— Delirious New York Diary

「シンドラーのリスト」から「プライベート・ライアン」、そして「宇宙戦争」へ


ParamountPictures/Photofest/MediaVastJapan

H・G・ウェルズの原作をスピルバーグが映画化したものである。
スピルバーグがこの映画を撮るというアナウンスがなされた時、「なぜ今 ”宇宙戦争” なのか」という疑問が浮かんだ。原作は子供の時むさぼり読んだものだが、長い間忘れていた程、ある意味で遠い世界の物語である。ただその「遠さ」は、同じく宇宙からの侵略を描いた「Independence Day」に見られるような安手の薄いヒロイズムや、現在のネット/コンピューター社会ではお話にもならないリアリティのない敵の撃退法など、当時のアメリカにはまだ残っていた「能天気なおとぎ話」とは大きく異なっている。湾岸戦争が引き金を引いた新しい戦争の形は、その後イラク戦争、アフガニスタン作戦と泥沼の様相を呈し、アメリカでは現実として戦争に向かい合う必要にかられた人が増えた。莫大な戦費を費やして戦略的な「テロとの戦い」を主張しながら、世界中からは逆に強い反発ばかりを招き、戦術的にも出口の見えない長い戦いに国民の間には厭戦ムードが広がっている。これまでアメリカが掲げてきた「正義」やそのもたらす「勝利」の姿を、もはや映画においても描くことが出来なくなってきた。

「宇宙戦争」の結末は一種読むものに虚無感や無力感を感じさせるような、ウェルズ独特のものと言える。それは人間の「尊い勝利」ではない。そこには勝利はなく、あるのは全ての終わりと、もし見いだそうとするならば新しいものの始まりを予感させる何かである。人という存在が自然という遠大な存在のただ中に位置していることを強く印象付けつつ、急速な文明の進化というものが巨大な時の流れの中ではほんの一瞬の歩みにすぎず、相対的に見れば何ともちっぽけなものであって、それを誇る人の虚栄のむなしさと悲しみがことの終わりの静けさの中に浮かび上がってくるーーそんな結末ではないだろうか。子供の頃はそこまでの感想は持たなかったが、それでも心の中に長く尾を引くような、不思議に寂しいような読後感を持ったのを覚えているが、その感覚は戦争の終結や勝利の後に感じられる虚無感を想像すると何となく理解できる。

スピルバーグは個人的にそれほど好きと言える映画監督ではなかった。もちろん、テレビ映画「激突!」や、「未知との遭遇」、「E.T.」などは子供の頃夢中になったが、次第にその作品から自分が離れていく気がしていた。「シンドラーのリスト」という個人的な例外を除いて、「プライベート・ライアン」で決定的な距離を感じるようになっていた。が、今回の「宇宙戦争」で、彼の描いてきた”純粋なものへの憧れ” がどうにもならない現実の裏返しとして描かれてきたことに気付かされた気がする。彼が作った「1941」は戦争をカリカチュアして描き笑いに転化した作品だが、当時は笑いに転化しなければ描けなかった戦争の記憶を、彼は結局、キャリアを通じて様々な手法で描き続けている。

この「シンドラーのリスト」と「プライベート・ライアン」のテーマは、移民としての家系を過去に持つユダヤ系アメリカ人として、また太平洋戦争を経験した親を持つアメリカ人として、ある意味スピルバーグの心の中には大きく根付いたテーマだったのだろう。「シンドラーのリスト」はユダヤ人強制収容所という最もデリケートなテーマを扱うため、白黒に脱色された世界の中で物語が構築されていく。白黒の世界が描き出し見るものに訴えるのは、ノスタルジーの甘い酔い心地に流されていくような過去に過ぎ去ったおとぎ話についてではなく、今現在とは絶対的に異なる過去が確実に存在していたという事実であり、白黒の世界はその事実を見る者の目の前に突きつける手段であるように思えた。それは、ある少女の持つ風船のみが赤く色彩を持っているシーンを挿入することでさらに強く印象付けられていく。少女の風前の灯とも言える命が赤い風船に宿り、赤い色が感情移入を強烈に促して見る者の物語への同化を決定付ける。残された赤い風船が、少女の不在を目と心に焼き付ける。
そして核となる物語の方も、ドイツ軍将校の一人とさる工場のオーナーであるシンドラーを対比させながら、次第にその振幅を深めていく。主人公のシンドラーは映画の当初では相対して主役となる収容所のドイツ軍将校と大きく異なることのないひどい男であるが、同じように自らの力を過信し周囲へとその力を容赦なく振りかざし虐げるドイツ軍の行為を目の当たりにする中でその過ちに次第に気付き始め、その力の使いようを別の方向へ見いだす中で次第に変わってゆく。
ある意味で、映画初頭のシンドラーは現在の我々の姿であるとも言える。かりそめの平和が与えられるまでもなく存在している時には、金に執着し、享楽的で自堕落な生き方を悪いとも思わず、それにたいし疑問を感じる必要すらないほどに、彼の姿はごく普通の人間のありようなのだと言えなくもない。それが戦争やホロコーストという、想像を超える現実に直面した際に初めて、自らの心象の鏡の中に映し出されるその強烈な現実と自らの姿が対比され、あるいは同化されて己というものにに気付く。そしてそのプロセスは、この映画では観客にも突きつけられている。映画が作り出すこのプロセスの中で、観客は物語とシンドラーの変化に同化することを我知らず選んで行く。最後のシンドラーの慟哭が真に迫ってきたのは、それがシンドラーのものであると同時に、見るもの一人一人のものでもあったからだろう。過去が現在と接点を結び得るのは、こうした瞬間に他ならない。

