— Delirious New York Diary

井上靖や司馬遼太郎が描いたシルクロードを辿る西域の物語は、遠い時間の中に興っては消えていった国々と、そうした国を繋ぎ、旅をした人々への遠い憧憬をかきたてる。


イシククル湖は西を除く三方を山脈に囲まれている。これは北側に位置するテルスケイ・アラトーの4000m級の山脈の端部

司馬遼太郎は烏孫という王国の響きに惹かれ、その末裔と言われる人たちの面影を求めて中国西域からさらに足を伸ばし、この地を訪れ、その時の様子を描いている。

雲にまぎれて見える冠雪の山並みはイシククル湖南部の天山山脈だろうか。湖に入ると、澄み切って透明な水平線の上に、雲が湧くかのように山波が浮かんでいる。イシククル湖は1600メートルの海抜にあり、チチカカ湖に次ぐ高度にある。まさに天空の湖だ

ただ井上靖も司馬遼太郎も、キルギスのイシククル湖には憧れを抱きながらも訪れることはかなわなかった。ソビエト時代、この地に外国人が立ち入ることが禁止されていたのである。(化学兵器の研究施設があったためとされる)
その井上が玄奘三蔵による西域の旅の記録をもとに描いたのが、「西域物語」であり、この中で玄奘三蔵がイシククル湖に至った時の様子が記されている。


イシククル湖の透明度は、バイカル湖に次ぐという。水深も深く、「熱い」湖(中国語では「熱海」)と言われる不凍湖はどこまでも澄んで青い

井上靖 「西域物語」

「『大唐西域記』によると、玄奨の西遊は恐ろしく苦難に満ちた旅であった。しかし、この国外脱出者の高僧としての噂はすでに西域の異民族の間にも伝わっていたらしく、玄奘は方々で歓迎されたり、援助の手を差しのべられたりしている。とは言え、言葉も判らず、人情も風俗も判らぬ国々を次々に経廻って行くのであるから、その労苦のなみ大抵でないことは当然である。玄奘は高昌国、阿耆尼(あきに)国、屈支(くっし)国、跋禄迦(ばるか)国といった西域北道に沿った小国を通過し、天山へはいって行く。天山の一支脈である凌山を通過する時はたいへんであった」


イシククル湖には古代都市が沈んでいる。これも消えていった王国やオアシスの一つだろうか

《国の西北より行くこと三百余里にして石磧を渡って凌山に至る。これ則ち葱嶺(パミール高原)の北原、水多く東流す。山谷の積雪は春夏も合凍す。時に消泮(しょうはん)することありと雖(いえど)もついでまた結氷す。経途は険阻にして寒風は惨列なり。暴竜の難多くして行人を陵犯す。この途による者は衣を赭(あか)くし、ひさごを持ち、大声に叫ぶことを得ず。微かに違犯するあれば、災禍目のあたりに見る。》
「こういった高い調子の旅行記である。暴竜の難が多いというその暴竜とは何のことであろうか。竜巻のことであろうか。しかし、風のことは風のことで別に書いている。
《暴風奮発、沙を飛ばし、石の雨をふらし、遇う者は喪没し、生を全うすること難し。》」


山脈から吹き降ろすのか、湖の湿気を含んだ空気が山波に遮られるのか、イシククルの天気は変わりやすい。午後にはスコールが降ることも多く、時に凄まじい風と雨に見舞われた

「この凌山越えで、実際に玄奘は同行した従者や牛馬の多くを失っているので、必ずしも表現がオーバーであるとは言えないようである。惨憺たる苦難の泊りを幾つか重ねて、やっと凌山を越えると、玄奘はそこにイシククル湖の美しい湖面を見た。湖面が美しいのは一瞬のことで、どうしてひとすじ縄で行く相手ではなかった。勿論玄奘の頃はイシククルとは呼ばれていなかった。玄奘は大清池と呼んでいる」

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《山行四百余里、大清池に至る。あるいは熱海と名付け、また鹹海(かんかい)と謂(い)う。周千余里、東西長く、南北狭し。四面山を負い、衆流は交湊(こうそう)す。色は青黒を帯び、味は鹹苦を兼ねたり。……:竜魚難処霊怪はしばしば起る。ゆえに往来する行旅は祷って以って福を祈る。水族は多しと難も敢て漁捕する者なし。》
「ここにはしばしば霊怪が起ると記してあるが、この霊怪なるものの正体もまた判らない。しかし、これを玄奘がいい加減なことを書いたとするわけにはいかない。他の記述は恐ろしいほど正確であるからである。イシククル湖が熱海と呼ばれているのは不凍湖であるためであり、鹹海と謂われていたのは水が塩分を含んでいるからである」

