— Delirious New York Diary

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blue flow チラシ 「平家物語・語りと波紋音」と「blue flow」コンサートに寄せて

先日、「波紋音」という鋳鉄製の創作楽器を演奏する永田砂知子さんの演奏会に行ってきた。今回の演奏会は、電子音響と波紋音を組み合わせるコラボレーション企画の一環として行われたもので、先ごろリリースされた「blue flow」というCD録音のライブパフォーマンスである。

横浜の三渓園にある旧・燈明寺の堂内を演奏会場に、音に反応する光とガラスのオブジェを組み合わせたインスタレーションが置かれ、フィールドレコーディングによる自然音をコンピューター処理した環境音が堂内の複数のスピーカーから個別に流れている。その中心に、大きさや形の異なる波紋音を並べ、堂内に響く環境音に対して即興で演奏がなされる。
もちろん、お堂の外の鳥の鳴き声や子供の声も壁越しに聞こえてくる。現在は寺院として使われていないが、本堂はもともと仏教の修業の場として燈明だけの暗がりの中、経典を唱える声が響いていたはずである。そんな想像の中の音も、遠く聞こえてくるような気がする。
今回の演奏会では、自分の周りの環境音を様々な場所で録音し、コンピューター処理することで単なる環境音の「再生」とは異なる、より記憶の中の音の表現とも言える電子音響と、波紋音演奏が、暗くて視覚による環境判断がほとんどできない寺の堂内という非日常空間で組み合わされる。音に反応する光もガラスを媒介して空間操作に一役買っている。

Heikemonogatari s 「平家物語・語りと波紋音」と「blue flow」コンサートに寄せて
ーーこれまで、永田さんの演奏は演奏会の形ではなく、平家物語の演じ語りとのコラボレーションの形で聞く機会があった。平家物語は普通、メロディーを持つ琵琶の演奏にあわせて吟唱されるが、この演じ語りと波紋音の組み合わせはそうした形とは全く異なるもので、役者が原文を朗読しながら所作を交えて内容を演じ、それに呼応するように音階のない波紋音が即興で演奏される。多彩なテーマを持つ平家物語の各話に対して、感情を煽るようなメロディーによる極彩色の着色をするのではなく、人の肉声と所作、空間に重層的に広がる波紋音の音とその響きによって平家物語の世界観を描き出す。
能や狂言に通じる舞台空間での移動や体の所作が、有限であるはずの舞台空間を随時塗り替え、変換していくようでもある。また残響や反響音と常に交じり合いながら音を生み出し続ける波紋音の音が、時には演じ語りと呼応する形で、また時には物語の場面を波紋音の音自体で描き出し、空間を生み出す。見る側は想像力を掻き立てられると同時に、所作や声、音響そのものが現前させる平家物語の世界を空間の中で体感できる。それは、かつて舞踏や神楽、狂言、能といった表現形式が神の領域を現前させ、その場にいる者の間でそれを共有する催事の名残りであったことを思わせる。それほどの感情移入を経験し、自分でも驚いた覚えがあるのだが、それを促した要素の一つは波紋音の音であったように思う。ーーー

波紋音コンサート 「平家物語・語りと波紋音」と「blue flow」コンサートに寄せて

波紋音は、日本の庭によく見られた水琴窟の音をイメージして制作されたものだという。水琴窟は大きな素焼きの瓶を地中に埋めたもので、数滴の水滴が瓶の縁から底に連なって滴り落ちることで陶器でありながらビビリ音のような金属質の反響・残響音を残すが、波紋音の音はマリンバのように純粋で濁りのない音ではなく、打面のスリットが共鳴し、かつ丸みのある筺体内で音が反響しあい、複雑な響きのある音を出す。音階こそないものの、筺体の大きさや鉄の厚み、スリットの幅、叩く位置、鉄の鍛え方の違い、さらには叩き方やスティックの素材、敷き布や支持材などの緩衝素材の有無によっても違う音を出す。湿度や気温なども影響しているに違いない。今回は5つの異なる大きさ、形の波紋音が演奏された。

