— Delirious New York Diary

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big ドリアン・ドリアン〜中国の変化

中国東北部の地方都市牡丹江から香港近郊の経済特別区シェンチェンに出稼ぎに来ていた少女イェンが、家族にも内緒で3週間の香港滞在ビザを取り、大金を得るために娼婦として働いている。ストーリーはそんなところから始まる。

香港を描く上でありがちな、超高層近代ビルと人々がひしめく猥雑なマーケットとを比較するような映像は出てこない。彼女の行動範囲は、寝泊まりしブローカーからの連絡を待つ安アパートと、呼び出し場所のホテルに限られている。香港の若者がたむろする繁華街へと足を伸ばす時間も体力も、多分興味もほとんどない。そんな彼女の姿を、カメラは感情を持たずに追い続ける。けれどそこに映し出される彼女の姿からは、不思議なほど暗い影が見えてこない。どこまでも若い彼女は食べては男の相手をし、男の体を洗い、そして帰ってきて寝る。感情の入り込む隙もなく、香港の路地裏は、そこだけで世界として完結している。

この路地裏に、シェンチェンから出稼ぎにきている足の不自由な男の家族が暮らしている。男は既に出稼ぎで金を貯め、シェンチェンにはきちんとした一軒家すら持っているが、妻と、不法滞在となってしまう小さな娘ファンと男の子をつれて、香港に再び出てきた。路地裏で皿洗いの仕事をしながら、妻と子供達は幾度となく家に帰るイェンの姿と案内役の若い男の通り過ぎるのを目にする。不法滞在のため路地裏の狭い世界に行動範囲の限定されたファンにとっては、イェンと男の姿は数少ない外部とのつながりだった。ある日不法滞在者を摘発しにパトロールにきた警官から一緒に隠れたイェンとファンは、初めて言葉をかわす。イェンにとって小さな妹のようなファンと、つかの間心が通う。

やがて滞在期間の切れたイェンは実家のある東北地方へと帰郷する。染めた髪を切り、地方の空気に慣れるよう雰囲気の変わったイェンが、同級生で結婚予定のシャオミンと新しい住まい探しをしているシーンから帰郷後の生活が描かれる。質素な中にも、生活感のあるアパート。香港の殺風景な部屋と、まるで正反対の雰囲気をかもしている。切り替わっていく暮らしの中で、やがて今まで語られなかったイェンの心の中が淡々と描かれていく。

香港では極悪の生活環境でも金は地方の平均よりも圧倒的に稼ぐことができる。しかし、中国の地方都市ではそれほど金がなくても皆が平均的な暮らしをしており、生活自体は豊かなものだ。本土の故郷に帰り、イェンも周りの人々のように普通の生活を始めるべく商売を始めようと考えたり、以前在籍した京劇学校でのことを思い出したりする。しかし地方においては大金である蓄えを得てしまったイェンには、地道なもうけの安い商売をやっていく意味がなくなってしまっている。イェンは、生活のためではなく自分の居所を定めるために商売をしたいと思っている。それでも実際行動を起こすほどのものがなかった。通帳に貯まった大金を見て、自分がどうしようか、何をしようかわからない将来への不安にかられる。生活苦を克服した今、自らの存在意義を考えることに目覚め、そのために生まれるモラトリアム。これは経済成長に湧く現代中国のこれからを問う鋭い洞察に思えるし、今日本の若い世代を飲み込んでいる問題でもある。

「ドリアン ドリアン」で、主人公のイェンが香港と郷里で同一人物と思えないように描かれているのは監督の意図するところだとしても非常に驚いた。ただ、今までの中国/香港映画にありがちだった、外部の人間にわかりやすい、広大な中国の大地に根ざした人々のたくましさ、あるいは香港の底辺にある猥雑な世界の持つ生命エネルギーというステレオタイプは、本当のようであってもすでに現実ではないものになりつつあるのかもしれないと感じた。
以前シェンチェンを訪れた時あらゆるところで見かけた、行き場もなく店に何人も固まって何するでもなくつまらなそうにしている若い女の子達の姿を思い出す。(2003年当時、シェンチェンの人口の3/2が女性で、さらに平均年齢は17才前後であったように思う)シェンチェンという巨大な経済実験場に形骸的にかり出され、空っぽの近代ビルの1階で雑貨の山の影で佇んでいた。自分が消費する側には決してなれず、うまくしても自分が消費されるモノであることを知って消費されることを待つ、悪くすればそんな機会さえ与えられない。そのただ中に放り込まれた彼女らの心の、どうしようもない温度の低さ。それを第三者として外部から見つつ、若さのエネルギーを語ることはどうしてもできないことだった。

