— Delirious New York Diary

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Tag "ソビエト"

DPA通信によると、ベルリン交響楽団、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の首席指揮者を歴任したクルト・ザンデルリンクが18日、ベルリンで死去したとのニュースがあった。享年98歳。クラシック音楽が最後の輝きを放っていたであろう20世紀初頭に生まれた最後の巨匠とも言える指揮者であった。

経歴を見ると、東プロイセンのアリス(現ポーランド領オジシュ)で生まれ、初期にはオットー・クレンペラーやヴィルヘルム・フルトヴェングラーなど、その後巨匠と呼ばれる指揮者達に指導を受けている。ユダヤ人であった彼は、ナチスの反ユダヤ政策から逃れるために23歳でロシアに亡命、同じく亡命していたハンガリー人のジョルジュ・セバスティアンの下でモスクワ放送交響楽団のアシスタントとなる。
その後、ソビエトで活動を続け、29歳の時にエフゲーニイ・ムラヴィンスキーの下でレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の第一指揮者となった。圧倒的な技術とムラヴィンスキーの薫陶を受けたレニングラード・フィルと共に歩むことで、ザンデルリンクの指揮者としての生き方が定まったと言えるのではないだろうか。さらにソビエト滞在中にはドミートリー・ショスタコービッチら作曲家とも親交を結んでいる。1958年にはレニングラード・フィルの初来日公演が行われたが、病気で来日ができなくなったムラヴィンスキーの代替指揮者の一人として、初めて日本を訪れている。
1960年には東ドイツに帰国、ベルリン交響楽団の首席指揮者となり、1964年から3年間シュターツカペレ・ドレスデン(ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)の首席指揮者も兼ねねた。その後はオットー・クレンペラーを引き継いでニュー・フィルハーモニア管弦楽団の首席客演指揮者となり、76年からは客演指揮者として読売日本交響楽団を数度指揮することもあった。77年にはベルリン交響楽団を辞し、フリーで活躍。2002年に指揮活動の引退を表明していた。

 


 

手元にはブラームスの交響曲の録音CDが数枚あるが、初めて聴いた時にはその演奏の違いに驚いた。新しい世代の、例えばカルロス・クライバーやレナード・バーンスタインの演奏に馴染んでいた耳には、「全く違う」世界の音楽のように聞こえ、強い印象を受けたのである。その後ブラームスを聴きたくなった時にはよく選ぶようになった。

彼が一時期率いたシュターツカペレ・ドレスデンは今やNHKなどでもその演奏がよく放送され、演奏CDも今や数多く手に入る。しかしムラヴィンスキーやザンデルリンクの活躍当時には共産圏の文化が西側に広く紹介されていたとは思えない。ベルリンの壁崩壊後にそれまで伝わっていなかったこうした旧東側の文化活動に触れることが出来るようになったわけである。自分にとっては同時代を生きたとは言えない、故に過去の遺産に触れる行為である。

現在、自分はいわゆるこの「旧共産圏」の国に滞在しているわけだが、一つとても魅力に感じるのは、ソビエト時代を経験した人達の謙虚でありながらしっかりとした視点を持つ見識や、文化に対する際の真摯さである。我々から見れば地味で堅実、質素な生活の中で、ロシアの文化に対して、あるいは自らが認めた文化遺産に対して高い誇りや理解を抱き、現在もそれを守り伝えようとしている。ザンデルリンクやシュターツカペレ・ドレスデンの演奏(カール・ベームを始め、ヘルベルト・ブロムシュテットなど)を聞くと、時代の流れやエンターテインメントの側面をも強調された西側経済下の演奏とは異なり、そうした地道な生活の中に寄り添う文化の頂点としてのクラシック音楽が感じられるのだ。どこまでも地道に真摯な姿勢を貫き、派手さや誇張が全く感じられない緻密な音楽。言い換えるとそれは、まるで新しいものや驚きのない、それでも堅実に質素に繰り返され、確実に、間違いなくとり行われる日々の暮らしの反復の如く響く、とでも言えようか。大仰な抑揚や熱狂とは違う、しかし圧倒的な全体の安定とそれが可能にする細部への視線と注意。

