深まりゆく中央アジアの秋

この所カメラの話は書くのに「写真がないじゃない」というコメントをよくもらう。

実際、情報記録としての写真は撮るのだが、写真を撮ろうと街に出ることが少ない。良くないことだと思う。自分の周りを見回して、注意を向けようという気持ちが薄くなっている。身体的感覚はともかく、精神的感覚が鈍っている。

最近の写真で掲載するようなものがないので、以前撮った写真のなかから中央アジアの深まりゆく秋のものをいくつか紹介しよう。自戒の念も込めて。このため場合によっては以前掲載した写真が混じっているかもしれない。

(なおアップルのmobile meサービス終了アナウンスを受け、別のサービスに写真ギャラリーを移行中である)

Kei Satoh Photo Gallery


秋のキルギス・アラルチャ国立公園。東山魁夷の一幅の絵のようだ


樹木に一部覆われた山と、岩や氷河に覆われた山を背景に、一本の白樺の木がうっすらと紅葉し始めている


オアシスのようなナリンのポプラ林


白樺が色付き、地面も枯葉で黄色に染まっていく。カザフスタンは中央アジアで最北に位置し、寒さの訪れも早い


秋の平原を行く二人。夫婦だろうか。風の音以外に聞こえない中でゆったりと時が流れている


草を食む遊牧民の馬


金色の起伏する丘の間を細い小川が流れている。絵画のような光景


カザフスタンの冬は早い。特に高地では、10月半ばには雪が降ることも普通で、山は既に冠雪を抱いていた


凍れる冬の到来は近い

ブレードランナーとNEX-5N、ベテルギウスとハッブル宇宙望遠鏡

タイトルだけを読むと「何のこっちゃ」と思われるだろう。
唐突ついでにと言っては何だが、映画「Blade Runner」の写真解析シーンをご存知だろうか。

主人公がある写真を機械にかける。それを音声でガイドしながらある部分を拡大したり移動しながら写っているものを解析するシーンである。今となっては別段驚く程のものではないかもしれないが、初めて見た時には「凄い!!」と思ったものである。(実はどちらかというと音声でコントロールする部分に惹かれたのだが)もう一つ、屋台のオバちゃんが何かの鱗を電子顕微鏡で拡大して見て、製品の質の高さに言及し、さらにそこに記されたシリアルナンバーから製品を特定するなんていうシーンもあった。

今やデジタル写真は、それが必要であるかどうかは別として、ある意味でこの解析シーンを再現することが可能である。最大解像度で撮影した写真をパソコンのモニターで等倍にしてみれば言わんとしていることがわかっていただけるだろう。縮小しているときには見えない情報もそこには写り込んでいる。(もちろん、映画の解析シーンは「印刷技術」も同様に超高解像度情報を記録しており、拡大に耐えることが再現条件になる)今回この写真の解析シーンが浮かんだのは、写真の解像度をその写真の良し悪しではなく情報を取り出すために利用している点を思い出したからだろう。

自分の所有するNEX-5ダブルレンズキットの16mmレンズ、18-55mmレンズは、周辺画像が流れる、周辺減光が酷い、解像度が低いと特に16mmレンズは一部で叩かれた。さらにNEXシリーズと比較されるパナソニックのM3/4は、特に20mmレンズの解像度が高いと一部で騒がれ、NEXと比較されたことで「ソニーのEマウントレンズはよくない」という評価がかなり広まったように思う。アダプター経由でライカやツァイス等の光学的に性能が高いと言われるレンズとも比較されてしまい、「センサーはいいのにレンズは。。。」と結論付ける人が後を絶たないのである。
実はNEX-5後継のNEX-5Nや、同時期に出たα77などではレンズの光学性能を補正するデジタル補正がかけられるようになったとのことで、センサーや画像処理エンジンが相当性能アップした上、このレンズ光学補正によりさらに見かけ上の解像度や歪み補正が向上しているということだそうだ。サンプルを見ても実際明らかだった。「見た目」には。色再現や解像感の向上によって、まるで写真が良くなったかに思うのはまあ個人の自由である。それは結局、我々の知覚や認識能力の限界を示すものでもあるのだが。(自分も建物の写真を情報として撮ることが多いため、たる巻き歪みをソフトで修正することは多い)そこまで求める人はそれくらい可能なソフトを利用している場合が多いだろう。カメラ上で処理するか後でソフトを用いて処理するかの違いに過ぎない。

以前、我々がある写真をより「美しい」あるいは「好ましい」と判断する材料の一つとして、コントラストの強弱が与える影響について紹介したことがある。それに似た要素の一つとしてこの「解像感」がある。(記事を参照していただければわかると思われるが、実際の「解像度」ではなく「解像している感じ」と言うべきものだ。シャープネスを写真ソフトで上げると、実際の解像度が上がったかどうかではなく、上がったように感じる。これは解像度が上がるのではなく解像が上がったと感じるような操作である。もちろん言葉のアヤではあるので、「技術的に解像度を上げている」と言うこともできるのだろうが。これもデジタル時代になってより自由に広く利用することが可能になった技術であり、SFだった映画のワンシーンも我々には実用可能なものになった)

