— Delirious New York Diary

朝日新聞「デジタル化する人間の”眼”」

写真家・作家の藤原新也氏のコラムが興味深かった。(4/3 朝日新聞)
ここ最近、写真業界では激震が続いていると言う。京セラのカメラ事業撤退、(Contaxブランドが宙に浮いている)ニコンのフィルムカメラからの撤退、コニカミノルタのカメラ事業の委譲、そしてその意味するコニカ(元サクラカラー)フィルムの消滅。カメラのデジタル化によって、老舗であるメーカーも撤退を余儀なくされる時代になったことを物語っている。
その中で、藤原氏はデジタル化自体に拒絶反応を示したり、フィルムと比較してデジタルの地位を貶めたりすることがデジタル化の意味そのもののについて議論する機会を奪っている可能性を指摘する。
「誤解を恐れずに言えば”人間の眼”そのものもここ30年の間に徐々にデジタル化してきていると考えており、むしろハードの方が後追いで人間の感覚に追いついてきたと言えない事もない」
この藤原氏の指摘は、カメラやそれにまつわる写真という分野を超えて、我々のコミュニケーションの仕方が変化している事、その中で表現の一つの手段である写真メディアが社会で占める意味や役割も変化してきた事を鋭くついているように思われる。
”人間の眼のデジタル化”の意味する所について、藤原氏はまず技術的な点から指摘する。
「たとえばデジタルの”欠陥”としていわれてきたダイナミックレンジ(白から黒に至るまでの諧調表現)の不足という点に関していえば、30年のスパンでフィルムを使ってきた私の眼からすると、そのフィルム自体もこの間に諧調の再現が広くなるのではなく、逆に明らかに狭くなっている。つまり、基本性能が低下しているという事だ」
これの意味する事はどういう事なのか。
「わかりやすく言うなら白から黒に至る諧調表現が豊富であるという事は、『見た目に地味に見え』諧調表現の幅が狭いという事はコントラストが高くなり、『見た目に派手になる』という事だ。フィルムは“見た目”重視に向かったという事である」
写真を撮り、物として残すという行為そのものに我々は写真発明以来意味を見いだしてきたわけだが、こうしてカメラが何でもないものとして日常的に使われ利用されていく中で、写真を撮るという事の意味は劇的に変化したし、写真そのものに求める要求も変わっていった。
パッと見た目にはっきりと、くっきりと、色鮮やかであることで、完成した写真そのものが写真として、物としての美しく見える事に重きが置かれる。
「それはユーザーの眼自体がこの30年のうちに”デジタル化”(デジタル慣れ?)し、見た目に派手な映像を求め始めたという事と無関係ではないーーーその事は諧調の表現にとどまらずフィルムの彩度においても同様の事が言える。彩度とは優しく言えば”色の派手さ加減”のことだが、かつてのフィルムの彩度が仮に自然に近い地味な色であるとするなら、今主流となっているフィルムの彩度は既に飽和点に達しつつあるほど高く、『人工的』なものになっている。」
この”人工的”という言葉の意味する事は何だろう?我々は少なくとも写真を撮るとき、”写真を撮る” “撮りたい” という意識から写真を撮る。そこには思い入れがあり、残したいという要求が存在するだろう。いわばその時点で、写真として形になる物は人工の、意識や記憶の産物だと言える。以前「ゲルハルト・リヒター展」で述べた、視覚という知覚情報と、それを記憶し、写真やアートとして再現することの差異について、アナログからデジタルへとハードの面からも移行しつつある現在、再考する意味はあるのではないだろうか。
「例えば木のは一つ撮っても、その緑の色は実際の色とは似ても似つかない、あたかも造化の葉のように派手な色としてフィルムに定着される。このことはユーザー(プロを含め)の視覚も自然ではない派手な色を記憶色として脳内に定着させ、それを「きれい」と感じるデジタル的感性になっている事を示す」
被写体を眼という知覚を通して捉え、藤原氏言う所の感性にまで高めるのは、もちろんそうした「きれい」という感性をも含む我々の、記憶や主観、感情が介在するプロセスだ。ーー果たしてそれは本当に自らの感性によるものなのか、そして写真というメディアに残されるものが、自らの介在したプロセスの記憶であるのか、もしくはカメラというハードによる記録なのか。そしてその根幹にある、何のために写真を撮り、何のために写真を残すのかという最も根本的な問いーーカメラがここまで人々の手に行き渡り、写真を撮る事の特殊性が消え去り、その簡便性から利用目的も劇的に変わりつつある今現在においては逆に問い直しづらい問いーーが残される。写真というメディアにはハードに頼らざるを得ないという点からも、またハードを用いさえすれば形あるものとして残るという点からも、常に危険な落とし穴が隠されているのだ。「写真のために写真を撮ってはいないか?」

