— Delirious New York Diary

現在進行中のプロジェクト敷地があるキルギスタン、タジキスタンの二つの国を今回初めて訪問した。第一回目は敷地のあるキルギスタン東部の小さな町、Naryn市について紹介する。

キルギスタンはカザフスタンの南方に位置し、中国と国境を接する国である。今回訪れたプロジェクト敷地の一つNaryn市はキルギスタンの主な河川であるNaryn河に面した人工3万人の中部の都市で、北部の首都ビシュケクからは車もしくはヘリコプターなどで国土中央の山脈を越えてようやくたどり着ける。6000m,7000mを超える山々がそびえ、東には天山山脈が中国へと続いていく。高山と、高原の国だ。



まずはその山々の連なりに圧倒される。往きはヘリコプターにてこれらの山脈を超えた。雪を頂いた高峰と、過去永きに渡って繰り返されてきた地球の息吹を感じさせる痕跡の数々は、地球という物が未だ人を寄せ付けない、人知を超えた存在であることを突き付ける。息をのみつつ、この小さなヘリの窓の外を眺め続けた。


様々な顔を見せる地表の文様。自然の作り出す無作為の、無償の造形美。


プロジェクトの敷地に赴くと、前方に赤い岩の山が迫る。その前にはNaryn河が高山からの水をたたえて滔々と流れる。水は澄んでいるのだけれども、氷河の氷を思わせるかの様に、エメラルドグリーンをしている。

振り返ると、今度は別の砂に覆われた岩山が平原に迫る。

町で一つ驚いたのは木々の多さだ。これは旅の途中常にそうだったのだが、人々の暮らす場所には必ず木々が道沿いのみならず植えられ、特に多く見られたポプラの並木が美しかった。砂の山肌に対して、紅葉した木々が美しく映える。


町中にも牛やラバが悠々と歩いている。ソ連が去った90年代は中央アジアにとって失われた10年であったと人々は口にするが、ようやく自立しはじめた国の未来を象徴するかの様に若い人が多く、その言葉と顔は希望に満ちていた。社会も人々の暮らし方も変わりゆくことを自覚しながら、それでも彼らは雄大な自然の中で太古の昔より続く生き方を切り捨てるのではなく、受け入れる方法を自然に見つけ出している。広大な自然と、その中にぽつんと見えるかのような人々や牛たちが、どうしてこれほどまでにとけ込んでいるのか。

町にはモンゴル系の顔立ちの人々が多くを占める。親近感を覚えるのか、屈託ない顔を見せてくれた。



この敷地だけではないのだが、古代に岩に刻まれたとされる絵が地表にまるで無造作に点在している。底に刻まれた放牧の牛や馬や羊やヤギの姿は、昔も今も変わらないこの土地の人々の暮らしを思わせる。


それでも巨大な岩山の前で自らの小ささを感じてしまうのは、経済的な豊かさに慣れ、都市という人工的な巨岩の中に暮らす我々の業なのだろうか。

次回はタジキスタン訪問をお伝えする。

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被写体は、「外部にあるものではない」というのがこのブログの写真のテーマだと語ってきた。

そして、自らの内に「投げかけられたもの」を捉えるのみではなく、自らを「投げかける」こと、あるいは投げかけられたものと投げかける意識の交点を見つけ出す行為が写真によって記憶されるのを意図することで、世界の広がりを見、またその広がる世界との自分の接点を見極めることが写真というメディア=媒体を通じて可能になる。そこが、偶然と必然の交差する場となるのだ。


ふと書棚の扉を開けると、扉が部屋の光と影をくるりとひっくり返すかのように光と影を揺らす。はっとして扉を開ける手を止めると、扉に反射した夕刻の光が、鋭い一条の光を投げかけた。


漂う影の中に差し込む、一瞬の緊張。


光は反射と拡散を繰り返しながら影へと霧散していく。ただその姿もが回折の波動の穏やかな振幅と感じられるのは午後の光だ。光と影は、往々にして黒白ではない。闇と光というドラマチックな対立を時に演出するのも、実はその間に存在するグラデーションの深淵なのかもしれない。谷崎の「陰影礼讃」は、西洋と東洋の交点を、そのような形で表現した。


陽は移りゆく。黄昏に陰を纏い始める静物達も、一瞬、自らが光を受け空にその存在を放つ瞬間を待ちながら、静けさに沈む。


それは緊張に満ちた空間だ。空間とは、ヴォイドとマスの、単純な関係ではあり得ないことをその空気にみなぎる緊張感は教えてくれる。


その張りつめた空間も、光の移ろいによって揺らめき、振幅する。量子世界の虚と無の絶え間ない生成消滅を、この宇宙が生み出される前の原初のゆらぎの海を、連想する。


暗闇で映画を見ながら、ついグラスをプロジェクターの前に置いてしまったのだけれど、その瞬間画面は消え、拡散して光の帯や塊になって部屋を漂った。壁にはその光が、刻一刻と移り変わりながら姿を見せてくれた。息を詰めるような、瞬間。


写真のビデオバージョン。写真よりビデオの方が、光の移りゆく様が美しい

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「ゼムルーデの街にその形を与えているのは、それを眺めるものの気分でございます。のんびりと口笛を吹き鳴らし、その調べのかげに鼻を仰むけ通りがかるときなら、下から上に見上げるその格好でゼムルーデを知ることでございましょう。すなわち、出窓、風にそよぐカーテン、噴水でございます」


ある教会のファサードを見上げる。表面が細かくパターンで覆われていて、視線が滑っていくことなく吸い寄せられていく。それでも空を見上げると青空


New YorkではFire Stairの設置が義務づけられている。鉄の時代の名残か、鋳鉄製のものがほとんどなのだが、その描くパターンがファサードをのっぺりしたものから生き生きとしたエネルギーのあるものへと変えている


