— Delirious New York Diary

ブレードランナーとNEX-5N、ベテルギウスとハッブル宇宙望遠鏡

タイトルだけを読むと「何のこっちゃ」と思われるだろう。
唐突ついでにと言っては何だが、映画「Blade Runner」の写真解析シーンをご存知だろうか。

主人公がある写真を機械にかける。それを音声でガイドしながらある部分を拡大したり移動しながら写っているものを解析するシーンである。今となっては別段驚く程のものではないかもしれないが、初めて見た時には「凄い!!」と思ったものである。(実はどちらかというと音声でコントロールする部分に惹かれたのだが)もう一つ、屋台のオバちゃんが何かの鱗を電子顕微鏡で拡大して見て、製品の質の高さに言及し、さらにそこに記されたシリアルナンバーから製品を特定するなんていうシーンもあった。

今やデジタル写真は、それが必要であるかどうかは別として、ある意味でこの解析シーンを再現することが可能である。最大解像度で撮影した写真をパソコンのモニターで等倍にしてみれば言わんとしていることがわかっていただけるだろう。縮小しているときには見えない情報もそこには写り込んでいる。(もちろん、映画の解析シーンは「印刷技術」も同様に超高解像度情報を記録しており、拡大に耐えることが再現条件になる)今回この写真の解析シーンが浮かんだのは、写真の解像度をその写真の良し悪しではなく情報を取り出すために利用している点を思い出したからだろう。

自分の所有するNEX-5ダブルレンズキットの16mmレンズ、18-55mmレンズは、周辺画像が流れる、周辺減光が酷い、解像度が低いと特に16mmレンズは一部で叩かれた。さらにNEXシリーズと比較されるパナソニックのM3/4は、特に20mmレンズの解像度が高いと一部で騒がれ、NEXと比較されたことで「ソニーのEマウントレンズはよくない」という評価がかなり広まったように思う。アダプター経由でライカやツァイス等の光学的に性能が高いと言われるレンズとも比較されてしまい、「センサーはいいのにレンズは。。。」と結論付ける人が後を絶たないのである。
実はNEX-5後継のNEX-5Nや、同時期に出たα77などではレンズの光学性能を補正するデジタル補正がかけられるようになったとのことで、センサーや画像処理エンジンが相当性能アップした上、このレンズ光学補正によりさらに見かけ上の解像度や歪み補正が向上しているということだそうだ。サンプルを見ても実際明らかだった。「見た目」には。色再現や解像感の向上によって、まるで写真が良くなったかに思うのはまあ個人の自由である。それは結局、我々の知覚や認識能力の限界を示すものでもあるのだが。(自分も建物の写真を情報として撮ることが多いため、たる巻き歪みをソフトで修正することは多い)そこまで求める人はそれくらい可能なソフトを利用している場合が多いだろう。カメラ上で処理するか後でソフトを用いて処理するかの違いに過ぎない。

以前、我々がある写真をより「美しい」あるいは「好ましい」と判断する材料の一つとして、コントラストの強弱が与える影響について紹介したことがある。それに似た要素の一つとしてこの「解像感」がある。(記事を参照していただければわかると思われるが、実際の「解像度」ではなく「解像している感じ」と言うべきものだ。シャープネスを写真ソフトで上げると、実際の解像度が上がったかどうかではなく、上がったように感じる。これは解像度が上がるのではなく解像が上がったと感じるような操作である。もちろん言葉のアヤではあるので、「技術的に解像度を上げている」と言うこともできるのだろうが。これもデジタル時代になってより自由に広く利用することが可能になった技術であり、SFだった映画のワンシーンも我々には実用可能なものになった)

現実として、我々の目はもはや、今日のデジタルカメラがセンサーで捉える情報を全て知覚する能力は持ちえていない。もちろん実際には、そうした知覚認識を超えた情報の集積が見た目のコントラストや解像度に影響を与えている可能性は強いとしても。(写真に限らず、音などでも同様のことが言われる) レンズなどの光学性能は、ある意味で我々の知覚能力に即したレベルに限定されてきた。カメラや天体望遠鏡を例にとるならば、レンズや反射鏡の大きさが光の集光力を既定し、それを接眼レンズや写真フィルムなどを用いて我々が知覚できるよう可視化する。短所や限界を補う形で肉眼はフィルムへ、フィルムはデジタルセンサーに取って代わり、さらにはデジタル処理技術がセンサー知覚情報を拡張する。この拡張操作自体はフィルム増感だろうがデジタル処理だろうが、性能に差はあれ求めるものは同じである。我々の知覚能力を超えた世界を認識可能にすること。
もちろん、光学性能が低ければいくらセンサーが良くても性能は向上しない。「拡張」という言葉を用いたのはそのためだが、その意味で言えば、人の知覚機能の拡張を手助けするデジタル化とデジタル処理という「手法」もまた、人の世界認識や処理操作能力を向上させるためのある一つの概念を基にしたものでしかない。 だからだろうか、写真を語る際に解像度や色についてばかり拘る輩に対してヒトコト言いたくなるのである。それは入口であって目的地ではないのだから。