郷里に帰ったイェンは香港での生活について口をつぐむ。イェンよりさらに若い従姉がダンスを学びたいために香港に連れて行ってほしいと願っていることを叔母から告げられ、それを素直に応援してやれないイェン。香港での仕事仲間から仕事の誘いを受けても香港に戻る気はしない。そんな煮え切らない状況の中で、夫のシャオミンともすぐに離婚する。この辺りの描写は、中国の地方でもすでに家族についての価値観や、親子関係が変化しつつあることを浮き彫りにする。
学校の級友たちとの温度差を感じながらも、やはり同年代として一番心が通いあうことをイェンは感じている。ある日皆で線路わきにたたずみながら、大声で歌を歌う。昔のおおらかな文化や暮らしぶり、人間関係をユーモラスに歌う姿は、自分の過去に対しての後ろめたさやつらさを吹っ切りたいというよりは、金だけを安易に、自分勝手に貯めてしまったことへのある種の照れ隠しととれなくもない。彼女のような、水商売で一気に金を稼いでしまったような人ほど、あるいは資本主義のストレートな光と影を同時に体験してしまうのだろう。彼女がスポーツのように男をこなしていくというのは、よくあるstereotypicalな「彼女のたくましさ=香港の生命力」を描いたというよりは、経済なんて大仰な振りをしていても実は安っぽいギャンブルのように、数や時間をかければこなせてしまう程度のものだと言っているような感じがする。かなり乾いたユーモアではないだろうか。

この映画には、とにかく意味深なシーンや描写がたくさんある。タイトルとなっているドリアンも、何らかのメタファーとしていくつかのシーンで登場する。大きなとげだらけの固い殻を持った東南アジアを代表するフルーツだが、殻を割るのは固くて大変で、さらに独特の悪臭がある。ファンの父親が娘の誕生日にと以前食べてうまかったというドリアンを買って帰るが、殻を割るのに手こずり、さらに悪臭のため家族にはとても不評だった。ある時には、イェンの案内役の若い男が突然後ろからドリアンの実で殴られ、大けがをする。またイェンが故郷に帰った後、つかの間心が通い合ったあのファンからドリアンが届けられる。

ドリアンという名前や「果物の王様」という評判は知っていても、身を食べたことのある人は実際少ない。ドリアンのその固いとげだらけの殻を目の前にして、「中を割って見てみよう」、あるいは強烈な悪臭をこらえてさらに進んで「食べてみよう」とすることは言ってみれば勇気のいることだ。ドリアンはこの映画の中で、そういう行動を起こすことがいかに難しいかを示している、物事の本質のありようを示す中国故事のような隠喩と言えなくもない。物の本質を悟った振りをして沈黙し行動を起こそうとしない賢者、何も考えることなくただ目の前の現実を受け入れ従う平民、そんな中、当たり前とされる世の中のルールを問い直すために、それを破壊することをいとわず実行する愚者。ドリアンはそんな愚者の出現を待つ、試金石のような物なのか。

実はドリアンで案内役の男を殴ったのは路地裏に共に暮らす不法滞在であろう中東系の男であることをファンは見ていた。多くは語られないが、中東男のもつある種の生真面目な正義感が、(無害だけれど)テリトリーに侵入してくる、単に若くて、それを利用もせず無為に空気吸うだけのチンピラ香港男を殴らせた、と勝手に想像してみた。そして、ドリアンが不法滞在をとがめられ強制送還されてシェンチェンに帰ったファンから送られてきて、これをどう扱うか苦労するイェンや周りの人たちの姿が、彼女の、そしてすべての中国人のこれからの生き方の複雑さを示唆しているようにも思えた。
ドリアン以外にも隠喩のようなシーンがいくつもあって興味深い。香港滞在時、イェンが客の体を洗いすぎて手や足の皮が剥けてしまう。それに対するかのように若いチンピラ風の入れ墨を彫った男が出てきて、入れ墨は一時の痛みでさほど苦しまずに手に入れられると言う。それは、一度手にしてしまえば形となってずっと残るけれど変えることの出来ない=逃げられない世界を示唆しているように見えるのに対し、若い彼女の皮は剥けてもすぐになおる=生まれ変わり新しい生活に入れると言っているようにも思えた。
最後のシーンは京劇の屋外ステージでの公演のシーンが映され、イェンがその世界に戻ったかのように示唆して映画が終わる。ハッピーエンドであるとか、そういう映画的/物語的な捉え方ができない、これから始まり続いていくであろう人生の試行錯誤の予感という描き方が、中国の今と今後の姿に対する含みを持っているようで面白い。