ビレッジのアパート。スタッコの剥がれ落ちた下から現れた古びたレンガの風合いと、Fire Stairの細い飾りパターンが絶妙なほどにバランスのとれたファサード。新しい街のイメージのあるNew Yorkだが、建物の多くは実はこうしたクラシックな雰囲気を残す


ゲートから小さなCourtyardを覗く。それにしても”ナインハーフ”とは意味深。このユーモアのセンスはNew YorkerというよりAmerican


柔らかなライムストーンのファサードに、隣のビルの窓で反射した光が投げかけられていた。それにしてもこのファサードに見られる窓の上のペディメント(三角屋根や丸屋根の小飾り)には遊びが多くて、まるでミケランジェロの手によるものみたいだ。三角と円弧の対比(コントラポスタ)があって、それがさらに上階と下階で反転されている。ここではペディメントが窓枠から分離して、まるで浮いているように見えるのも面白い。普通キーストーンと呼ばれる「くさび」が三角屋根の頂点を下方から支える(そういうふりでも良い)のだが、このファサードでは「分離され浮遊する」ペディメントそのものを下の窓枠からつなぎ止めるために、キーストーンが使われ支えて(繋いで)いる。(左上の窓がその例)その下の窓では「キーストーン」が柱の頭飾り=柱頭に置き換わっているが。さらに見回すと、いくつかは普通にペディメント両翼で柱頭飾りの名残に支えられているのだが、支え1つだと危うい2者の連結とアンバランスさがかろうじて浮遊をつなぎ止め、2つだと独立した両者を繋いでいるというより上部を下部が天秤にかけて支えていると見え、(これが最も一般的で、イコール安定感がある)逆に過剰に3つの柱頭で支えられていると安定しすぎて「パターン」となり、3者が独立とその意味あいを無化されて、完全な装飾に堕ちていく。
ーーしかしそんなことにはまるで気付かれない中、光も棘を落として柔らかにファサードとたわむれ揺れる午後の一刻

「もしまた胸に顎を埋め、掌中に爪をしっかと食い込ませて歩いてゆくときならば、その視線は地上を這って、水溜り、マンホールの格子蓋、紙屑にゆき合うことでありましょう。都会の一つの姿を他の姿にもまして真であるとは申すことはできません。それゆえ、上向きのゼムルーデの話を聞くのは、とりわけても下向きのゼムルーデの中に埋もれてゆきながらもう一つの姿を思い出している人たち、毎日おなじ道筋を通り抜け、朝には前日の不機嫌が塀の根もとで固くなってこびりついているのを見つける人たちからなのでございます」


残光の中、もの言わぬFire Plugが長いかげを落として自己主張する


道路工事中に置かれる重々しい鉄のパネルは、のっぺりと舗装された道よりもなぜか都市を感じさせる。まるで都市の絆創膏だ。その上に、誰かが残していったトレッドの痕もまた、都市の、人の息吹


工事の際むき出しになった建物の骨格と、掘り返された地下から、過去があらわになる

「だれにしもあれ、早晩、雨樋にそって視線を下降させ、もはや敷石から目を離すことができなくなる日がやって来るものでございます。その逆もまた排除されてはおりませんが、なお稀でございます。さればこそ、今やわれらは視線を穴蔵や土台や井戸の下へと潜らせながら、ゼムルーデの街をなおさまよい続けてゆくのでございます」


長い間人がくり返し歩いたために磨かれて、鈍く光を跳ね返すようにして静かに歴史と存在を示す石のグラウンドと、人の手になる鉄の滑り止めの鈍い光。仲介を果たすは、これもまた少し崩れかけている赤いレンガ


以前アップした写真の別バージョン。短い夏の夕立の後、既に晴れ間がのぞいていた。水溜り、車のオイル、青空、時に沈む建物、吹きゆく風

久しぶりのため少し写真が多めに載せてあります。これからもよろしく。

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阪東妻三郎の血を受け継ぐ輝かしい田村一家の長兄、田村 高廣さんが亡くなった。
父の華やかさとも違う静かな落ち着きを持った演技の中に、時折見せるぎらりとした眼差しで存在感を示した人だった。自分にとっては小栗康平監督と組んだ、宮本輝原作の「泥の川」での演技が印象に残っている。最近では朝のNHK連続テレビ小説「ファイト」で馬の調教師を演じていたが、若い後継者に後を継がせ、静かに引退していく役柄は、今思うとまるで自らの引き際としての演技に思えてしまう。数少なくなった演技派俳優の突然の訃報は、さびしい。

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都市と記憶 3 ザイラ
「ーー今日あるがままのザイラを描き出すという事にはまたザイラの過去の一切が含まれておるはずでございましょう。しかし都市<まち>はみずからの過去を語らず、ただあたかも掌の線のように、歩道の縁、窓の格子、階段の手すり、避雷針、旗竿などのありとあらゆる線分と、またさらにその上にしるされたひっかき傷、のこぎりの痕、のみの刻み目、打った凹みといったなかに書き込まれているままに秘めておるのでございます」


マンハッタンの鉄の時代がソーホーの街に残る. 太く錆び付いた柱の鉄のリベットの並びが、’洗練’とは違う美しさを見せる. 人の手で吹かれた古いガラス達が、街のそのさまざまな姿を映し出すかのように、ひとつひとつ違った歪像に切り取っていた


