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blue flow チラシ 「平家物語・語りと波紋音」と「blue flow」コンサートに寄せて

先日、「波紋音」という鋳鉄製の創作楽器を演奏する永田砂知子さんの演奏会に行ってきた。今回の演奏会は、電子音響と波紋音を組み合わせるコラボレーション企画の一環として行われたもので、先ごろリリースされた「blue flow」というCD録音のライブパフォーマンスである。

横浜の三渓園にある旧・燈明寺の堂内を演奏会場に、音に反応する光とガラスのオブジェを組み合わせたインスタレーションが置かれ、フィールドレコーディングによる自然音をコンピューター処理した環境音が堂内の複数のスピーカーから個別に流れている。その中心に、大きさや形の異なる波紋音を並べ、堂内に響く環境音に対して即興で演奏がなされる。
もちろん、お堂の外の鳥の鳴き声や子供の声も壁越しに聞こえてくる。現在は寺院として使われていないが、本堂はもともと仏教の修業の場として燈明だけの暗がりの中、経典を唱える声が響いていたはずである。そんな想像の中の音も、遠く聞こえてくるような気がする。
今回の演奏会では、自分の周りの環境音を様々な場所で録音し、コンピューター処理することで単なる環境音の「再生」とは異なる、より記憶の中の音の表現とも言える電子音響と、波紋音演奏が、暗くて視覚による環境判断がほとんどできない寺の堂内という非日常空間で組み合わされる。音に反応する光もガラスを媒介して空間操作に一役買っている。

Heikemonogatari s 「平家物語・語りと波紋音」と「blue flow」コンサートに寄せて
ーーこれまで、永田さんの演奏は演奏会の形ではなく、平家物語の演じ語りとのコラボレーションの形で聞く機会があった。平家物語は普通、メロディーを持つ琵琶の演奏にあわせて吟唱されるが、この演じ語りと波紋音の組み合わせはそうした形とは全く異なるもので、役者が原文を朗読しながら所作を交えて内容を演じ、それに呼応するように音階のない波紋音が即興で演奏される。多彩なテーマを持つ平家物語の各話に対して、感情を煽るようなメロディーによる極彩色の着色をするのではなく、人の肉声と所作、空間に重層的に広がる波紋音の音とその響きによって平家物語の世界観を描き出す。
能や狂言に通じる舞台空間での移動や体の所作が、有限であるはずの舞台空間を随時塗り替え、変換していくようでもある。また残響や反響音と常に交じり合いながら音を生み出し続ける波紋音の音が、時には演じ語りと呼応する形で、また時には物語の場面を波紋音の音自体で描き出し、空間を生み出す。見る側は想像力を掻き立てられると同時に、所作や声、音響そのものが現前させる平家物語の世界を空間の中で体感できる。それは、かつて舞踏や神楽、狂言、能といった表現形式が神の領域を現前させ、その場にいる者の間でそれを共有する催事の名残りであったことを思わせる。それほどの感情移入を経験し、自分でも驚いた覚えがあるのだが、それを促した要素の一つは波紋音の音であったように思う。ーーー

波紋音コンサート 「平家物語・語りと波紋音」と「blue flow」コンサートに寄せて

波紋音は、日本の庭によく見られた水琴窟の音をイメージして制作されたものだという。水琴窟は大きな素焼きの瓶を地中に埋めたもので、数滴の水滴が瓶の縁から底に連なって滴り落ちることで陶器でありながらビビリ音のような金属質の反響・残響音を残すが、波紋音の音はマリンバのように純粋で濁りのない音ではなく、打面のスリットが共鳴し、かつ丸みのある筺体内で音が反響しあい、複雑な響きのある音を出す。音階こそないものの、筺体の大きさや鉄の厚み、スリットの幅、叩く位置、鉄の鍛え方の違い、さらには叩き方やスティックの素材、敷き布や支持材などの緩衝素材の有無によっても違う音を出す。湿度や気温なども影響しているに違いない。今回は5つの異なる大きさ、形の波紋音が演奏された。

永田さんの演奏による波紋音の演奏は、打楽器演奏の連打や反復の中にリズムや音のゆらぎが込められ、その残響や反響で何かが励起される感じを受ける。まるで凪だった海の上に幾つもの波浪が立ち始め、時に組み合わさって大きな三角波のうねりを生み出すかのようでもある。即興といえども無作為ではなく、無数の小川の流れが集まって大河となる大きな流れーーカオスとしての「blue flow」を感じる。
そしてこれに組み合わされる電子音響(この言い方は何かもっといい表現方法があると思うが思いつかない)もまた、フィールドレコーディングされた場の記憶として、またその記憶を意識下からすくい上げ、確かめるように作曲家の中で再定義され再表現されたものと感じられ、瞑想や記憶の領域と深く結びついている。2つの大きな流れは、まるで記憶やその追想のプロセスを引き起こす呼び水のようにでもあり、時には押しとどめることのできない強さを伴って聞く者を圧倒する。この繰り返しのうねりが、瞑想状態へといざなってくれる。

演奏中、視覚はほとんど閉ざされているにも関わらず、空間が強く意識されるのはなぜだろう、と考えていた。少なくともここは寺の堂内である、という予備知識がありながら、演奏が進むにつれ空間は拡がりつつ狭まり、開きつつ閉じているように思われ始め、予備知識や経験則による空間把握もどこかあやふやになってくる。逆に、感覚による空間認識の期待は強くなっているようで、そこに不規則なリズムのゆらぎや音の断片が捉えられると、自分の記憶や意識下へ通じる回路が明滅して、開かれたり閉じたりするような感覚を覚える。白昼夢や既視感に似ているかもしれない。(実際に音に反応するインスタレーションが揺らいでいたが、その変化はあまり強くなかったからか感覚を刺激する度合いは音そのものよりも低い)

