— Delirious New York Diary

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Daily Thought

「おちゃらけ社会派」として色々なテーマで発信している、「ちきりん」さんのブログ「Chikirinの日記」をまとめ読みしている。「ちきりんをラベル(レッテル)で判断されないようにするには、全部読んでもらってそれで判断・理解してもらうしかない」ということなんである。面白いのでどんどん読める。

このところ世界中で起きている格差デモについて、何となく微妙な違和感を感じていた理由を、このブログのいくつかのエントリが明らかにしてくれた。

リーマン・ショックより2年前、2006年に書かれた「比較優位」のエントリ。

iPadを作るのはそれを使うことなど夢のまた夢である中国の月給2万に満たない労働層で、グローバリゼーションとは極端な話、「ほら君、がんばって働いて我々のハラを満たしてよね、俺は寝て待ってるぞ」と言っている図式でもある。「超傲慢」で、「付加価値の低い仕事は貧乏な国でやってくれ」って考え方なんだとちきりんさんは言う。その通り、でも我々はそれを見て見ぬふりして経済的恩恵を受け続ける

大学で経済学か貿易論の授業で、「比較優位」という概念に感動したという話。「各自、”自分の能力の中で、比較的、得意なこと”に専念して、みんなで分業するのがいいですよ」という理解をしたそう。そしてこれが、グローバリゼーションの中心概念であるわけだけれども、その概念は「全体としての合理性」(グローバリゼーションを牽引する側の言い分)であって、ちきりん流にいえば「他国に向かって、”あんたは鉄鉱石だけほってればいい”とか”キャベツだけ作っとれ”と命じている」のものなんじゃない?ということではないかと。

これに対し、世界中で高まりつつある「アンチ・グローバリゼーション」。「ちょっとくらい効率悪くたって、俺たちだって好きなことしたい!」と言い出した人たちがいて、それがアンチ・グローバリズムの本質だと、ちきりんさんは言うのである。ダボス会議の会場の外などでこの頃からこうしたデモはかなり大規模に行われていた。今世界中で起こっている経済格差への不満を示すデモについても、それほど違いがあるわけではないように感じる。「俺たちだって分前もらって、好きなことしたい!」ということだ。成長した環境の違いから、以前よりマテリアリスティックな要求につながっているかもしれないと考えると、余計に何だか微妙な気分にさせられるのである。

実際の所、グローバリゼーションの最前線である「Foxconn」とか、ウクライナやポーランドの地元農業事業者と巨大企業のぶつかり合いとか、そういうところから出てきた言葉ではない

ちきりんさんも、「こういうことを言い出すのは、現時点での経済成長の恩恵を受けている側の人」であることの皮肉を指摘している。これがこのデモ要求の限界だと。
そして、「今の段階で経済成長の恩恵を受けていない国の人が切実に望んでいることは、「人間らしい生活」などではなく「より経済的に豊かな生活」なんです。というか、そのふたつは同一の意味なんです」とも言っている。

次にもう一つ、2010年7月の「組織度(大)から個人度(大)へ」の記事。

これは「それぞれの時代には固有の”組織度レベル”がある」というもので、時代の移り変わりと共に、組織度が大きくなったり、個人度が大きくなったりを繰り返し、反復しているという分析だ。

その図を拝借した。(ありがとうございますーー自分の頭で作るのと、それをみて「おお」と単に紹介するのでは、決定的な差があるの、わかります)経済は社会と切っても切れないものであり、この図に経済成長の図を重ねるとより面白いかもしれない。(それはしないの?というツッコミはなしで)

