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Transparency International の代表 Huguette Labelleによるブリーフコメント

2010年度版汚職・腐敗体感指数に関するレポート

2010年度版汚職・腐敗体感指数とキルギス及び中央アジア

”キルギスの現状基礎体力” の中で紹介されていたNGO, Transparency International によるCorruption Perception Index (汚職度指数)の2010年度版が発表された。汚職度・腐敗度を0 (汚職度ー高)から10 (汚職度ー低)で表したものである。
キルギスの順位は調査対象178ヶ国中164位という結果となっている。中央アジアではトルクメニスタンとウズベキスタンが172位に同位でランクされているが、残念ながらそれに次ぐ低さだ。その他ロシアとタジキスタンが154位で同位。カザフスタンが2009年の120位から105位まで順位を上げ、中央アジアの中では一番腐敗度が低い結果となった。(それでも2.9レベルである)キルギスの周辺に居るのは、国情が安定しない独立間もないアフリカ諸国などであることも知っておく必要がある。

Transparency Internationalのレポートは厳しい論調でこの順位について指摘しており、「このレベルの汚職・腐敗度のままであればキルギスは進歩することはできない。経済的にも、科学的にも、技術的にも、あるいは社会的向上についても望むことはできないだろう。もしこのままの状態が続けば、国の将来のために投資され得た財産まで食いつぶしていくだろう」と厳しく批評している。
「今年はキルギスにとって非常に重要な年となっている。国は移行段階にあるが、汚職や腐敗に対する反作用が通常の手続を踏んだ改革では解決できず、現在と未来のための真の戦いといったレベルに達している現在、国民の誰もがキルギスに山積している難しい問題について認識している」
「社会は既に選択を行なった。今非常に重要なのは、キルギスの政府機関、政府関係者、法執行機関、判事や検察官らが、自分たちはどちらの味方に立つのかについて意識することだーーキルギスのためか、個人的な利益のためか」

2010 corruption index Transparency International の 2010年度 Corruption Perception Index (汚職・腐敗知覚指数)

<最後に述べられている、「自分たちはどちらの味方に立つのかについて意識することだ」という部分は、単に事の善悪として理解すべきレベルの問題ではない。汚職度の高さを第三者の立場から俯瞰することは、汚職そのものを解決していくことより容易なのは確かである。問題となるのは、「ではどのように汚職や腐敗を廃していくか」ということにある。
この順位と汚職度指数が示すのは、日常的に、その度合に関わらず汚職行動が行われていることである。ーーこれは個人的にも経験する。殆どの人はそれを残念ながら受け入れなくてはならない状況に陥り、真剣に解決に向け動くことも個人ではままならない。その根本には個々人の充分でない収入の問題や、権力機構への権限の集中がそのまま搾取構造になっている点がある。教育の問題、民間機構の弱さなど、社会が権力機構を中心に回る古い体質から抜け切れ無い。

これらの点については、残念ながら多くの人が汚職度指数が高く透明度が高いとされるデンマーク(1位)やニュージーランド、シンガポール、スウェーデンなどの社会スタンダードを知らない、という点も無視できない。(それは自分を含め多くの日本人も同じだが)
政府という組織が社会の一端であり、全てではないという状況すら実感することができない。民間が経済活動を行うにも政府の大きな干渉がある。そして、この経済活動の中でもさらにまた腐敗の慣習がはびこっている。ネガティブ・スパイラルに陥って、あるキルギスの専門家はキルギスを評して「底なしのブラックホール」と述べていたのは印象深い。
今後民間組織による監査や、ジャーナリズムによる自由な批評、政策立案を左右していく社会構造や経済の自律性が成長していかない限り、閉じた世界は永久に開かれることはないだろう。


ーー中央アジアの長い歴史は、東西の中継点として常に他国の新しい文化や強力な異文化要素が通過し、取り込まれながら、世界を知る機会があったと思われる。もちろん自らの独自性を守ることにも精力を払ってきた事だろう。語弊を顧みずに言えば、現在のグローバル化やグローカルな動きとは、こうした過去幾度も襲ってきた嵐やその反動に似たところがあるのではないだろうか。そして、キルギスの人々も、好むと好まざるに関わらず既にその嵐の中に居り、生活の利便性や質向上などその多くをこの嵐に負っている点は事実である。