よくよく思い起こしてみると、空間認識は視覚よりも、聴覚や嗅覚、触覚など「空気」の作用を媒介としている場合が多いように思う。光の届かない空間でも(あるいは目隠しをされている場合など)我々は空気の流れや淀み、その匂いで閉塞感や開放感を感じ取る。あるいは音の反響を通じて空間の拡がりや閉じ具合をかなり正確に把握することができる。例えば鹿威しの音と残響の繰り返しが感じさせる空間の広がりや、芭蕉が古池に飛び込んだ蛙の残響音、蝉の声が岩にしみ入る音の感覚をを閑さという意識に変換した様を思い起こせばわかりやすい。その意味では、今回の演奏会は空間内で起こるほとんどすべての出来事が聴覚と触覚(音の波動)に集約されることで、より研ぎ澄まされた感覚が空間認識に向けられていたように思う。そして、そのように自らで知覚し把握して意識下に置かれない限り、空間は自身の認識する対象として存在し得ない。言い換えれば、様々な感情や記憶を呼び起こすほどにエネルギーに満ちた(あるいは欠けた)空間は、その空間を感じ取り意識する側の認識の強さ(弱さ)とも言えるだろう。総合的であったはずの建築空間が、視覚偏重に傾きがちである点を自戒すべきと感じた。

「平家物語・語りと波紋音」公演、そして今回の「blue flow」コンサート、どちらも強く体感し、深く印象付けられる機会となった。

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タイトルだけを読むと「何のこっちゃ」と思われるだろう。
唐突ついでにと言っては何だが、映画「Blade Runner」の写真解析シーンをご存知だろうか。

主人公がある写真を機械にかける。それを音声でガイドしながらある部分を拡大したり移動しながら写っているものを解析するシーンである。今となっては別段驚く程のものではないかもしれないが、初めて見た時には「凄い!!」と思ったものである。(実はどちらかというと音声でコントロールする部分に惹かれたのだが)もう一つ、屋台のオバちゃんが何かの鱗を電子顕微鏡で拡大して見て、製品の質の高さに言及し、さらにそこに記されたシリアルナンバーから製品を特定するなんていうシーンもあった。

今やデジタル写真は、それが必要であるかどうかは別として、ある意味でこの解析シーンを再現することが可能である。最大解像度で撮影した写真をパソコンのモニターで等倍にしてみれば言わんとしていることがわかっていただけるだろう。縮小しているときには見えない情報もそこには写り込んでいる。(もちろん、映画の解析シーンは「印刷技術」も同様に超高解像度情報を記録しており、拡大に耐えることが再現条件になる)今回この写真の解析シーンが浮かんだのは、写真の解像度をその写真の良し悪しではなく情報を取り出すために利用している点を思い出したからだろう。

自分の所有するNEX-5ダブルレンズキットの16mmレンズ、18-55mmレンズは、周辺画像が流れる、周辺減光が酷い、解像度が低いと特に16mmレンズは一部で叩かれた。さらにNEXシリーズと比較されるパナソニックのM3/4は、特に20mmレンズの解像度が高いと一部で騒がれ、NEXと比較されたことで「ソニーのEマウントレンズはよくない」という評価がかなり広まったように思う。アダプター経由でライカやツァイス等の光学的に性能が高いと言われるレンズとも比較されてしまい、「センサーはいいのにレンズは。。。」と結論付ける人が後を絶たないのである。
実はNEX-5後継のNEX-5Nや、同時期に出たα77などではレンズの光学性能を補正するデジタル補正がかけられるようになったとのことで、センサーや画像処理エンジンが相当性能アップした上、このレンズ光学補正によりさらに見かけ上の解像度や歪み補正が向上しているということだそうだ。サンプルを見ても実際明らかだった。「見た目」には。色再現や解像感の向上によって、まるで写真が良くなったかに思うのはまあ個人の自由である。それは結局、我々の知覚や認識能力の限界を示すものでもあるのだが。(自分も建物の写真を情報として撮ることが多いため、たる巻き歪みをソフトで修正することは多い)そこまで求める人はそれくらい可能なソフトを利用している場合が多いだろう。カメラ上で処理するか後でソフトを用いて処理するかの違いに過ぎない。

以前、我々がある写真をより「美しい」あるいは「好ましい」と判断する材料の一つとして、コントラストの強弱が与える影響について紹介したことがある。それに似た要素の一つとしてこの「解像感」がある。(記事を参照していただければわかると思われるが、実際の「解像度」ではなく「解像している感じ」と言うべきものだ。シャープネスを写真ソフトで上げると、実際の解像度が上がったかどうかではなく、上がったように感じる。これは解像度が上がるのではなく解像が上がったと感じるような操作である。もちろん言葉のアヤではあるので、「技術的に解像度を上げている」と言うこともできるのだろうが。これもデジタル時代になってより自由に広く利用することが可能になった技術であり、SFだった映画のワンシーンも我々には実用可能なものになった)