何度も色を重ねられ、それもところどころ剥がれ落ちた窓枠が、外界とは違う時間の流れに沈む内側を垣間見せている. 表裏を繋ぐ隙間と窪みが、街には無数に散らばっている

都市と欲望 2 アナスタジア

「ーー都市はただ一箇の全体として、どのような欲望も何一つ失われてはならず、われわれもまたその一部をなすものというように思われますし、われわれが現に愉しんでいないものでも都市があますことなく満喫しているのであれば、われわれとしてはこの欲望を住処としてそれで満足しているほかはございません。このような力、時により呪われたとも恵まれたとも言われる力を、人を惑わす都アナスタジアはそなえておるのでございます。瑪瑙や玉随や翡翠を切り出す人足となって一日八時間はたらくならば、欲望に形を与えるこの労苦はそれ自身の形を欲望から得ているのであり、またアナスタジアのすべてから満足を得ることができると信じているとき、その実、人はその奴隷にすぎないのでございます」


ソーホーの道ばたにあるアートインスタレーション. まぶしい光の中に霧散する鉄のラインと、影の中鈍く光を放つライン. 強いコントラストが、目眩と共に白昼夢へとさそう

ショーケースに閉じ込められた、別々の時間を刻んできたアンティークの時計たち. 時間の流れが、無限の重なりとなってゆらぎの中に消えていく

都市と記号 1 タマラ

「ーーようやく旅はタマラの都市へと至り、看板がごちゃごちゃと家の壁から突き出ている道を分け入ってまいります。目は物を見ず、ただ他のものを意味するものの形象を見ております…..かりにある建物が何の看板も絵姿も掲げていない場合でも、それ自体の形なり市街の秩序のなかに占めるその位置なりがじゅうぶんその機能を示しております。王宮とか、牢獄とか、造幣局とか、ピタゴラス派の学校とか、妓楼とか。商人たちが売台に並べて見せている品物でさえもそれ自体としてではなく、ほかのもののしるしとしての価値をもっております。額を飾る刺繍した帯は優雅さを、金塗りの煉は権力を、またアヴェロエスの書物は叡智を、足首にまく環飾りは放逸を意味しております。

眼差は市中の通りをあたかも書物のページの上のように走りぬけてゆきます。都市は人々が考えるはずのことをすべて語り、ただその言葉をわれわれにくり返して言わせるばかりでございます。人はタマラの都を訪れ見物しているものと信じているものの、その実われわれはただこの都市がそれによってみずからとそのあらゆる部分を定義している無数の名前を記録するばかりなのでございます。

この稠密な記号の被いの下には、いったい、ほんとうのところどのような都市があるのか、それは何をひそめ、隠しているのか、人はついにそれを知ることもなくタマラから出て参ります。外には空漠たる大地が地平線まで拡がっており、大空がひらけ、雲が流れております。偶然と風とがその雲に与える形のなかに、人ははやくもつぎつぎと形象を読みとることに夢中でございます。帆舟だ、手だ、像だ….と。」


さえぎるものなく空に伸びるあの姿は、いつも蜃気楼のようだった

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昼間にはハリボテのように見えるロトンダとその列柱も、夜の闇にまぎれる中で古代様式の廃墟を錯覚させる


不思議な折衷様式のこの旧図書館も、闇の中その巨大な量塊を潜めている 僅かな狂気と、恐怖

 月に向かって伸びる列柱 怪しげな密約

 深みを増す陰影の中、静物たちが声を上げ始める  扉の奥の「SAFE HAVEN」は避難所の意だが、「SAFE HEAVEN」と読み違えもし、アイロニーを感じる あの世への扉、とでも言いたげな

 帰り道、いつも気になっていた窓の無い壁 ブロンズのパネルに覆われて、隠しているのに自らそれを照らし出し、秘められた内への好奇心をそそる 「飛んで火に入る夏の虫」はどんな人間なのか


 建築学科Avery Hallの天井に、古いライトを灯すための生命線が敷かれている その灯りの陰影も手伝って、ひどく空間を豊かに描き出している気がした


 後ほど詳しく紹介したい、元建築学部学長ベルナール・チュミによるLarner Hall 昼、外の木々や芝生の緑、煉瓦の赤を内に取り込むガラスの平面は、夜、反転して光を外に投げかけて、その姿を闇に浮かび上がらせる
学生が行き来し、そのさ中にイベントが生まれている

 Larner Hallにあるチュミによるインスタレーション ロシア構築主義と映画のシークエンスにテーマの源を見るチュミがここで選んだのは、「戦艦ポチョムキン」の”立ち上がる獅子”の図

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幾度かこのブログにも登場している磯崎新は、数多くの著書を残している。建築が「建築」という言語による思考と構築作業であるとするならば、そのプロセスを記述する方法は、ドローイングや模型、ダイヤグラムといったリプレゼンテーション的なものから、そのコンセプトや主旨を主観的に(あるいは客観的に)語る行為である「文章」も、その有用な方法として用いられるのが自然といえる。そこにはもちろん実際の建築との齟齬も発生するだろうが、逆にその空隙に入り込んでくる社会や文化的視点を利用して建築そのものを客観的に捉え直す事も建築成立にとってなくてはならない作業である。そしてそこが建築というフィールドを超えた、異分野間の意見の交換が生まれる素地ともなる。新たな思考へのより広い踏み台ともなる。

「磯崎新の思考力」は、建築に関わる狭い範囲に向けられた言説集というよりは、建築を成立させる社会的広がりに向けられた、建築の外側にいる人にこそ読んでもらいたいと書かれたエッセイ集だ。もちろん専門的な言葉、人物も多くその点すんなりとは読めないかもしれないが、多くの人に読んでもらいたい本だ。タイムリーな話題と、今だからこそ再考されるべきテーマのどちらもがあふれている優れたエッセイだと思う。

昨年、近代建築の二人の巨人の訃報が届いた。アメリカのフィリップ・ジョンソン、そして日本の丹下健三、どちらも両国の近代建築を率いた中心的人物だった。磯崎は、この二人との個人的な関わりを交えながら、彼らの存在を物語っている。

