— Delirious New York Diary

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フォトエッセイ

昨夜夜半、静寂の中でぼんやりと雪明りに明るい外を眺めてから眠りについた。

雪国に暮らした経験のない自分にとっては、雪は日常を非日常の世界に変える力を感じさせるものでまったく飽きることがない。雑然とした世界を白く一面に覆い、それとともに普段なら目にとめることのないものを浮かび上がらせてくれる。何気ない建物の手すり、屋根の軒先、道沿いの縁石、ペンキ塗りの鉄くずかごーーふわりと舞い落ちる雪を見ていると、空気や風の流れも見えてくる気がする。辺りの静けさと白い世界は、心を落ち着かせると同時に高揚させもする不思議な感覚を伴う。

Snow-trees1
普段はあまり美しいとはいえない木。雪化粧で生まれ変わる

冠雪の樹々2
ポプラの木は、枝の並びだけでなくその紡ぎだす姿全体が美しい

冠雪の樹々1
本当に色々な樹々があるものだ。全く違う成長の仕方と立ち姿。普段は気付かないものだが

雪を抱いた小枝1
木の枝構造は、限りなく学ぶものがある気がする自然の姿

雪を抱いた小枝2
網目のような小枝の並びが雪で浮かび上がった。その繊細な並びに驚く

雪を抱いた小枝3
木が生き物であることを思わずにはいられない景色

 

ここからは以前ここでも用いたニューヨーク時代の写真だが、対比として再掲載。

Snow composition_1

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Snow composition_7

 

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昨日夜、仕事が夜中まで長引いていたが、ふと気付くといやに静かだった。
カーテンを開けて外を見ると、ふわっと明るい。昼の雨が雪に変わり、すでに降り積もっていた。

Morning after snow

今朝起きてみると雪は止んでいた。辺は白く変わり、葉を落としていた樹々の枝に雪が積もっていて美しい。よく見ると、一部の枝には一度溶けた雪が再び凍り付き、透明な樹氷に姿を変えている。黒い枝を透明な氷が包み、まるで何かの標本のように心を惹きつける。「ザルツブルグの小枝」のように緩やかに積み重なる結晶ではなく、一度溶けた雪が再び凍り付くという緩急と変容のプロセス。そしてまた、日が高くなればしだいに溶け、消えていく。
今は溶けた雪が滴り、屋根板に当たって雨垂れのような音を立てている。

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今日、キルギスは重要な日を迎えている。大統領選挙投票日である。

こちらの内容については“Kyrgyzstan Today”の方を参照頂くとして、今日は写真を何枚か。

ほんの10日ほど前、木々の色がなんて鮮やかなんだろう、と散歩中に感じたと思ったら、数日前から東京で言えば「今年一番の冷え込み」というくらいの寒さにまで気温が下がり、そして雪が降り始めた。
先日の夜まで降り続いて、一面うっすらと雪化粧した。しかし選挙本番当日、やはりあっぱれというほどの「快晴」である。キルギスは本当に「晴れ男女」の国、国旗にもあるとおり太陽の国だ。

首都ビシュケクには火力発電所があり、通常アパートであれば冬季には暖房用の温水が配給される。よほど大きなアパートか一軒家でなければこちらでは暖房器具をあまり見かけない。そして一旦供給が始まれば、だいたい全部屋にラジエーターがあるのでアパートの中では薄着でいられるくらいに暖かくなるのだが、今年は雪が降るまで配給がなくて、とにかく朝晩寒かった。(なお、ビシュケクは寒い年には-20度位まで冷え込むが、例年気温は東京より多少低いぐらいだ。それなのにこの設備はーーちょっとうらやましい)


こちらのアパートはソビエト時代の古いものがほとんど。ただアイビーが絡んだり街路樹が多くてうまく彩られている


一番多いポプラの木は、黄色だったりオレンジだったり紅葉の色が場所によって違う


”壮絶”といえるほどに真紅の木に囲まれた建物が近くにある。その鮮やかさにiPhoneでは色がコケた


そして、雪。初雪なのにサラサラの粉雪で、うっすらと粉砂糖のように全てを覆い始めた


今朝。先日より雪が積もり、地面も土の部分は白くなっている


小さなリンゴ。紅い

今朝、もらってきたリンゴがこれもまた鮮やかだったので、写真に撮ってみた。中央アジアではリンゴが一年を通じて採れるが、この時期のリンゴが一番美味しいという。とても小ぶりで、子供の握りこぶし程しかないが色は真紅と言っていいほど濃く、味も強い。酸味が強いので、火を入れると甘みが増す。