今までの中国映画は、ハッピーエンドや悲劇的結末というエンディングを用意することで、一つの区切りを作って、そこに現在との切断ーーノスタルジーへの没入という描き方のものが多々あった。それはそれでいいとして、そろそろそういった描き方では現在を描けないことを知り始めている世代がいる、というのは特筆されるべきではないかと思う。

同じ香港映画監督でも、例えばウォン・カー・ウァイは「天使の涙/Fallen Angel」などで見られるように、鬱屈した内向的な乾きや倦怠感が外に向けて一気にほとばしり出る様をスタイライズして描き、その乾きをさらに鋭く昇華させる。一方、台湾のホウ・シャオ・シェンなどは逆に乾きと倦怠感をスタイライズせずに距離を持って冷たく見つめる視線を保ち、その乾きや倦怠感を見る者に共有させることで作品はある種のドキュメンタリー的側面を得て現実感を増す。「ドリアン ドリアン」もその傾向を持った映画で、カメラの視線と被写体の距離感が冷たく、かつ透明になってゆく。こういうアジア映画界の流れを見ても、アジアの都市の混沌とした姿が生のエネルギーの源泉だという今までのアジア観は確かに古くなりつつあるように感じたのだが、どうだろうか。

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B00005JLQW.01.LZZZZZZZ トーク・トゥ・ハー 肉体と心

監督のペドロ・アルモドバルは彼の作品を通して、ある一定のテーマを貫いているように思う。

まず、「社会の中」でタブーとされるものや、社会のスタンダードとされるものから外れ手しまった人たちがストーリーの中心におかれる。そしてそのタブーに生きる人間、社会の日陰に押し込まれた人間たちが社会的には弱者であり、虐げられる人たちであることが「前提として」語られる。それゆえに、トランスセクシュアル、トランスベスタイト、ゲイといった人々がアルモドバル作品にはよく取り上げられるが、聖職者による虐待やシングルマザー、といったテーマも同じ視点で取り上げられる。(「Bad Education」「All about my mother」などで描かれる)

しかし、性同一性障害、あるいはトランスセクシャルにアルモドバルが注目する理由はさらに根源的なものに思われるのだ。彼の映画は、そういった社会的タブーの周辺に生きる人々の生き様を捉えたドラマとしてだけでも鑑賞できるけれども、それを超えて、すべての人間が持つ肉体と精神の関係に端を発する問いに対してアルモドバルは向かい合っているのではないか。

肉体という容れ物はその存在そのものによって社会における位置を規定する。男性である、女性であるという違いは最も根本的な存在意義の違いを表す。では性同一性障害者、あるいはトランスベスタイトにとっての肉体はどういった意味を持つのだろうか。彼のドラマ作りのうまさは物語としてのわかりやすさにつながっていくために、彼らが社会的に特異な存在であるという社会の固定観念が生み出す摩擦部分が強調されやすく、そこにのみ注目して終わってしまう危険性をも秘めているように思われる。

「トーク・トゥ・ハー」では、肉体と精神の関係を問い直すさまざまな人々と彼らの関係が描かれる。冒頭、映画はドイツのヴッパタール舞踊団の舞台振付家ピナ・バウシュによるダンスのシーンから始まり、彼女の肉体が、精神世界の広がりとそれを映し出す鏡として描かれる。
彼女の肉体の動きは、舞台に障害物のように置かれた椅子の群れを変容していく。(実際には、彼女の動きに影響を受けるかのような一人の男が彼女の行く手にある椅子を押しのけていく。光を放つかのような彼女の存在を尊び、その行く手の障害となるものを人知れず除いているかのように見える)彼女の他にもう一人が舞台で踊り、バウシェの波動を受け取ったかのように彼女の動きを受け継いでいく。その肉体から放たれる精神世界が舞台を超え、観客の一人である主人公マルコの涙を誘う。

マルコは以前自ら去って関係を絶ったある女性への思いを断ち切れずにいる。「思い出」として彼の中に依然大きく存在するにもかかわらず、彼女の肉体の不在がその思い出との間に超えがたい深い溝を作るのだ。
そんなマルコの前に、女流闘牛士リディアが現れ、過去から逃れようとしていた二人は次第に結びついてゆく。彼女は、男性の世界とされる闘牛の世界で生きているわけだが、闘牛という儀式の中で牛と対峙する時には男女の差異といったものは消滅する。実際、彼女が試合前に衣装を身に着けていく場面で女性から「闘牛士」へ変わっていく様が描かれる。ここには、トランスベスタイトやトランスセクシャルに対する社会の不条理な固定観念に対するアルモドバルの批判が現れているようにも思う。
彼女が事故により昏睡状態に陥ってしまったとき、マルコは悲しみとともに困惑する。彼女の肉体は生き続けていても、彼を愛した精神は失われてしまった。彼はその精神を失ったリディアの肉体を、彼の知るリディアという存在として受け止めることができない。