永田さんの演奏による波紋音の演奏は、打楽器演奏の連打や反復の中にリズムや音のゆらぎが込められ、その残響や反響で何かが励起される感じを受ける。まるで凪だった海の上に幾つもの波浪が立ち始め、時に組み合わさって大きな三角波のうねりを生み出すかのようでもある。即興といえども無作為ではなく、無数の小川の流れが集まって大河となる大きな流れーーカオスとしての「blue flow」を感じる。
そしてこれに組み合わされる電子音響(この言い方は何かもっといい表現方法があると思うが思いつかない)もまた、フィールドレコーディングされた場の記憶として、またその記憶を意識下からすくい上げ、確かめるように作曲家の中で再定義され再表現されたものと感じられ、瞑想や記憶の領域と深く結びついている。2つの大きな流れは、まるで記憶やその追想のプロセスを引き起こす呼び水のようにでもあり、時には押しとどめることのできない強さを伴って聞く者を圧倒する。この繰り返しのうねりが、瞑想状態へといざなってくれる。

演奏中、視覚はほとんど閉ざされているにも関わらず、空間が強く意識されるのはなぜだろう、と考えていた。少なくともここは寺の堂内である、という予備知識がありながら、演奏が進むにつれ空間は拡がりつつ狭まり、開きつつ閉じているように思われ始め、予備知識や経験則による空間把握もどこかあやふやになってくる。逆に、感覚による空間認識の期待は強くなっているようで、そこに不規則なリズムのゆらぎや音の断片が捉えられると、自分の記憶や意識下へ通じる回路が明滅して、開かれたり閉じたりするような感覚を覚える。白昼夢や既視感に似ているかもしれない。(実際に音に反応するインスタレーションが揺らいでいたが、その変化はあまり強くなかったからか感覚を刺激する度合いは音そのものよりも低い)

よくよく思い起こしてみると、空間認識は視覚よりも、聴覚や嗅覚、触覚など「空気」の作用を媒介としている場合が多いように思う。光の届かない空間でも(あるいは目隠しをされている場合など)我々は空気の流れや淀み、その匂いで閉塞感や開放感を感じ取る。あるいは音の反響を通じて空間の拡がりや閉じ具合をかなり正確に把握することができる。例えば鹿威しの音と残響の繰り返しが感じさせる空間の広がりや、芭蕉が古池に飛び込んだ蛙の残響音、蝉の声が岩にしみ入る音の感覚をを閑さという意識に変換した様を思い起こせばわかりやすい。その意味では、今回の演奏会は空間内で起こるほとんどすべての出来事が聴覚と触覚(音の波動)に集約されることで、より研ぎ澄まされた感覚が空間認識に向けられていたように思う。そして、そのように自らで知覚し把握して意識下に置かれない限り、空間は自身の認識する対象として存在し得ない。言い換えれば、様々な感情や記憶を呼び起こすほどにエネルギーに満ちた(あるいは欠けた)空間は、その空間を感じ取り意識する側の認識の強さ(弱さ)とも言えるだろう。総合的であったはずの建築空間が、視覚偏重に傾きがちである点を自戒すべきと感じた。

「平家物語・語りと波紋音」公演、そして今回の「blue flow」コンサート、どちらも強く体感し、深く印象付けられる機会となった。

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先日Kathyさんのブログで紹介されているあるリサーチ・スタディのページに、インターラクティブ・インターフェイスのプロジェクトをデモするビデオクリップがある。これは感動的だ。ぜひ、このビデオクリップは見てほしい。

最近Apple Computerがタッチスクリーン式のコンピューターインターフェイスに関する特許をとったことが明るみに出て、ちまたでは次期Video iPodに装備されてiPodをタッチスクリーンで操作するようになるのではないか、あるいはPDAのPalm社を買収し、PDAの機能を搭載するのではともっぱら評判だ。
これと直接関係があるかは定かでないが、このニューヨーク大学の研究室ではスクリーンに映し出される映像や写真、あるいはプログラムや何らかの機器のグラフィカルな表示や操作インターフェイスに直接手で触れ、全ての指の動きを駆使して様々な操作を可能にするグラフィカル・インターラクティブ・インターフェイスの研究を行っている。

