— Delirious New York Diary

続・森山邸〜SANAA 西沢立衛による集合住宅

先日の伊東豊雄講演会の感想では、彼が感じているらしい西沢立衛による「森山邸」に対する何らかの距離感について、自分が感じている所と重ねて話を展開したために、少し感情的になりほとんど「森山邸」に対する批判と疑問に終始してしまった。ただ話を伊東の語った「感覚」と「社会性」にほぼ限定したために、建築的な解釈はごくわずかにとどまっている。勢いに任せて、今回はその角度からの検証もしてみたい。

まずはリンク先「森山邸」でプランや、QuickTime VRによる360° viewで雰囲気をつかんでいただければわかりやすいかと思う。

森山邸の存在させるための操作として、周辺住宅地における図と地の関係を用地内において断つための常套手段ーー白紙化、いわゆる<タブラ・ラサ>が行われる。そんな命名は別にどうでもいいことのように思われるが、この行為の持つ重要性とここから始まる用地の特異化の始点としての意義を留めるために、あえて一般的な呼び名を呼び起こしておく。なぜならば<タブラ・ラサ>とは建築家にとって、諸刃の剣ともいえる呪文だからだ。<建築><タブラ・ラサ>といった抽象化の文言によって、周囲との圧倒的齟齬をも白紙化し、その存在理由を肯定できる。

まず、2次元のグリッドが用地に重ねられ、その特異性によって周辺との切断と領域化<territorialisation>がなされる。この時点で用地は自らの操作対象としての領域に近付けられ、あるいは同化する。これを建築家は抽象化と呼ぶことが多いようだ。西沢やSANAAのプロジェクトにおいてこの行為が大前提となることは、彼らがプランに固執することを見れば明らかだ。
これは重要なポイントだ。その行為は建築/建築家にとって、非常に大きな責任を伴うものであることは、最低限認識されねばならないからだ。異化し、特異な異空間を結果的に現出させることの、宣言でもあり引責の責務を負うことの自覚なしに、用地の操作領域化がなされることはできないのだから。しかし彼の説明には、そうすることの動機が見当たらない。完成後の至極一般解的で ”一見素朴と見える” 利用イメージを語る中に、この最も強烈な操作を始点とし、建築を発動させていることはまったく見えてこないし、抜け落ちている。

ーーー 一時そのことは脇におこう。
集合住宅ということで、高さ状況が個別住宅よりも強く意識される。数階層に重ねる必要があるためだ。よってこの時同時に、SANAAの作品では要素の薄い高さ軸への注意が必要となり、敷地に対する3次元のデカルト空間もが想起されることになる。もし西沢が周辺環境に言及するのであれば、このデカルト・グリッドのマトリクスが、周辺環境を参照し、建造物やボイドのスケールやボリュームを規定するよう定義した、というのが彼の論点なのだろう。2次元と3次元のグリッドによる領域の規定から、そうしたネガティブとポジティブのボリューム化が特異空間化された中で成されていく。実際の所、あまり周辺環境との連関性は見受けられない。それは、住宅設計のプレゼンテーション全体からも明らかだ。建築は、特異なものであるという前提がどこかにある。


SANAA, 金沢21世紀美術館. プロジェクト生成プロセスに関して言えば、同じSANAAの「金沢21世紀美術館」と森山邸は非常に似ている。金沢が周辺と緑地によるバッファーゾーンと、丸い平屋根と局面ガラスによる薄い皮膜/スキンを持って周囲との緩やかなつながりや切断を現象化しているのに対し、森山邸はそれらが取り払われているプロダクトと見ることができる。「金沢」では美術館というパブリックなプログラムの関係上、都市あるいは自然という環境からの移行/逸脱が求められるためそうした手続きをとっているが、森山邸の場合、「住宅区」の「一角」がこの作品の成立のために「更地化」された時点で、「金沢」では要求されたそうした’手続き’としてのバッファーやさらなる保護皮膜(プログラムの高さを規定する丸い”落とし蓋”屋根や、周辺環境とのつながりを可視化する曲面の透明ガラス)を持ち込む必要性がなくなっているーーと西沢は見なしたのだろうか