現実として、我々の目はもはや、今日のデジタルカメラがセンサーで捉える情報を全て知覚する能力は持ちえていない。もちろん実際には、そうした知覚認識を超えた情報の集積が見た目のコントラストや解像度に影響を与えている可能性は強いとしても。(写真に限らず、音などでも同様のことが言われる) レンズなどの光学性能は、ある意味で我々の知覚能力に即したレベルに限定されてきた。カメラや天体望遠鏡を例にとるならば、レンズや反射鏡の大きさが光の集光力を既定し、それを接眼レンズや写真フィルムなどを用いて我々が知覚できるよう可視化する。短所や限界を補う形で肉眼はフィルムへ、フィルムはデジタルセンサーに取って代わり、さらにはデジタル処理技術がセンサー知覚情報を拡張する。この拡張操作自体はフィルム増感だろうがデジタル処理だろうが、性能に差はあれ求めるものは同じである。我々の知覚能力を超えた世界を認識可能にすること。
もちろん、光学性能が低ければいくらセンサーが良くても性能は向上しない。「拡張」という言葉を用いたのはそのためだが、その意味で言えば、人の知覚機能の拡張を手助けするデジタル化とデジタル処理という「手法」もまた、人の世界認識や処理操作能力を向上させるためのある一つの概念を基にしたものでしかない。 だからだろうか、写真を語る際に解像度や色についてばかり拘る輩に対してヒトコト言いたくなるのである。それは入口であって目的地ではないのだから。


先に述べたように、デジタル技術を用いて世界を認識しようとする方法は、今や我々人間の知覚認識などをはるかに超えた別の次元に入っているのではないだろうか。我々がこれまで知覚・認識出来なかったものを我々が知覚可能なレベルに処理し、我々の理解と認識を深め利便性を高めることに寄与している。ポイントとなるのは、それが我々にとってどういう意味を持つのかという点に焦点を向けるべきではないのか、ということだ。それを考える事の方が圧倒的に面白く、可能性も感じられるように思うのだが。

ペンタックス O-GPS1という天体撮影のための装置は、「レンズの向いている高度、方位、カメラの姿勢の情報と、カメラが持つレンズの焦点距離の情報をもとに、写野内の星の動きに合わせて撮像素子を動かし、星を点像に止める追尾撮影を実現」するーーなんていう装置も市販されている。なおコンポジット合成自体は惑星の撮影等にフィルム時代から用いられ、別に新しいものではない。(ex.天体写真撮影術 http://motoraji.com/blog/722/)

一つ、先述のSF画像解析に似た実例をあげてみよう。 現在NHKで、「コズミック・フロント〜発見!脅威の大宇宙」という素晴らしい番組が放送されていて、宇宙や天文好きにはたまらないのだが、「爆発寸前!?紅い巨星・ベテルギウス」という回である面白い実験が行われていた。 地球は大気でお覆われているため、地上から宇宙を「可視光」で見ると大気の流れにより目に見える像は揺らいでしまう。それ故大気の薄い、空気の揺らぎの少ない高山等に光学望遠鏡が置かれることが多いのだが、いくらスペックでは上回っていても宇宙に浮かび大気の影響のないハッブル宇宙望遠鏡には実性能でかなわない場合が多い。

この番組では、爆発寸前と考えられている馴染み深いオリオン座の一等星、ベテルギウスが「円形ではなくコブを持ち歪んでいるのではないか」という仮説を確かめるために行われた「撮影」方法を紹介している。地上から撮影すれば、大気により星像は揺らいで歪みを確認するどころではない、と普通なら考えるところだが、これをある方法で「補正」するのだ。 番組ではその方法を説明するのに、トランプのカードを揺らいだ水中に沈め、これを何枚も撮影する方法を紹介していた。いくら水が揺らいでいても、数多い写真の中には歪みの少ない、良く「解像」している写真が偶然得られる時がある。天体の撮影でも同様、大気の揺らぎが偶然おさまった瞬間に撮られた「スーパーショット」が、数十万枚もの写真の中にはある程度存在する、と仮定したのだ。それら一部のスーパーショットをアルゴリズムを用いて自動的に抽出し、これらをコンポジット合成することでより精度の高い、言わば解像度の高い最終画像を得るのである。これなどはデジタル撮影やデジタル画像処理、デジタル画像解析が初めて可能にしたと言えるものである。これとてハッブル宇宙望遠鏡はいともカンタンに超えていくのだが。