彼女が収容されているクリニックには、アリシアという昏睡状態にある別の若い元バレリーナの女性と、彼女を完全介護する看護士ベニグノがいる。愛する者がともに昏睡状態にあるという立場から、次第に彼らには友情が芽生えていき、その友情が映画の軸になってゆく。
アリシアの心は醒めない眠りについているにもかかわらず、その肉体は若さと美しさを保っている。事故以前につかの間知り合ったアリシアに恋していたベニグノは、眠り続ける彼女に彼の経験の全てを語って聞かせ、彼女への愛の証として献身的に介護する。まわりのものにはセクシュアルに映る彼の彼女の肉体に対するマッサージや体を拭く行為も、彼が介護士であるという事実や、彼女が植物状態にあること、そして彼がついた自分はゲイであるという嘘によって周囲から強く問われることがない。いかに我々が社会的立場という面において周囲とぎりぎりの関係を結んでいるかを、アルモドバルはこの設定によって描き出す。その上で、ベニグノの愛情表現と昏睡状態にあるアリシアとの関係が異常なものなのか、あるいは純粋なものなのかという問いを見る者に問いかける。そしてその答えを導くのが、見る者自身の感情なのか、それとも社会に生きる上で身に付けていった社会常識や固定観念によるものなのか、その見極めを自身で判断することができるのか、といった問いをも同時に突きつけながら。

ベニグノが見たサイレント映画も肉体と精神世界の乖離を表していた。愛し合う男女のうち、男が薬によってだんだん小さくなっていくという事態に陥る。愛は消えずとも、彼女は小さくなった彼をベッドの上で押しつぶしてしまうかもしれない。そして肉体を通しての愛情表現の手段を失ってしまった彼は、絶望する。
アリシアにバレーを教えていた、母親代わりのような存在の女性(ジェラルディン・チャップリンが演じる)が、アリシアに新しいバレーのテーマを語るシーンがある。とある戦場での生と死をバレーで表現しようとするのだが、兵士の死を男性が演じ、その後女性が生命の再生を表す精霊を演じる、という設定だ。実際にバレーのシーンは描かれないが、バレーという肉体を通して肉体存在以上のものを表現しようとする行為、あるいは表現しようとする精神が肉体とその動きを規定することによってのみ生み出される「美しさ」が、アルモドバルのテーマに重なっているのだろう。バレーにおいては、男性と女性の肉体が規定する動きの先にその真髄を見据えることになる。闘牛は男性世界と考えられる中で儀式として昇華され、その中で性別というレベルは消滅する。どちらも肉体という現実から、精神や儀式という世界を規定していく。

ベニグノはその後一線を超え、眠り続ける彼女を妊娠させそれが発覚して投獄される。ここで興味を覚えたのはそれに続くシーンだ。彼が投獄された刑務所をマルコは訪ねるが、設備は囚人への配慮から刑務所のイメージからはほど遠く白く清潔で、まるで病院のような監獄にマルコは驚く。事実、そこでは収監者を囚人とは呼ばない配慮までなされている。このイメージは、アリシアが病院という空間に望まないながらも収容されベニグノの愛情表現から逃れられない状況に在ったのが逆転し、今度はベニグノが肉体的に逃れられない世界に閉じ込められた、ということを暗示しているようにも考えられる。肉体がとらわれることでアリシアを中心にした彼の精神は生きる世界を失い、ベニグノは自ら肉体の存在を断つ。

我々の肉体と精神は切り離すことの出来ないつながりを持っている。そして、精神世界のひろがりと、肉体の規定する存在意義の間には重なり得ない違いも存在する。その差異は認識し得ても解決されるものではないだろう。人としての、最も大きなパラドックス。肉体存在に関する社会のタブーの数々は、そんなパラドックスに向き合う上で生まれてきたものであるのかもしれない。それを超え得るのは、精神世界の広がり、それのみと言うことはできるのだろうか。

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映画「誰も知らない」はニューヨークでも広い範囲で高い評価を得ていた。高級紙(NY Times, Washington Postなど)やインディー系に強い関心を示すNYのVillage Voiceなど、かなりの紙面を割いて評論しており、この映画に対する関心の強さをうかがわせた。