とにかく、この反復するさまは、その振幅の傾きは別として、近代史以降は常に繰り返されてきたのではないだろうか。そう考えると、例えば「会社の寿命は50年」という見方もわかりやすくなる。必然的に個人度が大きくなった戦後、小さな個人が始めたホンダ、ソニー、松下が高度経済成長にのって巨大組織化し、しかしその経済成長が沸点に達した以降は、それまでの成長戦略と異なる新しい時代へのビジョンを描ききれず、対応しきれなくなっている。(「古い客・新しい客、古い会社・新しい会社」エントリがわかりやすく説明してくれている)
普通に考えれば、人口と世代年齢数は必ず反復する以上、一国の経済もまた、反復せざるを得ないのである。それを少しでも軽減し延命するための、先進国主導グローバリゼーション。。。


ここらへんで、自分が何を言いたいのかまとめてみる。

高度経済成長からバブルまでの日本と、バブル崩壊後の日本とを共に見た世代とは、上述の反復図に見られる、ある一つの上昇と下降振幅の転換点にいたことになるのだろう。ロスジェネは戦後の第二次ベビーブーマーであり、このことも社会経済があの反復図でよく表されていることを物語っている。

そして、世界経済は冷戦崩壊後にたがが外れてグローバル化したことによって、基本的に経済とは高きから低きに流れる奔流、言い換えれば格差がその強弱を現し、そこに反復を生み出してきたものであるという点に再び気づかせた。
そして今やほぼ全世界にこのシステムが張り巡らされた以上、格差の先にあった国もその波に乗って成長して来るし、それにより格差状況も変化することを今我々は目の当たりにしている。「Win-win」なんて寒気のするような、実は物凄く上から目線な態度が見え隠れする言葉をみんなが口にして、まるで皆が同じ手のひらにあるかのように何とか見せかけようとする。

どれだけ「先進国」であると信じ、経済発展前の人々に「キャベツだけ作っとれ」と言ったとしても、彼らもまた先進諸国が通り過ぎていった「豊かな”物的”生活」へのあこがれを強く抱き、かつ実現化する段階に来ている国もある。この「格差」というズレは、言ってみれば参加タイミングのズレに他ならないかもしれず、今や明らかに以前とはそのバランスが異なる。そうした成長を眺めてやれ「バブルだ」「質的生活が伴っていない」といくら遠吠えした所で、それは自らも通ってきた道である。そんなふうに裏で考えながら「win-win」なんて口にするのである。
経済格差を利用することで維持してきた自国の豊かな生活が今や急速にしぼみつつあり、それを維持するのに成長過程にある国の市場を潤し、気付いてみれば自分はそんな国の人よりも経済的・物的豊かさが低くなっていたーーーそんないら立ちへの反動が、「多民族主義の失敗」発言や「アンチ・グローバリゼーション」、そしてデモの動機には垣間見えるのである。それはそれでまたごく普通の反応であるとも思うが、自分にもやはりどこかこうしたいら立ちが心のなかにあることに気付いて神経を微妙に逆なでするのである。「我が身を振り返っている」かのような感覚なのだろう。

「現状のグローバリゼーション」の中で日本の存在感が薄れつつある、ことを本気で考えるのであれば、我々の生活が実際にどこまで本当の意味でより多くを経験した、先進的なものであるかを証明して見せなければならない。「グローバリゼーション」という、ここ数十年単位で見られた経済活動の次の時代を見据えることができるかどうか。(それが経済主導の国家戦略の終わりを告げるものなのかどうかはわからないが)
未曾有の被害を与えた今年の地震と、その後に続く原発事故の問題は、その意味で我々を強く試す試金石とも言える。グローバリゼーションの観点で見れば最も合理的で有利である「はずであった」原子力発電問題は、その影の大きさを見て見ぬふりをしてきた我々に今や覆いかぶさろうとしている。これは、ある意味で上述の反復図には通常現れない特殊な機会を我々日本人に与えた。それこそ人類存続の鍵を握る次の時代の鍵について、他のどの国よりも先に考える貴重な経験としなければならないものだ、と思うのである。

それでこそ、「先進国」などと自称するに足る国になるだろう。
いつから自分が「先進」していると考えるようになったのか、見直すことが第一歩かもしれない。

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