こうした技術がやがてそこいらのコンパクトデジカメにフィードバックされないとも限らない。実際に一部利用されつつあるではないか。HDRや高感度・超高速シャッターによる連続撮影を用いたスローモーション撮影など。デジタルノイズリダクションや解像感を高める画像・映像アルゴリズムの利用は、今や我々の知覚認識能力などを圧倒的に越えるレベルを持つに至ったが、我々の周りには既に日常的に数多く存在している。

あるいは、可視光線の撮影のみならず紫外線や赤外線で捉えられる光などを全て合成し、一つの画像にしてその天体の「ある種の」姿を可視化することも行われている。さらには、光学の力では知り得ない世界を垣間見ることの出来る電子顕微鏡など、まったく異なる手法を用いた可視化装置もある。 もはやそうなると、眼に見える知覚という範囲を超えた世界を可視化しているわけで、もはや光学的なものかデジタル補完によるものかを「区別する」事自体意味のないものと言うこともできる。「レンズの光学解像度が高い」方が「デジタル補正による解像」より優れていると考えるロマンティックな時代も、そのうち過去のものとなってしまうだろう。それほどのインパクトある変化が一気に来る可能性もあるのではないか。
もともと天文や物理学の世界を見てみれば、その大部分が視覚に頼らない、想像力と認識力の世界であるのだから。


飛躍のし過ぎはともかくとして。 我々が写真メディアによるある画像を「認識」するという行為は、既知の情報や知識、記憶とのすり合わせにより判断する行為と言える。写真というメディアの存在意義もそこにあると考えている。しかし、だとしても写真とは、我々が世界を認識し、感情を寄せ、記憶に留める行為の一つの形として存在するに過ぎない。 共有をしやすくそれを求めやすい写真というメディアが(だからメディア足りえるのだが)その「良し悪し」を評価して価値を定めようとする行為に結びつきやすいことは確かであり、それ故にニュースやアートへと昇華し得るメディアでもあるのだが、それがもし我々の想像力や思考力を一瞬の知覚の強弱によって限定し、固定してしまうのであれば、それはまた危ういメディアと言うこともできる。そういう認識や判断といった行為そのもの自体が曖昧で、簡単に操作されやすいものであることもまた、忘れるべきではないと思うのだがいかがだろう。

カメラの性能至上主義に陥りがちな自分に対して自戒の念も込めて。(GR DIGITAL IVについても書きたいのだが。。。矛盾しがちな物欲を抑えるためでもある)

ザンデルリンク逝く

DPA通信によると、ベルリン交響楽団、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の首席指揮者を歴任したクルト・ザンデルリンクが18日、ベルリンで死去したとのニュースがあった。享年98歳。クラシック音楽が最後の輝きを放っていたであろう20世紀初頭に生まれた最後の巨匠とも言える指揮者であった。

経歴を見ると、東プロイセンのアリス(現ポーランド領オジシュ)で生まれ、初期にはオットー・クレンペラーやヴィルヘルム・フルトヴェングラーなど、その後巨匠と呼ばれる指揮者達に指導を受けている。ユダヤ人であった彼は、ナチスの反ユダヤ政策から逃れるために23歳でロシアに亡命、同じく亡命していたハンガリー人のジョルジュ・セバスティアンの下でモスクワ放送交響楽団のアシスタントとなる。
その後、ソビエトで活動を続け、29歳の時にエフゲーニイ・ムラヴィンスキーの下でレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の第一指揮者となった。圧倒的な技術とムラヴィンスキーの薫陶を受けたレニングラード・フィルと共に歩むことで、ザンデルリンクの指揮者としての生き方が定まったと言えるのではないだろうか。さらにソビエト滞在中にはドミートリー・ショスタコービッチら作曲家とも親交を結んでいる。1958年にはレニングラード・フィルの初来日公演が行われたが、病気で来日ができなくなったムラヴィンスキーの代替指揮者の一人として、初めて日本を訪れている。
1960年には東ドイツに帰国、ベルリン交響楽団の首席指揮者となり、1964年から3年間シュターツカペレ・ドレスデン(ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)の首席指揮者も兼ねねた。その後はオットー・クレンペラーを引き継いでニュー・フィルハーモニア管弦楽団の首席客演指揮者となり、76年からは客演指揮者として読売日本交響楽団を数度指揮することもあった。77年にはベルリン交響楽団を辞し、フリーで活躍。2002年に指揮活動の引退を表明していた。

 


 

手元にはブラームスの交響曲の録音CDが数枚あるが、初めて聴いた時にはその演奏の違いに驚いた。新しい世代の、例えばカルロス・クライバーやレナード・バーンスタインの演奏に馴染んでいた耳には、「全く違う」世界の音楽のように聞こえ、強い印象を受けたのである。その後ブラームスを聴きたくなった時にはよく選ぶようになった。

