— Delirious New York Diary

Short film about killing-クシシュトフ・キシェロフスキー1



Kino Filmより最近立て続けにリリースされたクシシュトフ・キシェロフスキーのシリーズより。「Short film about killing」はテレビシリーズとして制作された「デカローグ」の一編を再編集して映画化したもの。撮影に、キシェロフスキーの後の作品「二人のベロニカ」、トリコロール三部作の「Blue」を手がけ、他に「ガタカ」、「ブラック・ホーク・ダウン」なども担当したSlawomir Idiak。彼のインタビューも特典として収録されているが、すばらしい映像を作り上げている。

ワルシャワで若い男が街をさまよっている。働くわけでもなく、情熱を持てるようなものもないかのようだ。ただその彼の目は周りを何かわだかまりを持った感情とともに常に見渡している。彼の心は自らの内に向けられることなく、その視線となって外に向かっていく。

国道を横切る歩道橋の上から、彼は下を走り去る車に石を落とす。国道を見下ろす彼をカメラは捉えながら、砕け散るガラスの音だけが聞こえてくる。笑みを浮かべ、彼は歩き去る。それは不特定の目標に、言い換えれば彼の外の世界すべてに向けられた乾いた衝動として描かれる。

当時のワルシャワー成熟していたかに見えた社会主義体制のもとで、大多数の人々、特に彼のような若い人間が、情動の向けどころのない乾いた抑制された社会に何かしらの隠れた不満やわだかまりを持っていたであろうことは想像できる。社会は空気のように、ほとんど見えない形で存在している。それは多くの人間の、生きることへの情熱を導くような物ではない。かつて社会主義が掲げた連帯と労働の勝利と喜びは、やがて薄れ、人々を駆り立て導く物ではなくなっていったのだ。多くの若い人間がごく平凡な標準を受け入れることで社会に順応していく中で、それができない人間は、感情や衝動の向かう矛先すら定められない。主人公の若い男は、パトロール中の警官をあの目で追い続ける。しかし、警官が去ってしまうと、その感情の矛先はまた行き場を失ってしまうのだ。

やがてその行き場のない衝動は殺意にまでたかぶっていく。若い男は一台のタクシーをひろい、郊外へ行くよう告げる。タクシーの運転手もその背景がわずかに語られるが、社会にとって可もなく不可もない存在の、少し嫌みのある中年男に過ぎない。やがて人のいない郊外へ至ったところで、若者は用意していたひもで運転手の首を絞め殺そうとする。動かなくなった運転手を引きずり出して川辺に運ぶが、意識を取り戻し殺さないよう懇願する運転手に石を振り落として殺す。

ここで、若い男は涙を流すのだ。殺人を犯すまでの黒々とした情動が、人を殺し、人が死ぬということを目の当たりにして初めて我にかえる。行き着いた先に何かがあったわけではなかった。絶望的にやり場のない袋小路に、また行き着いただけだと知ったからだろうか。

やがてシーンが変わり、法廷に舞台は移る。若い男は逮捕され、裁判を受ける。担当弁護士は、正義心の情熱に燃える若い新人だが、努力のかいもなく若い男は死刑を求刑される。ここで、「殺人」は若い男の犯したものから、影を潜めていた社会、国家、体制のものに入れ替わる。正義心の砕けた弁護士が若い男の独白を聞くが、若い男の不幸な生い立ちとなった妹の死が、彼に渦巻いていた黒い衝動のきっかけとなったことを明るみにする。それ自体は見る者の感情を揺さぶるが、それ以上に若い男が多くの人間と変わらない、その中の一人の小さな存在であることを語ることに意味があるように思えた。そして死刑の執行。運転手の殺害と同じように、克明にその様子が描かれることで、それが「殺人」であり彼が被害者であることを強烈に示唆する。

この映画が「国営放送」で一般に放送されたことが何より日本人としては衝撃的だ。ドラマとしての質の高さもさることながら、そのテーマの底には体制に対する批判も少なからず含まれているからだ。人間の本質に迫る、そうすることを求め、可能にする土壌。東欧国家の奥の深さを感じさせる。

あの若者の黒い情動は、現在の日本人の多くにも渦巻いている。本当の人間性はどこに求められるのか。今の日本を見るに、そんなことを考えずにはいられない。

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