— Delirious New York Diary

同時多発テロと10年の歳月

今年、世界同時多発テロから10年目を迎える。10年の時間はあっという間に流れ、当時の感情はどこか乾いたかさぶたのようなものになって心の一部に巣食っている。ただ普段にはあまり見えないものになった。それを隠す日々の暮らしの比重が大きくなったためだろう。

あまりにも穏やかな9月始めの青空。街に出た時の普段とは全く異なる静けさ。その静けさを切り裂き、いつ果てるともなくループを描き続ける米軍の戦闘機。そして、数キロも離れたアップタウンにすら流れてくる物の焼けた匂い。あの日ですらそうした断片的な記憶が、まるで白昼夢のように自分の間隔と微妙にずれていた。心に巣食う感情は、怒りや悲しみといった激情とは違い、力を入れようにも入らない足元から絶え間なく襲う悪寒に似たものだった。それらが心までをも完全に支配している。

911については一度以前にも書いた。あの事件が自分の中から消えないのは、まったく同じタイミングで自分の体を蝕み、ついには取り返しの付かない一線を越える病気の進行と重なっていた事が、自分でも感情の上でどうしても切り離せないからだ。ある意味で、自分の中にはそのように両者を見ることで客観視して、それらの外側に自分を置きたいという防御反応のようにも思える。こうしてこの文章を書くこともまた、その行為の一つなのかもしれない。

世界を変えた日。中東の均衡を破るイラク戦争と、それに続くアフガニスタン作戦の引き金を引いた契機。軍産複合体というアメリカの一側面の肥大と、その嵐のあとに残された膨大な憎しみの連鎖。自国民にものしかかる膨大な債務。世界的経済不況の二番底。これらは自分にとって、頭の中でどちらかと言えば整理しやすい「外部の」情報だ。ただそんなもので感情というものは制御できない。全てはある意味遠く、かさぶたを厚くするかのごとく感情の底に積み重なっていくだけだ。

家族を失ったり、怪我や心の傷を直接負った人達と自分は比べるべくもない。その悲しみの大きさは今でもなお、アフガニスタンで命を落とす兵士やその家族、あるいは憎しみに感情を突き動かされ原理主義や一教義に取り込まれる人々に引き継がれ、肉体と精神、思考や感情を瞬時に破壊しながら、どこまでも底無しの渦を拡げていくテロのどす黒い醜さ、暴力で権力を手に入れ、自国民を犠牲にしてまでその権力や富を増幅させる輩いよって拡大している。どう考えようとしても、911は過去であるどころか、さらにその傷を拡げているのである。ただ、それらが遠い世界に感じられるという感情がさらに乾いた悲しみのようなもので心を覆うのだ。それはあの足腰から力が抜け、悪寒だけがこみ上げてくるあの日の感覚とどこか重なる。

激烈な痛みと、その元を断ったがゆえに広がる果てのないような苦しみ。どちらが本当の苦しみであるかどうかなど、大した問いではない。何がその間断なき苦しみやその連鎖を断ち切ることができるのだろう。「敵」を定め、標的を探し、叩き壊す行き方は、その双方に言い分はあれども虚しいものだ。世界は、いいとは言えない方向へ進んでいる。

それが、9月11日を迎える前夜の感想だ。

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