする時の一番のテーマの一つは、「移動」にある。

現代人は国中に張り巡らされた公共交通機関を利用して、便利に、早く移動することができるようになった。自分がこれまで生きてきた中でも、新幹線の全国展開や新しい路線の開業など、いくつもの大きな変化を見てきた。しばらくすれば、リニア新幹線の開業も見られることだろう。

ただ今回の旅の移動中には、かつて人々が歩いて国々を巡り、旅をしたことに思いを馳せてみた。

旅の始まりとなった山形県にある山寺こと立石寺は、松尾芭蕉が奥州、北陸を巡って訪れた場所の中でも最も有名な場所の一つだ。「奥の細道」として残された彼の道行きは、芭蕉が150日もの時間をかけ、600里もの距離をほぼ徒歩で歩き通したというものである。

前回の山形旅行で訪れた立石寺

そんな長い行脚の道程があり、辿り着いた山寺ではあの1000段を超える石段を自ら登って、そうして初めてかの有名な「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句が生まれたのだと、今なら思う。この石段を登るだけでもかなり大変なものだ。

この有名な句は、随伴者の曾良が当初書き留めた際には「山寺や石にしみつく蝉の聲」というものだったという。

そして後には「さびしさや岩にしみ込む蝉の聲」という形を経て現在知られる形に落ち着く。

これらの表現の変化から想像されるのはこんな感じだ。

人の姿もまばらな山寺の急峻な岩場を登り、息の上がった自分がふと立ち止まって周りを見回した際に、白中夢のような感覚の中で時の流れが遠のいて行く。その刹那に蝉の声がこだましているかのような感覚を覚えたのではないだろうか。

芭蕉の句には、「一瞬、時間が止まったかのような、そしてその瞬間から悠久の時の流れに自らが溶け込んでいくような感覚」を詠んだのではないかと思えるものが多い。

今回の旅では羽黒山の山伏と話をする機会があり、その際に「自然の中で自分の霊性を通じて自然に対して祈りを捧げる」という言葉を聞いた。

修験道の厳しい修行は俗世の雑事を精神的にも肉体的にも払い除け、その状態の中で自然と相対した時に、自身が「どうあるのか」が重要であると彼は言う。そこから自然に生まれ出てきたのが、彼の言葉によれば「祈り」だった。そして、芭蕉にとってはそれが「俳句を詠む」という行為だったのだろうと想像してみる。

芭蕉が行脚して国を巡った時代に思いを馳せつつも、現代人である自分は今回の大部分の旅程を列車の中で過ごした。車窓を流れる景色を眺め、その変化や美しさに心を動かされながらも、常にその景色を眺めている自分を俯瞰しているような気持ちになる。移動しているのを実感しているからこそ、日常よりも時間の流れ、そしてその中に生きている自分に敏感に思いを巡らせるようになる。

今まで長い距離を移動する度に、いつもこのような感覚を覚えていたのを思い出すのだが、それは「ロードムービー」を観ながら感じる感覚にもちょっと似ている。

それは、大雑把に言えば旅を通じての「生まれ変わり」ということではないか。それは修験道の修行ほど厳しいものではないにせよ、芭蕉が長い行脚の末に見たもの、山伏が修行の先に目指す一つの到達地点にどこか通じるものがあるかもしれない。

初夏の旅 5. 島根・安来の足立美術館

朝から安来に向かう。お目当ては足立美術館の庭と横山大観である。

安来というと「ゲゲゲの鬼太郎」で知られる水木しげるを描いたNHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」を思い出すのだが、駅にも駅前にもそれを偲ばせるようなものは見当たらない。これについては少し寂しい気がしたが、駅舎は最近建て直されたのか、壮麗な木組構造の小屋組が天井を支えていて立派なものである。待ち時間が長いのだが、これを見ているとそんな時間もあっという間に過ぎる。

安来駅の駅舎の大屋根は木組

気を取りなおして足立美術館行きのバスに乗り込む。

足立美術館は21年間、日本庭園ランキング世界一なのだそうだ。先日の兼六園といい、日本庭園の姿を維持するには並々ならぬ努力と苦労があるのだろう。

この美術館は石庭の周りを回遊するように巡りながら、その間に展示室が配置された作りになっていて、庭のさまざまな部分を垣間見ながら、展示室で作品を鑑賞するという作りになっている。興味を引く要素が一点に集まるのではなく分散されていて、訪れた人を飽きさせない。

