— Delirious New York Diary

ワイダやキシェロフスキーのポーランド

去る3月13日は、ポーランドの生み出した映画監督、クシシュトフ・キシェロフスキーが亡くなった日だ。今年でちょうど、10年になる。彼は、ポーランドに生きる人々を通して、ポーランドという国を、文化を、歴史を描き、いつしか全ての人間に共通する生と存在の意味を映画というメディアを通して映し出していった。

ーーポーランドとは、「平坦な土地」という意味であることをいつか聞いた事がある。
ヨーロッパの長い歴史の中で、この小国は幾度もその地図の上から消え去る亡国の運命をたどってきた。文字通り、平で自然の障壁のないこの国は、常に他国による侵略に晒され続け、見えない国境を民族というつながりで保とうとしてきたという。19世紀当時、ポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアなどヨーロッパ列強の干渉を受け、再び国家を分断された。事実上ポーランドはヨーロッパの地図上からは消滅し、「ポーランド」という国家としてではなく、ポーランド民族として、言葉や彼らの生み出す文化という無形の姿でしかポーランドは存在し得なくなったことになる。
キシェロフスキーと同じポーランド出身の映画監督、アンジェイ・ワイダは映画「灰とダイヤモンド」の中で、ドイツの敗戦によりナチス支配から解放された日に、ポーランド人達がショパンの「軍隊ポロネーズ」を踊るシーンを描いている。ここにはポーランドの永きにわたる苦しみの歴史と独立や自由への渇望が焼き付けられている気がして強く心を動かされた。

ショパンは1830年、20歳の時ウィーンに演奏旅行に出かけるが、そのわずか一月後に、ワルシャワで歴史上有名な「11月蜂起」が起こり、ポーランドはロシア支配からの独立を求めて戦ったが失敗し、独立の機会を完全に断たれることになる。このニュースを聞いて怒りと悲しみをぶつけるようにかの「革命のエチュード」(Etude No.12 in c minor, Op.10)を書いた逸話はあまりにも有名だが、この事件によりショパンは故郷に戻ることが出来なくなり、39歳で亡くなるまでポーランドの土を踏むことの無かった哀しみと孤独は、彼の生き方とその音楽に強く彩られている。
第一次大戦によるドイツ敗戦とロシア革命によりポーランドは再び独立するが、第二次大戦開戦とともにドイツ、およびソ連に再び侵攻され支配を受ける。ナチス支配のもと、国家としての政府はロンドンに亡命し、再び地図上から消え去ったポーランドの自国文化は厳しく制限され、そうした抑圧のもと、ポーランドの象徴ともいえるショパンのポーランド貴族舞踊であるポロネーズは演奏し、踊ることも許されなかった。また、民族としてのポーランドを消し去ろうと破壊しつくされたその究極がアウシュビッツやマイダネクであり、ロシアによるカティンの森事件(1940年、4000名のポーランド軍将校がカティンの森で殺害された)であり、その他数えきれないほどの傷なのだろう。終戦間近の1944年8月にはワルシャワ市民の蜂起が起こり、63日間の戦いの中で20万人もの人々が命を落とした。戦争前150万人いたワルシャワ人口は、その時15万人にまで減ったという。