現実として、我々の目はもはや、今日のデジタルカメラがセンサーで捉える情報を全て知覚する能力は持ちえていない。もちろん実際には、そうした知覚認識を超えた情報の集積が見た目のコントラストや解像度に影響を与えている可能性は強いとしても。(写真に限らず、音などでも同様のことが言われる) レンズなどの光学性能は、ある意味で我々の知覚能力に即したレベルに限定されてきた。カメラや天体望遠鏡を例にとるならば、レンズや反射鏡の大きさが光の集光力を既定し、それを接眼レンズや写真フィルムなどを用いて我々が知覚できるよう可視化する。短所や限界を補う形で肉眼はフィルムへ、フィルムはデジタルセンサーに取って代わり、さらにはデジタル処理技術がセンサー知覚情報を拡張する。この拡張操作自体はフィルム増感だろうがデジタル処理だろうが、性能に差はあれ求めるものは同じである。我々の知覚能力を超えた世界を認識可能にすること。
もちろん、光学性能が低ければいくらセンサーが良くても性能は向上しない。「拡張」という言葉を用いたのはそのためだが、その意味で言えば、人の知覚機能の拡張を手助けするデジタル化とデジタル処理という「手法」もまた、人の世界認識や処理操作能力を向上させるためのある一つの概念を基にしたものでしかない。 だからだろうか、写真を語る際に解像度や色についてばかり拘る輩に対してヒトコト言いたくなるのである。それは入口であって目的地ではないのだから。


先に述べたように、デジタル技術を用いて世界を認識しようとする方法は、今や我々人間の知覚認識などをはるかに超えた別の次元に入っているのではないだろうか。我々がこれまで知覚・認識出来なかったものを我々が知覚可能なレベルに処理し、我々の理解と認識を深め利便性を高めることに寄与している。ポイントとなるのは、それが我々にとってどういう意味を持つのかという点に焦点を向けるべきではないのか、ということだ。それを考える事の方が圧倒的に面白く、可能性も感じられるように思うのだが。

ペンタックス O-GPS1という天体撮影のための装置は、「レンズの向いている高度、方位、カメラの姿勢の情報と、カメラが持つレンズの焦点距離の情報をもとに、写野内の星の動きに合わせて撮像素子を動かし、星を点像に止める追尾撮影を実現」するーーなんていう装置も市販されている。なおコンポジット合成自体は惑星の撮影等にフィルム時代から用いられ、別に新しいものではない。(ex.天体写真撮影術 http://motoraji.com/blog/722/)

一つ、先述のSF画像解析に似た実例をあげてみよう。 現在NHKで、「コズミック・フロント〜発見!脅威の大宇宙」という素晴らしい番組が放送されていて、宇宙や天文好きにはたまらないのだが、「爆発寸前!?紅い巨星・ベテルギウス」という回である面白い実験が行われていた。 地球は大気でお覆われているため、地上から宇宙を「可視光」で見ると大気の流れにより目に見える像は揺らいでしまう。それ故大気の薄い、空気の揺らぎの少ない高山等に光学望遠鏡が置かれることが多いのだが、いくらスペックでは上回っていても宇宙に浮かび大気の影響のないハッブル宇宙望遠鏡には実性能でかなわない場合が多い。

この番組では、爆発寸前と考えられている馴染み深いオリオン座の一等星、ベテルギウスが「円形ではなくコブを持ち歪んでいるのではないか」という仮説を確かめるために行われた「撮影」方法を紹介している。地上から撮影すれば、大気により星像は揺らいで歪みを確認するどころではない、と普通なら考えるところだが、これをある方法で「補正」するのだ。 番組ではその方法を説明するのに、トランプのカードを揺らいだ水中に沈め、これを何枚も撮影する方法を紹介していた。いくら水が揺らいでいても、数多い写真の中には歪みの少ない、良く「解像」している写真が偶然得られる時がある。天体の撮影でも同様、大気の揺らぎが偶然おさまった瞬間に撮られた「スーパーショット」が、数十万枚もの写真の中にはある程度存在する、と仮定したのだ。それら一部のスーパーショットをアルゴリズムを用いて自動的に抽出し、これらをコンポジット合成することでより精度の高い、言わば解像度の高い最終画像を得るのである。これなどはデジタル撮影やデジタル画像処理、デジタル画像解析が初めて可能にしたと言えるものである。これとてハッブル宇宙望遠鏡はいともカンタンに超えていくのだが。

こうした技術がやがてそこいらのコンパクトデジカメにフィードバックされないとも限らない。実際に一部利用されつつあるではないか。HDRや高感度・超高速シャッターによる連続撮影を用いたスローモーション撮影など。デジタルノイズリダクションや解像感を高める画像・映像アルゴリズムの利用は、今や我々の知覚認識能力などを圧倒的に越えるレベルを持つに至ったが、我々の周りには既に日常的に数多く存在している。

あるいは、可視光線の撮影のみならず紫外線や赤外線で捉えられる光などを全て合成し、一つの画像にしてその天体の「ある種の」姿を可視化することも行われている。さらには、光学の力では知り得ない世界を垣間見ることの出来る電子顕微鏡など、まったく異なる手法を用いた可視化装置もある。 もはやそうなると、眼に見える知覚という範囲を超えた世界を可視化しているわけで、もはや光学的なものかデジタル補完によるものかを「区別する」事自体意味のないものと言うこともできる。「レンズの光学解像度が高い」方が「デジタル補正による解像」より優れていると考えるロマンティックな時代も、そのうち過去のものとなってしまうだろう。それほどのインパクトある変化が一気に来る可能性もあるのではないか。
もともと天文や物理学の世界を見てみれば、その大部分が視覚に頼らない、想像力と認識力の世界であるのだから。