この後も玄奘は旅を続け、突厥の都に至る。
「玄奘はイシククル湖畔を過ぎ、なおアラトウ山脈を越えたり、チュー川に沿ったりして、チュー盆地へ降りる。するとそこに突厥の都邑である素葉城[(スイアーブ)]があった。「清池西北行五百余里素葉水城に至る」。玄奘は簡単に記している。
素葉城の地は、現在のトクマク付近とされている。湖畔からトクマクまで都邑はなかったのである。烏孫の時代にあったその王都赤谷城のことはどこにも記されていない。漢の公主が王の妃として、更にまたその王の孫の妃として何年かを過した赤谷城は、玄奘の頃は影も形もなくなっていたのである。凌山の暴竜の為せる業か、あるいは大清池の霊怪の為せる業なのであろう。…」


イシククルに帳が下りる。湖畔の水音は穏やかで、静かな夕景が過去への憧憬をかきたてる

凪の湖面には月の光が落ちていた。その下に船が音もなく浮かぶ

<参照:「テュルク&モンゴル」http://ethnos.exblog.jp/5503548>

 

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5/22付朝日新聞の磯崎新による記事で、荒川修作の訃報にふれた。

“Inter Disciplinary”という生き方をつらぬくことで、磯崎の言うように彼は詩人であり、画家、彫刻家、インスタレーション・クリエーター、映画評論家、写真家、そして建築家であった。そしてそれらを行き交いながら、人間存在の不可思議と、それでも求め続ける人間の可能性を体現した。

「あなたは私ではない。
あなたがそこに立ちあなたとしての世界を確保(フィールド)するとき、そのことは私が世界の中に存在することとは同じではない。
なぜならあなたは私ではないから。
あなたと私は決して同じ場所を画することはない。
たとえ私たちが同じ部屋の中にいるとしても。
その場合は立地(サイト)が異なると言ってよいだろう。
人間に関するそうした立地についてはどうしてあまり語られないのだろうか。」(Anywhere, 1992)

ーーマドリン・ギンズとの共作を続ける中で、その最も近しい人の存在を「自らを投影し反転する」フィールドとして認めていたことについて、どこか哀しみの念のこもる言葉で語っているように思えなくもない。訃報に接しての感傷だろうか。

「人間として存在することの驚きが真っ先に優先されてしまう、、、
(故に)われわれは存在(エンティティ)と場所(プレイス)というものを別のカテゴリーとしてみなす習慣がついた。
人間は場所でなく存在として分離され、立地(サイト)は存在ではなく場所として考えられねばならなかったのである」
養老

彼の例示する「物語=ナラティブ) / 「逸話的=アネクドートル)/ 「記述=リポート)という言葉の定義に限定され型に収まっていく「記憶」、その上部構造としての「精神」や「自己」という固定された観念。我々の個としての存在は、今この時に、独立して、単独に、点として「立地=場所)に存在することに意味があるのか。それとも個がその寄って立つ「立地=サイト)をフィールドとして、その活動し得る「空=間)の拡がりと他のフィールドとの関わりに意味があるのか。そしてその関わりを枠組みや固定観念を超えたところで感知し、知覚しつづけていくにはどのような方法と可能性があるのか。
我々の身体は知覚の媒体でありながら、精神というものが「逸話的に」紡ぎ出す「物語」を「記述」して「存在」を「記憶」に還元して規定してしまうーーとなれば、我々の身体を通じて受ける知覚には「既知」の要素が影響しているる。そして多くの場合、我々が建築と呼ぶものはその「既知」の要素を基にして形作られる。
荒川はそこに、建築の限界、さらに言えばその内部に置かれる人の「死」の姿を見ていた。
常に変わりゆく純粋な生命として、身体を持った有機体としての混じり気のない知覚が取り結ぶものとは何か。その先にはあらゆるものがその対象として見据えられる。メディアの横断という狭い捉え方はとうに超え、乳児の身体感覚から「退化して行く」我々の知覚の前に彼の生み出す装置は突きつけられてきた。これこそが生の源へと還る世界だと。

磯崎曰く、
「そして、あの地獄の崩落を見たのだった。
古風な言い方をすれば、無明の境地をさまよいはじめた。
美術はとっくに超えていた。
建築もやり過ごしてしまったのではないかと私は思った、、、
、、、そしてむかい合っていたのは宇宙。
もはや生命の存在を、昔ながらのやりかたで探るほかなかったのではないか。
だから私には、「アラカワの死」がきわめつきの作品のように思えるのだ。」

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以前紹介したマギー・チャン主演の映画「CLEAN」が日本で公開される運びとなった。今回多少お手伝いに関わったこともあり、微力ながらこの映画を多くの人に見てもらえるよう応援したい。8/29よりシアター・イメージフォーラムにて、その後全国にてロードショー。
公式サイト
予告編動画