これに反し「プライベート・ライアン」では、戦闘という人間性を極限まで拒んだものを「描く」に際し、激烈な戦闘の「リアルであるかのような」スペクタクルが最後までそうした感情や心のレベルでの受け止め方を拒むものだと突き放して見せながら、他方ではトム・ハンクス演じる中隊長の描き方から見え隠れする、彼の存在を最後にはヒロイックに高める描き方に違和感を感じざるを得なかった。戦争を映画で描くと言うことはどういうことなのだろう? 戦争を描くための殺人の、死の演技とは? そして「リアリスティック」と「リアル」の間にある超えがたいものとは? <映画のための映画ではないのか?>という印象が拭えなかったのはなぜか?
この映画の物語の内容は、第2次世界大戦を生き抜いた帰還兵達の戦った意義を比定しないことへの配慮であることは言うまでもないだろう。事実、一部の帰還兵の間からはその戦闘シーンの”リアリスティック”な様に「良く映画化してくれた」と賞賛の声が上がったのもの事実である。こういうことがあったのだ、といかに強い印象を持って今に生きる人に伝えるかという点において、帰還兵達が今まで感じて来た思いの共有がようやく一つの方法として可能になった、と評価することはできるだろう。そして、戦争とは個人の善悪を超えた巨大なものであり、スピルバーグはあくまでも個人の純粋さ、素直さをこの巨大な化け物に対比させようとした。
ただ残念ながらそうした言い方が許されたのは、正義のためという大義を少なくとも形だけでも標榜し得た湾岸戦争前後までのことであり、アフガンやイラクでのテロとの戦いと称するものがが泥沼と化す現在では、彼の無私の行いの末の犠牲という見方はストレートに受け止められる余地はない。ベトナム戦争を経験しながらもアメリカは戦争介入を未だに否定できないでいるが、それは敗者という立場を認め、実感することが未だできないためといえる。性善説は、社会に対して唱える場合あくまでも勝者の側が説くことで説得力のあるものになるからで、そのためか否かスピルバーグはベトナム戦争を題材にしていない。
同時期に製作されたテレンス・マリックの「シン・レッド・ライン」が自然の悠久の営みの中に小さな自己を解き放つことで見いだした安息の地を詩的に描き出そうとしたのと比べれば、「プライベート・ライアン」は広く普遍的に人の心を打つ作品とはなり得ないのかもしれない。戦争を経験していない人が「戦争を戦争として」知ることは出来ない。それでも、戦争を「人の行い」として感じ、その感覚をもとに戦争の一端を知ることは出来るのではないか。その意味で、「プライベート・ライアン」には何か、個人として感じるという行為を拒むステレオタイプな何かがあったように思えるのだ。

ーー「宇宙戦争」とトム・クルーズという組み合わせで真っ先に浮かんだのは嫌な予感である。言ってみれば「Independence Day」と同列の映画になるような勝手な予測をしたのだろう。これは始まってしばらく、クルーズがいつもとは違い離婚して子供も引き取れなかっただめな父親を演じている姿によって次第に崩れていった。
クルーズはだめな父親の姿として描かれているが、かといって今を生きる一般的なアメリカの父親と大きく違う点は何もない、今の時代のごく一般的なアメリカ人男性の姿である。別れた妻との間には既に大きくなって離婚した両親の事情を頭では理解できる年齢に達した子供達がいるが、複雑に揺れるティーンエイジャーの精神を持った彼らとはたまの休日に会っても心がすれ違うばかり。美しい元妻には既に結婚した社会的・経済的にも成功していると見える若い夫が既におり、子供を預けに来た際目にした妻の姿には今だ心を惹かれるものの大きくなったお腹に目がいくとその気持ちもやり場を失う。そんな男を、メディアの扱いでこの所半ばメッキの剥げかけたトム・クルーズがリアルに演じている。