飛躍のし過ぎはともかくとして。 我々が写真メディアによるある画像を「認識」するという行為は、既知の情報や知識、記憶とのすり合わせにより判断する行為と言える。写真というメディアの存在意義もそこにあると考えている。しかし、だとしても写真とは、我々が世界を認識し、感情を寄せ、記憶に留める行為の一つの形として存在するに過ぎない。 共有をしやすくそれを求めやすい写真というメディアが(だからメディア足りえるのだが)その「良し悪し」を評価して価値を定めようとする行為に結びつきやすいことは確かであり、それ故にニュースやアートへと昇華し得るメディアでもあるのだが、それがもし我々の想像力や思考力を一瞬の知覚の強弱によって限定し、固定してしまうのであれば、それはまた危ういメディアと言うこともできる。そういう認識や判断といった行為そのもの自体が曖昧で、簡単に操作されやすいものであることもまた、忘れるべきではないと思うのだがいかがだろう。

カメラの性能至上主義に陥りがちな自分に対して自戒の念も込めて。(GR DIGITAL IVについても書きたいのだが。。。矛盾しがちな物欲を抑えるためでもある)

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写真家・作家の藤原新也氏のコラムが興味深かった。(4/3 朝日新聞)
ここ最近、写真業界では激震が続いていると言う。京セラのカメラ事業撤退、(Contaxブランドが宙に浮いている)ニコンのフィルムカメラからの撤退、コニカミノルタのカメラ事業の委譲、そしてその意味するコニカ(元サクラカラー)フィルムの消滅。カメラのデジタル化によって、老舗であるメーカーも撤退を余儀なくされる時代になったことを物語っている。
その中で、藤原氏はデジタル化自体に拒絶反応を示したり、フィルムと比較してデジタルの地位を貶めたりすることがデジタル化の意味そのもののについて議論する機会を奪っている可能性を指摘する。
「誤解を恐れずに言えば”人間の眼”そのものもここ30年の間に徐々にデジタル化してきていると考えており、むしろハードの方が後追いで人間の感覚に追いついてきたと言えない事もない」
この藤原氏の指摘は、カメラやそれにまつわる写真という分野を超えて、我々のコミュニケーションの仕方が変化している事、その中で表現の一つの手段である写真メディアが社会で占める意味や役割も変化してきた事を鋭くついているように思われる。
”人間の眼のデジタル化”の意味する所について、藤原氏はまず技術的な点から指摘する。
「たとえばデジタルの”欠陥”としていわれてきたダイナミックレンジ(白から黒に至るまでの諧調表現)の不足という点に関していえば、30年のスパンでフィルムを使ってきた私の眼からすると、そのフィルム自体もこの間に諧調の再現が広くなるのではなく、逆に明らかに狭くなっている。つまり、基本性能が低下しているという事だ」
これの意味する事はどういう事なのか。
「わかりやすく言うなら白から黒に至る諧調表現が豊富であるという事は、『見た目に地味に見え』諧調表現の幅が狭いという事はコントラストが高くなり、『見た目に派手になる』という事だ。フィルムは“見た目”重視に向かったという事である」
写真を撮り、物として残すという行為そのものに我々は写真発明以来意味を見いだしてきたわけだが、こうしてカメラが何でもないものとして日常的に使われ利用されていく中で、写真を撮るという事の意味は劇的に変化したし、写真そのものに求める要求も変わっていった。
パッと見た目にはっきりと、くっきりと、色鮮やかであることで、完成した写真そのものが写真として、物としての美しく見える事に重きが置かれる。
「それはユーザーの眼自体がこの30年のうちに”デジタル化”(デジタル慣れ?)し、見た目に派手な映像を求め始めたという事と無関係ではないーーーその事は諧調の表現にとどまらずフィルムの彩度においても同様の事が言える。彩度とは優しく言えば”色の派手さ加減”のことだが、かつてのフィルムの彩度が仮に自然に近い地味な色であるとするなら、今主流となっているフィルムの彩度は既に飽和点に達しつつあるほど高く、『人工的』なものになっている。」
この”人工的”という言葉の意味する事は何だろう?我々は少なくとも写真を撮るとき、”写真を撮る” “撮りたい” という意識から写真を撮る。そこには思い入れがあり、残したいという要求が存在するだろう。いわばその時点で、写真として形になる物は人工の、意識や記憶の産物だと言える。以前「ゲルハルト・リヒター展」で述べた、視覚という知覚情報と、それを記憶し、写真やアートとして再現することの差異について、アナログからデジタルへとハードの面からも移行しつつある現在、再考する意味はあるのではないだろうか。
「例えば木のは一つ撮っても、その緑の色は実際の色とは似ても似つかない、あたかも造化の葉のように派手な色としてフィルムに定着される。このことはユーザー(プロを含め)の視覚も自然ではない派手な色を記憶色として脳内に定着させ、それを「きれい」と感じるデジタル的感性になっている事を示す」
被写体を眼という知覚を通して捉え、藤原氏言う所の感性にまで高めるのは、もちろんそうした「きれい」という感性をも含む我々の、記憶や主観、感情が介在するプロセスだ。ーー果たしてそれは本当に自らの感性によるものなのか、そして写真というメディアに残されるものが、自らの介在したプロセスの記憶であるのか、もしくはカメラというハードによる記録なのか。そしてその根幹にある、何のために写真を撮り、何のために写真を残すのかという最も根本的な問いーーカメラがここまで人々の手に行き渡り、写真を撮る事の特殊性が消え去り、その簡便性から利用目的も劇的に変わりつつある今現在においては逆に問い直しづらい問いーーが残される。写真というメディアにはハードに頼らざるを得ないという点からも、またハードを用いさえすれば形あるものとして残るという点からも、常に危険な落とし穴が隠されているのだ。「写真のために写真を撮ってはいないか?」