石庭には枯葉一つ落ちていない程に手入れされている。借景と呼べる山は背後にないものの、人工的に高低差を作ってなだらかな起伏と共に石で崖や滝の姿を描き出している。低木のこんもりとした刈り込みと、松などの枝振り、石の向きや配置も絶妙なバランスで庭に取り入れられている。

枝一つ、葉一つ落ちていない

「人の造りしもの」という印象は確かに強い。ただ写真や映像で見たこの庭の印象と、実際に体感して感じる空間の拡がりはやはり別物だ。奥行きを肌で感じて初めてわかる部分がこの庭にはある。というより、庭園というもの自体が体験を前提にして作り出されてきたものだと改めて実感する。別の季節に来れば、全く違う印象を得られるだろう。

横山大観のコレクションで知られる足立美術館だが、幽玄な絵画の中の自然へと誘い込み、惑わせるかのような大観の絵画を展示するこの美術館にとって、この庭園の要素は欠くことのできない要素になっている。大観が見たらどのように自身の絵に取り込んだだろうか、と考えざるを得ない。

展示されている絵画作品は大観の絵を含め、全体的に見ても少ないのだが、色々と発見のある体験ができた。その感想については別のところで詳しく書いてみようと思う。

初夏の旅 4. 松江〜松江城

出雲大社参拝は朝9時には終わってしまった。

ホテルのチェックインは午後なので、出雲市駅から足を伸ばして松江に向かう。

松江には小泉八雲記念館や、正岡子規の記念館など、訪ねてみたい場所がいくつもあるのだが、さすがに深夜バス行の翌日は体がキツいので、今回は欲張らずに「松江城」に絞ることにする。

出雲市駅からローカル線で宍道湖沿いを走る。山形から新潟への途中、日本海沿いの車窓も良かったが、湖沿いの水景はまた違う趣がある。敦賀から大阪への途上でも湖西線から琵琶湖の姿を眺めて心が洗われたが、初めての宍道湖も良い。どこか心が落ち着く。

松江城へはバスで向かうが、「島根県庁前」で降りるとすぐ隣にある。このエリアは安田臣や菊竹清訓の建物が集まっていてそちらにも目が行くのだが、そこは横目で見つつ、松江城へ向かう。

安田臣設計の島根県民会館
今回は脇役

とにかく、松江城の石垣にまずは圧倒される。すごい。そして美しい。

石垣の高さ、そして流れるような曲線に心を奪われる
大きな石の間に小さな石が組み合わさっている 

壮大な石垣の間を登って行くと見えてくる松山城の天守閣も良かった。姫路城や熊本城の方が大きく壮麗かもしれないが、この城はどこか落ち着く佇まいを持っている。建物のバランスがゆったりしているからだろうか。

天守は白より黒基調の姿をしている

松本城のようなスラリとした佇まいや、彦根城のようなこじんまりとした感じとも違う。何よりあの素晴らしい石垣を登った上にある廓の中に建っている姿がいい。八雲立つ巻雲の青空の下、黒い姿が映えるのである。

隣接する神社の狛犬も迫力ある姿

久しぶりに古い日本の建物に魅了された。それでは今日は出雲市駅に戻ってゆっくりとするとしよう。

初夏の旅 3. 出雲大社

前日夜中に大阪を出た夜行バスは、早朝6時に出雲市に着いた。駅前にポツンと立つすき家は24時間営業なのか、ありがたいことに営業しているので入ってみると、長距離トラックのドライバーたちで賑わっていた。この時期は日の出が早いので、ほとんど眠れなかった目には朝日が眩しい。

出雲市駅からは「バタ電」こと電鉄一畑線で出雲大社に向かう。始発電車に乗ってごとごと揺られながら30分程でノスタルジックな、出雲大社のイメージからは想像がつかない雰囲気を持つ出雲大社駅に着く。

電鉄一畑線の各車両

(現在、国鉄時代の出雲大社駅は改修中で見られないのが残念。こちらは壮観らしい)

出雲大社まで、まだ店なども開いていない参道を歩く。それでも朝早いが参拝者と思われる人がちらほら参道を歩いている。清々しい空気の中、出雲大社の最初の鳥居をくぐった。長い間、出雲大社は訪れてみたいと思っていたのだが実現出来ていなかった。それが今回、ようやく実現した。胸が高鳴る。

