— Delirious New York Diary

Thin Red Line~シン・レッド・ライン

“what’s this war in the heart of nature?”

このモノローグとともにこの映画は始まる。映画は太平洋戦争中期、ガダルカナル島における日本軍とアメリカ軍な激烈な戦いをもとに描かれるのだが、冒頭のシーンではまるで戦争とは無縁のような、何千年も繰り返されてきたであろう原住民たちの姿が豊かな自然を背景に映し出される。
青く透明な海が照りつける南国の太陽に輝き、白い砂浜と、豊かな森の中で原住民たちが暮らしている。その中に、アメリカ兵らしい二人の若い白人が混じり、原住民らと拙いながらも心を通わせている雰囲気をうかがわせる。そんな中で、そのアメリカ兵がつぶやく。“what’s this war in the heart of nature?”

このアメリカ兵ウィットは大いなる自然と、その中に生きる原住民たちの暮らしとに完全な調和を見いだしている。生の源たる、優しくそして恐ろしい自然と、ごく当然の摂理として身近に存在する生と死。それらを、彼らは彼らなりの方法で真摯に受け止め、対峙している。
その自然の摂理の外側で繰り広げられる戦争という人間の行為に、ウィットは意味を見いだすことはできない。降り注ぐ木漏れ日の中に、彼は桃源郷の白中夢を見ようとしているのだ。原住民たちとのふれ合いが、つかの間であるとはいえ彼の求めているものと重なる。そこに、彼を戦争の現実に引き戻すアメリカの軍艦が現れる。

ウィットの上官であるウェルシュ(ショーン・ペン)は歴戦の末、数々の修羅場を目のあたりにし、それをくぐり抜けてきた。生き残る確率を増すには、戦闘するマシーンにならなくてはならないと頭では理解しているし、戦場で生き抜いてきた経験は彼をより戦闘マシーンに近づけていった。
そんな彼の目に、ウィットは他の者と違った存在に映る。生き延びるためには、彼の考える戦争という現実=”見ず知らずの敵を殺す戦闘”、そして”調和を乱す部外者を拒絶する自然”との戦いを繰り返さざるを得ない。その戦いの中で、彼のまわりの人間は傷つき、命を落としていく。しかしウェルシュは、果てしなく続く戦闘の中で生き延び続けることによって、傷つき失われる命を機械のように無感覚に受け入れるようになってしまうことを恐れているのだ。実際、死んだ僚友を目にして「何も感じなくなった」とつぶやく別の兵隊の言葉に動揺する。だから、ウィットが”戦闘の現実”を超えたところに生と死の問題を見いだし問いかけているところに惹かれ、そこに彼自身の現実の手がかりを見つけようとする。

中隊を指揮するスターロスは、強固な反撃の中突撃を命令する上官トールに逆らう。次々と部下が命を落とす中、彼は神に問いかけ、答えを示すよう求めるが、それに対する確たる啓示はなかった。しかし、繰り返される戦闘の中”問いかけることそのもの”が、生への希求として、あるいは自らが、そして彼の率いる部隊が生き、(生き残っている)存在していることの意義を確かめるための行為として語られる。戦争に身を置いたことによって、死は彼にとって喪失を意味するようになった。

ベル二等兵は、残してきた若い妻と過ごした日々を次々と回想する。戦闘が激しければ激しいほど、その回想はノスタルジックに美しく昇華され、詩的なものになっていく。その”詩的な”ものは、スターロスと同じように、生への希求そのものなのかもしれない。彼も自問する。”戦争を終え彼女のものへ戻ることができたとき、自分は元の自分に戻りたい。しかし戻れるだろうか?” と。彼の回想が美しければ美しいほど、それは失われたものであることを意味し、元の彼には戻れないであろうことを示唆する。戦争はベルにとって、自分を根本から変えてしまったものとして彼の現実となる。
この映画は、いわゆる戦争映画、反戦映画といったものとは異なるように思う。大学で哲学を教え、ジャーナリストとして雑誌等に寄稿していた監督のテレンス・マリックは、映画という手法を用いて彼の表現したいものをいかに見る者にとって意味のあるものにするかを求めていると言えるのではないか。
同時期公開された「Saving Private Ryan」では、リアリスティック=(リアルではない)に戦闘シーンを描き、かつセンチメンタルなストーリーの帰結によって戦争があったという事実を感情に訴えることで後世の人々に伝えようとした。しかし、「Thin Red Line」のテーマは、我々人間が何かに対峙することによって初めて何かを認識しようとし、それを現実として捉えるということを示すことだったように思えるのだ。歴史においては事実として存在する「戦争」というものに対し、後世に生きる戦争を経験していない我々はどう対峙するのだろうか。戦争の酷さに対する感情は、戦争をしてはならないという理性を育てるかもしれない。しかしそれはあまりに楽観的なあいまいなものでもある。

「Thin Red Line」におけるさまざまな登場人物のさまざまなモノローグ、自然の摂理の内側に生きる原住民の自然との関わりと暮らし、光、透明な水、豊かな森ーーこれらすべてが詩的に語られ、我々見るものは映画というメディアを通してそれを詩的に捉えるすべを与えられる。”詩的”とは個人個人の、感覚を通した”世界”の認識のプロセスであるとするならば、「Thin Red Line」のテーマがもたらす詩的なイメージは今を生きる我々にも強く提示されて受け止められ、その意味について個々に対峙する機会を与える。そうして認識されたものは感情のみで一時的にあおられたものより、強く我々を突き動かすのではないだろうか。

戦後60年の節目である今年、戦争を経験として知る人は年々少なくなってきている。そんな中、我々は戦争を現実として捉えるすべをあまりにも知らないし、全ての人間を巻き込んだ出来事であったことを忘れ、一面的な見方で強引に捉えようとする態度を強くしている。その結果が靖国参拝問題であり、昨今みられる感情に訴えることのみに注力した戦争アクション映画である。センチメンタルな感情によるメッセージは、一時的なものしか生み出さない。我々の中の何か大きなものが失われてしまっているのではないかという問いを、「Thin Red Line」という映画は呼び起こす。

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