日本は自然に生き、地味な色とテクスチャーに囲まれて養った美への感性を、人工物のあふれる都市的環境への移行によってより刺激の強いものへと反応する感性へと変化させてきた。テレビモニターは派手な彩度や諧調を持ち、TVゲームやパソコンモニターはさらにその傾向が強い、と藤原氏は述べる。そうした刺激の強化による感性の変化は劇的である、とも。
「おそるべきことに、わずか10秒で人間の眼の感性は瞬間的に変化するのだ。例えば彩度の異なる2点の風景写真を用意し、始めに自然の彩度に即した地味な写真を見せる。次に彩度を高めた写真を10秒間見せ、その後に始めに見せた写真に戻ると、派手な彩度に刺激を受けた脳はそれを精彩を欠いた物足りないものと錯覚してしまうのである」
藤原氏は写真家としての立場から”眼の感性”に絞った意見を展開しているが、これは何も視覚に限ったものではないだろうとして、続ける。
「仮にそのような色価の刺激が10年続いたとするならば、その錯覚が生物学的な脳気質の変化をも生んでしまうであろう事は容易に想像がつく。ーーーアナログからデジタルへの移行は、そういった現代人の感性のデジタル化と同時進行の出来事であるように思われる」
それはなにも、否定的な捉え方とするものではない。ただ何かを作る者としては、少なくともその意味する所を意識する必要はあるだろう。
「タテ縞の飼育小屋の中で育った猫はヨコ縞が見えなくなるという衝撃的な実験があるが、どうやら2000年代の人類は、その猫の生態に似てきているようだ」

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ゲルハルト・リヒター。20世紀現代アート最後の巨人。

「デュシャン以来、作られるものはレディメイドだけである。たとえ自分が作ったとしても・・・」
近代、そして現代アートの激動の波動を受け止め、それでもなお現代アートを生み出し続ける絶望。そして強度。
絵画が、現代アートが「なにものか」の具象化への意志とするならば、20世紀を経験した我々に残された具象化すべきものは何か。決定不能性の彼方に見える思考停止への予感と恐れ。安定への決して辿り着くことのない絶望的な歩み。そうして20世紀の回帰した絶対零度の原野、それでもなお、そうして冷たく凍りつく原野を、覚醒を待つ記憶と跳躍の意志の充溢した原初の海に還元しようと立つ孤独と、かすかな希望。
「ーデュシャンによって、絵画は死んだ」。その一言に込められた、過去への憧憬、現在という意識、未来への跳躍を待つ意志の、自己による、自己のための静かな認識。その静けさの中から見える、揺らぎ振幅する時の流動性を頼りに、自らと、自らを超えた広がりの中からすくいとられ昇華されていく意識と記憶。果てしない知覚の渦の中をさまよいつつ、覚醒していく意思と認識の跳躍が積み重なり現前してゆくプロセスとしての行為は、すべては必然であり、それ故に、すべては決定されることなく、揺らぎ、振幅する事象となって漂い続けることを受け止める媒体としての自己を緩やかに浮かび上がらせる。彼は事象を反射する鏡であり、また透過するガラスでもある。

「私には何も言うことがない、だからそのことを言う」ーテーマを問われて。ジョン・ケージの言葉を引用するリヒター。
ー絵画は全て抽象である、ということへの問いと認識とが、知覚を「見る」という行為へと昇華し、認識への入り口に導く。アブストラクトとは感覚/認識/情動/記憶の行為とプロセスそのものであり、その軌跡としてのアートは見る者にプロセスを反復し、表現する者と見る者両者の記憶を覚醒させる。それは「知識」というしがらみを瞬時に飛び越え、「見ようとする者」を研ぎ澄まされた感覚と記憶の原野に立たせるーーそこにあるのは直接的で偽ることのない、表現者との、また彼を通じて広がりを持つ過去との対話だ。20世紀現代アートの数々の取り組みーー異化、転化、それによる嘲笑、権威の剥奪、教育、感化ーーリヒターの生み出すものには、それらを通りすぎた後の、雨後のような誠実さがある。鏡とガラス。反射と透過、透明性と不透明性。それは手法でありながら、同時にそれらを通して映し出される何ものかへと辿り着くための手がかりであり、また見る者をも取り込む広がりをもったメディアなのだ。
20060122133951 ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
<ルディ叔父さん>1965. Oil on canvas
ナチス将校の軍服に身を包み、その後入隊2週間で戦死した叔父の姿を写した写真。そうしたわかりやすい物語性の背景で記憶にとどめられることの、叔父本人と「写真の像」との無関係。そうした記憶を通してのみ、あるいは元となった写真の像を通してのみ現れる叔父の存在。それはポップアートが強烈に示した、物語性という虚構の告発である。その時写真は本当に「存在」を現しているのか。写真を見ることによって呼び覚まされる記憶が過去と現在をつなぎ止めることによってはじめて意味を持つならば、「見るという行為」は現在に固定されたものではない。写真を複写し、描き、そしてその輪郭を崩し、ぼかし、異化するーー物語性の呪縛を逃れ、見ることの意味を問う、知覚と認識<あるいは翻訳>の差異を問う作品。ーーもちろん、ドイツ人であるリヒターがナチスという対象と対峙する意味を問う中で生み出された作品、とも言えるだろうが。
gray ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
<グレイの筆跡>1968. Oil on canvas
写真を描いてそれを異化する操作によって時間的揺らぎと感覚/記憶の流動性を絵画化しようとしたリヒターが、今度は抽象絵画/ミニマルアートを「完成/完結」という時間的定点への固定から解き放ち、偶発性ー偶然性ではないーというミニマルアートとは相反する要素を、その<意思の動き=偶発的な未来へのベクトルを持った跳躍>のプロセスを視覚化することで「決定すること」を否定する。原型としてのフランク・ステラの作品を複写し、グレイのネガティブ、白線のポジティブをブラッシュストロークで歪めることでネガ/ポジは混じり合い、直線は歪み、切断され、ぼかされて、視覚的に揺らぐ表層的な変化だけでなく、その対比対象としての根本的な相関関係をも変容させる。こうした異化のプロセス=筆跡が、見るという行為の足がかりとなる。
05 04 07richter 4096farben5 ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
<4096の色彩>1974. Oil on canvas

