— Delirious New York Diary

Archive
Tag "メディアアート"

先々日、ナム・ジュン・パイクの訃報が伝えられた。
不定形の過去、現在を、溢れ続ける映像に撃ち付け、茫洋とした時の中に、協和と不協和の鐘を鳴らし続けた。プリペアードな仕掛けの中に、偶発性の波動を起こし続けた。
映像ービデオー記録ー再生ー調和ー不協和ー覚醒ー記憶。膨張し強大化する外部記録の大洋を前に、岸辺に立つ一個の目は無限に切り刻まれた断片を拾い続けた。我々は、記録の波を浴び続ける。それを受け止め、透過し、時に反射し、時に発信することは悲しくも難しい。しかしその事を知る彼の中で、いつしかそれらは溢れ出る記憶となって、映像の波がビデオモニターを蘇生させ、覚醒させていった。それを紡ぎだすメディアとしての肉体は電気と電子の渦の中に消滅していくとしても、残された映像ー音はきらめき続けた。今やどこにでも現出するメディアの虚空間。一瞬のきらめきの後に口を開くその空虚な広がりを、彼は暴き続けたのだろうか。
大学の卒業式の日、彼が突然式に現れた。
脳梗塞で体の不自由になった彼は、式場となっていた聖堂の祭壇脇から車いすに乗りゆっくりと姿を見せ、名誉教授の称号を授与された。卒業生達の熱狂する渦のなかで、彼は無言のままわずかに手を挙げたかのように見えた。
その光景が、鮮烈によみがえってくる。

Read More

ゲルハルト・リヒター。20世紀現代アート最後の巨人。

「デュシャン以来、作られるものはレディメイドだけである。たとえ自分が作ったとしても・・・」
近代、そして現代アートの激動の波動を受け止め、それでもなお現代アートを生み出し続ける絶望。そして強度。
絵画が、現代アートが「なにものか」の具象化への意志とするならば、20世紀を経験した我々に残された具象化すべきものは何か。決定不能性の彼方に見える思考停止への予感と恐れ。安定への決して辿り着くことのない絶望的な歩み。そうして20世紀の回帰した絶対零度の原野、それでもなお、そうして冷たく凍りつく原野を、覚醒を待つ記憶と跳躍の意志の充溢した原初の海に還元しようと立つ孤独と、かすかな希望。
「ーデュシャンによって、絵画は死んだ」。その一言に込められた、過去への憧憬、現在という意識、未来への跳躍を待つ意志の、自己による、自己のための静かな認識。その静けさの中から見える、揺らぎ振幅する時の流動性を頼りに、自らと、自らを超えた広がりの中からすくいとられ昇華されていく意識と記憶。果てしない知覚の渦の中をさまよいつつ、覚醒していく意思と認識の跳躍が積み重なり現前してゆくプロセスとしての行為は、すべては必然であり、それ故に、すべては決定されることなく、揺らぎ、振幅する事象となって漂い続けることを受け止める媒体としての自己を緩やかに浮かび上がらせる。彼は事象を反射する鏡であり、また透過するガラスでもある。