ーーフィリップ・ジョンソンは非常に複雑な生き様とそれを反映したかのような建築への取り組みを見せた、個性豊かな人物だったという。ヨーロッパに起こった近代建築の萌芽に遅れをとっていたアメリカに、啓蒙としてそれらを持ち帰ったのも彼だった。
彼自身は異質の存在となるべく定められた人だった。ファシズムに傾倒し、ナチス・ドイツを崇拝してポーランド侵攻に従軍したこともある。後にはゲイである事を公表し、アメリカの建築/美術界の中で派閥のような権力のサークルを作り出しもした。生まれては消える建築の活動を取り込んではもてあそぶかのように自己解釈して作品に反映していく。それ故に皮肉にも彼は非常に長い間にわたってアメリカの建築界で影響力を持ち続けた。
磯崎はそんなジョンソンの、きらびやかな光と影に彩られた人生を様々な陰と陽の視点を交えて見つめている。

フィリップ・ジョンソンを世に知らしめた作品は、彼のデビュー作となった「ガラスの家」である。(近代建築史再考のエントリを参照されたし)これは同じくガラスと鉄による建築を目指したミース・ファン・デル・ローエの住宅作品、たとえば「ファーンズワース邸」と比較検討されてきた。どちらの邸宅も豊かな自然の中に建ち、とくにガラスの家はダンテ云うところの”アルカディア”とも言えるかのような素晴らしい土地の中に建っている。

フィリップ・ジョンソン「ガラスの家」

磯崎は、その「ガラスの家」の中にイーゼルに載せられたニコラ・プッサンの絵を認める。プッサンは数多くのピクチャレスクな田園風景を”アルカディア”として描いた画家として知られているが、プッサンの絵にはパッラディオが田園風景の中に配したフォリー(フォーカルポイントとなる休憩所等の小さな建造物)がよく描かれており、ジョンソンはガラスの家を建てた後、その周辺の広大な敷地にフォリーのような小さな建物をその時代に流行したスタイルを用いていくつか設計し、風景の中に配置していった。
裕福な家庭に育ったジョンソンは家族のコレクションの多くを処分する中でこの絵を自らの枕元に残したという。それも専門家に鑑定を依頼し、その結果”偽物”であることが判明した後にである。

最後にガラスの家を訪ねた時、磯崎はその絵の左下に、数人の男が棺を担ぎだしている姿が描かれているのに初めて気がついた。アルカディアに死はない。もしくは、死は気付かれない間に消し去られる。ジョンソンは数十年にもわたりそんな絵を枕元に掲げながら、目前に広がる風景には自らの好む建物を一つ一つ作り上げ、自分の求めるアルカディアの風景を作り上げていったのだろうか。
そこにはジョンソンの生き方と考え方が強く反映されている気がしてならないと磯崎は語る。ミースのファーンズワース邸に対し、コピーとは言えないとしてもそのコンセプトを借用した、「偽物」としての「ガラスの家」。ヨーロッパの戦火に崩れ落ちた石造りの伝統都市に対する、ピクチャレスクな自然とそこへ開かれた鉄とガラスの透明な邸宅。その中に掲げられたアルカディアのイメージと、その影を描いた絵画。そこには近代建築の描いた単純な未来像、ユートピアとは明らかに異なる、ジョンソンの心象風景の中にのみ閉じた世界観が垣間見える。

建築においてはつねに伝統と形式の授受が次の世代の建築を生み出す先駆けとなる。それはまるで突然変異のように捉えられがちな近代建築についても実は同じだ。その限られた範囲内からのみ特別なオリジナリティを探し求めることは意味不毛なものである。近代建築には何らかの歴史や伝統様式への参照と模倣が成立の過程で認められるのだが、その点でジョンソンは同時代のミースを参照した。それは時代や権力に寄り添う嗅覚をもったジョンソンの、非常に鋭い洞察であったのだろう。(ミースはシンケルという新古典派を、コルビュジエはルネサンス後期のパラッディオを参照したとされる)
そしてアメリカにおける近代化の遅れを、取り戻す啓蒙活動も行ったのである。ニューヨーク近代美術館MoMAは彼がプロジェクト成立に携わり、近代美術のアメリカへの紹介と近代建築を「インターナショナルスタイル」として紹介する場を作り出す手助けをした。(彼はファシスト活動によってその職は追われているが、モダニズムは第三世界の大規模計画に寄与したのみならず、社会革命を推進するロシアや急進的なファシズムに突き進んでいったイタリアに寄り添っていったこともまた事実であり、その点での検証もモダニズム、そしてジョンソンの建築を理解する上で必要だと思われる)

彼は「後追い」である事を自任していた。その後の建築への取り組みにも、それははっきり現れている。後追い故の、参照と模倣、そしてそこに込められたスパイスのような皮肉と批評。世界規模で模倣され粗製濫造のうちに増殖していった近代建築の未来を、既に見据えていたのだろうと磯崎は見るーーー
ーーもう一つ、磯崎の丹下健三との関わりとつながりの深さを物語るエピソードとして、次の部分を引用したい。丹下健三が広島の原爆メモリアルに携わった際、建築中の建物とかつては墓地であったその建設地を撮った一枚の写真について語った部分である。
「今広島平和記念館となっている建物の位置は、かつて墓地だった。丹下健三は自らシャッターを押してその状態を記録してあった。磯崎新は学生の頃同じ位置に立って、原爆の死者とその先祖達とがともに埋められながら、ここにあらためてその死者を祀る施設をつくろうとして、生と死が重層して見えるその過程に関わる仕事があり得る事に感動して、その写真の作者のもとに弟子入りする事に決めた」