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前回の続きは”工場”そのもののかもす手の記憶について。

古い工場に刻まれた傷、効率ではない視点で組み上げられてきた機械と人の作業の関係がそのまま形として残っている。


工場の排気管が生き物のように突き出している。空気の流れが有機的であることが形になる


以前の工場は生き物そのものであり、人の作業と一体となっていたのかもしれない

工場内にも張り巡らされたこれら排気管が、体内の血管のように各部門をつなぎ作動する

木材の乾燥庫には積み重なった煤と油がこびりついて、匂いさえ幾重もの時間の流れを感じさせる

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もともと海外から知人へ、また国内から海外の知人へ建築について、また自分の近況について伝えるコミュニケーションのツールとしてこのブログを始めたのだが、いつの間にか直接メールで何枚もの写真を送れるほどネットもスピードが上がり、いつしかブログの作業がおいてけぼりになっている。ブログそのものが変わったと感じているせいもあるかもしれないが。

今回のテーマは、ある木工工場を訪れた際に手作りの作業がとても印象に残ったのでその際の写真をいくつか取り上げている。キルギスタンの首都ビシュケク近郊の家具工場なのだが、旧ソ連時代の「労働と共同」というスローガンが未だに消え去っていないのに驚いた。ただ手仕事と、コンピューター制御の無菌室におかれた機械とは違った鋼鉄の機械が稼働している工場は、そこで働く人ともどもどこかのんびりした空気が流れている。ソ連時代のプロパガンダから厳しいものが消え去った今、手作業と人の手が作り上げた機械のうなりは急ぐ事なく、それでも絶え間なく動き続けている。


中央からは外れていたキルギスでも、先鋭的なプロパガンダが喧伝されていたのだろうか

まるで古き良きアメリカの野球チームのバナーのようなスローガン

これはどこか50年代のアメリカ郊外の広告のように見える

街のそこかしこに未だにレーニン像が残っているのは、中央アジアぐらいかもしれない

工場の入り口も、どこかのんびりとしている


時間が止まっているかのようー窓に写るものが今なのか過去なのか何となくわからなくなる


組み上がった椅子の骨組みは一つずつ手で組み上げられたもの

ずっと家族や社会を支えてきたかのようなおばちゃんが、慣れた手つきで木材に突き板仕上げを施していた

椅子の布地も時間が止まったかのごとく昔と変わらないものが使われているそうだ


工場の小屋組もなつかしい木の香りがする

ソ連時代に作られ、今も現役で走り回っているトラックは何ともいえずかわいい顔をしている。ソ連は労働と機械社会の未来を見据えたとき、そうした「機械の人間化」を重要視していたとされている

木材の乾燥場はどこか過去の遺跡のような、時代に取り残された場所のような、さらには勝手な妄想だがプロパガンダの行き着く先のような寂しさと怖さを感じた

最後の写真は次回へ続く。

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ParamountPictures/Photofest/MediaVastJapan

H・G・ウェルズの原作をスピルバーグが映画化したものである。
スピルバーグがこの映画を撮るというアナウンスがなされた時、「なぜ今 ”宇宙戦争” なのか」という疑問が浮かんだ。原作は子供の時むさぼり読んだものだが、長い間忘れていた程、ある意味で遠い世界の物語である。ただその「遠さ」は、同じく宇宙からの侵略を描いた「Independence Day」に見られるような安手の薄いヒロイズムや、現在のネット/コンピューター社会ではお話にもならないリアリティのない敵の撃退法など、当時のアメリカにはまだ残っていた「能天気なおとぎ話」とは大きく異なっている。湾岸戦争が引き金を引いた新しい戦争の形は、その後イラク戦争、アフガニスタン作戦と泥沼の様相を呈し、アメリカでは現実として戦争に向かい合う必要にかられた人が増えた。莫大な戦費を費やして戦略的な「テロとの戦い」を主張しながら、世界中からは逆に強い反発ばかりを招き、戦術的にも出口の見えない長い戦いに国民の間には厭戦ムードが広がっている。これまでアメリカが掲げてきた「正義」やそのもたらす「勝利」の姿を、もはや映画においても描くことが出来なくなってきた。

「宇宙戦争」の結末は一種読むものに虚無感や無力感を感じさせるような、ウェルズ独特のものと言える。それは人間の「尊い勝利」ではない。そこには勝利はなく、あるのは全ての終わりと、もし見いだそうとするならば新しいものの始まりを予感させる何かである。人という存在が自然という遠大な存在のただ中に位置していることを強く印象付けつつ、急速な文明の進化というものが巨大な時の流れの中ではほんの一瞬の歩みにすぎず、相対的に見れば何ともちっぽけなものであって、それを誇る人の虚栄のむなしさと悲しみがことの終わりの静けさの中に浮かび上がってくるーーそんな結末ではないだろうか。子供の頃はそこまでの感想は持たなかったが、それでも心の中に長く尾を引くような、不思議に寂しいような読後感を持ったのを覚えているが、その感覚は戦争の終結や勝利の後に感じられる虚無感を想像すると何となく理解できる。