正直なところ、こうした歴史の苛烈さを実感する事はとても難しいし、事実は自分の想像力などをはるかに超えたものと思わざるを得ない。こうした映画で描かれた、例えばこの舞踏の場面に凝縮された思いを、出来る限り汲み取ろうとすることぐらいしかできない。それでも、人々によって生み出された文化の持つ力ーーここではショパンの音楽であり、映画というメディアであるわけだがーーは、それを見た我々のそうした微力ではあっても人々に共通する思いを呼び起こすという点では、全ての人間が共感し得る非常に強いものだと思うのだ。ワイダの思うポーランド民族というつながりが再び勝ち取った自由と取り戻した自国の文化の象徴として、長く悲劇的なレジスタンス活動により失われた人々の魂とともに気高いポロネーズを踊る姿が描かれている。それはポーランド民族というものが、イデオロギーに支配された国家という枠組みではなく、人々による文化の共有の上でのつながりとまとまりである事を象徴しているシーンであり、戦後も続くソ連との苦難の道のりを経験しながらも、幾度も立ち上がるポーランドという「連帯」を象徴するものとして映し出されている。
キシェロフスキーにしろワイダにしろ、その後社会主義という国家の枠組みに再び組み入れられたポーランドの姿を、様々な形と物語で描いていく。以前紹介したキシェロフスキーの「殺人に関する短いフィルム」では、一人の若者が国家により歪み、そして国家がその歪みを消し去る様を映し出していた。
しかしその中で、彼らが本当に言いたかった事は、常に一人の人間の存在の意味と、人と人とのつながりの意味を問う事にあるように思う。つながっていないようでつながっている人と人、偶然と思われる出会いに込められた必然、そうして出会う事でつながり行く人間という存在。その生み出すイデオロギーや文化、国家、民族という意識。どちらが先にあり、どちらが主導するという議論ではなく、最後に見据えられるのは常に人という存在そのものの描き出す様々な姿であり物語であるという事ではないだろうか。その背景としてのポーランド、そしてヨーロッパというまとまりを、映画というメディアを通して彼らは記録し続けたと言えるように思う。

キシェロフスキーについてもっと書きたかったのだが、それは次回に譲る。このエントリーから読み始めた人には、以前書いた建築家ダニエル・リベスキンドによるベルリン・ユダヤ博物館についてのエントリーとあわせて読んでみていただきたい。

2 comments
  1. shochan says: 6月 11, 20066:09 PM

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    はじめまして。興味深く読ませていただきました。が、監督の名前が…。「キシェロフスキ」ではなく「キェシロフスキ」ですよ。よろしくお願いします!

  2. ks530 says: 6月 11, 20068:55 PM

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    shochanさん、ご指摘ありがとうございます。
    これについては何回か質問されました。アメリカ人の友達の間では「スペルを見ただけだとなんて発音するかわからない」、ってことなんですが、キシェロフスキが多くの映画を撮ったフランスでは「キシュロフスキ」と呼ばれているとフランス人のクラスメートは言っていました。「クシシュ・・」と「キシュ・・」がリズムと韻を踏んでいるんじゃないか、とのこと。その後アメリカでもよく彼の名を聞くようになりましたが、だいたいキシェロフスキーかキシュロフスキですね。アメリカ版DVDの中にいろいろな人のインタビューが収録されてますが、たいていキシュロフスキです。ブログでも、キシュロフスキにしておいた方が良かったかも。
    スペルを見ると「キェ」とか「キエ」と読みたくなるのはわかります。クシシュトフをクリストフとしていたこともあった。日本では誰が言い出したのかこれで通用しているようですけれども。(でも、「キェ」ってどう発音するんでしょう?「ケ」に近い音ですか?)キェの発音は微妙な発音なので表記の差異としていいかもしれませんが(「キエシュロフスキ」とか)、キェ「シ」ロフスキーの場合、「シ」は「シェ」か「シュ」にならないときれいに韻を踏み音をそろえたポーランド名にならないのかもしれません。時々アメリカ人が「キィースロフスキー」と発音するのを聞くことはありますが。
    まあ、人名や地名は言葉の違いで全然発音が変わってきますし、どれが正しいということもあまり言えないんではないかと思っています。そんな例はいくらでもあって、例えばウィーンは英語でヴィエナ、バッハはバック、フェルメールはヴェルミア、ヴァン・ゴッホはヴァン・ゴウ、フィレンツェはフローレンス、アンリはヘンリー、ヨハネ・パウロはジョン・ポール。。。(時々笑える)
    以前イスラエル人の友達に日本では「ヘブライ語」と言われていると話したことがありますが、イスラエル人は母国語を「ヒブルー」と発音します。(英語でも)昔誰かがスペルを見てヘブライと言ったのがそのまま一般化しちゃった例でしょう。
    「ギョエテとは 俺の事かと ゲーテ云い」

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