住宅としてのプログラムを挿入するにあたり、西沢は新たな生活形態や生活プログラムによる住宅の変容については感覚的言及以上のことはしていないので、ごく一般的な住居プログラムを想定し、主に2次元グリッド上による領域内でのプログラムの分散によってボリュームのマスを決定し、その決定をもってボイドのボリュームが自動的に規定されているように思われる。その2次元領域における再領域化は、この住宅というプロジェクトに固有のプログラミングではあるとしても、そのコンセプトと成立プロセスは他の(公共建築を含めた)プロジェクトと大きく異なるものではない。またそうすることで、ボリュームとその境界たる建築の肉体部分がスキンあるいは膜という西沢の求める概念に落とし込むことができる。

そして個々のプログラムーー独立した居室、または共有のバスルーム、そうした個別化された一般的プログラムが、生成されたボリュームに挿入されていく。もちろんこれまでのプロセスで各ボリュームは各プログラムにある程度沿って生成されてきてはいるだろうし、またこの時点で、ボリュームの調整操作、またはボイドの調整操作が行われているかもしれない。形態に関しては操作がないというより、ボリュームそのものが形態であるという割り切りがあるようだ。たぶんここまでの一連の行為ーーボリュームの分散による、個別のプログラムの結果的な分散ーーに、その手法を選択する上での主張や意識的なものがないために、このプロジェクトは様々な論点が宙づりにされたまま残されている。その帰結すら、意図するものではないのかもしれないが、それがためにこの「住宅」は今までにないものという感覚ーー違和感や距離感という曖昧さの感覚ーーとともに感じられるのだろう。

そして、ボリューム内の個々のプログラムが、3次元デカルト・グリッド内におけるボイドに対して関係性を明らかにする操作として、ボリュームに開口部がもうけられる。居住空間の快適さ、周辺環境との兼ね合いなどという理由を基にした開口部ではないことは明白だ。開口部のリテラルな透明部は、内部空間とその機能性を映し出すファサードとしてのフェノメナルな透明性とは重なり合わない。シーンとしての、言い換えればカタログ的なモダンライフスタイルをフレーム/額装化し、ガラス平面に投影するメディアとなることで、こうした開口部の透明性は非常にフェノメナルな現代社会的な透明性をも獲得し得るわけだが、ここではそのプロセスが意図された行為/都市的戦略としてではなく、結果的に生成されたボイドとボリューム+プログラムとの相関関係を示すものとしてその境界<スキン>の上に立ち現れてきたものだと考えられる。それは、この(あるいは彼らの他の)プロジェクトにおいては、ボイドがボリュームに従属的な存在ではないことーースキンによって内包された空間、また一般的プログラムとしての生活空間というボリュームの実存的存在と、その実存を受け止めるバッファーとしてのボイドが対極的な関係にはないこと、またそこに主従の、あるいはプライベート/パブリックといった従来的なネガティブ/ポジティブ、もしくはパブリック/プライベートの関係を結ぶものではないことーーからも説明される。

この特異な領域内で、視線はついにボイドのリテラルな透明性をも、またリテラル+フェノメナルな透明性を両立させるガラス平面をも透過することなく、この領域内にとどまり続ける。伊東が語った、「人が建物の影やガラス開口にすっと現れ、すっと消える」かのような感覚は、そうした自らの視線の浮遊し続ける感覚と、また意図せずフレーム化され続ける(それゆえ逆にステレオティピカルな)都市居住者とその生活シーンの自動生成/再生から来る感覚と言えるかもしれない。<生の声は、聞こえない>


