— Delirious New York Diary

Apple スティーブ・ジョブスのCEO退任と、世界戦略の難しさ

先週、Apple CEOのスティーブ・ジョブスはCEOを退き、今後は会長としてできる限り会社運営に関わっていくと発表した。後任にはジョブスの推薦を受けて、COOのティム・クックがあたることになる。健康上の理由であると思われている。

以前、一度ジョブスのスタンフォード大学での卒業スピーチについて触れたことがある。病気により一時は余命数ヶ月と言われた彼が、死を覚悟することで逆に強い信念に揺るぎのないものが加わったと語ったのを印象深く覚えている。卒業式のスピーチに、死について語る。それも、「命短し恋せよ乙女」的な人生謳歌の勧めを語るのではなく、死そのものについて考える機会と、それがもたらすであろう生き方や考え方の変化について語っているのである。

”death was a useful but purely intellectual concept…death is very likely the single best invention of life.”

こうした態度が、ジョブスが他の形式的なリーダーと異なる活躍をする所以だろう。

 


 

彼は最近、その痩せ方から健康上大きな問題があると言われている。退任報告が発表された後にネットで伝えられたジョブスの写真は、確かに健康状態が思わしくないことを伝えるものであったし、ジョブスの実父(ジョブスは生まれてすぐ養子に出されている)が最近ジョブスが実子であることを知り、会えなくなる前に会うことが出来ればと語った記事まで流れた。

CEOを退く前も、病気療養で実際の会社運営は首脳陣によって行われていたであろうし、ここ最近の大きなプレゼンも副社長のフィル・シラーが行なったり、ジョブスがホストを務めても各プレゼン要素を個別担当者が説明するスタイルに変わりつつあった。それでいて、プレゼンの質が落ちたようには感じられない。各担当も非常にうまく、また各担当個人個人の個性や魅力を感じさせるプレゼンを行っている。それだけAppleには魅力的な人物が多いということだろうし、ある意味ジョブスというカリスマのみで存在する企業というイメージを払拭し得るものとなっている。今後は、ジョブスなきプレゼンが普通になっていくのだろう。その引継ぎそのものは完了しているように思う。

ティム・クックとスティーブ・ジョブス。Photo: WIRED Magazine

強い判断能力を持つジョブスと、そのコンセプトを具現化する能力を持ったチームメンバー達が、Appleを倒産寸前の状態から時価総額世界一の企業へと変貌させてきたことは語るべくもない。ただ個人的にはジョブスのカリスマ性がAppleの現在の成功をもたらした理由と考える必要性をあまり感じないのだ。初代iMacを手始めに、Microsoftからの融資を引き出したところまでは彼の成せる技だとして、iPodやiTunes Store、OS X、iPhoneやiPad、Intel Mac、アップルストアといった一連の事業を発案・展開し、Appleブランドの基に大きなフレームワークとして「15年以上かけて」完成統合してきた背景には、ジョブスのみならず、多くの才能ある人物が関わっていることは間違いないし、この点のほうがより重要だと思う。もちろん多くの岐路を判断し、様々な事業展開を統括し得たジョブスの能力が稀有のものであることは事実であろうが。いずれにせよ、ソフト分野、ハード分野、デザイン分野、メディア分野、マーケティング分野ーーーどのような批判や短所の追求があろうと、幾つかの製品やサービスで大きな失敗していようと、現時点でこれほど確固としたエコシステムと才能ある人脈を持つIT企業は少ないだろう。各分野にライバルはいるとしても。
デザインのジョナサン・アイブがハードでイメージを具現化し、社長に就任するティム・クックが製品生産をすべての点で最高度に高め、フィル・シラーがマーケティングを、ロン・ジョンソンがAppleストアで実現する。そうしたハードをそれに見合ったイメージを持つソフトがサポートし、バートランド・サーレイがOS Xを、(ロンと彼は最近Appleを去った)その下にぶら下がるiLifeやiWorksの各ソフト、その他プロフェッショナル向けソフトでも優れた担当リーダーが開発、製品展開している。もはや、Appleは「デザイナー向けのちょっと良いデザインのコンピューターを作る会社」というレッテルでは表現し得ない多様性を持つものとなった。