20060211231508 インターラクティブ・グラフィカル・インターフェイス

ディスプレイに触れることでシステムをナビゲートする方法は、銀行のATMなど現在かなりおなじみのものだ。しかし、パソコンのようにいくつもの汎用ソフトを扱う上ではまだ標準的でなく、そのため我々はまだかなり限られたインターフェイスを介して操作する。今やキーボードやマウス、トラックボール、もしくはタブレット、スタイラスなど、いろいろな操作デバイスが存在するが、革新的だった”マウス”の登場以来、そうした新しい操作デバイスは基本的にマウスの欠点を補うというものが大半で、デバイスそのものがパソコンそのものの操作体系を革新するようなことには至っていない。

今やおなじみのマウスも、Apple社がマウス操作を基本にしたオペレーティング・システムを一般化したことにより広まっていったが、それはマウスというデバイスが、オペレーティング・システムを介して直感的に、緊密に連携してパソコンの操作を可能にするインターフェイスとしてのわかりやすさ、簡潔さ、エレガンスがあったからだ。

それでも今日、汎用化したコンピューターは利用目的と方法が複雑になったために、しだいに直感的なインターフェイスではなくなってきているといえるかもしれない。まず、マウスを操作しても、あまり楽しくはなくなった。Appleのコンピューターに初めて触れたときの、あの楽しさ、ワクワク感は、残念ながらあまり感じられない気がする。(あれはOS 7だった)

今やパソコンで出来ることがあまりにも高度化し、実際に高度なデジタル情報を扱っているという感覚を持ちづらくなっている。先日のゲルハルト・リヒターに関してのエントリで「4096の色彩」という作品についてわずかながら書いてみたが、色彩という我々が持つ感覚について、逆にデジタルという概念(ここでは8ビットの色情報)が持ち込まれることによって、我々は色という概念に対して、また「見る」という行為について認識を深める機会を再び得たといえる。このプロジェクトの興味深い点は、デジタル情報というものの可視化についての再定義を行いながら、それを認識し、利用することの意味と可能性を追求している所だ。そしてさらに我々の体の一部を使い、ごく普通にジェスチャーとして日常用いる手の動作を直接、操作として反映できるインターフェイスであることで、直感的で、誰もが使え、楽しく、わかりやすいものになっている。
ぜひとも、実用化してほしい!(使ってみたい。。。)

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先々日、ナム・ジュン・パイクの訃報が伝えられた。
不定形の過去、現在を、溢れ続ける映像に撃ち付け、茫洋とした時の中に、協和と不協和の鐘を鳴らし続けた。プリペアードな仕掛けの中に、偶発性の波動を起こし続けた。
映像ービデオー記録ー再生ー調和ー不協和ー覚醒ー記憶。膨張し強大化する外部記録の大洋を前に、岸辺に立つ一個の目は無限に切り刻まれた断片を拾い続けた。我々は、記録の波を浴び続ける。それを受け止め、透過し、時に反射し、時に発信することは悲しくも難しい。しかしその事を知る彼の中で、いつしかそれらは溢れ出る記憶となって、映像の波がビデオモニターを蘇生させ、覚醒させていった。それを紡ぎだすメディアとしての肉体は電気と電子の渦の中に消滅していくとしても、残された映像ー音はきらめき続けた。今やどこにでも現出するメディアの虚空間。一瞬のきらめきの後に口を開くその空虚な広がりを、彼は暴き続けたのだろうか。
大学の卒業式の日、彼が突然式に現れた。
脳梗塞で体の不自由になった彼は、式場となっていた聖堂の祭壇脇から車いすに乗りゆっくりと姿を見せ、名誉教授の称号を授与された。卒業生達の熱狂する渦のなかで、彼は無言のままわずかに手を挙げたかのように見えた。
その光景が、鮮烈によみがえってくる。

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