— Delirious New York Diary

吉村順三建築展

帰国中のためいくつかの展覧会などを見て回ることができた。まず印象に残っているもののうち、建築家吉村順三の回顧展についてまずは書こうと思う。

1908年生まれの吉村順三は、アメリカ、ペンシルバニア州ニュー・ホープで建築を学び、1931年から10年間、建築家アントニン・レーモンドの事務所で働いた。(レーモンドは建築家フランク・ロイド・ライトの弟子であり、吉村はいわばライトの孫弟子にあたるが、レーモンドはライトのフロアプラン手法を取り入れつつも、当時ヨーロッパで影響力を持っていたバウハウスの影響が強く見られる。当時上野の東京文化ホールの設計者前川國男も同じ事務所に在籍していた。現在、東京ステーションギャラリーで前川國男展<http://www.maekawa-assoc.co.jp/100th/>が開催中)ニューヨークにあるジャパン・ソサエティの建物や、MoMAの中庭に展示用に建てられた日本伝統建築、そしてロックフェラーの別邸などのアメリカでの作品群は、そうした日本とアメリカのつながりを示す優れた作品群である。強いモダニズムの影響を受けながら、そこに日本の伝統建築から学び取った建築性をも盛り込みながら、単なる西洋近代建築の焼き直しではない吉村独自のモダニズム建築を生み出し、また西洋にも自らの建築を通して実態を伴った日本の伝統や分化を伝える上で少なからぬ影響を与えてきたことが見て取れる。

ーー日本国内において、建築史の流れの中で伝統建築の意義や重要性が見直されるようになったのはそう昔のことではないとされる。ドイツの建築家ブルーノ・タウトが桂離宮や伊勢神宮を日本文化に根差した伝統建築としてその著作「ニッポン」で再紹介したことをきっかけに、一般にもこれらの伝統建築が広く知られ、見直されるようになったことはよく知られている。ではなぜ、ヨーロッパ近代建築の薫陶を受けつつあったタウトが日本の古い伝統建築に強い関心を示していったのだろうか?

建築におけるモダニズムが、近代に沿った新しい言語の確立と文化のゆりかごとなるべき新たなものを目指していたことは確かだ。そうした新興運動がしだいに外部や周辺へと波及していく中で、土地や文化の違いの上で様々に受け止められ、その文化/土地に根差した活動を生み出していった。北欧フィンランドの建築家、アルヴァー・アールトの目指した、風土や文化環境に即したヴァナキュラーな建築などは、機能主義の名の下に剥奪されていった、自然と人間の暮らしのつながりという、時に厳しく時に緩やかな関係から生まれる”共生生活”に重点をおいた、そうした点の先に見える素朴さや暖かさの重要性に建築のあり方を模索し、近代建築ムーブメントにおいても大きな支持を得るに至る。そして、実はここに古来より日本の伝統建築の、そして吉村の求めた足場を見いだすことができるように思うのだ。

ブルーノ・タウトは、ヨーロッパでモダニズムが興り始めた頃の巨大な渦の中で、そうした新たな社会と文化への憧憬の中に一つの形として日本の伝統建築を見いだしていったように思う。より深く充実した文化の創成が自然の「獲得」ではなく「調和」を通して成され、物質としてではなく、文化と暮らしに静かに満たされた空間としての日本の建築は、一つの理想型として、タウトの目に映ったのかもしれない。
では、実際に「建築」という言語を通してみた時、そうした日本の建築はどのように成立しているのか。また吉村は、伝統建築に何を見いだし、現代に即した建築へと昇華させていったのか。

展覧会の図録の冒頭、吉村の言葉が記されている。

「日本建築を学ぶなら、数寄屋から入っちゃいけません。まず書院を勉強しなさい」
この時同時に、彼が以前語っていた言葉の中に建築を見る上でのポーシェの重要性を述べたものがあったことを思い出した。ポーシェ:ーー建築の肉体、というべきものーーについては以前「西洋建築史再考」でも軽く触れたが、ルネッサンス期の建築家アルベルティが追求した、「建築の肉体性」への問いを表記するとき用いた方法は、平面図で建物を水平に切った場合に壁=建築部分が黒、空洞=空間部分が白で表される「地と図」の関係を表す表象方法だった。建築が単なるパーツ、すなわち古典様式要素の集合体ではなく、肉体としての、あるいは空間を現出させるため手法であるという根本的な問いかけに建築の根源を問いただそうとするものだ。