次回はちょっとこちらの冬の食事など、ご紹介しましょう。

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久しぶりにキルギスの記事になる。現在こちらでは10月30日に行われる予定の大統領選挙が次第に話題の中心となってきているが、こちらは姉妹ページKyrgyzstan Todayで詳しく紹介しているのでそちらをどうぞ。また、今回の写真は以前まとめたものを再編集したものでKei Satoh Photo Galleryにも下記写真を掲載している。

今回紹介するのは首都ビシュケクから車で約1時間ほど東に向かい、トクモクという大きな街を過ぎて程近い所にある「ブラナの塔」である。中央アジアは、西アジアと東アジア地域の中間に位置し、東西交易の中間点もあり、また東西勢力がその限られた肥沃な土地を求めて相争った地域でもあった。トクモクはキルギスの南部地域と同様に今日でも他民族が暮らす街だが、それはある意味この地の雄大な歴史を今も伝えるものでもある。

東西シルクロードの交易路は、天山北路と天山北路がこの地域を通っていたことが知られているが、その内天山南路は現在は新疆ウイグル自治区となったタクラマカン砂漠北縁を伝い、ウイグルの西端に位置するカシュガルを抜けて現在のキルギスに入るルートがあった。トルガルト峠を超えて川伝いにソン・コル湖へ出、さらに北を目指して西突厥などの王朝の首都であったシルクロードの都市スイアーブに辿り着く。そこからは西進してタシケント、サマルカンド、ブハラを目指していった。ビシュケクとトクモクのほぼ中間には、夏の間スイアーブにかわって首都となったといわれるナヴァカートという、シルクロードで最も大きいと言われた街もあったとされ、(現在はクラースナヤ・レーチカという村が遺跡跡にあるが、過去には日本の発掘調査隊が遺跡調査を行ったことがある)さらには現在ビシュケクのある位置にもテルサケントと呼ばれる街–ペルシャ語で”キリスト教徒の都市”–がかつて存在したと考えられている。

ブラナの塔は、10世紀半ばにこの地を中心に興った、カラハーン朝の中心都市であったバラサグンという都市の遺跡だと見られているが、あるいはこの地に東西に広く点在した城塞都市の一つであったのではと唱える人もおり、未だ定かではない。カラハーン朝はウイグル王朝などの勃興によりテュルク化しつつあったこの地で初めて仏教からイスラム教に改宗した王朝で、バラサグンの建物もその影響を受けたものとなっているのがこの塔の姿(ミナレット)からも窺い知れる。王朝華やかなりし頃にはブハラやサマルカンドに匹敵する都市が存在していたのかもしれない。モンゴル帝国の隆盛した13世紀以降はしだいに衰え、今はその一部が遺跡として残るのみとなっている。現存するミナレットは地震で一部崩壊し、王墓なども一部発掘されたみだが、復元図や想像図で往時の姿を蘇らせている。

スイアーブやナヴァカートには5-6世紀に西方からソグド商人が定住し始め、西突厥などの王朝の首都として、また唐王朝の重要拠点として栄えた。その後バラサグンにその勢いを奪われるまでこれらの都市は繁栄したが、異なる人種(インド・アーリア系や漢民族、ソグド系民族、テュルク系)とその言語、文化(マニ教、ゾロアスター教、キリスト教、仏教などの宗教や民族文化)技術(遊牧、農耕、その折衷など)が集まり、様々な民族や文化、社会形態が起こり、消えていった。時に大きく対立しながらも、太古より相対の認識と共存のバランスが日常の風景を作り出し、生活を支える意識であったことが窺い知れる。

定住の農耕民族と季節により移動する遊牧民族。そうした人の交わりや関わりの中から生まれ、消えていった都市の姿が偲ばれる。 開けた草原の中アラ・トーの山並みを背に立つ赤土の塔は、往時の姿をそのままに残すウズベキスタンの都市や、砂漠の砂に呑まれて朽ちた街とも多少違う歴史の流れを、この地に立つ者に感じさせる。 