カンヌ映画祭での最年少主演男優賞受賞という事実を前提にしたものではない、映画自体を評価しようという態度が見て取れたことにまず好感を持った。アメリカにおいてはカンヌ映画祭自体に対してアカデミー賞ほどの体温上昇を感じさせないということもあるが、賞の受賞をナショナリスティックなものとして取り扱い、少なからず経済効果を狙うかのような日本でのメディアの受け取り方より冷静で公正な評価態度だった。

宣伝効果と結びついた映画評ばかりが目立つ日本のメディアには、実は多くの人が辟易としているのではないだろうか。この映画をいかに取り上げるかということは、実は非常に複雑で細やかな態度が必要なものであることを映画を見た人は感じるだろう。その目には、誠実さに欠けるメディアの態度が底の浅いものに映ったとしてもおかしくはない。(NY Timesやインディー系のVillage Voiceなどは、アカデミー賞に対してすら一定の距離を置く)

「誰も知らない」の批評について
アメリカでは多くの批評が映画の中での「距離感」について評論していた。対象である子供たちへの、そして母親にたいしても一定の距離を保っている映画の作りに対して、いい意味であるとか悪い意味であるとかいうのとは別次元に「冷めた距離」という言葉をNY Timesでは用いていた。
補足になるが、NY Timesは驚くべきことに地方紙であり、にもかかわらず世界中の読者に対して発信するために実際常に世界中からニュースを集めてきている。さまざまな文化やそれを背景にした事柄をできる限り偏ることなく論評するために、記事は高いレベルの批評眼と第三者的な距離感を必要とする。その距離感が、是枝監督のとったテーマに対する態度と非常によく似ていることに彼らは気がついていた。ジャーナリスティックなテーマを扱い、虚飾なく、感情に流されることなく社会に提示することー是枝監督のこの態度は、特にマスメディアに携わる人々の共感をえたのだとも考えられる。

もちろん、映画のテーマそのものは我々日本人にとってより真実味を持つ、また持つべき問題であり、アメリカ人としては第三者的な外側からの客観的視点を持たざるを得ない。しかし、そのテーマとの「距離」は、事実をほとんど黙殺し知らないままでいた我々多くの日本人と、アメリカ人批評家との間で果たして異なっているのだろうか?

あくまでこの映画とその提示する問題の意義は、「個人」がどこまでそうした「距離」の存在する事実を受け止め、その意味を問うかにある。是枝監督はそこまで考えた上で映画を作り上げたのではないだろうか。そしてアメリカ人批評家たちはテーマの意味合いと重要性を映画を通して受け止めつつ、それを可能にしたであろう彼のある種ジャーナリスティックな映画作りを大きく評価したように思われる。

アメリカにも深刻な家庭の問題はたくさんあり、社会問題ともなっている。「誰も知らない」の提示する事件は日本という社会が生み出した特殊なケースであることは事実だが、こういった社会的な家庭問題が”存在する”という現実はアメリカでも日本でも同じである。その上で、どういった類いの社会のひずみがこれらの問題を引き起こし、どうすれば解決していけるかということは映画自体では語られていない。アメリカにはシングルマザーが多いし、貧困問題も非常に大きなものだ。その中でこのケースに似た事件は起りえるし、実際起っているかもしれない。しかし、そういった問題に何らかの「結論」なり「解決策」を導き出すことは、この映画や新聞というメディア(少なくともNY Times等)では避けられている。それは見る者/読むものにゆだねられ、それが大きな波となって社会の中で動いていくことを最終目的としているからだ。

「あの母親はひどい」とか、「周りの人間はなぜ気づかなかったか」と語るにとどまることは、彼らと同じであることに気づかないでいるだけのことかもしれない。「社会問題」となる、あるいはされるべき事柄や事件は、漠然とした社会という空間にあるままで個々自らの次元に引き寄せられないならば、いつまでも問題として事柄/事件が認知されることすらないだろう。それをこの映画は提示しているのだ。そして、もしやっと認知されたとき、我々はいかにそれに対峙しえるか。その先は、見る者にゆだねられている。それはある意味、ジャーナリズムの本意といえるのではないだろうか。