「私には何も言うことがない、だからそのことを言う」ーテーマを問われて。ジョン・ケージの言葉を引用するリヒター。
ー絵画は全て抽象である、ということへの問いと認識とが、知覚を「見る」という行為へと昇華し、認識への入り口に導く。アブストラクトとは感覚/認識/情動/記憶の行為とプロセスそのものであり、その軌跡としてのアートは見る者にプロセスを反復し、表現する者と見る者両者の記憶を覚醒させる。それは「知識」というしがらみを瞬時に飛び越え、「見ようとする者」を研ぎ澄まされた感覚と記憶の原野に立たせるーーそこにあるのは直接的で偽ることのない、表現者との、また彼を通じて広がりを持つ過去との対話だ。20世紀現代アートの数々の取り組みーー異化、転化、それによる嘲笑、権威の剥奪、教育、感化ーーリヒターの生み出すものには、それらを通りすぎた後の、雨後のような誠実さがある。鏡とガラス。反射と透過、透明性と不透明性。それは手法でありながら、同時にそれらを通して映し出される何ものかへと辿り着くための手がかりであり、また見る者をも取り込む広がりをもったメディアなのだ。
20060122133951 ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
<ルディ叔父さん>1965. Oil on canvas
ナチス将校の軍服に身を包み、その後入隊2週間で戦死した叔父の姿を写した写真。そうしたわかりやすい物語性の背景で記憶にとどめられることの、叔父本人と「写真の像」との無関係。そうした記憶を通してのみ、あるいは元となった写真の像を通してのみ現れる叔父の存在。それはポップアートが強烈に示した、物語性という虚構の告発である。その時写真は本当に「存在」を現しているのか。写真を見ることによって呼び覚まされる記憶が過去と現在をつなぎ止めることによってはじめて意味を持つならば、「見るという行為」は現在に固定されたものではない。写真を複写し、描き、そしてその輪郭を崩し、ぼかし、異化するーー物語性の呪縛を逃れ、見ることの意味を問う、知覚と認識<あるいは翻訳>の差異を問う作品。ーーもちろん、ドイツ人であるリヒターがナチスという対象と対峙する意味を問う中で生み出された作品、とも言えるだろうが。
gray ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
<グレイの筆跡>1968. Oil on canvas
写真を描いてそれを異化する操作によって時間的揺らぎと感覚/記憶の流動性を絵画化しようとしたリヒターが、今度は抽象絵画/ミニマルアートを「完成/完結」という時間的定点への固定から解き放ち、偶発性ー偶然性ではないーというミニマルアートとは相反する要素を、その<意思の動き=偶発的な未来へのベクトルを持った跳躍>のプロセスを視覚化することで「決定すること」を否定する。原型としてのフランク・ステラの作品を複写し、グレイのネガティブ、白線のポジティブをブラッシュストロークで歪めることでネガ/ポジは混じり合い、直線は歪み、切断され、ぼかされて、視覚的に揺らぐ表層的な変化だけでなく、その対比対象としての根本的な相関関係をも変容させる。こうした異化のプロセス=筆跡が、見るという行為の足がかりとなる。
05 04 07richter 4096farben5 ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
<4096の色彩>1974. Oil on canvas

知覚とは何か、何をもたらすのか。
過去、西洋絵画は我々の周囲にある目に見える事象、また物として名を持つ物質を模倣し、あるいは再構成する手段として始まった。目に見えぬ概念は何物か理解可能な物質や視覚表現に翻訳されることで具象化されたが、概念を概念として可視化することを可能にした透視図法や、知覚を翻訳せず感覚そのものを積み重ねる印象派のような近代絵画の手法、そして数々の文化的・政治的既成概念破壊を目指すことでフィールドの枠組みを横断した現代アートは、具象化の意味するものを感覚知覚、そして認識の深みへと拡げていった。

「これはパイプではない」とマグリットは描いた。「これは風景だ」「これはOOの絵だ」「これは印象派」「この絵は色がきれい」ーー現代において、もはやこうした認識は絵画を「見る」という行為とはなり得なくなったといえる。4096色=RGB 3原色の8bit諧調/カラーという、曖昧さを廃した<デジタル化=色存在の概念化>と、人間知覚によるアナログ的な色彩の概念との間に、果たしてどのような差異が存在し、どのように認識の違いをもたらすのか。「4096の色彩」は、「色彩」という感覚的存在と、物理/哲学的広がりを持つ概念としての色、そして対比/対照という相関関係により単一である色が色彩として相関的に存在規定されることを絵画表面で再構成した作品であり、その色彩は見る者の感覚に訴えながら、同時に色彩という概念と知覚の関係を具現化する。「理解する」という規定事実、そこにおける翻訳の既成概念と短絡性を始点から否定し、見るという行為から不純性を取り除く。
20060122134036 ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
<岸壁>1989. Oil on canvas