キルギスは積極的に海外を知る機会を必要としている。かつて我々日本人が明治維新前夜に遭遇した西洋という大波は、多くの人々の目を開かせ、日本の遅れを認識するきっかけとなった。日本も同様だ。そこから学ぶべきことは今こうした状況であるからこそ必要だろう。内に閉じて萎縮する現状の中から新たな世界が開けていくことを望むのは難しい。出来合いの製品や物資を取り込むだけでなく、社会システムや公正な経済システムを積極的に導入できるよう諸外国との関係体制を整え、諸外国もその立場をもって関係を結んでいく必要があるだろう。日本が不平等条約を改定していった取り組みや、社会・経済システムを導入していった過程は、現代でも学ぶことは多いと思われる。キルギスにそれを伝えていくことはできないものだろうか>

なお、中間値の5レベルに満たない国が世界の3/4を占めることも忘れるべきではない。もちろんこうした指数や指標で全てを判断することは出来ないが、国家が経済的にも自立し成長していく上でこの透明度が重要な指針であることは確かと思われる。先日お伝えした報道の自由度指数も含め、人々の日々の暮らしの質や未来への希望などが育まれる社会の形成の根本には、こうした指数で表される状況が大きく影響していることは間違いない。

Transparency International はさらに、国際競争力指数とこの汚職・腐敗度指数を組み合わせたある指標を提案してもいるが、例えばこの指標でトップに位置するスイスは、国際競争力が高いにも関わらず透明度を保っている。日本がキルギスのような国に対して対応していく方法について、大きなものを示唆しているように思えてならない。<綺麗事とは、それを綺麗事と知りながら通すことで本物の綺麗となるかもしれない。それは、悪事を悪事と知りながら通してもなにも変わらないこととは比較にならない大きな差があるものだ>

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先にお伝えした「報道」の自由度指数について考えながら、その本質である「ジャーナリズム=批評精神」と拡大してみたとき、ジャーナリズムの自由度が高いということはどういう事か、考えさせられた。というのも、この所日本のみならず、アメリカなどでも新聞社が経営的に苦しい立場に立たされているニュースをよく聞くようになってきたからだ。アメリカにおける地方新聞社の倒産が相次ぎ、ジャーナリストの間では第三者による政府や地方行政の批判能力が落ち、行政の質が悪化することを懸念する声も高まっている。

メディアとは器であり、媒体であるからには、技術の革新などでその姿は変わっていくべきものだ。それ故にマスメディアとしての新聞がテレビに押され、インターネットに押されていくのは必然とも言える。それによってマスメディアのビジネスモデルが変化し、ジャーナリズムの場もそれに伴い変化していくことは、避けられるものではないだろう。新聞社が潰れているという事実は、「対価」という我々の根本的な社会的基盤と、「自由な批評の機会」というジャーナリズムの本質がぶつかっている点に問題がある。


ジャーナリズムの自由度とは、確かに上述の「国家や権威主義」に対するジャーナリズムの自由度という点がまずは前提となる。<換言すれば、ジャーナリストという立場を理解し、社会や国家がその活動を阻害しないこと、となるだろうか>
この点は理解できるのだが、現在のマスメディアの利用を前提としたジャーナリズムーー1. 活動の資源が広告主からの収入で成り立つビジネスであること  2. 新聞、ラジオ、テレビ、インターネットと進化してきたが、マスメディアはあるレベルの技術的環境に左右されるメディアであることーーが高い自由度を持ち得ているかと聞かれれば、疑問を持たざるを得ないのである。もちろんここでは報道ジャーナリズムという狭義の意味ではなく、ジャーナリズムがメディアにおける批評の手段であるという、その本質的な意味において考え、広義に捉えている。
これまでは、新聞やメディアがマスメディアとして一般人の知識や社会の判断基準を緩やかに規定してきたが、今やインターネットが膨大な情報の断片を生のまま、即応的にネットワーク上に現出させるようになった。我々はーーこの記事のテーマからするとごく一部の幸運な部類に入るかもしれないがーーこうした生の情報にアクセス「しやすく」なったことは確かである。また個人が何らかの情報を発信することもしやすくなり、このように自分も何かを発信しようとしている。

このような技術的な側面から拡大した情報環境の中で、言論統制を必死に守ろうとする上述の国々や、ノーベル平和賞受賞者の報道を制限するような中国政府の人為的行動は、世界中にはりめぐされたネットワークの前ではもはや完全を期すことは不可能だろう。無論、それを保ち得るのは法的な処罰や教育 による思考の方向付けだけであり、この順位はそうした行動を反映した順位でもある。