宇宙からの侵略が始まった後でも、主人公は子供達とひたすら逃げ惑う一人にすぎない。子供達を守るヒロイックな父親像は、圧倒的に強大な宇宙人達の兵器とその根こそぎの殺戮と破壊の前には描き出すことすら不可能である。その異常な世界の中で、次第に人々の精神のたががは外れてゆく。一人でいても、また皆と集団でいても人々は普段と違う姿を垣間見せ始める。唯一動く車を奪い取るために殺し合う群衆。そしてクルーズも、自分と娘をかくまってくれる男に出会うのだが、一人で隠れている最中に感情の昂りを制御できなくなったこの男を、自らと娘の命を守るためとはいえ手にかけ殺害する。そしてその後に、クルーズが悔し泣きでもうれし泣きでも感情の高まりでもなく、惨めに敗者のごとく、他人見せるでもなく娘の前で泣くのである。この惨めさはなんであろうーーーこの時点ではまだ、後ほどになって気付くある仕掛けがこの映画に込められていることには気付いていないが、太平洋戦争やベトナム戦争後に帰国し、心に傷を負って立ち直ることができない人々の姿に重なるとも言える。

物語は最後には嵐が去るように戦いが終息し、幕を閉じる。娘をどうにか元妻のいる遠くの街までようやく送り届け、そこに途中で生き別れた息子、そして元妻の姿、また彼らの新しい家族たる現在の夫と元妻の両親らしき人達が出迎える。主人公は娘を母に引き渡すと、安堵や疲労よりも深い悲しみや絶望のこもったような顔を見せ、その瞬間映画が終わる。そのどうしようもないやるせなさや絶望、虚無感が、原作を読んだ時のあの感想と非常に似ていることに気付いたと同時に、非常に真に迫った、現在の現実の一端を映し出しているもののように思えて来たのだ。

ーーテレビ画面に繰り返し映し出される9/11のテロの瞬間は、繰り返されれば繰り返される程、見る者ほとんどにとってはその現実からはかけ離れたものであるという事実の方を浮かび上がらせていく。そしてアフガンでもイラクでも、当初その戦いは多くの人にとって ”アメリカに反旗を翻した悪の輩” を叩くといった感覚の「映画のテーマような」ものであり、したがって実際に深く個人的に感じたり現実味を持った何ものかとまでは言えず、その結果として驚くまでの人々がかなり安易に戦争介入を肯定した。(とアメリカ人以外は少なくとも感じたのではないか)それがアフガン派兵、イラク駐留とも泥沼化し多数の戦死者を出し、財政問題をも引き起こす状況に直面して、多くのアメリカ人にとっては直接的な関係のなかった戦争というものが初めて実感され、とりわけ兵士やその家族友人にとっては深刻な現実となっている。

戦闘地域での戦闘や巡回の緊張感、さらには人を殺害するという極限の経験をすることのみならず、家族をアメリカに残していること、帰国しても現地の記憶を消し去り得ない苦しみから逃れられないことなど、事実帰国した兵士達の間では帰国後に自らの居場所を見つけ出せずに苦しむ人が多いという。また、前線に送られる兵士たちが経済的に力の弱い層から金銭的理由で駆りだされている現実も、社会構造の歪みが拡大するアメリカにおいて大きな社会問題となっている。そして、そうしたアメリカの姿を描く映画も増えて来ている。スピルバーグはそうした現状を意識しながら、彼が求められている大作映画監督としての立ち位置は認めつつ、多くの人が見る映画というメディアの中にこうした現実を挿し入れる機会を増やしているのかもしれない。

「宇宙戦争」ではクルーズが生きるためという理由のもとに一人の人間の命を自らの手で奪う。そして、全てが終わったと見える中辿り着いた場所は、自らの居場所のない世界となってしまっている。はたして彼は、一見侵略を生き延びハッピーエンドとしがちな結末の中で、存在の苦しみと難しさを見る者に暗示しながら、空虚に満ちた顔をこちらに向けて、その目は虚無を見つめるかの如くである。それはこれからアメリカが、そして世界の我々の多くが向かいつつある方向を見つめているのかもしれないと、感じざるを得なかった。

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