ただ企業には寿命があるとよく言われる。才能豊かな人物が率い、その人物の影響力が失われるまでが一つの賞味期限というわけだ。実際、現在のソニーなどを企業組織として見るとそれは言い得て妙、と言えなくもない。Appleが今後どのようになっていくのか、それは一時期飛ぶ鳥を落とす勢いだったマイクロソフトやDELLの現在を見れば想像がつくものではないが、現在までに創り上げたシステムがどのように働き、どのように変化していくかーーあるいは変化や変革をもたらすことができるか、にかかっている。


 

海外にいて、特に発展の途上にある小さな国にいて感じること。それは、日本の企業進出や製品展開にも言えることだが、ある意味でAppleのような企業の世界戦略の難しさを示唆するものでもある。ローカリゼーションと一言で言ってしまうと短絡的に捉えられがちになるが、経済的に発展した国や社会で完成され、強固なシステムであればあるほど、それを世界で同じように展開することは難しくなってくるように思われるのだ。

Appleは、ハードそのものの魅力に加え、ソフトやネットワークによるメディアとの連携を軸とするシステムを構築しつつある。どちらが欠けてもAppleというブランドは成立しない。現在もそのシステムは発展展開中であり、電子書籍や新聞・雑誌といった現時点で残された最後の砦ともいえる既存メディアの取り込みに注目が集まっている。そして、それをサポートするネットインフラやクラウド化なども先進国では実用レベルに達しつつあり、スマートフォンやタブレット端末によるさらなるハード・ネット利用形態の進化が見込まれている。

しかし、これは全ての分野がビジネスとして相互作用し共存、共栄できる背景を持つ先進国においての話だ。

発展中の国に来て感じるのは、中国やベトナム、インド、トルコなどが圧倒的物量で生産する「ハード」の点で言えば、もはや世界中である程度の品質を持ったハードを手に入れることはできるようになった、あるいは、先進国では型落ちとなったものの、当初は最先端・最高スペックであった製品が新品・中古の状態を問わず、発展途上国に凄まじい勢いで流入し、多くの人に利用・再利用されるようになった、という点だ。(これにより、多少型落ちでも先進国の住人より高級ハードを多くの人が利用しているというパラドックスも発生している)

そしてソフトとしてのメディア。自国で製作されるコンテンツはほとんどないものの、ハリウッドやヨーロッパで大規模に製作される音楽や映画は、ネット上に溢れている。以前はソフトといえばコンピューターのソフトが最も多くコピーされていたが、音楽を始め、映画などがデジタルデータとして扱われるようになった現在、発展途上国ではもはや手のうちようのないほどにコピーが当たり前になって巷にあふれている。インドや中国などを除き、あまりメディア産業の発展しない発展途上国では、アメリカやヨーロッパの映画、日本のアニメなどが今や当然のごとく知られ、視聴したいという需要を生む。映画館でも映画は上映されているが、チケット自体がネットやテレビとの競合から超低料金であるし、同じく格安のケーブルテレビが数カ月後には最新映画をTV放映する。(自分も、以前はあまり進んで見なかった新作映画など、テレビで見ることが多くなった。日本人などよりよっぽどこちらの人のが色々見ていますよ)ネット環境があるならば、それこそダウンロードし放題だ。ネット環境に慣れ始めた若者の間で、お金をかけてCDやDVD、ブルーレイを音楽や映画を見るために購入するといった発想は初めから存在しない。あったとしても、一枚に5-6本の映画が詰め合わせになった一枚100円程度のDVDや、数百曲がまとめられたMP3のCDなどを買うぐらいが関の山である。そして、インターネットとはそうした「サービス」であり、ネット料金を払えばメディアのダウンロードなどが自由にでき、それが世界中でも当然の状況なのだと思っているフシがある。誰も本来の姿を伝えるものがいないので、あたりまえだろう。(時には、アメリカの最新映画の「映画館撮影海賊版」までもがケーブルテレビで堂々と放映されており、苦笑するしかなかった。ケーブルテレビ局がコピーDVDを再生し、放映しているのだろう)ここまであからさまだと、それを個人レベルで諭すことは不可能であり、理解もされ得ない。先進国の住人がより高いお金を出して音楽や映画のCD/DVD/Blu-ray パッケージを購入し、映画チケットを買っていることは、ある意味でこれら発展途上国の住人の分も肩代わりしていることでもあるのだが。