しかし、さらに視点を移して見たとき、Raw Dataに近い生の情報へのアクセス機会が増えたという点そのものが、批評の機会の増大や質の向上につながるわけではない、とも感じるーーその可能性が広がったとは考えたいところではあるが。百科事典が生み出された時、その外部記憶としての存在意義について大きな議論がなされたというが、情報が膨大に存在し、整理され、アクセスしやすくなったとしても、それだけで我々の知が増大したわけではない。
我々の脳は、機械的な即応や既知感に対しては活発に活動しないことが既に知られている。そうした経験は雑然として深く印象に残ることは少ないし、ましてや深く読み込んで、考察のプロセスや知識を共有し、様々なものの側面を見出す手助けとなるものは稀である。インターネットが訴求する即応性や即効性は、コンピューターやウェブの百科事典的汎用性と相まって、やはりじっくりと情報を経験する種類のメディアでは(現時点では)ない。能動的に考えないということであり、受動的入力に慣れ過ぎて機械化する危険性を手にすることである。こうした受動的要素を持つマスメディアの問題は、これまでも常に問題視されてきたが、特にインターネットの膨大な情報が持つ受動という従属の罠によって、我々の思考や行動を規定し、時に利用され、様々な形で我々を囲い込み、思考の限定や停止をもたらす危険はさらに大きくなっている。


個々人がある独自の意思の下に情報を選別し、集約し、考察と批評を加えて様々な側面を持った情報へと昇華することのできる環境とはどのような状態なのだろうか。これは言い換えれば、そうした環境が社会にもたらされ、その社会的拡がりの中においてしか我々個々人が情報を得、判断し、考えることは出来ないという本質に我々を立ち返らせる問いでもある。それ故に我々個々人は社会基盤の形でのマスメディアを必要とするわけだが、それを保持し、自由度を守るのは社会を形成する個々人であり、国家や特定の一部ではない。マスメディアとその手段である本質としてのジャーナリズムは、社会の総体を映す鏡として、その内包する全てーー我々自身を含むーーの動脈硬化を防ぐために存在すると言えるだろう。その自由度を保持し、手段として用いることができるよう整備していくことは、個々人の問題なのだ。

その意味で、ジャーナリズムの自由度とは、非常に多くの側面から定まっていくものであると感じた。そして順位が高いという事そのものがジャーナリズムの質について言及しているのではないという点も、忘れてはならないだろう。

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101021 Reporters Without Borders 2009 Press Freedom Rankings Map 国境なき記者団によるジャーナリズム自由度指数

News Agency Kyrgyz 24は、Reporters Sans Frontières〜国境なき記者団が発表した2010年度の報道自由度指数について言及し、キルギスは調査に含まれる178ヶ国中、159位であったことを伝えている。

この報道自由度指数では、フィンランド、アイスランド、オランダ、ノルウェイ、スウェーデン、スイスなどが上位を占めている。報道自由度指数は、各国内におけるジャーナリストやニュースメディアの尊重度と、彼らがいかに国家による法の乱用等から守られているかを示すとしている。(ちなみに日本は2009年の17位から、2010年は11位に向上した。20位以内は「最も自由度が高い」事を示す)
Kyrgyz 24によれば、これらの国はさらに自由度を高め、メディアの独立性を守る取り組みを行っていることを紹介している。例えばアイスランドとスウェーデンでは、規範となる法案の取りまとめることを検討中であり、メディアを独自のレベルで保護すると共に、民主主義により制度化された能力を付加することになる。

Kyrgyz 24は旧ソビエト諸国の順位をあげている。ロシアは140位、ウクライナは131位、ベラルーシは154位、タジキスタンは115位、ウズベキスタン163位、カザフスタンは162位と軒並み低い。モルドバが最も順位が高く75位となっている。ジャーナリストの暗殺や失踪などが取り沙汰され、さらに国営のメディアの力が強いロシアやウクライナでは、自由なジャーナリズムは育たないという見方だろう。キルギスタン159位、カザフスタンは162位とこのグループ中でも最も低いレベルだが、キルギスの報道機関が流す情報はインターネットを通じて非常に速く、かつアップデートも速い。また論評を行う機関も存在している。今後民主主義が進む中から強く自由なジャーナリズムが生まれていくことを願うばかりだ。
ただ国境なき記者団は、EU諸国での報道の自由度が悪化していると懸念を示している。EU27ヶ国のうち、13ヶ国はトップ20位以内にあるが、残りの14ヶ国の報道自由度が低いとする。イタリアは49位、ルーマニアは52位、ギリシャとブルガリアは同位で70位となっており、自由度の高い国と低い国の格差が広がっているという。