知覚とは何か、何をもたらすのか。
過去、西洋絵画は我々の周囲にある目に見える事象、また物として名を持つ物質を模倣し、あるいは再構成する手段として始まった。目に見えぬ概念は何物か理解可能な物質や視覚表現に翻訳されることで具象化されたが、概念を概念として可視化することを可能にした透視図法や、知覚を翻訳せず感覚そのものを積み重ねる印象派のような近代絵画の手法、そして数々の文化的・政治的既成概念破壊を目指すことでフィールドの枠組みを横断した現代アートは、具象化の意味するものを感覚知覚、そして認識の深みへと拡げていった。

「これはパイプではない」とマグリットは描いた。「これは風景だ」「これはOOの絵だ」「これは印象派」「この絵は色がきれい」ーー現代において、もはやこうした認識は絵画を「見る」という行為とはなり得なくなったといえる。4096色=RGB 3原色の8bit諧調/カラーという、曖昧さを廃した<デジタル化=色存在の概念化>と、人間知覚によるアナログ的な色彩の概念との間に、果たしてどのような差異が存在し、どのように認識の違いをもたらすのか。「4096の色彩」は、「色彩」という感覚的存在と、物理/哲学的広がりを持つ概念としての色、そして対比/対照という相関関係により単一である色が色彩として相関的に存在規定されることを絵画表面で再構成した作品であり、その色彩は見る者の感覚に訴えながら、同時に色彩という概念と知覚の関係を具現化する。「理解する」という規定事実、そこにおける翻訳の既成概念と短絡性を始点から否定し、見るという行為から不純性を取り除く。
20060122134036 ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
<岸壁>1989. Oil on canvas

絵画という行為が、感覚を鋭敏に研ぎすまし、絶え間ない知覚とその認識、そしてそれを記憶として留める行為であることを、この絵の手法そのものが提示している。下地に塗られた色彩の構成、その上にレイヤーとして重ねられた白色。それは時に下レイヤーの色彩と混じり合い、変容と異化の揺らぎを現す。そしてそこに撃ち込まれる意思として、現在という瞬間の刻印としてのパレットナイフが、それらの蓄積を削ぎ落とし、削り取って、時と記憶の蓄積を白日の下にさらす。それを逐一なぞるかのように深い藍の色が削り跡に寄り添い、認識は再認識に裏打ちされながら、反復の中に意識の揺らぎを描き出す。
<岩壁>のタイトルが示唆するのは、自然の中の岩壁を「見る行為」と、自らの心象風景として翻訳され記憶された岩壁の差異と揺らぎを、絵画というプロセスそのものによって具象化する行為の総合である。その記憶としてのこの作品は、長い年月の末風雨によって削られ、岩肌をむき出し陰影を深めていく岩壁の姿を絵画の手法そのものが模倣しているかのようでもある。模倣と抽象化の蓄積によって描き上げられる水墨画において、描くこと自体が自然に生きることであったことを思い出す。

Forest ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
<森 (3)>1990. Oil on canvas
下地の色彩を闇のような深い青が覆ってゆく中で、絵筆にのせられた新しく輝ける色達が、静かな、しかし確かに繰り返されるブラッシュストロークのただ中に浮かび上がる。絵の具の粘りと筆跡に現出する意思と時の流動。高められた感覚の煌めきと認識のもたらす意識の深淵に、生と、その辿り行く死と直結するかのような感覚にとらわれる。<MoMA所蔵のモネの睡蓮の大作を初めて見たときと、同じだ>

Abstract3 ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
<アブストラクト・ペインティング>1999. Oil on canvas
ブラッシュストロークに託された、強固で鋭い意思。重なり蓄積される記憶の中の、意識の閃き。
abstract2 540x600 ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
<アブストラクト・ペインティング>1997. Oil on canvas
主張し、それによって決定することの否定。この作品では、色彩が比較対照を失いながらもかすかに残ることで、それを曖昧にしてゆく行為と、曖昧な中にも緩やかに浮かぶ色彩の記憶のどちらをも浮かび上がらせる。それは、グレイという黒と白の中間に位置する曖昧で、決定不能性を体現するニュートラルな色にリヒターが惹かれていた事と無関係ではない。色彩を持ちながら、この作品は行為としての<グレイ>を体現している。
彼が<グレイ>について語った言葉ーー「無主張、表現の拒絶、沈黙、絶望のための理想的な色彩。」それでありながら、<グレイ>は、「もはや揺さぶられることのない完全なもの、健やかなものを生み出そうという努力。それ自体で完璧であり、自明で、非の打ち所のないもの。グレイの作品によってそれに近づくことができる」対象、そして行為であると語っている。

glasses 600x421 ゲルハルト・リヒター展〜見るという行為
左:<直立する5枚のガラス板>2002. 右:<11枚のガラス板>(どちらも日本での展覧会の展示とは異なる)