つながりとは、かくも偶然のようでありながら深く強いものなのかと思う。建築の表層的なスタイルの移り変わりの裏に、綿々と続く強固な存在としての蓄積は存在する。それにいかに対峙するかは人それぞれのものであるとしても、それを引き継ぐ役割を、我々は負っているのである。そこから、何かは生まれてくる。

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写真家・作家の藤原新也氏のコラムが興味深かった。(4/3 朝日新聞)
ここ最近、写真業界では激震が続いていると言う。京セラのカメラ事業撤退、(Contaxブランドが宙に浮いている)ニコンのフィルムカメラからの撤退、コニカミノルタのカメラ事業の委譲、そしてその意味するコニカ(元サクラカラー)フィルムの消滅。カメラのデジタル化によって、老舗であるメーカーも撤退を余儀なくされる時代になったことを物語っている。
その中で、藤原氏はデジタル化自体に拒絶反応を示したり、フィルムと比較してデジタルの地位を貶めたりすることがデジタル化の意味そのもののについて議論する機会を奪っている可能性を指摘する。
「誤解を恐れずに言えば”人間の眼”そのものもここ30年の間に徐々にデジタル化してきていると考えており、むしろハードの方が後追いで人間の感覚に追いついてきたと言えない事もない」
この藤原氏の指摘は、カメラやそれにまつわる写真という分野を超えて、我々のコミュニケーションの仕方が変化している事、その中で表現の一つの手段である写真メディアが社会で占める意味や役割も変化してきた事を鋭くついているように思われる。
”人間の眼のデジタル化”の意味する所について、藤原氏はまず技術的な点から指摘する。
「たとえばデジタルの”欠陥”としていわれてきたダイナミックレンジ(白から黒に至るまでの諧調表現)の不足という点に関していえば、30年のスパンでフィルムを使ってきた私の眼からすると、そのフィルム自体もこの間に諧調の再現が広くなるのではなく、逆に明らかに狭くなっている。つまり、基本性能が低下しているという事だ」
これの意味する事はどういう事なのか。
「わかりやすく言うなら白から黒に至る諧調表現が豊富であるという事は、『見た目に地味に見え』諧調表現の幅が狭いという事はコントラストが高くなり、『見た目に派手になる』という事だ。フィルムは“見た目”重視に向かったという事である」
写真を撮り、物として残すという行為そのものに我々は写真発明以来意味を見いだしてきたわけだが、こうしてカメラが何でもないものとして日常的に使われ利用されていく中で、写真を撮るという事の意味は劇的に変化したし、写真そのものに求める要求も変わっていった。
パッと見た目にはっきりと、くっきりと、色鮮やかであることで、完成した写真そのものが写真として、物としての美しく見える事に重きが置かれる。
「それはユーザーの眼自体がこの30年のうちに”デジタル化”(デジタル慣れ?)し、見た目に派手な映像を求め始めたという事と無関係ではないーーーその事は諧調の表現にとどまらずフィルムの彩度においても同様の事が言える。彩度とは優しく言えば”色の派手さ加減”のことだが、かつてのフィルムの彩度が仮に自然に近い地味な色であるとするなら、今主流となっているフィルムの彩度は既に飽和点に達しつつあるほど高く、『人工的』なものになっている。」
この”人工的”という言葉の意味する事は何だろう?我々は少なくとも写真を撮るとき、”写真を撮る” “撮りたい” という意識から写真を撮る。そこには思い入れがあり、残したいという要求が存在するだろう。いわばその時点で、写真として形になる物は人工の、意識や記憶の産物だと言える。以前「ゲルハルト・リヒター展」で述べた、視覚という知覚情報と、それを記憶し、写真やアートとして再現することの差異について、アナログからデジタルへとハードの面からも移行しつつある現在、再考する意味はあるのではないだろうか。
「例えば木のは一つ撮っても、その緑の色は実際の色とは似ても似つかない、あたかも造化の葉のように派手な色としてフィルムに定着される。このことはユーザー(プロを含め)の視覚も自然ではない派手な色を記憶色として脳内に定着させ、それを「きれい」と感じるデジタル的感性になっている事を示す」
被写体を眼という知覚を通して捉え、藤原氏言う所の感性にまで高めるのは、もちろんそうした「きれい」という感性をも含む我々の、記憶や主観、感情が介在するプロセスだ。ーー果たしてそれは本当に自らの感性によるものなのか、そして写真というメディアに残されるものが、自らの介在したプロセスの記憶であるのか、もしくはカメラというハードによる記録なのか。そしてその根幹にある、何のために写真を撮り、何のために写真を残すのかという最も根本的な問いーーカメラがここまで人々の手に行き渡り、写真を撮る事の特殊性が消え去り、その簡便性から利用目的も劇的に変わりつつある今現在においては逆に問い直しづらい問いーーが残される。写真というメディアにはハードに頼らざるを得ないという点からも、またハードを用いさえすれば形あるものとして残るという点からも、常に危険な落とし穴が隠されているのだ。「写真のために写真を撮ってはいないか?」

