— Delirious New York Diary

In praise of light and shadow

被写体は、「外部にあるものではない」というのがこのブログの写真のテーマだと語ってきた。

そして、自らの内に「投げかけられたもの」を捉えるのみではなく、自らを「投げかける」こと、あるいは投げかけられたものと投げかける意識の交点を見つけ出す行為が写真によって記憶されるのを意図することで、世界の広がりを見、またその広がる世界との自分の接点を見極めることが写真というメディア=媒体を通じて可能になる。そこが、偶然と必然の交差する場となるのだ。


ふと書棚の扉を開けると、扉が部屋の光と影をくるりとひっくり返すかのように光と影を揺らす。はっとして扉を開ける手を止めると、扉に反射した夕刻の光が、鋭い一条の光を投げかけた。


漂う影の中に差し込む、一瞬の緊張。


光は反射と拡散を繰り返しながら影へと霧散していく。ただその姿もが回折の波動の穏やかな振幅と感じられるのは午後の光だ。光と影は、往々にして黒白ではない。闇と光というドラマチックな対立を時に演出するのも、実はその間に存在するグラデーションの深淵なのかもしれない。谷崎の「陰影礼讃」は、西洋と東洋の交点を、そのような形で表現した。


陽は移りゆく。黄昏に陰を纏い始める静物達も、一瞬、自らが光を受け空にその存在を放つ瞬間を待ちながら、静けさに沈む。


それは緊張に満ちた空間だ。空間とは、ヴォイドとマスの、単純な関係ではあり得ないことをその空気にみなぎる緊張感は教えてくれる。


その張りつめた空間も、光の移ろいによって揺らめき、振幅する。量子世界の虚と無の絶え間ない生成消滅を、この宇宙が生み出される前の原初のゆらぎの海を、連想する。


暗闇で映画を見ながら、ついグラスをプロジェクターの前に置いてしまったのだけれど、その瞬間画面は消え、拡散して光の帯や塊になって部屋を漂った。壁にはその光が、刻一刻と移り変わりながら姿を見せてくれた。息を詰めるような、瞬間。


写真のビデオバージョン。写真よりビデオの方が、光の移りゆく様が美しい

6 comments
  1. 聡子 says: 8月 9, 20069:15 AM

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    光と闇の姿から
    「宇宙が生み出される前の原初のゆらぎの海」
    を感じてしまうこと。共感してくれる人はとても少ないのですが、satoさんは、まさしく「見えている」のですね。嬉しいです。
    ビデオ、光が生きているみたい。本当に鬼火のよう。
    子供の時、暗い廊下の奥に小さな窓があり、空中のさまざまなものに反射しながら、光が差し込んでいました。今、考えれば、あれは「ハウスダスト」なんですけれども、子供の目には、量子的なものを思わせてくれたものです。その光の帯に手をかざすと、その反射光で廊下がパッと明るくなります。それが楽しくて、永遠と手を上げ下げしていました。
    子供の頃に感じた、あの光と闇がもたらす静かな興奮は、今も変わらず胸にあります。

  2. 聡子 says: 8月 9, 200610:04 AM

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    追)ビデオ、鬼火というよりは
      もっとクールな感じかもしれませんね。
      ゴーストが奏でる、小さな楽曲のような光かな。

  3. ks530 says: 8月 10, 20061:46 AM

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    確かに恐ろしさというものはありませんね。ゴーストの小さな楽曲、というのがぴったりかもしれません。
    オルゴールから音ではなく光が奏でられるなら、こんな感じかもしれません。おっと、今のでつい岩井俊雄を思い出してしまいました。あんまり短絡化すると、もったいないですね。
    あるいは、いつか夜間飛行の飛行機の窓から見た、音もなく時おり閃く遠雷のほうが似ているかも。ちらりと舌をのばすフィラメントが周囲の雲を闇の中に一瞬浮かび上がらせて、きれいでした。

  4. ks530 says: 8月 10, 20062:01 AM

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    追)最後から2番目のセットになった写真はより儚げに見えはしますが、ブランクーシの鳥の飛翔の瞬間のような、光の羽ばたきのような、光に揺れる千切れたクモの巣のような、それとも魚のひらめく瞬間のような、一瞬が空間に広がっていく様を連想させます。
    子供の頃、聡子さんがキラキラと舞っている光の粒の中でかざしている手のひらめきも、なんだか想像の中では(聡子さんにとっては思い出の中では)そんないろんな飛翔や羽ばたきのようにも思えてきますね。

  5. ひつじ says: 9月 5, 20067:49 AM

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    ks530さんの「美」(というか世界そのもの)に対する感覚、とても尊敬します。何のことない家具の陰に「世界」を見いだせる、素晴らしい才能だと思います。自分もそんな人になりたいです。「陰影礼讃」、ぜひ読んでみようと思います。基本的に日本文学は読まないのですがこれはタイトルだけでも惹かれちゃいました。
    自分はあの光の映像のなかに風を見たように感じました。自由奔放で、予測できなくて、生まれてはすぐ消えてしまうはかなさと、限界を知らない可能性を秘めているような。。。わかりづらい。

  6. ks530 says: 9月 9, 20062:05 AM

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    ひつじさん、こんにちは。
    もちろん、人間そんなに常に意識してまわりの世界を見ていられるわけではありません。だからこそ、瞬間に出会うこと、それを待つこと、そしてそれを見逃さない感覚を忘れないことが究極なのかもしれない。一期一会ーー写真が撮る人にとって意味を持つならば、そういうことなんでしょうね。
    陰影礼攅は、それをよく表していると思います。普段は陰に沈む物/者達が、ふとした瞬間、弱くとも未だわずかに差し込む光にその姿を浮かび上がらせる。西洋においては陰は闇=魔であり、光=救いはそれを照らし出すものとして対極に置きますが、東洋では(特に日本では)闇にこそ人生の先を見ている。そしてそれを見いだした上で、生きるということ、人や物との関わりを一期一会と考えたわけです。それに出会う瞬間を高みへと昇華するために。これは逆に言えば、自分という存在への意識と、その見いだし感じとる周りの世界全ての礼攅、ととれるのではないか。
    日本の伝統とはそのような瞬間を待つ、無邪気な普段の光の中では地味に見えるようなものにこそ美を見出してきました。侘しさと寂しさとは、もともと冬枯れの季節にありながら明るい陽と季節を思う「心」であって、常に先を見、常に過ぎ去る自らの周りの過客との関わりをどうにか心にとどめながら生きる我々の存在そのものを指しているようにも思えます。
    あの光は、なんだか西洋でも東洋でもない、まさにその二つの接点のような感じではあります。「生まれてはすぐ消えてしまう儚さ」という東洋的なもの、そして「限界を知らない可能性を秘めた、自由奔放で予測できないもの」というなんだか西洋現代哲学のようなもの。どちらともいえる感じがします。

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