日本の伝統建築は、「書院造」をもとに形作られてきたとされる。現在も和室の基本要素として残っている、書院(元は読書のための作り付け机のような空間で、採光のために壁面を押し出して出窓とし、障子窓の下に平になった部分)書物や筆記具を収納する違い棚、床の間(これも部屋の空間の一部を小さく囲い込み、季節の物を飾り付ける空間)などが一般にも浸透している。こうした空間要素がしだいに形式化され「もどく=コピーする」ことで伝統的な日本建築空間が再現され一般化されていった。
もともと書院造りの本質は、空間における機能性を高めるためにーー例えば採光のため壁面を押し出してみたり、あるいは雨よけのためにせり出した軒の下で室内とは異質の回廊や縁側、月見台を水平方向に延長してみたりーーといった空間を変容させる操作が行われており、そうして生まれた独特の空間が住まう人の日常生活への要請と、また周辺の自然との緩やかで、しかし確かなつながりを建築と生活を通して確立していた点にある。そしてそれは北欧のヴァナキュラーなモダニズム建築などの目指した建築のあり方に強く通じるものがある故に、タウトのような鋭い視野を持った建築家に日本の伝統建築は見いだされ、モダニズムの目指す一方向として学ばれることになったのかもしれない。


俵屋 京都市中京区 1965. 幾重にも重なる建物の要素が、様々なレベルの透明度や素材の違いを持ち、それによっていろいろな機能を組み合わせによって変えながら、室内空間と外部空間を非常に深みをもったグラデーションでつなぐ

視覚による透明性の違いが、空間構成の違いをも体現するーリテラルで、かつフェノメナルな透明性

南台の自邸 1957 音楽室. 限られた壁面空間を押し出しによって操作し、機能的にかつ均整のとれた空間を生み出している

一方で、日本の伝統建築のそうした形式化した空間要素の「空間」ではなくそのディテールに注目し、モノ作りの妙と趣味嗜好の追求に重点を置いた和風建築=数寄屋の流れが、特に千利休による茶室の完成とともに次第に主流となっていった。(数寄屋とは「好き屋」が当て字によって変化したもの、とも言われている)自然素材を用いた職人的手工芸は次第に洗練を極め、建築空間を成立させる書院造の本来の目的から、プロダクトとして現前する物質性に注目が移っていく。そのため数寄屋では伝統建築を通して生み出されて来た室内/室外の様々な要素を個々のパーツとして見なし、それらを型として、その形式や様式のあり方を問うことはあえてせずに、それら要素のディテールの追求を旨とした。具体的には素材や、壁面を区切り、装飾する2次元的なコンポジション要素としての窓、その桟、指物、土壁と柱のコントラスト、etc.を操作しながら内部空間をそれら完成品の物質性で満たし、いわば装飾物として住まう人を精神的/感覚的に充溢させるために数寄屋の洗練が追求された。もちろんその素材の吟味や趣味追求、あるいは結果として伝統建築の様式のもたらす周囲自然環境の屋内空間への影響といったものに(侘び寂びの世界、あるいは谷崎潤一郎の語る「陰影礼攅」の妙、そして日本の自然素材を工芸に昇華させる職人技の本質)当時の人々の自然への強い関わりを見いだすことができるが、今日の視点に立ってみれば、数寄屋自身の本質は、現代の美術館の(無色透明な)インテリア空間のように、インテリアを満たす物質的要素と建築空間そのもののが分離独立し始め、双方が一人歩きを始めたと言えなくもない。

現在、「ポーシェ」の意味するところの、壁あるいは床スラブ、柱、etc.の本質的な問いかけがなされぬまま、無化された直線や無機質な平面/率面図がそのまま立ち上がり、実存する建築として物質性や肉体性を持つというより、抽象化された記号として個々の要素が空間に現出したという建造物が増えつつある。もちろん、そうすることは技術の進歩とともに記号は記号に近いまま実現可能となり、現実的要求による建築要素を隠蔽しながら虚の肉体性を獲得している。(ミースの求めた抽象空間のように、エントロピーの彼方に散逸霧散することを究極とするのと差こそはあれ似た方向性を持っているとは言える)
しかし現在、果たしてそれら建造物は建築の意義を、また空間を生み出し、空間に物質として存在し、肉体として我々に対峙し包容する力を持った存在として実存し得るのか。吉村の残した日本の近代建築の先駆けたる作品群を目にしながら、そのような疑問を抱かずにはいられなかった。