絵画という行為が、感覚を鋭敏に研ぎすまし、絶え間ない知覚とその認識、そしてそれを記憶として留める行為であることを、この絵の手法そのものが提示している。下地に塗られた色彩の構成、その上にレイヤーとして重ねられた白色。それは時に下レイヤーの色彩と混じり合い、変容と異化の揺らぎを現す。そしてそこに撃ち込まれる意思として、現在という瞬間の刻印としてのパレットナイフが、それらの蓄積を削ぎ落とし、削り取って、時と記憶の蓄積を白日の下にさらす。それを逐一なぞるかのように深い藍の色が削り跡に寄り添い、認識は再認識に裏打ちされながら、反復の中に意識の揺らぎを描き出す。
<岩壁>のタイトルが示唆するのは、自然の中の岩壁を「見る行為」と、自らの心象風景として翻訳され記憶された岩壁の差異と揺らぎを、絵画というプロセスそのものによって具象化する行為の総合である。その記憶としてのこの作品は、長い年月の末風雨によって削られ、岩肌をむき出し陰影を深めていく岩壁の姿を絵画の手法そのものが模倣しているかのようでもある。模倣と抽象化の蓄積によって描き上げられる水墨画において、描くこと自体が自然に生きることであったことを思い出す。

Forest ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
<森 (3)>1990. Oil on canvas
下地の色彩を闇のような深い青が覆ってゆく中で、絵筆にのせられた新しく輝ける色達が、静かな、しかし確かに繰り返されるブラッシュストロークのただ中に浮かび上がる。絵の具の粘りと筆跡に現出する意思と時の流動。高められた感覚の煌めきと認識のもたらす意識の深淵に、生と、その辿り行く死と直結するかのような感覚にとらわれる。<MoMA所蔵のモネの睡蓮の大作を初めて見たときと、同じだ>

Abstract3 ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
<アブストラクト・ペインティング>1999. Oil on canvas
ブラッシュストロークに託された、強固で鋭い意思。重なり蓄積される記憶の中の、意識の閃き。
abstract2 540x600 ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
<アブストラクト・ペインティング>1997. Oil on canvas
主張し、それによって決定することの否定。この作品では、色彩が比較対照を失いながらもかすかに残ることで、それを曖昧にしてゆく行為と、曖昧な中にも緩やかに浮かぶ色彩の記憶のどちらをも浮かび上がらせる。それは、グレイという黒と白の中間に位置する曖昧で、決定不能性を体現するニュートラルな色にリヒターが惹かれていた事と無関係ではない。色彩を持ちながら、この作品は行為としての<グレイ>を体現している。
彼が<グレイ>について語った言葉ーー「無主張、表現の拒絶、沈黙、絶望のための理想的な色彩。」それでありながら、<グレイ>は、「もはや揺さぶられることのない完全なもの、健やかなものを生み出そうという努力。それ自体で完璧であり、自明で、非の打ち所のないもの。グレイの作品によってそれに近づくことができる」対象、そして行為であると語っている。

glasses 600x421 ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
左:<直立する5枚のガラス板>2002. 右:<11枚のガラス板>(どちらも日本での展覧会の展示とは異なる)

<11枚のガラス板>は大きな展示室の白壁に設置されている。木の支えによってガラスが等間隔に壁面から剥離していくように並ぶ。透明と反射がガラス面のレイヤーによって反復される事で、ガラス面に映り込む像はにじんだようになり、またその輪郭は反復されながらしだいに弱まり、レイヤーの彼方に霧散する。作品を見る者、また展示室の他のリヒター作品も同様に、映り込む事で反復の中に変容し、霧散していく。
<直立する5枚のガラス板>は庭に面した大きな窓のある小部屋に置かれている。窓の外には大きな木がそびえ、その枝葉は5枚のガラスで反射と透過を繰り返しながら空間に霧散していく。窓の横にはモニターが設置され、リヒターのインタビューを交えたビデオ映像が流されている。