SANAAによる別の住宅作品<梅林の家>。ホワイトキューブと電信柱/電線が映るとなぜか非常に日本の都市風景らしく感じられる「ようになってきた」。(皮肉ではなく) どこか乾いた感覚と、白くテロんとした外観にも関わらず、主張しない、故に肩肘の張らない ”薄さ” が感じられるのは確かであり、また実際施工方法でも鉄板を壁面に用い薄さを追求している。その感覚はどちらかといえば空間的なものから来るのではなく、最近目にする機会の増えた日本の「郊外」の写真イメージーー色のサチュレーションが落とされ彩度の抜けていく、強い印象がすみずみまで廃された写真ーーを見たときの、感覚が茫洋と広がっていく日本の「90年代以降」都市独特の感覚を呼び起こすイメージから来るのかもしれない。その上で、「白い」のではなく、「脱色」されたようなこうしたホワイトキューブは、格好の被写体であるのだろう
西沢による「鎌倉の家」

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<朝日新聞山形ビル>上の住宅作品とよく似たオフィスビル。同じビルを別の角度から見たのかと錯覚する。プログラムやボリュームはもちろん異なるとしても、それを包み込むスキンは同じコンセプトのもとに作られている

こうした建築物とプログラムの生成プロセスを、都市的であると言えば、現在の社会背景が産み出した精神構造的に見てもそうであろう。冒頭で述べた、社会的/物理的軽さは、人的存在の軽さという所にいやがおうにもたどり着くし、また実際、そうした帰結を追求も否定をもしないことによって、結果的に社会的/物理的軽さ追求の肯定をしていることになる。それを、現在社会状況の反映だということもできるし、モダニズム的主張に対する(結果的な)アンチテーゼともいえる。

言ってしまうと、建築言語や観念的な見方をとれば、森山邸は非常に簡潔だ。プログラム性とその社会的な意味合いがはっきりされていないだけのことだ。そしてその完成物については、解釈をしやすい、しずらいうんぬんというより、その解釈ということに西沢はさして必要性や重きをおいていない。抽象性を抽象性とすら語らずに、それをあるがままポンと現出させる。させる、というより「している」。だからこの時、それが意識的な決定なのか、自動的な生成なのかと問われたならば、後者であると答えざるを得ない。(抽象を抽象であると語る意思表示があれば、それは建築にマニフェストとしての役割を与え、社会的存在として肯定も批判も受ける対象となるのだから)社会的存在の軽さ、そして物理的存在の軽さを求めて来たポスト・ポストモダン日本建築は、ある意味、その両方を極めた形でこの森山邸に行き着いた。

しかし、現在の都市において、我々はすでに数々の新しいマトリクスを持ち始めている。わかりやすい例として、インターネット、携帯のもたらす物理的空間性を超えた人と人、人と物の関係性が、そこに新たな距離の概念ーー物理的存在と内的存在のずれと揺らぎという概念をもたらしていることは、すでに長い間議論されてきた。それは、軽さといった従来型の対比/対置的な存在定義とは根本的に異なった、相対的で可変的な存在規定の手法となり得るものではないのだろうか。
あるいは、東京という都市が、もともと西洋的な歴史的都市とその近代化過程におけるグリッドのような強固なマトリクスが存在しない中成長してきた点をふまえれば、デカルト空間の固定的なマトリクスに依拠した都市住宅の創成プロセスは、それ自体特異なプロセスを要することになろう。何か新たなマトリクス、あるいは環境や状況に揺らぎ、変容していくマトリクス/グリッドのシステムが、必要とされているのではないか。

<リキッド・アーキテクチャー。流動性を持った、変容の可能性とプロセスを同時に内包した、建築という行為> そのようなものが、都市において、あるいはそうした特定の領域を超えた所で、求められる時が来るかもしれない。

2 comments
  1. […] 最近のSANAAつながりを受ける形で、コールハースの”ジャンクスペース”についての一文から、一部を取り出して紹介しようと思う。 […]

  2. […] た身内という近い人との関係の中から生まれた自身初期の作品の紹介の前に、伊東が西沢の「森山邸」を引き合いに出した理由には、この森山邸に垣間見えるそうした距離感への問題を […]

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