— Delirious New York Diary

「普通の道」にて思う

「地図」という言葉において、図は道とその境界を表し、地をその境界に生み出す。


人は生きるために常に何処かに向かい、辿り着こうとする。道はその指標であり、何処かへ辿り着けるだろうという希望でもある。「初め地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」と、魯迅は言った。道は途中とどまるための駅/宿場を次第に周囲にまといながら、「図」の部分を埋めて行く。そしてさらなる道が、他の目的地へと辿り着く道が生まれていく。




やがて寂れていく道もあるだろう。人通りが途絶え、とどまる人の絶えた道、そして取残された路傍の建造物。それでも道は過去へ通じ、還るべき人を待って静寂に沈む。朽ちている壁が、時の経過を刻んでゆく。


マンハッタンのBroadwayは、ネイティブインディアンの通う道であったという。アイアングリッドを切り裂き、飛び地を生み出しながら、過去と現在が交差する。そして今世紀、人々は目的地を空に定め、高層ビルは新たな次元へと伸びていった。


地上の道から遠く離れ、やがて足下を見失いかけた。地上から見上げる空は、壁に遮られて見えなくなっていた。わずかな隙間から射してくる陽の光は、辿り着く所の未だ遠いことを物語る。それでも、そのわずかな光を受け止めた瞬間が、未来へのベクトルへと変わっていく。


やがて辿り着く場所は、到達点というより、”home” であることを望みたい。「ただいま」の声に、「おかえり」と応える声を求め、信じながらオデュッセイアは旅を続けた。
自らが求め、自らを迎え入れてくれるゲートは、何処かに、もしかしたら見逃しているすぐそばに開いているのかもしれない。

4 comments
  1. あまがえる says: 9月 8, 20058:12 PM

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    はじめまして。
    訪問者履歴より立ち寄りました。
    興味深い写真に見入ってしまったところです。
    建築や美術を学んだ事はないけれど見るのが好きです。
    私はただ見て「あ〜」と感嘆するほうの人だと思います。
    道の写真も素敵です。
    また、時々見に来ます。
    小さい素敵な美術館を見つけた気分です。
    ありがとうございます。

  2. ひつじ says: 9月 10, 20056:18 AM

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    ほんといつもいつもものすごく綺麗な写真ですよね。(ちょっと読みづらくてすみません)毎回来るたびに癒されます。目の付け所のツボがかなりひつじに合ってます。(自分では撮れませんが)ひつじも写真大好きなのですが馬鹿なことにカメラを日本に置き忘れてしまい撃沈。今は取っていませんが来セメスタでPhotographyを取ろうと思っています。(Black & White)ちなみにks530さんはどのくらいの頻度で写真を撮っているのですか?

  3. ks530 says: 9月 11, 20051:29 AM

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    あまがえるさん;
    お越し下さりありがとうございます。写真、見てもらえてうれしいです。
    いつからか、あふれるモノや情報の中で感覚が麻痺していく感じが強くなってきています。今、まわりを見回して、本当に自分の中から”感嘆”できるものって、考えてみるとすごく少ないと思いませんか。だからそういうものを求める気持ちも強いのかもしれません。なにより、自分が見たり感じたり考えたものを大切にしたい。その手段として、写真を撮ったり、絵を描いたり、建築したりしているのだと思っています。
    ところで僕も料理作るの好きなので、レシピ、使わせてもらいます。時々おじゃまして。
    ひつじさん;
    コメントありがとうございます。
    あまがえるさんへの返事でも書きましたが、まずは自分が感じ、考えたこと、そしてその感動を与えてくれたものをどうやって表現するか、(言い換えれば)自分にとって意味のあるものにするか、そこにつきます。いい写真家の撮ったものを見ると、心に残るものはそれが写真であるとかアートであるとかは関係ない、見る人が共感できる人間的な「表現」だということにいつも自然に気付かされるのです。それを考えるようになってから、逆に撮る写真が減りました。デジカメになってから、とにかくバカバカ写真を撮るようになって、でもそれで心に残る写真が増えたわけではないのに気付いたんです。記憶をとどめるためであったり、表現するメディアだった写真が、いつからか単なる”記録”になってしまった。写真を撮ることが容易になったために陥りやすい、写真のための写真、記憶でない、記録のための写真。
    だからカメラは出歩く時はいつも持っていますが、週末、時間をかけて歩き回ったり一カ所で時間をかけられるときに写真を撮ります。突然いいものに出会ったりとかでない限り(まあ、そういうものに出会うことも多いけど)できるかぎりひと呼吸置いて、どうやって撮ろうかとかいつ撮ったらいいかを考えてから撮るようになりました。「熟成」させるというか。
    このブログの最初の書き込みは、(えらそうな書き方ですが)このことについてのマニフェストのようなものでした。これは、忘れないようにしたいと思っています。

  4. ひつじ says: 9月 11, 20058:36 AM

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    ks530さんはすごいですね。ずばりと物事を見抜くというか、物事に対する視点というか。。。未熟なひつじにはぴたりと当てはまる言葉が捜せませんが。
    自分が写真に興味を持ち始めたのはもうデジタルも主流になっていたころなので気づかず通り過ぎてしまってました。確かにデジカメなるものが出てきてから「写真=便利で手軽で楽しい」というものが定着しつつあったように思います。まだ自分が小さかったころはそんなものがなくて、家族で遠出したとき、誕生日会、学校の行事などなにか特別な時にしかカメラなんて使わなかったし、使おうとも思わなかったです。だからいっそう、写真に残ったものには特別な思いが残るしそのときの事を鮮明に覚えていられたように思います。最近は携帯電話にもついているカメラ。そのカメラで撮る写真は撮るだけとってあとで簡単に削除できてしまう、つまりとりあえず撮っておけばいい、という感覚で自分も使ってしまいます。逆にその手軽さのおかげで気の張らないLIVE感のある写真がとれることもあります。でも確かに幼少期に撮ったもののような心に深くとどまるようなものはかなり少ない、というか無いのかもしれません。自分も写真というのは書類的記録ではなくもっと人のぬくもりを持ったものであり、物質的に考えればただの紙ですが、紙以上、もしくは一人の人間の存在すら表せるものだとおもいます。なんだかアツく語ってしまってすみません。。。ks530さんのコメントに強く心を動かされてしまったもので。。。

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