先に述べたように、デジタル技術を用いて世界を認識しようとする方法は、今や我々人間の知覚認識などをはるかに超えた別の次元に入っているのではないだろうか。我々がこれまで知覚・認識出来なかったものを我々が知覚可能なレベルに処理し、我々の理解と認識を深め利便性を高めることに寄与している。ポイントとなるのは、それが我々にとってどういう意味を持つのかという点に焦点を向けるべきではないのか、ということだ。それを考える事の方が圧倒的に面白く、可能性も感じられるように思うのだが。

ペンタックス O-GPS1という天体撮影のための装置は、「レンズの向いている高度、方位、カメラの姿勢の情報と、カメラが持つレンズの焦点距離の情報をもとに、写野内の星の動きに合わせて撮像素子を動かし、星を点像に止める追尾撮影を実現」するーーなんていう装置も市販されている。なおコンポジット合成自体は惑星の撮影等にフィルム時代から用いられ、別に新しいものではない。(ex.天体写真撮影術 http://motoraji.com/blog/722/)

一つ、先述のSF画像解析に似た実例をあげてみよう。 現在NHKで、「コズミック・フロント〜発見!脅威の大宇宙」という素晴らしい番組が放送されていて、宇宙や天文好きにはたまらないのだが、「爆発寸前!?紅い巨星・ベテルギウス」という回である面白い実験が行われていた。 地球は大気でお覆われているため、地上から宇宙を「可視光」で見ると大気の流れにより目に見える像は揺らいでしまう。それ故大気の薄い、空気の揺らぎの少ない高山等に光学望遠鏡が置かれることが多いのだが、いくらスペックでは上回っていても宇宙に浮かび大気の影響のないハッブル宇宙望遠鏡には実性能でかなわない場合が多い。

この番組では、爆発寸前と考えられている馴染み深いオリオン座の一等星、ベテルギウスが「円形ではなくコブを持ち歪んでいるのではないか」という仮説を確かめるために行われた「撮影」方法を紹介している。地上から撮影すれば、大気により星像は揺らいで歪みを確認するどころではない、と普通なら考えるところだが、これをある方法で「補正」するのだ。 番組ではその方法を説明するのに、トランプのカードを揺らいだ水中に沈め、これを何枚も撮影する方法を紹介していた。いくら水が揺らいでいても、数多い写真の中には歪みの少ない、良く「解像」している写真が偶然得られる時がある。天体の撮影でも同様、大気の揺らぎが偶然おさまった瞬間に撮られた「スーパーショット」が、数十万枚もの写真の中にはある程度存在する、と仮定したのだ。それら一部のスーパーショットをアルゴリズムを用いて自動的に抽出し、これらをコンポジット合成することでより精度の高い、言わば解像度の高い最終画像を得るのである。これなどはデジタル撮影やデジタル画像処理、デジタル画像解析が初めて可能にしたと言えるものである。これとてハッブル宇宙望遠鏡はいともカンタンに超えていくのだが。

こうした技術がやがてそこいらのコンパクトデジカメにフィードバックされないとも限らない。実際に一部利用されつつあるではないか。HDRや高感度・超高速シャッターによる連続撮影を用いたスローモーション撮影など。デジタルノイズリダクションや解像感を高める画像・映像アルゴリズムの利用は、今や我々の知覚認識能力などを圧倒的に越えるレベルを持つに至ったが、我々の周りには既に日常的に数多く存在している。

あるいは、可視光線の撮影のみならず紫外線や赤外線で捉えられる光などを全て合成し、一つの画像にしてその天体の「ある種の」姿を可視化することも行われている。さらには、光学の力では知り得ない世界を垣間見ることの出来る電子顕微鏡など、まったく異なる手法を用いた可視化装置もある。 もはやそうなると、眼に見える知覚という範囲を超えた世界を可視化しているわけで、もはや光学的なものかデジタル補完によるものかを「区別する」事自体意味のないものと言うこともできる。「レンズの光学解像度が高い」方が「デジタル補正による解像」より優れていると考えるロマンティックな時代も、そのうち過去のものとなってしまうだろう。それほどのインパクトある変化が一気に来る可能性もあるのではないか。
もともと天文や物理学の世界を見てみれば、その大部分が視覚に頼らない、想像力と認識力の世界であるのだから。


飛躍のし過ぎはともかくとして。 我々が写真メディアによるある画像を「認識」するという行為は、既知の情報や知識、記憶とのすり合わせにより判断する行為と言える。写真というメディアの存在意義もそこにあると考えている。しかし、だとしても写真とは、我々が世界を認識し、感情を寄せ、記憶に留める行為の一つの形として存在するに過ぎない。 共有をしやすくそれを求めやすい写真というメディアが(だからメディア足りえるのだが)その「良し悪し」を評価して価値を定めようとする行為に結びつきやすいことは確かであり、それ故にニュースやアートへと昇華し得るメディアでもあるのだが、それがもし我々の想像力や思考力を一瞬の知覚の強弱によって限定し、固定してしまうのであれば、それはまた危ういメディアと言うこともできる。そういう認識や判断といった行為そのもの自体が曖昧で、簡単に操作されやすいものであることもまた、忘れるべきではないと思うのだがいかがだろう。

カメラの性能至上主義に陥りがちな自分に対して自戒の念も込めて。(GR DIGITAL IVについても書きたいのだが。。。矛盾しがちな物欲を抑えるためでもある)

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