<11枚のガラス板>は大きな展示室の白壁に設置されている。木の支えによってガラスが等間隔に壁面から剥離していくように並ぶ。透明と反射がガラス面のレイヤーによって反復される事で、ガラス面に映り込む像はにじんだようになり、またその輪郭は反復されながらしだいに弱まり、レイヤーの彼方に霧散する。作品を見る者、また展示室の他のリヒター作品も同様に、映り込む事で反復の中に変容し、霧散していく。
<直立する5枚のガラス板>は庭に面した大きな窓のある小部屋に置かれている。窓の外には大きな木がそびえ、その枝葉は5枚のガラスで反射と透過を繰り返しながら空間に霧散していく。窓の横にはモニターが設置され、リヒターのインタビューを交えたビデオ映像が流されている。

部屋を横切ろうとしたそのとき、そのモニター映像までもがガラス板に反射し、パースペクティブな空間の奥へとその像が反復され、弱まり、消失していく様に気付いて足が止まった。ドキュメンタリーという形でビデオ化される彼の姿と言葉、それがビデオ化され複製される事で一般の目に触れるという意味。そしてビデオモニターを通して繰り返される映像としての記録としてのビデオイメージ、それがこの展覧会の展示室という特別な空間で、彼自身の作品によって反射され、反復され、虚像の虚像として空間に浮かび漂い、霧散していくという関係。そこに、彼が見る者に求め続ける、「見る事」へのいざないと問いかけへの橋渡しを作り出そうとする願いがありながら、そうする事の難しさ、またメディアとして存在し、対話を求めることの刹那で儚い繊細で幻のような瞬間と、それを待ち続ける絶え間ない反復と忍耐とを認めた気がした。

忘れ得ない時間となった。

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20050811164408 攻殻機動隊シリーズの魅力

今では世界中でカルト的人気を誇るようになった映画監督押井守が、漫画家士郎正宗のコミック作品をもとにすでに2作のアニメ映画を作った。アメリカでもビデオ売り上げ1位を記録し、多くのフォロワーを生み出してきた。今回は「攻殻機動隊〜Ghost in the Shell」コミック版、テレビシリーズ、映画版、そして映画版2作目の「イノセンス」をもとに書いてみようと思う。

コミック作者の士郎正宗は、エンターテイメントとしての枠を保ちながら、人間の精神活動を抽象的な存在としてではなく、様々な形で具象化することを試みている。近未来に訪れるであろう身体のサイボーグ化と、それに伴う精神と肉体のさらなる乖離を描くことで、普遍的な問いである人間の精神と肉体の関係がいったん解体され、問いとともに組み直される。

主人公は高度な身体能力を得るために、自らの脳以外の全身をサイボーグ化(義体化)する。それを可能にするのは、すべての精神活動の仕組みが科学的(化学的)に解明され、デジタル化されることによる。デジタルデータ化/コンテンツ化された精神活動ーー思考や夢、記憶、欲求などーーは、コピーすることもできるし、模倣したり新たに作り出すこともできる。現在我々が「ヴァーチャル」といって区別できる仮想世界は、高度化すればするほど、我々人間はそれを「現実」と認識し始めるだろう。現代でも、音楽のCDによる再生や、ホームシアターのサラウンド再生など、かなりのレベルの仮想経験が体験できるようになった。「アナログ」という概念も、人の認識の上でのものでしかないのかも知れず、身体による知覚とその認識のプロセスが、電子デバイスによる状況情報の高度なデジタル化と違うのかどうかーーもしデジタル化の精度が人間の身体能力の限界を超えたとき、その差異は定かではなくなるかもしれない。

0と1というデジタルの基準は確かに抽象的だ。しかし、例えば音を例にとってみれば、それをアナログであると定義する空気振動にしても物理現象としてはサイン波、コサイン波といったデジタル的な波動の変形の結果である。それを受け止める人間の耳はそのデジタル的な波動を受け止めたのちデジタルな電気信号に変換して脳に送り、その電気信号が音として認識される。それを純粋に身体のアナログ的知覚プロセスと定義できるのかどうか。
人間脳の活動が基本的には電気的パルス以外の何ものでもない、人間の精神活動もパルスの伝達とその記録保存に「すぎない」と言い切ってしまうことに従来の哲学感では倫理的な問題を感じてきた。しかし科学的見地に立てば、パルス伝達そのものの構造や伝導プロセスに人間の能力としての存在意義を見いすことができる。実際現代科学が解明する人間の、あるいは我々を取り巻く自然の能力は計り知れないし、それを目の当たりにすることは神秘的ですらある。その上で、我々人間は持てる技術によって、その能力をさらに拡大する方向に向かうかもしれない。近い未来、我々はその行為に対する倫理問題に再び立ち会うことになるだろう。

そういった意味で、このシリーズのテーマである「義体化」のまず最初のポイントは「知覚」におかれる。知覚という時点で既に、入力情報は電気パルスとして伝達され、それを認知し記録するのは「脳細胞ネットワーク」でできた「インターフェイスの構造」である。「攻殻機動隊」ではそれら一式を組み込み納める身体とその活動を「個人/ゴースト」とするわけだ。だから、高度なサイボーグ社会では、個人もさらに大きなインターフェイス構造に直結することで、個人という限界を超えるインフラが近未来に整備されることはインターネットの普及を見ても容易に想像できる。