彼が一時期率いたシュターツカペレ・ドレスデンは今やNHKなどでもその演奏がよく放送され、演奏CDも今や数多く手に入る。しかしムラヴィンスキーやザンデルリンクの活躍当時には共産圏の文化が西側に広く紹介されていたとは思えない。ベルリンの壁崩壊後にそれまで伝わっていなかったこうした旧東側の文化活動に触れることが出来るようになったわけである。自分にとっては同時代を生きたとは言えない、故に過去の遺産に触れる行為である。

現在、自分はいわゆるこの「旧共産圏」の国に滞在しているわけだが、一つとても魅力に感じるのは、ソビエト時代を経験した人達の謙虚でありながらしっかりとした視点を持つ見識や、文化に対する際の真摯さである。我々から見れば地味で堅実、質素な生活の中で、ロシアの文化に対して、あるいは自らが認めた文化遺産に対して高い誇りや理解を抱き、現在もそれを守り伝えようとしている。ザンデルリンクやシュターツカペレ・ドレスデンの演奏(カール・ベームを始め、ヘルベルト・ブロムシュテットなど)を聞くと、時代の流れやエンターテインメントの側面をも強調された西側経済下の演奏とは異なり、そうした地道な生活の中に寄り添う文化の頂点としてのクラシック音楽が感じられるのだ。どこまでも地道に真摯な姿勢を貫き、派手さや誇張が全く感じられない緻密な音楽。言い換えるとそれは、まるで新しいものや驚きのない、それでも堅実に質素に繰り返され、確実に、間違いなくとり行われる日々の暮らしの反復の如く響く、とでも言えようか。大仰な抑揚や熱狂とは違う、しかし圧倒的な全体の安定とそれが可能にする細部への視線と注意。

もちろんクラシックと呼ばれる様々な要素を持った文化全体を見渡せば、そうした安定や堅固さばかりではないと思う。現代という時代において予測できない未来を思い描くか、もしくは我々の辿って来た過去から何かを得ようと俯瞰してみるか、その立場や態度の違いによって我々は求めるものや視点を変える。ただその時、どちらが重要であるかは焦点ではなく、時にはそのバランスの取りようが我々の立ち位置を定める指標となる。それを念頭に改めてこうした演奏を聞くと、そこにはまた違った意味で圧倒的に豊穣な、薫り高い世界が広がっている様に出会うことができるように思うのだ。

東側・西側という大きな対立のあった時代、あれは何だったのだろうか。それを知るにはまだ自分は幼すぎたものの、こうして今、東側と呼ばれる別世界に触れることができるようになり、またその壁が取り払われた影響が今も根強く残っているのを感じるのに際し、我々は何を感じ、思うのだろうか。

その指標の一つとなるようなザンデルリンクの音楽が聞こえてくる。まごうかたなき本物の響きの一つである。

同時多発テロと10年の歳月

今年、世界同時多発テロから10年目を迎える。10年の時間はあっという間に流れ、当時の感情はどこか乾いたかさぶたのようなものになって心の一部に巣食っている。ただ普段にはあまり見えないものになった。それを隠す日々の暮らしの比重が大きくなったためだろう。

あまりにも穏やかな9月始めの青空。街に出た時の普段とは全く異なる静けさ。その静けさを切り裂き、いつ果てるともなくループを描き続ける米軍の戦闘機。そして、数キロも離れたアップタウンにすら流れてくる物の焼けた匂い。あの日ですらそうした断片的な記憶が、まるで白昼夢のように自分の間隔と微妙にずれていた。心に巣食う感情は、怒りや悲しみといった激情とは違い、力を入れようにも入らない足元から絶え間なく襲う悪寒に似たものだった。それらが心までをも完全に支配している。

911については一度以前にも書いた。あの事件が自分の中から消えないのは、まったく同じタイミングで自分の体を蝕み、ついには取り返しの付かない一線を越える病気の進行と重なっていた事が、自分でも感情の上でどうしても切り離せないからだ。ある意味で、自分の中にはそのように両者を見ることで客観視して、それらの外側に自分を置きたいという防御反応のようにも思える。こうしてこの文章を書くこともまた、その行為の一つなのかもしれない。

世界を変えた日。中東の均衡を破るイラク戦争と、それに続くアフガニスタン作戦の引き金を引いた契機。軍産複合体というアメリカの一側面の肥大と、その嵐のあとに残された膨大な憎しみの連鎖。自国民にものしかかる膨大な債務。世界的経済不況の二番底。これらは自分にとって、頭の中でどちらかと言えば整理しやすい「外部の」情報だ。ただそんなもので感情というものは制御できない。全てはある意味遠く、かさぶたを厚くするかのごとく感情の底に積み重なっていくだけだ。