陽が傾き、折からの雲がその弱い光をさらに遮り、赤い煉瓦の肌に影を落としていた

塔の入り口から中に入ると、頭頂部へと昇る階段がある 小さな銃眼のような開口部以外は完全な暗闇となり、非常に狭く、煉瓦のざらついた感触と土の匂い、そして日光に温められ熱を放つ乾いた空気の中を進む 

煉瓦は精緻に組み上げられて曲線を描き、次第に有機的なものに感じられてくる中をゆっくりと進むと、上から光が見えてくる

暗闇に慣れた目には眩しい光が小窓から射している 目を凝らしていると外の景色が光の中に浮かび上がってくるが、小さく縁どられたその風景は白昼夢のように遠く現実味を持たないかのようだった

やがて上からより強い光が差してくる

細かい煉瓦の積層が光を拡散し、柔らかく表面を浮かび上がらせている 煉瓦に音が吸い込まれ、同時に響いているかのように空気が張り詰めている 光が強くなるたびにその緊張が晴れていき、空間が広がっていく錯覚を受けた

何も無い開けた風景が広がった 自分の発する音しか聞こえない中から、風が過ぎていく音の中に取り残されたように立ち尽くす

塔を降り、草原の中を歩くと石像があちこちに点在している テュルク系民族が残したというバルバルと呼ばれる石像は、故人の墓を守る目的で置かれたという 故人が倒した敵を形取り、墓を守らせたという記録もある なだらかに草に覆われ盛土になっている所は故人の墓であろうか

塔の頂上で出会ったキルギス人の家族と、ちょうど同じ時に塔を訪れた結婚したばかりの夫婦 地元の人の間では結婚するとこの塔に二人で登る習慣があるという ドレスで登るには厳しい塔だが、頂上で誓いを立てると一生添い遂げられるという言い伝えがあるようだ 他にも何組かの新婚グループが訪れていた 都市は滅びるとも、人の営みは続いていく

厚い雲が垂れ込め、辺りが一気に夕闇に沈んだかと思ったとき、雲の切れ間から一瞬の陽が射して塔のシルエットを浮かび上がらせた

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この所カメラの話は書くのに「写真がないじゃない」というコメントをよくもらう。

実際、情報記録としての写真は撮るのだが、写真を撮ろうと街に出ることが少ない。良くないことだと思う。自分の周りを見回して、注意を向けようという気持ちが薄くなっている。身体的感覚はともかく、精神的感覚が鈍っている。

最近の写真で掲載するようなものがないので、以前撮った写真のなかから中央アジアの深まりゆく秋のものをいくつか紹介しよう。自戒の念も込めて。このため場合によっては以前掲載した写真が混じっているかもしれない。

(なおアップルのmobile meサービス終了アナウンスを受け、別のサービスに写真ギャラリーを移行中である)

Kei Satoh Photo Gallery


秋のキルギス・アラルチャ国立公園。東山魁夷の一幅の絵のようだ


樹木に一部覆われた山と、岩や氷河に覆われた山を背景に、一本の白樺の木がうっすらと紅葉し始めている


オアシスのようなナリンのポプラ林


白樺が色付き、地面も枯葉で黄色に染まっていく。カザフスタンは中央アジアで最北に位置し、寒さの訪れも早い


秋の平原を行く二人。夫婦だろうか。風の音以外に聞こえない中でゆったりと時が流れている


草を食む遊牧民の馬


金色の起伏する丘の間を細い小川が流れている。絵画のような光景


カザフスタンの冬は早い。特に高地では、10月半ばには雪が降ることも普通で、山は既に冠雪を抱いていた


凍れる冬の到来は近い

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井上靖や司馬遼太郎が描いたシルクロードを辿る西域の物語は、遠い時間の中に興っては消えていった国々と、そうした国を繋ぎ、旅をした人々への遠い憧憬をかきたてる。


イシククル湖は西を除く三方を山脈に囲まれている。これは北側に位置するテルスケイ・アラトーの4000m級の山脈の端部

司馬遼太郎は烏孫という王国の響きに惹かれ、その末裔と言われる人たちの面影を求めて中国西域からさらに足を伸ばし、この地を訪れ、その時の様子を描いている。

雲にまぎれて見える冠雪の山並みはイシククル湖南部の天山山脈だろうか。湖に入ると、澄み切って透明な水平線の上に、雲が湧くかのように山波が浮かんでいる。イシククル湖は1600メートルの海抜にあり、チチカカ湖に次ぐ高度にある。まさに天空の湖だ