日本は自然に生き、地味な色とテクスチャーに囲まれて養った美への感性を、人工物のあふれる都市的環境への移行によってより刺激の強いものへと反応する感性へと変化させてきた。テレビモニターは派手な彩度や諧調を持ち、TVゲームやパソコンモニターはさらにその傾向が強い、と藤原氏は述べる。そうした刺激の強化による感性の変化は劇的である、とも。
「おそるべきことに、わずか10秒で人間の眼の感性は瞬間的に変化するのだ。例えば彩度の異なる2点の風景写真を用意し、始めに自然の彩度に即した地味な写真を見せる。次に彩度を高めた写真を10秒間見せ、その後に始めに見せた写真に戻ると、派手な彩度に刺激を受けた脳はそれを精彩を欠いた物足りないものと錯覚してしまうのである」
藤原氏は写真家としての立場から”眼の感性”に絞った意見を展開しているが、これは何も視覚に限ったものではないだろうとして、続ける。
「仮にそのような色価の刺激が10年続いたとするならば、その錯覚が生物学的な脳気質の変化をも生んでしまうであろう事は容易に想像がつく。ーーーアナログからデジタルへの移行は、そういった現代人の感性のデジタル化と同時進行の出来事であるように思われる」
それはなにも、否定的な捉え方とするものではない。ただ何かを作る者としては、少なくともその意味する所を意識する必要はあるだろう。
「タテ縞の飼育小屋の中で育った猫はヨコ縞が見えなくなるという衝撃的な実験があるが、どうやら2000年代の人類は、その猫の生態に似てきているようだ」

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前回最後に「ユダヤ博物館」の記事を参照してほしいと書いたのは、大きなテーマとしての二つの記事の同一部分を見てほしかったからにほかならない。「つながり」という使い古された言葉を選んだのも、そこに込められるべき意味を今一度想像してほしいと願うからだ。

ある文章をここで引用したいと思う。
「あらゆる弁証法的歴史記述は、歴史主義に特徴的な「静観性」を捨てる事によってあがなわれる…..史的唯物論者は歴史の叙事詩的要素を断念しなければならない。歴史は史的唯物論者にとって構築作業の対象となるが、その作業の場は空虚な時間でなくて、一定の時代、一定の生、一定の作品をなしている。史的唯物論者は物の世界の「歴史的連続」を爆破して時代を取り出し、そのようにして時代から生を、一生の仕事<ライフワーク>から作品を取り出す。しかしこの構築作業の成果は、作品の中に一生の仕事が、一生の仕事の中に時代が、そして時代の中に歴史の経過が保持され、止揚されてあるということになった時、成果と言えるのである」 ーヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術」

今まで言わんとしてきた事は、この短い一文に凝集されている。リベスキンドの新たな「物/語り」としての建築、磯崎の言う「廃墟」の影に潜むもの、そして映画というメディアが持つ時間断片の再構築と複製による「出来事の再現性」とはまさに、そうした「つながり」の想起と、想像と、構築と、自らによる編集の帰結に他ならない。それは一言で言えば、傍観者であることから抜け出すことであるといえる。その産みの苦しみをともなって初めて、いつしかそれらの営みは人と人とをつなぎ、過去と現在と未来をつなぎ、文化として、無形の物であっても伝えられてゆく足がかりとなる。そこには多様性がありながらも、振幅と揺らぎの幅を持ちながらも、ある一定の大きな流れを生み出してゆくのだと願いたい。そしてそこに、人は回帰してゆける場を見いだすのではないだろうか。<それを、見失いかけている現代の日本>

キシェロフスキーの映画に「ふたりのベロニカ」という作品がある。以前、ある映画評でこの作品について、「荒唐無稽なファンタジー」という突き放した評価を目にした事があった。
映画は、ポーランドのワルシャワとパリで生きている、二人の「ベロニカ」という、同じ日に生まれ、容姿も同じ女性についての話である。別の場所に、別の生い立ちを持ちながら、彼女達はいつしかお互いの存在を感じ始める。そして偶然のランデブーを境に、二人の人生が大きく動き出してゆく、という寓話的なお話だ。


映画自体も、ヨーロッパの古いおとぎ話的な要素を盛り込みながら、時に幻想的なシーンを交えて進む。ポーランドのベロニカは、体が弱いのだが美しい声を持ち、少女合唱団で歌い、ついにはオーケストラとの共演のソリストとして舞台に立つ。一方パリのベロニカ(ベロニク)は小学校の音楽教師としてあまり満ち足りない生活を送る中、幻想的な人形劇を小学校で披露した不思議な雰囲気を持つ男に出会う。彼は絵本作家であり、また人形劇で使う人形を制作する人形職人でもあった。

あらすじについてはこれ以上語らないことにするが、この映画では何かが失われていく感覚と、脈々と伝え来られた何かが静かに息づいて、空気のように目に見えずともなくてはならない物として存在している感覚、そうしたものがいつも解け合いながら共存している印象を受ける。

ベロニカによるあるシーンーー列車の車窓から見える風景が窓ガラスの凹凸によって歪んで見えるのにベロニカが気付く。少し離れたところにある古い大聖堂がゆっくりと画面を横切りながら、凸凹の部分で緩やかに歪んで流れる。彼女は第三者の視線に気付いたかのように微笑んでカメラに視線を返すのだが、それは彼女が別の世界に別の自分が存在している事に気付いているのを示唆しているかのようだ。やがて彼女は持っていた透明なスーパーボールを取り出して、目の前にかざして外の風景を覗いてみる。上下逆さまになり、歪んで膨らんだ街の景色が透明な球の中に取り込まれたように浮かび上がって、流れてゆく。このシーンは、ヨーロッパの永い歴史が目の前に絵物語のように浮かんでいる感覚、そしてそんな歴史やそれを宿した街並が自分自身の中に思い起こされ浮かび上がってくるような感覚を呼び起こす。あるいは、そうして覗き見る世界が、別の風景ーーベロニクの住む世界ーーを暗示し、ふたりの世界をつなぎとめているのだろうか。


幻想的で、あたたかみのある美しい映像を撮った撮影監督は、キシェロフスキーと長い間コンビを組んだスワヴォミール・イジャックというカメラマン。以前記事にした、同じキシェロフスキーの「殺人に関する短いフィルム」もイジャックが手がけている。同じように光量をフィルターでコントロールしているのだが、「ふたりの〜」ではセピアのあたたかみ、「殺人に〜」では社会を覆い心の奥底まで影を落とすぎらつく陰影を作り上げている。彼は後ほど「Blackhawk Down」も手がけたが、彼の映像表現は昨今よく目にする「銀落とし」の脱色手法にも大きな影響を与えたのではないだろうか