家族を失ったり、怪我や心の傷を直接負った人達と自分は比べるべくもない。その悲しみの大きさは今でもなお、アフガニスタンで命を落とす兵士やその家族、あるいは憎しみに感情を突き動かされ原理主義や一教義に取り込まれる人々に引き継がれ、肉体と精神、思考や感情を瞬時に破壊しながら、どこまでも底無しの渦を拡げていくテロのどす黒い醜さ、暴力で権力を手に入れ、自国民を犠牲にしてまでその権力や富を増幅させる輩いよって拡大している。どう考えようとしても、911は過去であるどころか、さらにその傷を拡げているのである。ただ、それらが遠い世界に感じられるという感情がさらに乾いた悲しみのようなもので心を覆うのだ。それはあの足腰から力が抜け、悪寒だけがこみ上げてくるあの日の感覚とどこか重なる。

激烈な痛みと、その元を断ったがゆえに広がる果てのないような苦しみ。どちらが本当の苦しみであるかどうかなど、大した問いではない。何がその間断なき苦しみやその連鎖を断ち切ることができるのだろう。「敵」を定め、標的を探し、叩き壊す行き方は、その双方に言い分はあれども虚しいものだ。世界は、いいとは言えない方向へ進んでいる。

それが、9月11日を迎える前夜の感想だ。

Apple スティーブ・ジョブスのCEO退任と、世界戦略の難しさ

先週、Apple CEOのスティーブ・ジョブスはCEOを退き、今後は会長としてできる限り会社運営に関わっていくと発表した。後任にはジョブスの推薦を受けて、COOのティム・クックがあたることになる。健康上の理由であると思われている。

以前、一度ジョブスのスタンフォード大学での卒業スピーチについて触れたことがある。病気により一時は余命数ヶ月と言われた彼が、死を覚悟することで逆に強い信念に揺るぎのないものが加わったと語ったのを印象深く覚えている。卒業式のスピーチに、死について語る。それも、「命短し恋せよ乙女」的な人生謳歌の勧めを語るのではなく、死そのものについて考える機会と、それがもたらすであろう生き方や考え方の変化について語っているのである。

”death was a useful but purely intellectual concept…death is very likely the single best invention of life.”

こうした態度が、ジョブスが他の形式的なリーダーと異なる活躍をする所以だろう。

 


 

彼は最近、その痩せ方から健康上大きな問題があると言われている。退任報告が発表された後にネットで伝えられたジョブスの写真は、確かに健康状態が思わしくないことを伝えるものであったし、ジョブスの実父(ジョブスは生まれてすぐ養子に出されている)が最近ジョブスが実子であることを知り、会えなくなる前に会うことが出来ればと語った記事まで流れた。

CEOを退く前も、病気療養で実際の会社運営は首脳陣によって行われていたであろうし、ここ最近の大きなプレゼンも副社長のフィル・シラーが行なったり、ジョブスがホストを務めても各プレゼン要素を個別担当者が説明するスタイルに変わりつつあった。それでいて、プレゼンの質が落ちたようには感じられない。各担当も非常にうまく、また各担当個人個人の個性や魅力を感じさせるプレゼンを行っている。それだけAppleには魅力的な人物が多いということだろうし、ある意味ジョブスというカリスマのみで存在する企業というイメージを払拭し得るものとなっている。今後は、ジョブスなきプレゼンが普通になっていくのだろう。その引継ぎそのものは完了しているように思う。

ティム・クックとスティーブ・ジョブス。Photo: WIRED Magazine

強い判断能力を持つジョブスと、そのコンセプトを具現化する能力を持ったチームメンバー達が、Appleを倒産寸前の状態から時価総額世界一の企業へと変貌させてきたことは語るべくもない。ただ個人的にはジョブスのカリスマ性がAppleの現在の成功をもたらした理由と考える必要性をあまり感じないのだ。初代iMacを手始めに、Microsoftからの融資を引き出したところまでは彼の成せる技だとして、iPodやiTunes Store、OS X、iPhoneやiPad、Intel Mac、アップルストアといった一連の事業を発案・展開し、Appleブランドの基に大きなフレームワークとして「15年以上かけて」完成統合してきた背景には、ジョブスのみならず、多くの才能ある人物が関わっていることは間違いないし、この点のほうがより重要だと思う。もちろん多くの岐路を判断し、様々な事業展開を統括し得たジョブスの能力が稀有のものであることは事実であろうが。いずれにせよ、ソフト分野、ハード分野、デザイン分野、メディア分野、マーケティング分野ーーーどのような批判や短所の追求があろうと、幾つかの製品やサービスで大きな失敗していようと、現時点でこれほど確固としたエコシステムと才能ある人脈を持つIT企業は少ないだろう。各分野にライバルはいるとしても。
デザインのジョナサン・アイブがハードでイメージを具現化し、社長に就任するティム・クックが製品生産をすべての点で最高度に高め、フィル・シラーがマーケティングを、ロン・ジョンソンがAppleストアで実現する。そうしたハードをそれに見合ったイメージを持つソフトがサポートし、バートランド・サーレイがOS Xを、(ロンと彼は最近Appleを去った)その下にぶら下がるiLifeやiWorksの各ソフト、その他プロフェッショナル向けソフトでも優れた担当リーダーが開発、製品展開している。もはや、Appleは「デザイナー向けのちょっと良いデザインのコンピューターを作る会社」というレッテルでは表現し得ない多様性を持つものとなった。