スピルバーグは個人的にそれほど好きと言える映画監督ではなかった。もちろん、テレビ映画「激突!」や、「未知との遭遇」、「E.T.」などは子供の頃夢中になったが、次第にその作品から自分が離れていく気がしていた。「シンドラーのリスト」という個人的な例外を除いて、「プライベート・ライアン」で決定的な距離を感じるようになっていた。が、今回の「宇宙戦争」で、彼の描いてきた”純粋なものへの憧れ” がどうにもならない現実の裏返しとして描かれてきたことに気付かされた気がする。彼が作った「1941」は戦争をカリカチュアして描き笑いに転化した作品だが、当時は笑いに転化しなければ描けなかった戦争の記憶を、彼は結局、キャリアを通じて様々な手法で描き続けている。

この「シンドラーのリスト」と「プライベート・ライアン」のテーマは、移民としての家系を過去に持つユダヤ系アメリカ人として、また太平洋戦争を経験した親を持つアメリカ人として、ある意味スピルバーグの心の中には大きく根付いたテーマだったのだろう。「シンドラーのリスト」はユダヤ人強制収容所という最もデリケートなテーマを扱うため、白黒に脱色された世界の中で物語が構築されていく。白黒の世界が描き出し見るものに訴えるのは、ノスタルジーの甘い酔い心地に流されていくような過去に過ぎ去ったおとぎ話についてではなく、今現在とは絶対的に異なる過去が確実に存在していたという事実であり、白黒の世界はその事実を見る者の目の前に突きつける手段であるように思えた。それは、ある少女の持つ風船のみが赤く色彩を持っているシーンを挿入することでさらに強く印象付けられていく。少女の風前の灯とも言える命が赤い風船に宿り、赤い色が感情移入を強烈に促して見る者の物語への同化を決定付ける。残された赤い風船が、少女の不在を目と心に焼き付ける。
そして核となる物語の方も、ドイツ軍将校の一人とさる工場のオーナーであるシンドラーを対比させながら、次第にその振幅を深めていく。主人公のシンドラーは映画の当初では相対して主役となる収容所のドイツ軍将校と大きく異なることのないひどい男であるが、同じように自らの力を過信し周囲へとその力を容赦なく振りかざし虐げるドイツ軍の行為を目の当たりにする中でその過ちに次第に気付き始め、その力の使いようを別の方向へ見いだす中で次第に変わってゆく。
ある意味で、映画初頭のシンドラーは現在の我々の姿であるとも言える。かりそめの平和が与えられるまでもなく存在している時には、金に執着し、享楽的で自堕落な生き方を悪いとも思わず、それにたいし疑問を感じる必要すらないほどに、彼の姿はごく普通の人間のありようなのだと言えなくもない。それが戦争やホロコーストという、想像を超える現実に直面した際に初めて、自らの心象の鏡の中に映し出されるその強烈な現実と自らの姿が対比され、あるいは同化されて己というものにに気付く。そしてそのプロセスは、この映画では観客にも突きつけられている。映画が作り出すこのプロセスの中で、観客は物語とシンドラーの変化に同化することを我知らず選んで行く。最後のシンドラーの慟哭が真に迫ってきたのは、それがシンドラーのものであると同時に、見るもの一人一人のものでもあったからだろう。過去が現在と接点を結び得るのは、こうした瞬間に他ならない。

これに反し「プライベート・ライアン」では、戦闘という人間性を極限まで拒んだものを「描く」に際し、激烈な戦闘の「リアルであるかのような」スペクタクルが最後までそうした感情や心のレベルでの受け止め方を拒むものだと突き放して見せながら、他方ではトム・ハンクス演じる中隊長の描き方から見え隠れする、彼の存在を最後にはヒロイックに高める描き方に違和感を感じざるを得なかった。戦争を映画で描くと言うことはどういうことなのだろう? 戦争を描くための殺人の、死の演技とは? そして「リアリスティック」と「リアル」の間にある超えがたいものとは? <映画のための映画ではないのか?>という印象が拭えなかったのはなぜか?
この映画の物語の内容は、第2次世界大戦を生き抜いた帰還兵達の戦った意義を比定しないことへの配慮であることは言うまでもないだろう。事実、一部の帰還兵の間からはその戦闘シーンの”リアリスティック”な様に「良く映画化してくれた」と賞賛の声が上がったのもの事実である。こういうことがあったのだ、といかに強い印象を持って今に生きる人に伝えるかという点において、帰還兵達が今まで感じて来た思いの共有がようやく一つの方法として可能になった、と評価することはできるだろう。そして、戦争とは個人の善悪を超えた巨大なものであり、スピルバーグはあくまでも個人の純粋さ、素直さをこの巨大な化け物に対比させようとした。
ただ残念ながらそうした言い方が許されたのは、正義のためという大義を少なくとも形だけでも標榜し得た湾岸戦争前後までのことであり、アフガンやイラクでのテロとの戦いと称するものがが泥沼と化す現在では、彼の無私の行いの末の犠牲という見方はストレートに受け止められる余地はない。ベトナム戦争を経験しながらもアメリカは戦争介入を未だに否定できないでいるが、それは敗者という立場を認め、実感することが未だできないためといえる。性善説は、社会に対して唱える場合あくまでも勝者の側が説くことで説得力のあるものになるからで、そのためか否かスピルバーグはベトナム戦争を題材にしていない。
同時期に製作されたテレンス・マリックの「シン・レッド・ライン」が自然の悠久の営みの中に小さな自己を解き放つことで見いだした安息の地を詩的に描き出そうとしたのと比べれば、「プライベート・ライアン」は広く普遍的に人の心を打つ作品とはなり得ないのかもしれない。戦争を経験していない人が「戦争を戦争として」知ることは出来ない。それでも、戦争を「人の行い」として感じ、その感覚をもとに戦争の一端を知ることは出来るのではないか。その意味で、「プライベート・ライアン」には何か、個人として感じるという行為を拒むステレオタイプな何かがあったように思えるのだ。