部屋を横切ろうとしたそのとき、そのモニター映像までもがガラス板に反射し、パースペクティブな空間の奥へとその像が反復され、弱まり、消失していく様に気付いて足が止まった。ドキュメンタリーという形でビデオ化される彼の姿と言葉、それがビデオ化され複製される事で一般の目に触れるという意味。そしてビデオモニターを通して繰り返される映像としての記録としてのビデオイメージ、それがこの展覧会の展示室という特別な空間で、彼自身の作品によって反射され、反復され、虚像の虚像として空間に浮かび漂い、霧散していくという関係。そこに、彼が見る者に求め続ける、「見る事」へのいざないと問いかけへの橋渡しを作り出そうとする願いがありながら、そうする事の難しさ、またメディアとして存在し、対話を求めることの刹那で儚い繊細で幻のような瞬間と、それを待ち続ける絶え間ない反復と忍耐とを認めた気がした。

忘れ得ない時間となった。

Read More

グラウンド・ゼロ計画コンペで採択されたダニエル・リベスキンドの案。今回はまずこのリベスキンドが一体どのような人物かを探るとともに、ユダヤ博物館を取り上げる。

リベスキンドは1946年、戦後のポーランドで生まれた。ベルリンからわずか数百キロ東のウッチという街だ。事実、ユダヤ人の家系であるリベスキンドの家族は、そのほとんどを戦時中ホロコーストによって失ったという。しかし彼の父はホロコーストを生き延び、リベスキンドは生まれた。自身の存在を自らの意志に関わりなく規定し、またこれからも規定し続けるであろうホロコーストの記憶は、彼のみならずすべてのユダヤ人に、またすべてのドイツ人に求心力を持ち続けるだろう。そしてそのような過去を生み出した「場」は、それを消し去ることなく内包したまま、現在、そして未来へと存在し続ける。現在に生きる我々は、どのように過去の記憶やそれを内包した空間に向き合い、その認識を現在へ、また未来へ向かうベクトルへと変えていくのか。その問いかけは、彼の作品やプロジェクトの想起に強い軌跡となって立ち現れている。

彼の父はリベスキンドが生まれた後イスラエルに移住し、リベスキンド自身はイスラエルで作曲を学びながら、1965年にアメリカ国籍を取得している。アメリカに移住後さらに作曲を学んだが、その後音楽を離れ、ニューヨークのCooper Unionで建築を学んだ。現在はロンドンに拠点を移している。
奇しくも1999年の9月11日、リベスキンドが設計したJewish Museum Berlinがオープンした。彼はこのコンペに際し、「Between the Lines」というコンセプトでプロジェクトに挑んでいる。それは果たして、どのような内容なのだろうか?

jewish museum11 ダニエル・リベスキンド〜1. ベルリン・ユダヤ博物館
Jewish Museum Berlinの中庭から外壁とそれに続く空を見上げる
matrix ダニエル・リベスキンド〜1. ベルリン・ユダヤ博物館

“Between the lines.”
”I call it this because it is a project about two lines of thinking, organization and relationship. One is a straight line, but broken into many fragments; the other is a tortuous line, but continuing indefinitely.”

上のドローイングには、いくつかのテーマがメタファーとして埋め込まれている。
記憶を内包した「場」には、目に見えずともさまざまな影響力が作用し、その作用の拠り所をたどる行為が軌跡としてこの場において出会い、時に衝突し、時に反発し、時に融合しあう。リベスキンドはいくつかの強い影響力を持つテーマをすくい取りながら、同時に、場に満ちている目に見えない、言葉によって表すことのできない数多くの影響力の存在している事実をいかに表象するか模索している。
例えばこのドローイングには、まっすぐでありながら細かく途切れた線と、蛇行しつつもどこまでも続いていく線が、「思考/構成/関係」といったテーマを表している。さらにその上にはユダヤ人の象徴であるダビデの星が、この場を満たす記憶と、ホロコーストの事実を語るmatrixとして重ね合わされる。星型はこの土地から去っていった、あるいは連れ去られたユダヤ人達の行き先によって歪み、崩れていったのだ。

alphabet ダニエル・リベスキンド〜1. ベルリン・ユダヤ博物館

“Architectural Alphabet.”