ただ企業には寿命があるとよく言われる。才能豊かな人物が率い、その人物の影響力が失われるまでが一つの賞味期限というわけだ。実際、現在のソニーなどを企業組織として見るとそれは言い得て妙、と言えなくもない。Appleが今後どのようになっていくのか、それは一時期飛ぶ鳥を落とす勢いだったマイクロソフトやDELLの現在を見れば想像がつくものではないが、現在までに創り上げたシステムがどのように働き、どのように変化していくかーーあるいは変化や変革をもたらすことができるか、にかかっている。


 

海外にいて、特に発展の途上にある小さな国にいて感じること。それは、日本の企業進出や製品展開にも言えることだが、ある意味でAppleのような企業の世界戦略の難しさを示唆するものでもある。ローカリゼーションと一言で言ってしまうと短絡的に捉えられがちになるが、経済的に発展した国や社会で完成され、強固なシステムであればあるほど、それを世界で同じように展開することは難しくなってくるように思われるのだ。

Appleは、ハードそのものの魅力に加え、ソフトやネットワークによるメディアとの連携を軸とするシステムを構築しつつある。どちらが欠けてもAppleというブランドは成立しない。現在もそのシステムは発展展開中であり、電子書籍や新聞・雑誌といった現時点で残された最後の砦ともいえる既存メディアの取り込みに注目が集まっている。そして、それをサポートするネットインフラやクラウド化なども先進国では実用レベルに達しつつあり、スマートフォンやタブレット端末によるさらなるハード・ネット利用形態の進化が見込まれている。

しかし、これは全ての分野がビジネスとして相互作用し共存、共栄できる背景を持つ先進国においての話だ。

発展中の国に来て感じるのは、中国やベトナム、インド、トルコなどが圧倒的物量で生産する「ハード」の点で言えば、もはや世界中である程度の品質を持ったハードを手に入れることはできるようになった、あるいは、先進国では型落ちとなったものの、当初は最先端・最高スペックであった製品が新品・中古の状態を問わず、発展途上国に凄まじい勢いで流入し、多くの人に利用・再利用されるようになった、という点だ。(これにより、多少型落ちでも先進国の住人より高級ハードを多くの人が利用しているというパラドックスも発生している)

そしてソフトとしてのメディア。自国で製作されるコンテンツはほとんどないものの、ハリウッドやヨーロッパで大規模に製作される音楽や映画は、ネット上に溢れている。以前はソフトといえばコンピューターのソフトが最も多くコピーされていたが、音楽を始め、映画などがデジタルデータとして扱われるようになった現在、発展途上国ではもはや手のうちようのないほどにコピーが当たり前になって巷にあふれている。インドや中国などを除き、あまりメディア産業の発展しない発展途上国では、アメリカやヨーロッパの映画、日本のアニメなどが今や当然のごとく知られ、視聴したいという需要を生む。映画館でも映画は上映されているが、チケット自体がネットやテレビとの競合から超低料金であるし、同じく格安のケーブルテレビが数カ月後には最新映画をTV放映する。(自分も、以前はあまり進んで見なかった新作映画など、テレビで見ることが多くなった。日本人などよりよっぽどこちらの人のが色々見ていますよ)ネット環境があるならば、それこそダウンロードし放題だ。ネット環境に慣れ始めた若者の間で、お金をかけてCDやDVD、ブルーレイを音楽や映画を見るために購入するといった発想は初めから存在しない。あったとしても、一枚に5-6本の映画が詰め合わせになった一枚100円程度のDVDや、数百曲がまとめられたMP3のCDなどを買うぐらいが関の山である。そして、インターネットとはそうした「サービス」であり、ネット料金を払えばメディアのダウンロードなどが自由にでき、それが世界中でも当然の状況なのだと思っているフシがある。誰も本来の姿を伝えるものがいないので、あたりまえだろう。(時には、アメリカの最新映画の「映画館撮影海賊版」までもがケーブルテレビで堂々と放映されており、苦笑するしかなかった。ケーブルテレビ局がコピーDVDを再生し、放映しているのだろう)ここまであからさまだと、それを個人レベルで諭すことは不可能であり、理解もされ得ない。先進国の住人がより高いお金を出して音楽や映画のCD/DVD/Blu-ray パッケージを購入し、映画チケットを買っていることは、ある意味でこれら発展途上国の住人の分も肩代わりしていることでもあるのだが。