補足:
アメリカでは新聞の評論や評価は絶大な影響力を持っている。特に(土地柄、そして経済的理由からNY TimesやVillage Voiceしか目を通していないが)NY Times紙は映画、音楽、本、演劇、アートなどの評論が独立して別紙になっており、特に週末の新聞はものすごい厚さになる。
その分多くの紙面を評論に割くことができ、それを一流の専門ライター陣が執筆している。彼らの評論は確かに鋭い。そして演劇やミュージカルなど、NY Timesで酷評されれば実際1週間もせずに幕を閉じることもあるほど、影響力も強い。
高級紙と呼ばれるNY Timesがアメリカの知識層の判断基準を決定していると言っても過言ではないが、それには政治力や経済力を超えた第三者の視点を貫いているということが支持される最大の理由となっている。もちろん、New Yorkというリベラルで知識層が最も集中している、アメリカでも特殊な都市の新聞、ということは考慮すべき点ではあるが。(アメリカの総意ではないということ)
幅広い視点と許容力を持つことが第三者的視点を保ち得る方法だとして、ニューヨークはさまざまなものを受け入れる受け皿となる。その上で、客観的判断と批評がそれらを淘汰し、さらに高い批評眼を得ることにつながっていく。ある意味で、最も厳しく、だからこそ公正な批評がここでは行われているように思われる。

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B00005PJ8T.01.LZZZZZZZ Thin Red Line~シン・レッド・ライン

“what’s this war in the heart of nature?”

このモノローグとともにこの映画は始まる。映画は太平洋戦争中期、ガダルカナル島における日本軍とアメリカ軍な激烈な戦いをもとに描かれるのだが、冒頭のシーンではまるで戦争とは無縁のような、何千年も繰り返されてきたであろう原住民たちの姿が豊かな自然を背景に映し出される。
青く透明な海が照りつける南国の太陽に輝き、白い砂浜と、豊かな森の中で原住民たちが暮らしている。その中に、アメリカ兵らしい二人の若い白人が混じり、原住民らと拙いながらも心を通わせている雰囲気をうかがわせる。そんな中で、そのアメリカ兵がつぶやく。“what’s this war in the heart of nature?”

このアメリカ兵ウィットは大いなる自然と、その中に生きる原住民たちの暮らしとに完全な調和を見いだしている。生の源たる、優しくそして恐ろしい自然と、ごく当然の摂理として身近に存在する生と死。それらを、彼らは彼らなりの方法で真摯に受け止め、対峙している。
その自然の摂理の外側で繰り広げられる戦争という人間の行為に、ウィットは意味を見いだすことはできない。降り注ぐ木漏れ日の中に、彼は桃源郷の白中夢を見ようとしているのだ。原住民たちとのふれ合いが、つかの間であるとはいえ彼の求めているものと重なる。そこに、彼を戦争の現実に引き戻すアメリカの軍艦が現れる。

ウィットの上官であるウェルシュ(ショーン・ペン)は歴戦の末、数々の修羅場を目のあたりにし、それをくぐり抜けてきた。生き残る確率を増すには、戦闘するマシーンにならなくてはならないと頭では理解しているし、戦場で生き抜いてきた経験は彼をより戦闘マシーンに近づけていった。
そんな彼の目に、ウィットは他の者と違った存在に映る。生き延びるためには、彼の考える戦争という現実=”見ず知らずの敵を殺す戦闘”、そして”調和を乱す部外者を拒絶する自然”との戦いを繰り返さざるを得ない。その戦いの中で、彼のまわりの人間は傷つき、命を落としていく。しかしウェルシュは、果てしなく続く戦闘の中で生き延び続けることによって、傷つき失われる命を機械のように無感覚に受け入れるようになってしまうことを恐れているのだ。実際、死んだ僚友を目にして「何も感じなくなった」とつぶやく別の兵隊の言葉に動揺する。だから、ウィットが”戦闘の現実”を超えたところに生と死の問題を見いだし問いかけているところに惹かれ、そこに彼自身の現実の手がかりを見つけようとする。

中隊を指揮するスターロスは、強固な反撃の中突撃を命令する上官トールに逆らう。次々と部下が命を落とす中、彼は神に問いかけ、答えを示すよう求めるが、それに対する確たる啓示はなかった。しかし、繰り返される戦闘の中”問いかけることそのもの”が、生への希求として、あるいは自らが、そして彼の率いる部隊が生き、(生き残っている)存在していることの意義を確かめるための行為として語られる。戦争に身を置いたことによって、死は彼にとって喪失を意味するようになった。