ーー「宇宙戦争」とトム・クルーズという組み合わせで真っ先に浮かんだのは嫌な予感である。言ってみれば「Independence Day」と同列の映画になるような勝手な予測をしたのだろう。これは始まってしばらく、クルーズがいつもとは違い離婚して子供も引き取れなかっただめな父親を演じている姿によって次第に崩れていった。
クルーズはだめな父親の姿として描かれているが、かといって今を生きる一般的なアメリカの父親と大きく違う点は何もない、今の時代のごく一般的なアメリカ人男性の姿である。別れた妻との間には既に大きくなって離婚した両親の事情を頭では理解できる年齢に達した子供達がいるが、複雑に揺れるティーンエイジャーの精神を持った彼らとはたまの休日に会っても心がすれ違うばかり。美しい元妻には既に結婚した社会的・経済的にも成功していると見える若い夫が既におり、子供を預けに来た際目にした妻の姿には今だ心を惹かれるものの大きくなったお腹に目がいくとその気持ちもやり場を失う。そんな男を、メディアの扱いでこの所半ばメッキの剥げかけたトム・クルーズがリアルに演じている。

宇宙からの侵略が始まった後でも、主人公は子供達とひたすら逃げ惑う一人にすぎない。子供達を守るヒロイックな父親像は、圧倒的に強大な宇宙人達の兵器とその根こそぎの殺戮と破壊の前には描き出すことすら不可能である。その異常な世界の中で、次第に人々の精神のたががは外れてゆく。一人でいても、また皆と集団でいても人々は普段と違う姿を垣間見せ始める。唯一動く車を奪い取るために殺し合う群衆。そしてクルーズも、自分と娘をかくまってくれる男に出会うのだが、一人で隠れている最中に感情の昂りを制御できなくなったこの男を、自らと娘の命を守るためとはいえ手にかけ殺害する。そしてその後に、クルーズが悔し泣きでもうれし泣きでも感情の高まりでもなく、惨めに敗者のごとく、他人見せるでもなく娘の前で泣くのである。この惨めさはなんであろうーーーこの時点ではまだ、後ほどになって気付くある仕掛けがこの映画に込められていることには気付いていないが、太平洋戦争やベトナム戦争後に帰国し、心に傷を負って立ち直ることができない人々の姿に重なるとも言える。

物語は最後には嵐が去るように戦いが終息し、幕を閉じる。娘をどうにか元妻のいる遠くの街までようやく送り届け、そこに途中で生き別れた息子、そして元妻の姿、また彼らの新しい家族たる現在の夫と元妻の両親らしき人達が出迎える。主人公は娘を母に引き渡すと、安堵や疲労よりも深い悲しみや絶望のこもったような顔を見せ、その瞬間映画が終わる。そのどうしようもないやるせなさや絶望、虚無感が、原作を読んだ時のあの感想と非常に似ていることに気付いたと同時に、非常に真に迫った、現在の現実の一端を映し出しているもののように思えて来たのだ。

ーーテレビ画面に繰り返し映し出される9/11のテロの瞬間は、繰り返されれば繰り返される程、見る者ほとんどにとってはその現実からはかけ離れたものであるという事実の方を浮かび上がらせていく。そしてアフガンでもイラクでも、当初その戦いは多くの人にとって ”アメリカに反旗を翻した悪の輩” を叩くといった感覚の「映画のテーマような」ものであり、したがって実際に深く個人的に感じたり現実味を持った何ものかとまでは言えず、その結果として驚くまでの人々がかなり安易に戦争介入を肯定した。(とアメリカ人以外は少なくとも感じたのではないか)それがアフガン派兵、イラク駐留とも泥沼化し多数の戦死者を出し、財政問題をも引き起こす状況に直面して、多くのアメリカ人にとっては直接的な関係のなかった戦争というものが初めて実感され、とりわけ兵士やその家族友人にとっては深刻な現実となっている。