その上で彼は「Architectural Alphabet」という上のドローイングにおいて、常に作用する外部からの力、あるいはそれに対する内部からの反応を「連続」し、「継続する」空間表象の可能性としてアルファベットという「一連の」言語として構成することを試みている。これらは実際に3次元空間に建ち上がる建造物の構成言語として利用された。そのため、建ち上がったJewish Museumという「プロジェクト」は、この場所に特定の過去の記憶を現出させながらもそれをシーンとして固定する(従来の美術館/博物館のような)ことを拒み、常に連続し継続する流れと変容のエネルギーに満ちた空間として現れる。そして展示順路の最後には27mの高さに及ぶコンクリートの空隙が上部からのみの自然光に沈み、訪れるもを吸収し、あるいは「時」の中に拡散する…

interior1 ダニエル・リベスキンド〜1. ベルリン・ユダヤ博物館
内部空間。左は二本のラインの空隙を進む階段「継続の階段」と、その空間に切り込む軌跡が構造体として見えている。右は「Holocaust Void」へ通じる最後の経路
interior2 ダニエル・リベスキンド〜1. ベルリン・ユダヤ博物館
内部展示室。数々の「記憶」と、変容と連続性を強いる空間の連なりが床、壁、天井のあらゆる部分に表出する
20050916111731 ダニエル・リベスキンド〜1. ベルリン・ユダヤ博物館
プロジェクトのプラン図。ダイアグラムとしての、あるいは付記や注釈等がこのサイトに存在するinvisibleな力として描き込まれている
建ち上がるものはmassとしては固定されつつも、絶えず作用する影響力の軌跡がmassを刻み付け、変容し続ける可能性をはらんでいる。現在の空間に存在しながら、過去の記憶と、未来へのベクトルを垣間見せながら常に揺らぎ振幅し続ける存在。リベスキンドのプロジェクトには、物体としても、また我々見る者の内部に映し出される精神の像としても揺れ続ける。
20050918000903 ダニエル・リベスキンド〜1. ベルリン・ユダヤ博物館
Museum本館のプラン。ゆがめられたダビデの星、二本の線の間に取り込まれ、空間に満ちた限りない記憶が建物の要素となって現出する
20050918150842 ダニエル・リベスキンド〜1. ベルリン・ユダヤ博物館
Jewish Museum Berlin全景。隣にあるバロック様式の建物はプロイセン時代の法廷「Kollegienhaus」で、リベスキンドはここをJewish Museumの入り口に定めた
20050918150901 ダニエル・リベスキンド〜1. ベルリン・ユダヤ博物館

道路側ファサード。隣接する法廷建物は異質なる姿を見せるものの、建物スケールや建物に刻まれた”亀裂”のスケールは連関性を保っている

Read More

写真という3次元あるいはそれ以上である空間を2次元に封じ込めるメディアは、諸刃の剣となりうる。

実際空間の視覚にとどまらない様々な情報をいかに捉えるか。自らの外部に存在しつつ、時間と記憶の地平へと覚醒していくempathyをいかに見る者の内部に呼び起こすことが出来るか。

street 写真という建築手法

写真が視覚を足がかりに様々な知覚と個人の記憶を刺激していくこと。それは空間を理解し、自らの中で再構築し実際空間との関係を作り上げる建築においての空間認識と変わるところはない。

全ての写真というものは、建築手法そのものなのだ。視覚によって促される刺激とは、見る者のそれに対する反応とは何なのか。そこに厳しい問いのメスが入っていない写真はまた与えるものも限られている。

Read More