そして、「音楽ってお金を払うものだろうか」などと無邪気に反論された日には、実際こちらがその意味を深く考えてしまうほどである。そして「現在のメディア産業は、それこそ戦後数十年ほどで音楽はお金を払ってパッケージを買うものと規定し、それを広めた。それを基本にした先進国発のエコシステムは、その根本において、実は危ういシステムなのではないか」という疑問が湧いてくるのだ。(ラジオやテレビでは録音したり録画しても無料なのに、なぜネットでは有料で購入するのか、という線引きは、非常に恣意的なものだ。音質や画質がその差を区別していたのだろうが、現在はその差は一般人にとってないに等しい)

今後、発展途上国が経済的に成長して人々が経済的に豊かになったとしても、その時になって「じゃあ、今後は分相応な金額を支払ってね?」と言ったところで受け入れられることはまずないだろう。ダウンロード販売?なんだそれは? こうした問題に強いとされるフリーミアムの考え方にしても、先進国においてさえ「課金」が始まれば利用者が圧倒的に減ることは統計的に裏付けられているわけで、後々お金を必要とするサービスであることを知った上でも利用するか、と聞かれれば「難しい」と思わざるをえない。

ハードが開いてしまった門戸を、どのようにして埋めていくかが鍵になる。その反応の一つがgoogleの求めるシステムとサービスであり、利用者レベルでメディアを生み出すソーシャルネットワークのサービスだろう。チャットや掲示板から始まり、自作動画共有のYou Tube、写真共有のFlikerやPicasa、ブログ、そしてTwitterやFacebookなど、今や人々は自分で発信するサービスを取り込み、多くの時間を費やすようになってきている。Facebook利用者が世界第2位だというインドネシア。ソーシャルネットワーク革命とまで言われたチュニジアやエジプトの政権交代。高速鉄道事故で中国共産党をも揺るがした中国版ツイッターやソーシャルネットワークサービス。もはや、音楽や映画さえそうした広い拡がりを持つネットワークサービスの話題提供の一メディアであると考えるならば、お金のある人がその分多く払うという富の平均化は肯定されるかもしれない。あるいはするしかない。

最近中国でAppleストアを模した店が数多く生まれ、いろいろな意味で注目されているが、先進国的目線を外して世界規模で見れば、iPhoneやiPadが世界中でここまで人気を博している以上ごくごく当然のように思う。先述したように、ハードは最も課金と収益が得やすいものである以上、今や国境を越え世界中に製品は流れている。それを売る店が、戦略上集客しやすい店のデザインやサービスを真似るのは当たり前とも言える。もちろん中国がパクリ大国の本領を発揮し、新幹線まで真似ようとして大きな傷を負ったことは、ソフトや経験値をも模倣するのは極めて難しいというこれまたはっきりとした事実を示しているわけだが。

いずれにせよ、iPhoneは家のWiFi環境以外では日本のような使い勝手を経験することはできない。そして、iPhoneも店で見かけるものの、Android製品が増え始めたのはやはりコンテンツの縛りを嫌気する人が多いためだろう。現実として、iTunesストアはキルギスでは提供されていないため、アカウントを作成できない以上フリーであってもアプリをダウンロードすることすらできない。強固なエコシステムは、それを利用できない人にとっては単に排他的な、宇宙人のようなものでしかない。その心理を突くのは、現状ではやはり課金のない、コピーが主流のシステムしかないのだろう。それは、ある意味でローカリゼーションを行う際の「キモ」であるのかもしれない。それを受け入れることができるのかーーー非常に難しい、新しいバランス取りのひつような問である。

 

追記:ヒトコト言うと、日本はこの点非常に、誠に弱いとしか言えない。新しい変革システムを生み出せないだけでなく、日本で成功したシステム=ガラパゴスにすがりついたまま海外に出ようとして、失敗している部分が大きい。海外に積極的に出よというのは何も海外に生産拠点を移せということではなく、海外の現状を知り、そこから自らの姿や立ち位置、現状への対応を考えるために海外の空気に出来るだけ触れ、水に慣れろということなのだ。それは、時々出張に出向く程度では成し得ず、やはり一定期間住んでみたり、その土地の人と個人レベルで知り合いになる必要がある。その点で言えば、日本はアメリカだけでなく、中国や韓国、トルコなどの足元にも及ばないのが現状だろう。

 

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