 (クリックで拡大) 軽井沢の山荘 1962. コンクリートの基礎によって住空間を中空に持ち上げ、軽井沢の高湿の気候に対応しながら、二階部分は木造により軽くより大きな空間と、森の木々の間に存在するつながりを保つ。北欧モダニズムのバナキュラーな建築と呼応しながらも、日本伝統建築の要素を取り入れ、この地に存在する建造物としての意義を主張する。

(クリックで拡大) 左:東面立面図. 右:南面立面. コンクリートの基礎部分がキャンティレバーで水平方向に張り出し、二階部分より上を持ち上げている。基礎部分も、異なった大きさの四角面が重なり合いながら開口部となり、グラデーションと視覚透明性によって単純な面ではなく立体的な奥行きを持った立面として立ち上がる。


立面断面図. コンクリートの基礎部分、キャンティレバーの張り出し、二階部分を強調してみた。その張り出したキャンティレバー部分(さらに軒のような木造構造がわずかに外側に張り出し、メインスペースと地続きのバルコニーになる)とコンクリート基礎の壁面、そこにうがたれた出入りのための玄関、そしてその隣の地面に設けられた月見台は、このコの字型のピロティのようなスペースを、たんに外部へと分離し独立したスペースではなく、日本伝統建築に見られるような外部/自然との緩やかな関係、幾重ものグラデーションを持ったバッファーゾーンとして機能させている

(クリックで拡大) 単に自然環境の中に立つ建物だから木造である、というのではなく、コンクリートと木造の組み合わせが構造としても優れていることに着目し、後に都市部でもこの方法を用いていくつか住宅を設計している。インテリアスペースにも「書院造」の空間的な捉え方ーー面を押し出したり引いたりすることによって生み出される空間要素ーーによってスペースが組み立てられている。壁面や床面の幾何学的なコンポジションのみに執着していない点に着目

吉村は「書院造」の、インテリア空間としてだけでなく外部環境とも通じ、かつ状況に応じてコントロールし得る、「変容する空間性」に日本近代建築の進むべき方向を見ていたように感じるのだ。それは建築の肉体性を体現する「ポーシェ」が、様々な様式や建築言語、テクトニックを伴いながら変化し、さらに日本の伝統建築の要素(例えばふすまや鎧戸、雨戸、障子戸などの流動性を持ち、かつ様々な透明度を持った壁面)を用いることで外部と内部の様々なつながり関係を獲得する。果たして、吉村建築に多く見られる特徴として、壁面は単なる柱の間に打ち付けられた板の集合体ではなく、時に非常に厚みを持ち、そこに様々な機能性を内包させた、故に建築の肉体に昇華された要素となる。さりげなく、しかししなやかで明快な吉村の「建築をする」軌跡の結実。明確に現れたこうした思考の軌跡は、吉村独自の、そして建物の存在する環境と状況独自の生み出したものであり、それを目の当たりにした多くの人々を魅了するゆえんだろう。


田園調布の家 1971. 手前の閉じ切り窓の壁厚と、その奥の開放可能な窓部分の壁厚と外壁面の押し出し度合いの違いが機能の違いを表している

(クリックで拡大) NCRビル 東京港区 1976. 吉村は「床スラブを重ね上げて、外壁はカーテンのように薄く張りボテのカーテンウォール」といった既存のビルに対する考え方を飛び越え、近代ビルに厚みと実体を持った”肉体としての外壁”ーー「ポーシェ」の概念ーーを持ち込んでいる。外壁に厚みを持たせ、それを二重のスキンに翻訳して、その内部空間では空気を自然循環させ、冬場の保温、(空気層による断熱)夏場の空冷(対流空気の上昇による対流と冷却効果)といった、環境コントロール機能を持ったインテリジェントな壁面へと昇華させていった。こうした’機能する壁、建物の肉体としての厚み’は吉村の住宅設計のテーマにも取り入れられ、断熱材などのなかった時代にも、石や砂などの自然素材を充填して保温、防湿、防音などを追求していた

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