そして、「音楽ってお金を払うものだろうか」などと無邪気に反論された日には、実際こちらがその意味を深く考えてしまうほどである。そして「現在のメディア産業は、それこそ戦後数十年ほどで音楽はお金を払ってパッケージを買うものと規定し、それを広めた。それを基本にした先進国発のエコシステムは、その根本において、実は危ういシステムなのではないか」という疑問が湧いてくるのだ。(ラジオやテレビでは録音したり録画しても無料なのに、なぜネットでは有料で購入するのか、という線引きは、非常に恣意的なものだ。音質や画質がその差を区別していたのだろうが、現在はその差は一般人にとってないに等しい)

今後、発展途上国が経済的に成長して人々が経済的に豊かになったとしても、その時になって「じゃあ、今後は分相応な金額を支払ってね?」と言ったところで受け入れられることはまずないだろう。ダウンロード販売?なんだそれは? こうした問題に強いとされるフリーミアムの考え方にしても、先進国においてさえ「課金」が始まれば利用者が圧倒的に減ることは統計的に裏付けられているわけで、後々お金を必要とするサービスであることを知った上でも利用するか、と聞かれれば「難しい」と思わざるをえない。

ハードが開いてしまった門戸を、どのようにして埋めていくかが鍵になる。その反応の一つがgoogleの求めるシステムとサービスであり、利用者レベルでメディアを生み出すソーシャルネットワークのサービスだろう。チャットや掲示板から始まり、自作動画共有のYou Tube、写真共有のFlikerやPicasa、ブログ、そしてTwitterやFacebookなど、今や人々は自分で発信するサービスを取り込み、多くの時間を費やすようになってきている。Facebook利用者が世界第2位だというインドネシア。ソーシャルネットワーク革命とまで言われたチュニジアやエジプトの政権交代。高速鉄道事故で中国共産党をも揺るがした中国版ツイッターやソーシャルネットワークサービス。もはや、音楽や映画さえそうした広い拡がりを持つネットワークサービスの話題提供の一メディアであると考えるならば、お金のある人がその分多く払うという富の平均化は肯定されるかもしれない。あるいはするしかない。

最近中国でAppleストアを模した店が数多く生まれ、いろいろな意味で注目されているが、先進国的目線を外して世界規模で見れば、iPhoneやiPadが世界中でここまで人気を博している以上ごくごく当然のように思う。先述したように、ハードは最も課金と収益が得やすいものである以上、今や国境を越え世界中に製品は流れている。それを売る店が、戦略上集客しやすい店のデザインやサービスを真似るのは当たり前とも言える。もちろん中国がパクリ大国の本領を発揮し、新幹線まで真似ようとして大きな傷を負ったことは、ソフトや経験値をも模倣するのは極めて難しいというこれまたはっきりとした事実を示しているわけだが。

いずれにせよ、iPhoneは家のWiFi環境以外では日本のような使い勝手を経験することはできない。そして、iPhoneも店で見かけるものの、Android製品が増え始めたのはやはりコンテンツの縛りを嫌気する人が多いためだろう。現実として、iTunesストアはキルギスでは提供されていないため、アカウントを作成できない以上フリーであってもアプリをダウンロードすることすらできない。強固なエコシステムは、それを利用できない人にとっては単に排他的な、宇宙人のようなものでしかない。その心理を突くのは、現状ではやはり課金のない、コピーが主流のシステムしかないのだろう。それは、ある意味でローカリゼーションを行う際の「キモ」であるのかもしれない。それを受け入れることができるのかーーー非常に難しい、新しいバランス取りのひつような問である。

 

追記:ヒトコト言うと、日本はこの点非常に、誠に弱いとしか言えない。新しい変革システムを生み出せないだけでなく、日本で成功したシステム=ガラパゴスにすがりついたまま海外に出ようとして、失敗している部分が大きい。海外に積極的に出よというのは何も海外に生産拠点を移せということではなく、海外の現状を知り、そこから自らの姿や立ち位置、現状への対応を考えるために海外の空気に出来るだけ触れ、水に慣れろということなのだ。それは、時々出張に出向く程度では成し得ず、やはり一定期間住んでみたり、その土地の人と個人レベルで知り合いになる必要がある。その点で言えば、日本はアメリカだけでなく、中国や韓国、トルコなどの足元にも及ばないのが現状だろう。

 