そしてベロニカとベロニクが偶然に出会うシーン。映画は1968年に設定されており、ポーランドの街の広場でも学生運動の嵐が吹き荒れている。騒然とした雰囲気の中で、ベロニカは旅行に来ていたベロニクの姿をバスの中に偶然みとめる。ベロニクは学生運動の混乱をカメラで写すが、ベロニカにはまだ気付かない。このシーンは騒然とした時代の空気をドキュメンタリーのように描き出しながら、その中で生まれるドラマチックな偶然(必然?)の出会いが映し出される。それまでの、深い歴史を背景にした穏やかな流れが、一気に現代社会の峻烈な状況と交叉する鋭いシーンだ。後で写真を現像したベロニクは、その一枚の中に、自分とそっくりな、というより自分そのものの姿が写っているのを見つける。

キシェロフスキーの映画では、偶然のようでそうではない、つながりがないようでつながりのあることが物語とシーンを紡ぎだす。それには映画というメディアの特性であるカメラという視点と被写体との距離をつなぎ止めること、バラバラに見えるかの物語を映像と時間の中で結びつけ、編集し、再構築することが要求される。さらにそれは作り手側だけの問題ではなく、それを見る我々の側にも要求されている。いつも言うように、見るという事、感じるという事、考え、認識し経験へと導いていく事ーー特に映画のように物語性が強い位置を占めるメディアにおいて、その物語性が時に自ら感じ、考えることを妨げる危険をはらむ場合はなおさらだ。

「荒唐無稽のファンタジー」という言いようは、結局のところ傍観者の立場に居続けながらこの映画を俯瞰している精神から来るように思われる。映画を見るという事に限らないが、そこに垣間見えるのは自らと見たもの/対象をつなぎとめるための何かを想起する想像力の欠如だ。ベンヤミン言うところの「静観性」は、言い換えれば提示された物事を受動的に受け止めているだけの自発性の欠如を示している。そしてさらに、「ファンタジー」と言う裏側には、自らの判断基準内という狭義に限定し固定する事で安住する精神、もしくは認識限界を超えたものに対する理解放棄という拒絶が透けて見え、そこに世界との断絶がただ浮かびあがる。

映画を作りたい、見たいと思う気持ちは実はどういった事なのだろうか。映画がエンターテイメントの側面を持つ事は至極当然ではあるけれども、自分の出来上がった世界観や感じ方をなぞり、定まったお決まりの刺激をもたらすだけのものであるならば、それは作るものと見るものの間に自動的で受動的な定型化された関係しか生み出さない。
そこで思い出されるのは、彼の映画を通して、幾度か繰り返されるいくつかのシーンについてだ。特に多く使われるのは、年老いた人物がおぼつかない足取りで街を一人、何かを手に歩いているシーンである。カメラ(あるいは主人公)の視線はこれを外部よりカメラ目線で眺めている。「ふたりのベロニカ」でも、ベロニカが部屋から年老いた女性が大きな荷物を苦労して持ち歩いているを目にするシーンがある。ベロニカと、年老いた女性は見ず知らずの他人同士でしかなく、何の関係もつながりもないままその距離は果てしなく遠いかに見える。ベロニカは窓から手助けすると声はかけるのだが実際には手助けできなかった。これに似たシーンが「トリコロール」の「Rouge」にもあり、(主人公は同じイレーヌ・ジェイコブ)ゴミを苦労してゴミ箱に押し込もうとしている老人を助けるシーンがある。カメラは傍観者としての目線から、一気にその老いた女性に近づき、主人公の心情の視線へと変化して、その距離と溝を埋め、2重の意味でのつながりを生み出す。こうした小さな物語やシーンを編み上げて、ばらばらだったはずのピースはやがて大きなテーマを紡ぎだしていく。あるいは逆に、世界はこうした見えない、偶然のような、小さなピースの集まりだと言った方がいいだろうか。

キシェロフスキーの遺作となった「トリコロール」三部作も上述のように、不思議な縁でふとつながり合う人々の物語だ。文字通り場所や時間を超えて、様々な見えない関係がやがて明らかになり、鮮やかに浮かび上がる。それぞれについてはいずれ書きたいと思うが、「赤/Rouge」の最後には、トリコロールシリーズの主人公達がある因果のもとに偶然勢揃いする。それを映画による「遊び」としてしまうのは簡単だが、この3作品で引退する事を表明したキシェロフスキーの最後の、人間という存在の因果に対する常に変わる事の無かったメッセージであると思われる。救済と喜び、それが自らに芽生えた事に主人公の男は笑顔を取り戻し、他人のために、また自分に涙する。それは、まぎれも無くキシェロフスキー本人の涙だ。常に目を背けることなく世界との結びつきを探し求めながら、最後に至った辞世の句としての無言の穏やかな涙を、静かに受け止めたいと感じた。

追記:トリコロール後、監督復帰を考えていたキシェロフスキーには3つの映画構想があった事が知られている。ダンテの「神曲」を構成する3篇、「天国篇」「地獄篇」「煉獄篇」のうち、「天国篇」は「HEAVEN」として、「Run Lora run」のTom Tykwer/トム・ティクヴァにより映画化された。(これもなかなかの力作)昨年2005年、「地獄篇」が「L’ENFER/HELL」(邦題を調べたところ「美しき運命の傷痕」)として「No Man’s Land」のカンヌ・パルムドール監督Danis Tanovic/ダニス・タノヴィッチにより映画化されている。日本では今春ロードショーとの事。調べているうちに行き着いたのだが、Bunkamura ル・シネマで、「ふたりのベロニカ」のニュープリントによる再上映が3/25日より。そろそろDVDが出るのだろうか。