「攻殻機動隊」によく出てくる、有線による外部ネットワークへのアクセスもその「構造」と階層化の概念化をわかりやすく説明する。「外部ネットワーク」へのアクセス自体が、自分の中で物事を認識するための「脳構造」へのアクセスと、システムとしては同列になっていくのだ。シリーズを通して出てくる、アクセス制限を超えて侵入してくる悪意のある侵入者に制裁を加える「攻性防壁」も、ネットワーク構造間での障壁と構造自体のどちらが上位性を主張するかという問題を喚起していて面白いし、TVの2ndシリーズのテーマである、「ネットワークの集積化=外部記憶の集中化」を移民問題などのタイムリーな社会問題と絡めて考えた時、新たなカリスマ性や求心力の生まれ得る状況として注目している点が面白い。

その上で、「攻殻機動隊」がユニークなのは、そういった高度構造体がネットワークで膨大な外部記憶情報の海の中から新たな独立した存在を生み出すかもしれないし、それが生命の定義を根底から覆すかもしれない、というようなパンクな提案をしているところだ。宗教世界とは実はそんな高度ネットワークの上位体であり、その上位体へのチャネリング(…)による宗教体験が一部で経験されてきたのが宗教ではないかなどといろいろエンターテイメントな提案を作者はしている。サイバーパンクの到達点として、そこは過去のパターンを突き抜けていて面白い。

「個人」の集まりでない、高度な知覚/記憶インターフェイスを持つ人工的な外部ネットワーク/外部記憶が実現した時、言い換えれば自発的に機能するAIのような存在となった時、では人間の「精神」と呼ばれるもののAIに対する優位や差異はあるのだろうか? バーチャルという疑似体験の真偽が今後ますますあいまいになっていく中で、記憶の意味とはなにか? そして「記憶」と「記録」の差異は残るのだろうか?

ロボットやAIの人間への隷属化は、よくSF映画のテーマとなることからもわかるように起ることが予想できる問題だし、彼らが人間の欲望や利己主義の受け皿としての存在になることは想像に難くない。「イノセンス」では、人型タイプのロボットは、人が新しい関係を持つためものとして作り出すロボットが人の形に似せて作られることの意味を問うものとして用いられている。人間が自身の存在を「ゴースト」という精神活動の源となる神秘的存在によって実存を定義するもの、という考え方が倫理的立場からなくなることはないだろうことを考えると、ロボットやAIはその点に固執することで差異化、言い換えれば差別化される。「イノセンス」では、ロボットが「ヒトに似ている」と認識できるレベルに形態がとどめられ、完全に人型であることを意図的に避ける人間の利己的な一面を見せる一方で、義体化を押し進め、疑似体験に埋もれるヒトは、自己を確立する定義や現実の欠如につねにさらされることを描き、人間存在定義そのもののあいまいさをあぶり出す。

「イノセンス」の中で、登場人物(バトーとトグサ)が何かと啓句や詩句を口にするのは、「外部記憶」に瞬時にアクセスして引用するようになることで我々人間が思考ではなく情報を蓄積/記録し、それをピックアップするだけの思考停止状態へ陥るという既に現実となりつつある現実を示しているのではないだろうか。百科事典的な記録へ人間が従属することになるというのはアレキサンダー大王の太古から言われてきたこととはいえ、インターネットは万人に外部記憶化を促す最大のきっかけとなったことは疑いがない。それ故に、ブログという新しいツールが、忘備録的側面だけでなく、つながりの連鎖、人と人との間をつなぐものになることを願いたい。

「攻殻機動隊」が描き出す世界は、ある意味既に現実化してきている状況だ。「我思う、故に我あり」とは、現代においては警句であるのかも知れない。最後に、いくつかの啓句で締めくくりたい。これも、百科事典的「引用」に過ぎないのだけれども。
“To be is to do.”  ソクラテス
”To do is to be.”   サルトル
”Do be do be do” フランク・シナトラ

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投げかけられた光と、自ら発光する光。影を作り出すのか、影を照らし出すのか。

20050521095255 光と影ー思想と精神と感覚と
20050521095321 光と影ー思想と精神と感覚と

光と闇は対極にあるものではない。人が介在すれば、その意味も人それぞれによって意味を変える。

janof 光と影ー思想と精神と感覚と

shadow 光と影ー思想と精神と感覚と

谷崎潤一郎の「陰影礼賛」は海外において日本の伝統美を知る上で日本以上に親しまれているように思われる。それは、暗がりに鈍く光を放つ人の生活の証と人の生き方そのものに対する谷崎のノスタルジックな憧憬が描き上げた世界だ。西洋式の生活に慣れていた谷崎本人にはその憧憬世界そのものに住むことはもはや苦痛だったようだが、彼の精神の拠り所として心の中に存在したそれらの心象風景は、彼のその後の生き方と文学作品において大きな意味を持っていた。

美を侘/寂という、時の流れの感覚として捉えた日本の美意識は、西洋における、廃墟という過去への憧憬を促すロマンティシズムの感覚に、実は近いのかもしれない。その意味でも、谷崎は伝統そのものに生きるというより近代的に伝統を捉えたのだった。
20050521095132 光と影ー思想と精神と感覚と

 

20050521095145 光と影ー思想と精神と感覚と

ニューヨークがなぜこれほどまでに過去への憧憬をかき立てるのか。ユートピアを夢見て造り上げられたこの都市が、その過去を受け継ぎながら未来へと変貌している証なのだろうか。ニューヨークという存在に、我々は光と闇とを重ねることでその存在を捉えようとする。人それぞれが、一つ一つの心象風景としてのニューヨークを持っている。

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