美しい屋根の並び 大伽藍が山を背景に朝日の下に連なっている

朝の日差しの中、参道脇には大きな木々が立ち並ぶ。最後の鳥居をくぐって中に入ると、拝殿の奥に本殿が拡がっているのが見える。

圧倒的な存在感の木々が立ち並ぶ
大きく流れるような屋根を戴く拝殿

その先に大社造の屋根が垣間見えた。本殿での参拝を終えてぐるりと周囲を巡りながら、本殿やその他の社殿を見上げて感嘆する。エネルギーをもらう。

本殿の大社造の大屋根が垣間見える
大屋根を支える構造もやはり寺院とは異なる 形而上的な建築美

本殿奥の素戔嗚尊を祀った社殿も良かった。山を背に凛としている。

素戔嗚尊を祀る社殿 山を背景に立つ姿は自然の一部というより自然を受けて立っているかのよう

まだ参拝者はほとんどおらず、神主や巫女たちが社殿の数々を清めている。そして神事を行なっているのか、拝殿の中からは雅楽が響いてくる。

そして、出雲大社の大国主命といえば因幡の白兎伝説が知られるが、そこかしこにこの物語を表す銅像や、さまざまな姿をした兎のかわいらしい像が置かれていて楽しい。神社でこういう気持ちにさせられるのは珍しいと思う。

白兎たち

出雲は日本酒発祥の地とある兎の像に書かれている。御神酒醸造の起源については「君の名は」でもあった通り、巫女が献上米を噛み砕いて発酵を促したのが始まり、との言い伝えがある。

酒造りうさ

ゆっくりと人前りしてくると次第に参拝者の数も増えてきたので、朝早く来てよかった。またそのうち、資料館などを見るためにももっとゆっくり来たいものである。

初夏の旅 2. 金沢〜21世紀美術館・兼六園

金沢へは初めて来た。なんだかんだと21世紀美術館も見ずにいたのだ。これは良くない。非常に。

金沢城址周辺の整然とした街並みの中に21世紀美術はある。

白い立体とガラスで構成され、自身の陰影や青空、緑の芝生とコントラストを成す

広く開けた薄緑の芝生の緩やかな起伏の中に、ガラスの青と白い立体が一体となってこの美術館はあった。写真を見たり図面を通じて想像していたより、しっかりとした輪郭を持っていたのに驚いた。もっと何かぼんやりとした印象を受けるものと思っていたからだ。夏の青空が広がっていたのも一因だろう。中に入ってもこの印象は変わらない。ディテールも抽象化や省略ではなく、作り込まれたものになっている。

屋内外周部は広い芝生の庭を見渡すことができ、光と共に緑色や空色が白い表面を彩る

残念ながら能登地震でこの建物も被害を受けて、展示室のほとんどは見ることができなかったが、主なエリアは歩き回ることができたので充分建物を堪能できた。

この現代建築を後にして向かったのは、ほぼ隣接している兼六園だ。金沢城の巨大な石垣を横目で見ながら登って行くと、街中よりも明らかに涼しい庭園が広がる。展望台からは街が一望できる。

ここでは拡がる枝を支え上げる支柱もまた、この庭木の一部を成している

そして、たくさんの庭師が整備活動を行なっているのに驚く。こうしてこの庭は美しい姿を長い時間をかけて守ってきたのだのだと思うと、これが伝統を創り育てるのだと考えざるを得ない。

この小さな低木も、どれだけの時間と人手を経てきたのだろうか
地上に姿を現している木の根も、木が生きている証
素朴さをテーマとしながら繊細な佇まいを見せる庭園内の茶室

そういう大きな流れの中に、どうしたら自分も身を置くことができるだろうと思案してみる。

明日は敦賀経由で大阪へ向かい、夜行バスでいよいよ出雲へ向かう。

初夏の旅 1. 山形・羽黒山

台湾の友人の仕事の付き添いで山形の羽黒山へ。ある宿坊で年配の山伏の話を聞いた。
 
 
 

修験道では自然の直中で自身と自然の直の繋がりを体感することを目指すのだと言う。とかくわれわれは自分の存在について理屈を通じて「理解」しようと頭で考え、わかったつもりになりやすい。

まだ雪を山腹に抱く鳥海山

    羽黒山の山伏として80歳に近い現在も日本中を巡っているという彼いわく、修験道では頭で自分の在り方を考えることよりも、現代社会の生活の中では眠っていがちな、自然の一部としての人の存在を体感し直すことにあると言う。これを彼は人の持つ「霊性」を通じて、自然の中で「祈る」ことだと話していた。そして自然の中で日常を生きるという山伏の文化と伝統を自分の身体を通じて繋いでいるのだと。

彼の話を何か清々しい気持ちで聞いていた。旅の始まりとしては最高の出会いだろう。ローカル線の車窓から鳥海山の雄大な姿を拝する。

次の目的地、金沢へ。