戦闘地域での戦闘や巡回の緊張感、さらには人を殺害するという極限の経験をすることのみならず、家族をアメリカに残していること、帰国しても現地の記憶を消し去り得ない苦しみから逃れられないことなど、事実帰国した兵士達の間では帰国後に自らの居場所を見つけ出せずに苦しむ人が多いという。また、前線に送られる兵士たちが経済的に力の弱い層から金銭的理由で駆りだされている現実も、社会構造の歪みが拡大するアメリカにおいて大きな社会問題となっている。そして、そうしたアメリカの姿を描く映画も増えて来ている。スピルバーグはそうした現状を意識しながら、彼が求められている大作映画監督としての立ち位置は認めつつ、多くの人が見る映画というメディアの中にこうした現実を挿し入れる機会を増やしているのかもしれない。

「宇宙戦争」ではクルーズが生きるためという理由のもとに一人の人間の命を自らの手で奪う。そして、全てが終わったと見える中辿り着いた場所は、自らの居場所のない世界となってしまっている。はたして彼は、一見侵略を生き延びハッピーエンドとしがちな結末の中で、存在の苦しみと難しさを見る者に暗示しながら、空虚に満ちた顔をこちらに向けて、その目は虚無を見つめるかの如くである。それはこれからアメリカが、そして世界の我々の多くが向かいつつある方向を見つめているのかもしれないと、感じざるを得なかった。

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このところ全く時間がなく更新を怠っている。写真も写さず、本も読まない。乾いた焦燥感から自分のブログを読み返してみたが、その中でメールでのやり取りやコメントとしてエントリ化されていないいくつかのテーマをあげてみるのもいいかと思い、この機会を利用して紹介する。

三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller

”荒川修作の近作、これはいつものことだが世間ではキワモノ的扱いを受け、完全な誤解を生んでいると思われる。この誤解は80年代しばらくの間一世を風靡したポストモダン建築に対する昨今の嫌悪感に近い拒絶の対応のあおりを一心に受けた格好だ。
荒川はマドリン・ギンズという哲学/理論家と組んで活動しているが、その中で場/立地(サイト)、個の存在(エンティティ)、そして個の知覚という非常に微妙で繊細なテーマを追求している。我々個人個人はどこまで自分を規定し得るのか、それは自分の存在する空間を規定しているのか、またはあらかじめ存在するサイトや空間というものを知覚しながら我々は自らを規定するのか。そもそも知覚とは我々が規定し記号化したものの”確認”なのか、それとも視覚や触覚、空間認識を通して獲得する”関係”とそのプロセスなのか。そういった諸々の問いかけに対する実験の場として、荒川は活動し、その形と空間提案が三鷹天命反転住宅という方法で提示されている。

この住宅作品の個々の要素が強烈に感じられるとすれば、その強烈さの程度の分だけそれは彼の仕掛けた問いかけととらえるべきであるはずだ。視覚的な知覚なのか、もしくはそれが建造物、あるいは住宅といった<我々が既定し想定している”物”の要素を記号化したもの>なのか、それとも記号の認識というレベルを超えて、我々が生活しあの場に居るなかで行為として”物”と関わっていきながら、知覚そのものが我々の存在を想定し規定するよう仕向けるのか。こうした問いは、機能的であることを謳いながら実は社会的に作り上げられた住宅イメージ(マーケティングやらその他もろもろ)に限定された現在の住宅に対する反旗と、実験であると言えるだろう。建築家という枠の中では、あのような方法で住宅のあり方、ひいては家族や人と空間との関わりについて問うことは難しい。より広い一般へ向けてのポピュラリティを持ちつつ、実は根本的な部分で多くの凡庸な建築家住宅作品がまったくなし得ない”根本的な人と空間への問い掛け”をなし得ているのではないだろうか。(“In Memory of Helen Keller” という副次的なタイトルが付けられている点も、これらの問い掛けの意図に気付きやすくするためだろう)

ポストモダンと呼ばれる建築に限らない社会的な動きは、記号化のような翻訳作業によって様々な要素を再解釈し、できるならば認識/操作しやすくできないか、というところから生まれて来たとポストモダン以降には定義されている。ポストモダンは、建築においては表層的な修飾言語の記号化とその操作と受けとられてしまった。その操作の先に暗示されるもの、問いかけられるものが重要だという点が完全に欠落していたために、またバブル経済のもたらした人と物質との完全な分離の文脈と完全に符合したために、形式としてのポストモダンはヒステリックなまでに全否定されてしまった。