ベル二等兵は、残してきた若い妻と過ごした日々を次々と回想する。戦闘が激しければ激しいほど、その回想はノスタルジックに美しく昇華され、詩的なものになっていく。その”詩的な”ものは、スターロスと同じように、生への希求そのものなのかもしれない。彼も自問する。”戦争を終え彼女のものへ戻ることができたとき、自分は元の自分に戻りたい。しかし戻れるだろうか?” と。彼の回想が美しければ美しいほど、それは失われたものであることを意味し、元の彼には戻れないであろうことを示唆する。戦争はベルにとって、自分を根本から変えてしまったものとして彼の現実となる。
この映画は、いわゆる戦争映画、反戦映画といったものとは異なるように思う。大学で哲学を教え、ジャーナリストとして雑誌等に寄稿していた監督のテレンス・マリックは、映画という手法を用いて彼の表現したいものをいかに見る者にとって意味のあるものにするかを求めていると言えるのではないか。
同時期公開された「Saving Private Ryan」では、リアリスティック=(リアルではない)に戦闘シーンを描き、かつセンチメンタルなストーリーの帰結によって戦争があったという事実を感情に訴えることで後世の人々に伝えようとした。しかし、「Thin Red Line」のテーマは、我々人間が何かに対峙することによって初めて何かを認識しようとし、それを現実として捉えるということを示すことだったように思えるのだ。歴史においては事実として存在する「戦争」というものに対し、後世に生きる戦争を経験していない我々はどう対峙するのだろうか。戦争の酷さに対する感情は、戦争をしてはならないという理性を育てるかもしれない。しかしそれはあまりに楽観的なあいまいなものでもある。

「Thin Red Line」におけるさまざまな登場人物のさまざまなモノローグ、自然の摂理の内側に生きる原住民の自然との関わりと暮らし、光、透明な水、豊かな森ーーこれらすべてが詩的に語られ、我々見るものは映画というメディアを通してそれを詩的に捉えるすべを与えられる。”詩的”とは個人個人の、感覚を通した”世界”の認識のプロセスであるとするならば、「Thin Red Line」のテーマがもたらす詩的なイメージは今を生きる我々にも強く提示されて受け止められ、その意味について個々に対峙する機会を与える。そうして認識されたものは感情のみで一時的にあおられたものより、強く我々を突き動かすのではないだろうか。

戦後60年の節目である今年、戦争を経験として知る人は年々少なくなってきている。そんな中、我々は戦争を現実として捉えるすべをあまりにも知らないし、全ての人間を巻き込んだ出来事であったことを忘れ、一面的な見方で強引に捉えようとする態度を強くしている。その結果が靖国参拝問題であり、昨今みられる感情に訴えることのみに注力した戦争アクション映画である。センチメンタルな感情によるメッセージは、一時的なものしか生み出さない。我々の中の何か大きなものが失われてしまっているのではないかという問いを、「Thin Red Line」という映画は呼び起こす。

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20050521070605 「Irma Vep」と「CLEAN」のマギー・チャン

「CLEAN」はマギー・チャンが「Irma Vep」以来再びオリヴィエ・アサヤスとコンビを組んだ最新作。マギー・チャンはこの作品でカンヌ映画祭主演女優賞を受賞した。ほかにニック・ノルティがすばらしい演技で映画を支えている。

Irma Vepにおいて、マギー・チャンは「有名女優」の映画撮影シーンを「演じて」いる。すでに映画撮影現場を映画化するという時点で虚構の世界をさらに虚実入り交じったあいまいなものへと変容させているのだが、「マギー・チャン」という女優としての存在そのものが、社会において認知される時には一人の人間という実体ではない「アイコン」としてのものであることを前提にこの映画はスタートしている。香港、アジアの映画界では名実共にトップであるはずの彼女が、ヨーロッパの撮影現場においてはまるで無名の扱いを受けるあたり、(その設定には無理があるにせよ)「有名」であるということがいかに作り上げられた虚像であるかをまずは浮き彫りにする。

Clean 「Irma Vep」と「CLEAN」のマギー・チャン

スターの虚像をはぎ取られたマギー・チャンは、香港のスターではなく、一人の人間として実体を持つ対象に還元されている。(オリヴィエと彼女は当時恋愛関係にあり、その後結婚、離婚)しかし撮影が進むにつれ、Irma Vepを演じるマギー・チャンと、役柄であるIrma Vepの境界がしだいにあいまいになっていく。女優という実体を超えた存在が、自分ではない「役」になりきるということにどんな意味があるのかをオリヴィエは問うことで、一人の人間が実存するということと周囲がそれを認知するということのあいまいさ、脆弱さを浮き彫りにしていた。