ただ井上靖も司馬遼太郎も、キルギスのイシククル湖には憧れを抱きながらも訪れることはかなわなかった。ソビエト時代、この地に外国人が立ち入ることが禁止されていたのである。(化学兵器の研究施設があったためとされる)
その井上が玄奘三蔵による西域の旅の記録をもとに描いたのが、「西域物語」であり、この中で玄奘三蔵がイシククル湖に至った時の様子が記されている。


イシククル湖の透明度は、バイカル湖に次ぐという。水深も深く、「熱い」湖(中国語では「熱海」)と言われる不凍湖はどこまでも澄んで青い

井上靖 「西域物語」

「『大唐西域記』によると、玄奨の西遊は恐ろしく苦難に満ちた旅であった。しかし、この国外脱出者の高僧としての噂はすでに西域の異民族の間にも伝わっていたらしく、玄奘は方々で歓迎されたり、援助の手を差しのべられたりしている。とは言え、言葉も判らず、人情も風俗も判らぬ国々を次々に経廻って行くのであるから、その労苦のなみ大抵でないことは当然である。玄奘は高昌国、阿耆尼(あきに)国、屈支(くっし)国、跋禄迦(ばるか)国といった西域北道に沿った小国を通過し、天山へはいって行く。天山の一支脈である凌山を通過する時はたいへんであった」


イシククル湖には古代都市が沈んでいる。これも消えていった王国やオアシスの一つだろうか

《国の西北より行くこと三百余里にして石磧を渡って凌山に至る。これ則ち葱嶺(パミール高原)の北原、水多く東流す。山谷の積雪は春夏も合凍す。時に消泮(しょうはん)することありと雖(いえど)もついでまた結氷す。経途は険阻にして寒風は惨列なり。暴竜の難多くして行人を陵犯す。この途による者は衣を赭(あか)くし、ひさごを持ち、大声に叫ぶことを得ず。微かに違犯するあれば、災禍目のあたりに見る。》
「こういった高い調子の旅行記である。暴竜の難が多いというその暴竜とは何のことであろうか。竜巻のことであろうか。しかし、風のことは風のことで別に書いている。
《暴風奮発、沙を飛ばし、石の雨をふらし、遇う者は喪没し、生を全うすること難し。》」


山脈から吹き降ろすのか、湖の湿気を含んだ空気が山波に遮られるのか、イシククルの天気は変わりやすい。午後にはスコールが降ることも多く、時に凄まじい風と雨に見舞われた

「この凌山越えで、実際に玄奘は同行した従者や牛馬の多くを失っているので、必ずしも表現がオーバーであるとは言えないようである。惨憺たる苦難の泊りを幾つか重ねて、やっと凌山を越えると、玄奘はそこにイシククル湖の美しい湖面を見た。湖面が美しいのは一瞬のことで、どうしてひとすじ縄で行く相手ではなかった。勿論玄奘の頃はイシククルとは呼ばれていなかった。玄奘は大清池と呼んでいる」

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《山行四百余里、大清池に至る。あるいは熱海と名付け、また鹹海(かんかい)と謂(い)う。周千余里、東西長く、南北狭し。四面山を負い、衆流は交湊(こうそう)す。色は青黒を帯び、味は鹹苦を兼ねたり。……:竜魚難処霊怪はしばしば起る。ゆえに往来する行旅は祷って以って福を祈る。水族は多しと難も敢て漁捕する者なし。》
「ここにはしばしば霊怪が起ると記してあるが、この霊怪なるものの正体もまた判らない。しかし、これを玄奘がいい加減なことを書いたとするわけにはいかない。他の記述は恐ろしいほど正確であるからである。イシククル湖が熱海と呼ばれているのは不凍湖であるためであり、鹹海と謂われていたのは水が塩分を含んでいるからである」