果たして、ポストモダンの本来の問いである、モダニズムの持っていた権力性や暴力性を暴き出し異化することによって消去していく操作としての手法追求自体が比定されるべきなのか? 昨今の、特に日本において高度にスタイル化されているネオモダンと呼べるような、無機質で、故に「写真写りの良い」現代建築ーー動機そのものからして言語/構築的ではなく、モダニズムを標榜しながらその実手法はポストモダンと何ら変わらない表層操作によるモダニズム引用のネオ・モダンーー知覚/感覚を曖昧にさせる表皮の操作やそのもたらす浮遊空間のような「もの」を提供し、それがために刹那的でエフェメラルな人と空間の関係を作り出し、さらには建築自体の立ち位置すら責任回避の背信のもとに消し去ろうた昨今の建築ーーに対する荒川の「身体感覚と物との関係」への回帰という側面こそが、今「三鷹天命反転住宅」から読み取られ、かつ議論されるべきものではないのだろうか?

視覚的/記号的表層そのもののみにではなく、(上記のように、その点で最近の日本の建築はモダニズムの皮を被ったポストモダン的思考の産物にとどまったままとも言える)その先の、それがもたらす問いと、実際の経験の中に荒川の意図は存在し、それはまた非常に「わかり易い」「目に見え易い」ものとして提示されている。それはどこかのアーティストやインテリアデザイナーが装飾的な味付けを後付けでした、ということとは根本的に違うということが議論されない限り、「日本建築業界」が陥っている現在の「見えない停滞」から抜け出ることはできないだろう。最近の「建築ポピュラリティ」を支える雑誌等のメディアは、「モダニズムのポストモダン的消費」という原理に完全に縛られてしまっており、消費そのものの束縛(と未来を志向するための可能性)を議論する場には成り得ていない。その浸透力は認知され得ないように水面下に暴力的で、またかつ権力的である。その上辺はへりくだった物言いの陰に、マジョリティへの情報操作が隠れていることを、この建物は乾いたユーモアとともに暴き出しているのかもしれない。

三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller
写真は建物ホームページより抜粋

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レバノン:
先日のレバノンのトリポリにおける紛争と、ベイルート爆破テロの際に偶然滞在が重なった。
もともと数年来のヒズボラとの紛争が小規模ながら今なお続いているが、この所時に事件として表面化するという。首都ベイルートでも警察と、軍隊による警戒態勢がしかれていたが、今回の爆破事件以降さらに警戒が強まっていったとみられる。夜間はバリケードを用いた検問が市内の至る所で行われるに至り、人々も夜の外出を控えるようになっているという。


ターコイスブルーの美しいモスクが青空の下に映える。しかし、ふと見回すと赤いベレー帽の警官や、戦車などに乗った兵士の姿が目に入ってくる


空爆に備えての対空機関砲を備えた戦車がそこかしこに現れた
過去の内戦の傷跡は市内に今でも数多く残る。それでも、ベイルート市内にはキリスト教寺院とイスラム教のモスクが同じくらい見受けられる。キリスト教徒とユダヤ教徒は常に共存してきた

トルコ/イスタンブール

ベイルートは無事に出ることができた。
さらに西進し、イスタンブールへと辿り着く。
かつて幾度にも渡り支配者の入れ替わってきたイスタンブールは、文化がぶつかり合い、時に融合し、また共存してきた都市であることを肌で感じられる街だ。丘の上に建つヨーロッパの街並から海峡沿いへと下っていく小道を通ると、時に現在が剥離して過去と並立するかのような浮遊感にとらわれる。曲がり角を回った強い日射しに、街を通うトラムのレール音にこの瞬間へ立ち返る。

何気ない街路の先に何を見るのか、ふと浮かぶそうした感覚自体すでに現実と離れていく気がする

白中夢を誘うかのような強い日射しが ”パッサージュ” を通り過ぎていく意味を強く印象に焼き付ける まるでコマ送りのフラッシュのようだった

朝日とともに、そこには何気ない日常の生活と喧噪が繰り広げられる。そして夕陽とともに、コーランの響きとともに、今日一日というよりは、今までの全ての日がこの時をもって閉じていく、そんな感覚にとらわれる。それはまた、永遠に繰り返されていくような、変わる事のない始まりと終わりの再生であるかのようにも思えるのだ。


朝日に染まるイスタンブールの街並。一見ヨーロッパの街並の、そのくせどこにもない、イスタンブールの色と空気


仕事に向かう人々の姿が朝の空気を動かしていく


低所得者区域の満艦飾が華々しい


子供の笑顔にも陰がない

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キルギスタンの首都Bishkekにはアクセスポイントとして短時間滞在するにとどまったが、ホテルの周りを朝散策し、街の雰囲気を感じることができた。
ソ連時代の都市計画を持つこの首都は、大きな街路とそれを彩る街路樹が美しい。大きな特徴はないが、首都としての機能が集約された中心部を外れると、静かな住宅街が広がり、こじんまりとした家が立ち並ぶ。
その中に、いくつかの人が住まなくなって放置された廃屋を見つけ、足を止めた。