 

 

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去る3月13日は、ポーランドの生み出した映画監督、クシシュトフ・キシェロフスキーが亡くなった日だ。今年でちょうど、10年になる。彼は、ポーランドに生きる人々を通して、ポーランドという国を、文化を、歴史を描き、いつしか全ての人間に共通する生と存在の意味を映画というメディアを通して映し出していった。

ーーポーランドとは、「平坦な土地」という意味であることをいつか聞いた事がある。
ヨーロッパの長い歴史の中で、この小国は幾度もその地図の上から消え去る亡国の運命をたどってきた。文字通り、平で自然の障壁のないこの国は、常に他国による侵略に晒され続け、見えない国境を民族というつながりで保とうとしてきたという。19世紀当時、ポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアなどヨーロッパ列強の干渉を受け、再び国家を分断された。事実上ポーランドはヨーロッパの地図上からは消滅し、「ポーランド」という国家としてではなく、ポーランド民族として、言葉や彼らの生み出す文化という無形の姿でしかポーランドは存在し得なくなったことになる。
キシェロフスキーと同じポーランド出身の映画監督、アンジェイ・ワイダは映画「灰とダイヤモンド」の中で、ドイツの敗戦によりナチス支配から解放された日に、ポーランド人達がショパンの「軍隊ポロネーズ」を踊るシーンを描いている。ここにはポーランドの永きにわたる苦しみの歴史と独立や自由への渇望が焼き付けられている気がして強く心を動かされた。

ショパンは1830年、20歳の時ウィーンに演奏旅行に出かけるが、そのわずか一月後に、ワルシャワで歴史上有名な「11月蜂起」が起こり、ポーランドはロシア支配からの独立を求めて戦ったが失敗し、独立の機会を完全に断たれることになる。このニュースを聞いて怒りと悲しみをぶつけるようにかの「革命のエチュード」(Etude No.12 in c minor, Op.10)を書いた逸話はあまりにも有名だが、この事件によりショパンは故郷に戻ることが出来なくなり、39歳で亡くなるまでポーランドの土を踏むことの無かった哀しみと孤独は、彼の生き方とその音楽に強く彩られている。
第一次大戦によるドイツ敗戦とロシア革命によりポーランドは再び独立するが、第二次大戦開戦とともにドイツ、およびソ連に再び侵攻され支配を受ける。ナチス支配のもと、国家としての政府はロンドンに亡命し、再び地図上から消え去ったポーランドの自国文化は厳しく制限され、そうした抑圧のもと、ポーランドの象徴ともいえるショパンのポーランド貴族舞踊であるポロネーズは演奏し、踊ることも許されなかった。また、民族としてのポーランドを消し去ろうと破壊しつくされたその究極がアウシュビッツやマイダネクであり、ロシアによるカティンの森事件(1940年、4000名のポーランド軍将校がカティンの森で殺害された)であり、その他数えきれないほどの傷なのだろう。終戦間近の1944年8月にはワルシャワ市民の蜂起が起こり、63日間の戦いの中で20万人もの人々が命を落とした。戦争前150万人いたワルシャワ人口は、その時15万人にまで減ったという。

正直なところ、こうした歴史の苛烈さを実感する事はとても難しいし、事実は自分の想像力などをはるかに超えたものと思わざるを得ない。こうした映画で描かれた、例えばこの舞踏の場面に凝縮された思いを、出来る限り汲み取ろうとすることぐらいしかできない。それでも、人々によって生み出された文化の持つ力ーーここではショパンの音楽であり、映画というメディアであるわけだがーーは、それを見た我々のそうした微力ではあっても人々に共通する思いを呼び起こすという点では、全ての人間が共感し得る非常に強いものだと思うのだ。ワイダの思うポーランド民族というつながりが再び勝ち取った自由と取り戻した自国の文化の象徴として、長く悲劇的なレジスタンス活動により失われた人々の魂とともに気高いポロネーズを踊る姿が描かれている。それはポーランド民族というものが、イデオロギーに支配された国家という枠組みではなく、人々による文化の共有の上でのつながりとまとまりである事を象徴しているシーンであり、戦後も続くソ連との苦難の道のりを経験しながらも、幾度も立ち上がるポーランドという「連帯」を象徴するものとして映し出されている。
キシェロフスキーにしろワイダにしろ、その後社会主義という国家の枠組みに再び組み入れられたポーランドの姿を、様々な形と物語で描いていく。以前紹介したキシェロフスキーの「殺人に関する短いフィルム」では、一人の若者が国家により歪み、そして国家がその歪みを消し去る様を映し出していた。
しかしその中で、彼らが本当に言いたかった事は、常に一人の人間の存在の意味と、人と人とのつながりの意味を問う事にあるように思う。つながっていないようでつながっている人と人、偶然と思われる出会いに込められた必然、そうして出会う事でつながり行く人間という存在。その生み出すイデオロギーや文化、国家、民族という意識。どちらが先にあり、どちらが主導するという議論ではなく、最後に見据えられるのは常に人という存在そのものの描き出す様々な姿であり物語であるという事ではないだろうか。その背景としてのポーランド、そしてヨーロッパというまとまりを、映画というメディアを通して彼らは記録し続けたと言えるように思う。

キシェロフスキーについてもっと書きたかったのだが、それは次回に譲る。このエントリーから読み始めた人には、以前書いた建築家ダニエル・リベスキンドによるベルリン・ユダヤ博物館についてのエントリーとあわせて読んでみていただきたい。

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