この後も玄奘は旅を続け、突厥の都に至る。
「玄奘はイシククル湖畔を過ぎ、なおアラトウ山脈を越えたり、チュー川に沿ったりして、チュー盆地へ降りる。するとそこに突厥の都邑である素葉城[(スイアーブ)]があった。「清池西北行五百余里素葉水城に至る」。玄奘は簡単に記している。
素葉城の地は、現在のトクマク付近とされている。湖畔からトクマクまで都邑はなかったのである。烏孫の時代にあったその王都赤谷城のことはどこにも記されていない。漢の公主が王の妃として、更にまたその王の孫の妃として何年かを過した赤谷城は、玄奘の頃は影も形もなくなっていたのである。凌山の暴竜の為せる業か、あるいは大清池の霊怪の為せる業なのであろう。…」


イシククルに帳が下りる。湖畔の水音は穏やかで、静かな夕景が過去への憧憬をかきたてる

凪の湖面には月の光が落ちていた。その下に船が音もなく浮かぶ

<参照:「テュルク&モンゴル」http://ethnos.exblog.jp/5503548>

 

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前回の続きは”工場”そのもののかもす手の記憶について。

古い工場に刻まれた傷、効率ではない視点で組み上げられてきた機械と人の作業の関係がそのまま形として残っている。


工場の排気管が生き物のように突き出している。空気の流れが有機的であることが形になる


以前の工場は生き物そのものであり、人の作業と一体となっていたのかもしれない

工場内にも張り巡らされたこれら排気管が、体内の血管のように各部門をつなぎ作動する

木材の乾燥庫には積み重なった煤と油がこびりついて、匂いさえ幾重もの時間の流れを感じさせる

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もともと海外から知人へ、また国内から海外の知人へ建築について、また自分の近況について伝えるコミュニケーションのツールとしてこのブログを始めたのだが、いつの間にか直接メールで何枚もの写真を送れるほどネットもスピードが上がり、いつしかブログの作業がおいてけぼりになっている。ブログそのものが変わったと感じているせいもあるかもしれないが。

今回のテーマは、ある木工工場を訪れた際に手作りの作業がとても印象に残ったのでその際の写真をいくつか取り上げている。キルギスタンの首都ビシュケク近郊の家具工場なのだが、旧ソ連時代の「労働と共同」というスローガンが未だに消え去っていないのに驚いた。ただ手仕事と、コンピューター制御の無菌室におかれた機械とは違った鋼鉄の機械が稼働している工場は、そこで働く人ともどもどこかのんびりした空気が流れている。ソ連時代のプロパガンダから厳しいものが消え去った今、手作業と人の手が作り上げた機械のうなりは急ぐ事なく、それでも絶え間なく動き続けている。


中央からは外れていたキルギスでも、先鋭的なプロパガンダが喧伝されていたのだろうか

まるで古き良きアメリカの野球チームのバナーのようなスローガン

これはどこか50年代のアメリカ郊外の広告のように見える

街のそこかしこに未だにレーニン像が残っているのは、中央アジアぐらいかもしれない

工場の入り口も、どこかのんびりとしている


時間が止まっているかのようー窓に写るものが今なのか過去なのか何となくわからなくなる


組み上がった椅子の骨組みは一つずつ手で組み上げられたもの

ずっと家族や社会を支えてきたかのようなおばちゃんが、慣れた手つきで木材に突き板仕上げを施していた

椅子の布地も時間が止まったかのごとく昔と変わらないものが使われているそうだ


工場の小屋組もなつかしい木の香りがする

ソ連時代に作られ、今も現役で走り回っているトラックは何ともいえずかわいい顔をしている。ソ連は労働と機械社会の未来を見据えたとき、そうした「機械の人間化」を重要視していたとされている

木材の乾燥場はどこか過去の遺跡のような、時代に取り残された場所のような、さらには勝手な妄想だがプロパガンダの行き着く先のような寂しさと怖さを感じた

最後の写真は次回へ続く。

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レバノン:
先日のレバノンのトリポリにおける紛争と、ベイルート爆破テロの際に偶然滞在が重なった。
もともと数年来のヒズボラとの紛争が小規模ながら今なお続いているが、この所時に事件として表面化するという。首都ベイルートでも警察と、軍隊による警戒態勢がしかれていたが、今回の爆破事件以降さらに警戒が強まっていったとみられる。夜間はバリケードを用いた検問が市内の至る所で行われるに至り、人々も夜の外出を控えるようになっているという。