もちろんクラシックと呼ばれる様々な要素を持った文化全体を見渡せば、そうした安定や堅固さばかりではないと思う。現代という時代において予測できない未来を思い描くか、もしくは我々の辿って来た過去から何かを得ようと俯瞰してみるか、その立場や態度の違いによって我々は求めるものや視点を変える。ただその時、どちらが重要であるかは焦点ではなく、時にはそのバランスの取りようが我々の立ち位置を定める指標となる。それを念頭に改めてこうした演奏を聞くと、そこにはまた違った意味で圧倒的に豊穣な、薫り高い世界が広がっている様に出会うことができるように思うのだ。

東側・西側という大きな対立のあった時代、あれは何だったのだろうか。それを知るにはまだ自分は幼すぎたものの、こうして今、東側と呼ばれる別世界に触れることができるようになり、またその壁が取り払われた影響が今も根強く残っているのを感じるのに際し、我々は何を感じ、思うのだろうか。

その指標の一つとなるようなザンデルリンクの音楽が聞こえてくる。まごうかたなき本物の響きの一つである。

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前回の続きは”工場”そのもののかもす手の記憶について。

古い工場に刻まれた傷、効率ではない視点で組み上げられてきた機械と人の作業の関係がそのまま形として残っている。

PICT0010 3 鉄の時代の古い記憶
工場の排気管が生き物のように突き出している。空気の流れが有機的であることが形になる

PICT0128 2 鉄の時代の古い記憶
以前の工場は生き物そのものであり、人の作業と一体となっていたのかもしれない
PICT0109 鉄の時代の古い記憶
工場内にも張り巡らされたこれら排気管が、体内の血管のように各部門をつなぎ作動する
PICT0022 2 鉄の時代の古い記憶
木材の乾燥庫には積み重なった煤と油がこびりついて、匂いさえ幾重もの時間の流れを感じさせる
PICT0019 2 鉄の時代の古い記憶

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もともと海外から知人へ、また国内から海外の知人へ建築について、また自分の近況について伝えるコミュニケーションのツールとしてこのブログを始めたのだが、いつの間にか直接メールで何枚もの写真を送れるほどネットもスピードが上がり、いつしかブログの作業がおいてけぼりになっている。ブログそのものが変わったと感じているせいもあるかもしれないが。

今回のテーマは、ある木工工場を訪れた際に手作りの作業がとても印象に残ったのでその際の写真をいくつか取り上げている。キルギスタンの首都ビシュケク近郊の家具工場なのだが、旧ソ連時代の「労働と共同」というスローガンが未だに消え去っていないのに驚いた。ただ手仕事と、コンピューター制御の無菌室におかれた機械とは違った鋼鉄の機械が稼働している工場は、そこで働く人ともどもどこかのんびりした空気が流れている。ソ連時代のプロパガンダから厳しいものが消え去った今、手作業と人の手が作り上げた機械のうなりは急ぐ事なく、それでも絶え間なく動き続けている。

6 20080416201219 手作業の残すもの
中央からは外れていたキルギスでも、先鋭的なプロパガンダが喧伝されていたのだろうか
7 20080416201243 手作業の残すもの
まるで古き良きアメリカの野球チームのバナーのようなスローガン
8 20080416201303 手作業の残すもの
これはどこか50年代のアメリカ郊外の広告のように見える
9 手作業の残すもの
街のそこかしこに未だにレーニン像が残っているのは、中央アジアぐらいかもしれない
1 手作業の残すもの
工場の入り口も、どこかのんびりとしている

2 手作業の残すもの

3 20080416201107 手作業の残すもの

4 20080416201126 手作業の残すもの
時間が止まっているかのようー窓に写るものが今なのか過去なのか何となくわからなくなる

10 手作業の残すもの
組み上がった椅子の骨組みは一つずつ手で組み上げられたもの
12 手作業の残すもの
ずっと家族や社会を支えてきたかのようなおばちゃんが、慣れた手つきで木材に突き板仕上げを施していた
11 手作業の残すもの

椅子の布地も時間が止まったかのごとく昔と変わらないものが使われているそうだ

5 20080416201152 手作業の残すもの
工場の小屋組もなつかしい木の香りがする
14 手作業の残すもの
ソ連時代に作られ、今も現役で走り回っているトラックは何ともいえずかわいい顔をしている。ソ連は労働と機械社会の未来を見据えたとき、そうした「機械の人間化」を重要視していたとされている
13 手作業の残すもの
木材の乾燥場はどこか過去の遺跡のような、時代に取り残された場所のような、さらには勝手な妄想だがプロパガンダの行き着く先のような寂しさと怖さを感じた

最後の写真は次回へ続く。

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