赤い星の旗章は、ペンキが剥げ落ちている。ソ連が去り、その住人も去っていったのだろうか。


隣にも廃屋があるが、ここは最近まで人が住んでいたようだ。


なぜだか、懐かしい気がしたのは気まぐれな旅人の無責任。



レンガは、手でひとつずつ積み上げなければならない。手の痕跡は、必ず残る。


塗り込められた漆喰がはがれて、昔の姿が垣間見える。


人が去るときには、残されるものは無造作に残される。


ここには人が暮らしているようだ。手作りの感覚に、ユーモアが見え隠れする。


先ほど言った”懐かしさ”には、この街の家々に見られるこの工芸品のような作りも一役買っている。細かく張り合わされた木板や、積み上げられたレンガは、やはり”製造される”ものとは違うのだろう。


小さな窓に、豊かな感性を感じさせる。大きな壁面の小さな窓だからこそ、そうした気遣いが光る。

なんだか、うれしくなるほど芸が細やかだ。そこはかとなくユーモアまで漂うのだから。



街で美しい家を見つけた。


英語で”cozy”という言葉がある。辞書を引くと、”気持ちの良い、心地よい、居心地の良い、温かい、こぢんまりした、心の通い会う、親しみやすい、打ち解けた、和気あいあいとした、くつろいだ、リラックスできる、楽な、便利な、アットホームな感じの”といった訳があげられている。これは、家というものが生活に根付いて、住み手との豊かな関係が築かれて初めて使える言葉だ。日本の建築界が最近生み出している住宅に、この言葉は当てはまるかどうか。

家は物ではなく、人の暮らしという記号を伝え、暮らしを包む空間である。

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現在進行中のプロジェクト敷地があるキルギスタン、タジキスタンの二つの国を今回初めて訪問した。第一回目は敷地のあるキルギスタン東部の小さな町、Naryn市について紹介する。

キルギスタンはカザフスタンの南方に位置し、中国と国境を接する国である。今回訪れたプロジェクト敷地の一つNaryn市はキルギスタンの主な河川であるNaryn河に面した人工3万人の中部の都市で、北部の首都ビシュケクからは車もしくはヘリコプターなどで国土中央の山脈を越えてようやくたどり着ける。6000m,7000mを超える山々がそびえ、東には天山山脈が中国へと続いていく。高山と、高原の国だ。



まずはその山々の連なりに圧倒される。往きはヘリコプターにてこれらの山脈を超えた。雪を頂いた高峰と、過去永きに渡って繰り返されてきた地球の息吹を感じさせる痕跡の数々は、地球という物が未だ人を寄せ付けない、人知を超えた存在であることを突き付ける。息をのみつつ、この小さなヘリの窓の外を眺め続けた。


様々な顔を見せる地表の文様。自然の作り出す無作為の、無償の造形美。


プロジェクトの敷地に赴くと、前方に赤い岩の山が迫る。その前にはNaryn河が高山からの水をたたえて滔々と流れる。水は澄んでいるのだけれども、氷河の氷を思わせるかの様に、エメラルドグリーンをしている。

振り返ると、今度は別の砂に覆われた岩山が平原に迫る。

町で一つ驚いたのは木々の多さだ。これは旅の途中常にそうだったのだが、人々の暮らす場所には必ず木々が道沿いのみならず植えられ、特に多く見られたポプラの並木が美しかった。砂の山肌に対して、紅葉した木々が美しく映える。


町中にも牛やラバが悠々と歩いている。ソ連が去った90年代は中央アジアにとって失われた10年であったと人々は口にするが、ようやく自立しはじめた国の未来を象徴するかの様に若い人が多く、その言葉と顔は希望に満ちていた。社会も人々の暮らし方も変わりゆくことを自覚しながら、それでも彼らは雄大な自然の中で太古の昔より続く生き方を切り捨てるのではなく、受け入れる方法を自然に見つけ出している。広大な自然と、その中にぽつんと見えるかのような人々や牛たちが、どうしてこれほどまでにとけ込んでいるのか。

町にはモンゴル系の顔立ちの人々が多くを占める。親近感を覚えるのか、屈託ない顔を見せてくれた。



この敷地だけではないのだが、古代に岩に刻まれたとされる絵が地表にまるで無造作に点在している。底に刻まれた放牧の牛や馬や羊やヤギの姿は、昔も今も変わらないこの土地の人々の暮らしを思わせる。


それでも巨大な岩山の前で自らの小ささを感じてしまうのは、経済的な豊かさに慣れ、都市という人工的な巨岩の中に暮らす我々の業なのだろうか。

次回はタジキスタン訪問をお伝えする。

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