ターコイスブルーの美しいモスクが青空の下に映える。しかし、ふと見回すと赤いベレー帽の警官や、戦車などに乗った兵士の姿が目に入ってくる


空爆に備えての対空機関砲を備えた戦車がそこかしこに現れた
過去の内戦の傷跡は市内に今でも数多く残る。それでも、ベイルート市内にはキリスト教寺院とイスラム教のモスクが同じくらい見受けられる。キリスト教徒とユダヤ教徒は常に共存してきた

トルコ/イスタンブール

ベイルートは無事に出ることができた。
さらに西進し、イスタンブールへと辿り着く。
かつて幾度にも渡り支配者の入れ替わってきたイスタンブールは、文化がぶつかり合い、時に融合し、また共存してきた都市であることを肌で感じられる街だ。丘の上に建つヨーロッパの街並から海峡沿いへと下っていく小道を通ると、時に現在が剥離して過去と並立するかのような浮遊感にとらわれる。曲がり角を回った強い日射しに、街を通うトラムのレール音にこの瞬間へ立ち返る。

何気ない街路の先に何を見るのか、ふと浮かぶそうした感覚自体すでに現実と離れていく気がする

白中夢を誘うかのような強い日射しが ”パッサージュ” を通り過ぎていく意味を強く印象に焼き付ける まるでコマ送りのフラッシュのようだった

朝日とともに、そこには何気ない日常の生活と喧噪が繰り広げられる。そして夕陽とともに、コーランの響きとともに、今日一日というよりは、今までの全ての日がこの時をもって閉じていく、そんな感覚にとらわれる。それはまた、永遠に繰り返されていくような、変わる事のない始まりと終わりの再生であるかのようにも思えるのだ。


朝日に染まるイスタンブールの街並。一見ヨーロッパの街並の、そのくせどこにもない、イスタンブールの色と空気


仕事に向かう人々の姿が朝の空気を動かしていく


低所得者区域の満艦飾が華々しい


子供の笑顔にも陰がない

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キルギスタンの首都Bishkekにはアクセスポイントとして短時間滞在するにとどまったが、ホテルの周りを朝散策し、街の雰囲気を感じることができた。
ソ連時代の都市計画を持つこの首都は、大きな街路とそれを彩る街路樹が美しい。大きな特徴はないが、首都としての機能が集約された中心部を外れると、静かな住宅街が広がり、こじんまりとした家が立ち並ぶ。
その中に、いくつかの人が住まなくなって放置された廃屋を見つけ、足を止めた。

赤い星の旗章は、ペンキが剥げ落ちている。ソ連が去り、その住人も去っていったのだろうか。


隣にも廃屋があるが、ここは最近まで人が住んでいたようだ。


なぜだか、懐かしい気がしたのは気まぐれな旅人の無責任。



レンガは、手でひとつずつ積み上げなければならない。手の痕跡は、必ず残る。


塗り込められた漆喰がはがれて、昔の姿が垣間見える。


人が去るときには、残されるものは無造作に残される。


ここには人が暮らしているようだ。手作りの感覚に、ユーモアが見え隠れする。


先ほど言った”懐かしさ”には、この街の家々に見られるこの工芸品のような作りも一役買っている。細かく張り合わされた木板や、積み上げられたレンガは、やはり”製造される”ものとは違うのだろう。


小さな窓に、豊かな感性を感じさせる。大きな壁面の小さな窓だからこそ、そうした気遣いが光る。

なんだか、うれしくなるほど芸が細やかだ。そこはかとなくユーモアまで漂うのだから。



街で美しい家を見つけた。


英語で”cozy”という言葉がある。辞書を引くと、”気持ちの良い、心地よい、居心地の良い、温かい、こぢんまりした、心の通い会う、親しみやすい、打ち解けた、和気あいあいとした、くつろいだ、リラックスできる、楽な、便利な、アットホームな感じの”といった訳があげられている。これは、家というものが生活に根付いて、住み手との豊かな関係が築かれて初めて使える言葉だ。日本の建築界が最近生み出している住宅に、この言葉は当てはまるかどうか。

家は物ではなく、人の暮らしという記号を伝え、暮らしを包む空間である。

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