日本は自然に生き、地味な色とテクスチャーに囲まれて養った美への感性を、人工物のあふれる都市的環境への移行によってより刺激の強いものへと反応する感性へと変化させてきた。テレビモニターは派手な彩度や諧調を持ち、TVゲームやパソコンモニターはさらにその傾向が強い、と藤原氏は述べる。そうした刺激の強化による感性の変化は劇的である、とも。
「おそるべきことに、わずか10秒で人間の眼の感性は瞬間的に変化するのだ。例えば彩度の異なる2点の風景写真を用意し、始めに自然の彩度に即した地味な写真を見せる。次に彩度を高めた写真を10秒間見せ、その後に始めに見せた写真に戻ると、派手な彩度に刺激を受けた脳はそれを精彩を欠いた物足りないものと錯覚してしまうのである」
藤原氏は写真家としての立場から”眼の感性”に絞った意見を展開しているが、これは何も視覚に限ったものではないだろうとして、続ける。
「仮にそのような色価の刺激が10年続いたとするならば、その錯覚が生物学的な脳気質の変化をも生んでしまうであろう事は容易に想像がつく。ーーーアナログからデジタルへの移行は、そういった現代人の感性のデジタル化と同時進行の出来事であるように思われる」
それはなにも、否定的な捉え方とするものではない。ただ何かを作る者としては、少なくともその意味する所を意識する必要はあるだろう。
「タテ縞の飼育小屋の中で育った猫はヨコ縞が見えなくなるという衝撃的な実験があるが、どうやら2000年代の人類は、その猫の生態に似てきているようだ」

3 comments
  1. ひつじ says: 4月 13, 200611:32 AM

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    ものすごく、この記事に強く心を打たれました。なんというか、言葉では表せないです(というか自分にそれだけの能力がない)。感動というかショックというか。人間ってすごいなって思いました、いろいろな意味で。

  2. ks530 says: 4月 14, 200610:12 PM

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    人の表現手段は技術によって広がりもすれば狭まりもする可能性があるということでしょうね。
    ひつじさんの写真は言葉で表せないものを求める上で生まれてくるもので、だとしたらその一点のみがひつじさんにとって重要なものだと思う。言葉で表せないから、写真を撮る。まずはそれでいいんじゃないでしょうか。
    これは嫌みとかではなく言うのですが、「自分にそれだけの能力がない」というのは、もう言わなくてもいいんじゃないかな。ひつじさんの写真はもうそれだけで何かを言い始めてると思います。気分悪くしたらごめんなさい。

  3. ひつじ says: 4月 15, 20063:25 PM

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    いやいや、気分を悪くするどころか逆にそう言ってもらえたことに感激です。ブログの通り馬鹿みたいにくだらないことを語り続けることは得意なのですが肝心なことが言葉にならない。そんな弱さに対する葛藤からかもしれません、写真が好きになったのは。写真は写真であるだけでいい。そのままで何も飾らない、汚さない、そんな純粋さだけで表現できる世界。自己満足である面が多いですけどね、今は。そんな自己満足の世界に評価をしてくれる人がいることを本当に有り難いと思います。

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