報道自由度が最低の国は、アフリカのエリトリアで、北朝鮮、トルクメニスタンが続いている。ただ2002年から行われているこの調査で常に最低10位以内にあったキューバが、今回初めて圏外となったという。これは14人のジャーナリスト、22人の活動家が昨年夏に調査した結果であるが、根本的な自由度の低さは変わっているわけではないとした。

国境なき記者団
News Agency 24 Kg

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20050523134528 Short film about killing クシシュトフ・キシェロフスキー1

Kino Filmより最近立て続けにリリースされたクシシュトフ・キシェロフスキーのシリーズより。「Short film about killing」はテレビシリーズとして制作された「デカローグ」の一編を再編集して映画化したもの。撮影に、キシェロフスキーの後の作品「二人のベロニカ」、トリコロール三部作の「Blue」を手がけ、他に「ガタカ」、「ブラック・ホーク・ダウン」なども担当したSlawomir Idiak。彼のインタビューも特典として収録されているが、すばらしい映像を作り上げている。

ワルシャワで若い男が街をさまよっている。働くわけでもなく、情熱を持てるようなものもないかのようだ。ただその彼の目は周りを何かわだかまりを持った感情とともに常に見渡している。彼の心は自らの内に向けられることなく、その視線となって外に向かっていく。

国道を横切る歩道橋の上から、彼は下を走り去る車に石を落とす。国道を見下ろす彼をカメラは捉えながら、砕け散るガラスの音だけが聞こえてくる。笑みを浮かべ、彼は歩き去る。それは不特定の目標に、言い換えれば彼の外の世界すべてに向けられた乾いた衝動として描かれる。

当時のワルシャワー成熟していたかに見えた社会主義体制のもとで、大多数の人々、特に彼のような若い人間が、情動の向けどころのない乾いた抑制された社会に何かしらの隠れた不満やわだかまりを持っていたであろうことは想像できる。社会は空気のように、ほとんど見えない形で存在している。それは多くの人間の、生きることへの情熱を導くような物ではない。かつて社会主義が掲げた連帯と労働の勝利と喜びは、やがて薄れ、人々を駆り立て導く物ではなくなっていったのだ。多くの若い人間がごく平凡な標準を受け入れることで社会に順応していく中で、それができない人間は、感情や衝動の向かう矛先すら定められない。主人公の若い男は、パトロール中の警官をあの目で追い続ける。しかし、警官が去ってしまうと、その感情の矛先はまた行き場を失ってしまうのだ。

やがてその行き場のない衝動は殺意にまでたかぶっていく。若い男は一台のタクシーをひろい、郊外へ行くよう告げる。タクシーの運転手もその背景がわずかに語られるが、社会にとって可もなく不可もない存在の、少し嫌みのある中年男に過ぎない。やがて人のいない郊外へ至ったところで、若者は用意していたひもで運転手の首を絞め殺そうとする。動かなくなった運転手を引きずり出して川辺に運ぶが、意識を取り戻し殺さないよう懇願する運転手に石を振り落として殺す。

ここで、若い男は涙を流すのだ。殺人を犯すまでの黒々とした情動が、人を殺し、人が死ぬということを目の当たりにして初めて我にかえる。行き着いた先に何かがあったわけではなかった。絶望的にやり場のない袋小路に、また行き着いただけだと知ったからだろうか。

やがてシーンが変わり、法廷に舞台は移る。若い男は逮捕され、裁判を受ける。担当弁護士は、正義心の情熱に燃える若い新人だが、努力のかいもなく若い男は死刑を求刑される。ここで、「殺人」は若い男の犯したものから、影を潜めていた社会、国家、体制のものに入れ替わる。正義心の砕けた弁護士が若い男の独白を聞くが、若い男の不幸な生い立ちとなった妹の死が、彼に渦巻いていた黒い衝動のきっかけとなったことを明るみにする。それ自体は見る者の感情を揺さぶるが、それ以上に若い男が多くの人間と変わらない、その中の一人の小さな存在であることを語ることに意味があるように思えた。そして死刑の執行。運転手の殺害と同じように、克明にその様子が描かれることで、それが「殺人」であり彼が被害者であることを強烈に示唆する。

この映画が「国営放送」で一般に放送されたことが何より日本人としては衝撃的だ。ドラマとしての質の高さもさることながら、そのテーマの底には体制に対する批判も少なからず含まれているからだ。人間の本質に迫る、そうすることを求め、可能にする土壌。東欧国家の奥の深さを感じさせる。

あの若者の黒い情動は、現在の日本人の多くにも渦巻いている。本当の人間性はどこに求められるのか。今の日本を見るに、そんなことを考えずにはいられない。

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