「CLEAN」においても、マギー・チャンはロックスターの妻、自らもMTVのホストという社会においてはアイコン化された実体のないイメージを背負っている。その実彼らはドラッグにはまり、そのことで喧嘩の絶えないのが実際の姿だ。その限られた世界の中では、日常生活も、自らが生んだはずの子供ですら彼らにとって実体ではなかった。
しかし、彼女から多くのものが抜け落ち始める。有名人という虚像がはがれ落ちたとき、彼女に残ったのはドラッグ中毒である現在の荒んだ自分という実体と、自らが生んだ子供の存在だけだった。すがりついていた虚像を失い、現実と向き合う決心をして初めて彼女は実体としての、一人の人間としての存在として歩み始める。

インタビューにおいてマギー・チャンは、「この映画においては「演技」はしなかった。役になりきった上で、それが新しい自分となり、その自分を出しきることに努めた」と語っている。すばらしい演技で映画を支えるニック・ノルティーも同じことを言っていて、その意味でもこの映画が「映画」という虚構に「生きる」人間たちの存在を捉えたものであると言えなくはないだろう。映画という世界の中での現実。それが、見るものの現実と交差したとき、映画が虚構を超え我々に入り込むきっかけを創りだす。

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hiroshima Hiroshima, mon amour 24時間の情事

広島の映画撮影に日本を訪れたフランス人女優と、偶然出会った日本人建築家の、どこまでも交わることのない存在とすれ違いを描いた映画。監督は「去年、マリエンバードで」のアラン・レネ、原作・脚本は「ラ・マン 愛人」のマルグリット・デュラス。
ふと出会ったフランス人女優が原爆について思いを巡らしている。それを日本人である建築家は表面的な感情による理解だと思っているにもかかわらず、彼は彼女を熱望する。女優にしても、始めは一夜のみの関係を求めていた。最初から、日本的な情感の交わりではなく、肉体の存在を通した西洋的な関係が広島という特殊な舞台を背景に語られる。

しかし映画が進むにつれ、その距離を保った関係が崩れ始める。
女優には敵国ドイツの兵士との密通を断罪された過去があった。誰にも語られなかった、故郷で負った傷の痛みと孤独とが、ヒロシマという別の大きな傷を負った土地においてよみがえってくる。彼女は異国の日本人に過去の記憶の影を重ね合わせていたのかもしれないが、夫にも語ることのなかった過去を、ヒロシマという土地で異国の男性に語ることで彼女は何かを求めている。

しかし建築家の彼女についての理解が埋めることの出来ないひろがりを持っていることも微妙に感じ取っている。それゆえ求められても彼女は拒絶するしかない。求められているものが、肉体の存在以上の、実体のある彼女自身でないことを知っているからだ。どうしても埋まることのない距離。にもかかわらず、彼らは何かを相手に求めずにはいられないのだ。

今現在の肉体の存在は、過去の埋もれた記憶をも提示しているのだろうか?そして他人は、そのあるがままの存在を認め、受け入れることができるのだろうか? 「君はヒロシマで何も見なかった」という男の断絶の言葉。それは戦争の傷跡の深さからくる絶望でもある。反戦映画を幾度も手がけたレネは、戦争が肉体だけでなく精神的にも人々を引き裂いたことを描こうとした。この外界との断絶が、彼女を追いつめていく。戦争と恋愛を通して、そしてそれ以上に一人の人間としての存在と他の存在との関係を鮮やかに描き出している点において、この映画の意味はある。

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20050520123134 「誰も知らない」

日本より遅れること半年、とうとう全米で公開が始まった。

2時間の間、息が詰まるほどの緊張感が続く。これは何処から来るのだろう。
観客はこの映画が実話をもとにしていることをたいてい知っているだろう。その時点で、是枝監督の目論見はすでに見る前から半分達成されている。この映画に登場する、見て見ぬ振りの傍観者である大人達と観客は同じ視点にあり、そこから子供達を見続けることをこの映画は強制する。それは監督自身も同じであるのを知っていて、だからこそカメラは子供達の繊細な心の動きや動作を見逃すことなく捉えようとする。

もちろんこの映画のテーマが今の日本の社会の「かさぶたの出来ない傷」のような影の部分を扱っていることにも大きな意味がある。でもそれに対して感傷的/感情的な反応を求めることをせず、(そうしてどうなるというのだろう?「まっとうな親になろう」と考え直させること?)子供と大人、観客ー監督と子供という状況/立場関係をはっきりさせることで見る者の視点を同一の次元に引き戻す。それは傍観者という立場を観客に強いることで超えがたい距離のあることだけは自覚させられながら、感情はどこまでも対象である子供たちと自らが属する大人世界の身勝手さにとらわれ続けるよう仕向けられた罠なのだ。無自覚こそが弱者の存在そのものをも消し去ってしまうことを喚起することーそれを達成した時点でこの映画の持つ力は静かに、だが確実に広がってゆくように思える。

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