流動化する世界

チュニジア、エジプト、イエメンと、安定していると思われていた政権が一気に揺らぎ始めている。

強大な権力をもって国内の言論や反対派を封じ込め、自らを保身する憲法や法制度を強制し、権力や富を独占するーー国民に選出された政治家が政治を執り行い、その規定するシステムが国民の暮らしや生活、国際社会における立場などを規定していく前提としての政治が確立していない中で、一部勢力の思惑や他国の介入によって作り出された傀儡政権。あるいは一時の勢いに乗って大きな指示のもとで誕生しながらも、長きにわたり政治力を握ることで志を失い、腐敗にまみれ、特権を維持するために強権化する独裁政権。
こうした存在に対する抑えこまれた不満や怒りが、意見共有を促進する新しいメディアにのって波紋のように広がりをみせ、一気にこのような事態に発展した。

キルギスにおける前大統領追放の際にも感じたが、強権を以て抑えこまれていたと見える国民が一斉に立ち上がった時、どのような強権も太刀打ちできずに驚くほどもろく、あっけないほどに倒れていくように見える。
そして一時は国の盟主として、時に英雄として存在した強権者達の俗物化して下卑た末路が、あまりに似ていることに驚かざるを得ない。4億ドルを持ち出したというバキエフ前大統領一家、50億円相当の金塊を無理やり持ち出したチュニジアのベンアリ大統領一家。「エジプトに残り、エジプトで死にたい」という、これまでの強い姿からは想像できないほどの弱々しさで発せられたムバラク大統領のテレビ演説。次期大統領選挙には出馬せず、息子も出馬しないという声明を出して世論を鎮めようとする、イエメンのサレハ大統領。
国家を体現する存在であるはずの政府の、その長たる者のこうした姿を見ても、我々が知り得るこれら国々の国家としての姿とは何であったのかと、愕然とさせられる思いがする。

国家であれ組織であれ、強権の保持し得るものとはそれを維持するためのシステムのみであるということかもしれない。そしてそれは一部の勢力が持ち得るものであるからには、永遠に維持できるものでもなく、今回のような一斉蜂起の前にはもろくも崩れ去る。
キルギスの政変と民主化の動きに対して、ロシアは中央アジア諸国が一斉に民主化の動きに傾き、独自の国家運営に乗り出すことを恐れ、表向きには手を下さないものの政治的圧力を加えた。イスラエルを支えるアメリカは、イスラエルの存在に反発する周辺アラブ諸国をアメとムチによる政権選択によって抑えこんできたが、今回の一連の政変によりアメリカ主導の中東和平は難しくなっていくだろう。今後アメリカが主導してきた世界の政治情勢と国家関係の方向付けはさらに流動化していき、その影響力が弱まっていく未来が次第に見えてきた。

そして、この一連の動きを強い恐れを持って見守っているのは中国だろう。単発的な民衆蜂起が各地で繰り返されているとされるが、何らかの方法で一斉に不満を持つ国民が立ち上がったとき、一党支配の中国の混乱はどのような状況になるのだろうか。(中国でFoxconn社などを巻き込み広がりを見せた工場労働者のストライキは、携帯電話を介して広がったことが知られている。「金の盾」によるインターネット検閲も、携帯電話の会話まではコントロール出来ない。爆発的な拡大を続ける携帯電話や、膨大な「つぶやき」と転載のスピードについていけるメディアコントロールの維持運営は、ますます困難になるだろう。莫大な運営費用はさらに国民から搾取され、それを正当化する理由は国民に正しく伝えられることはない)

北アフリカと中東の国々の国民が次々と連鎖反応を起こして、政権打倒を唱えた今回の民衆蜂起運動。それは、特定の国家とその政府を打倒する運動というよりも、貧困や低い労働条件に抑圧されたまま浮かびあることの出来ない人々が、彼らをそこに押し込むことで成立する現在の世界のシステムに対して立ち上がったと見るべきではないだろうか。そして、中国で頻発しているという民衆の蜂起の矛先は、地方政府や中央政府に向けられたものだとしても、その責任の一端は日本を含む、先進諸国の運用する現状の世界システムにあることを考えてみる必要がある。
グローバルな経済システムが、既存の国家の姿と国際関係の姿を大きく変えている。アイスランドやギリシャ、アイルランドの国家経済破綻に続き、今回は北アフリカや中東の国家運用が破綻した。その背後にある大きな流れによって、近い将来、現状の世界システム全体が一部国家の枠を超えて流動化することになるのではないだろうか。

Appleらしさ

この所キルギス関連の記事しか書いていなかったが、ラマダン入したキルギスは連休になっているため動きがない。
久しぶりにその他の記事を書いてみる。

先日からAppleは「Tomorrow is just another day. That you’ll never forget.」と、なにか新しい発表があることをアナウンスしていた。通常新製品やサービスの発表にはプレスコンファレンスを行うAppleが、今回はティーザーのような直前のアナウンスで皆を煙にまいた。

Appleのスティーブ・ジョブスは今年中にまだ重要な発表があると公表していた。iTunesのクラウドサービスなどが囁かれた中、このアナウンスのメッセージを謎かけに取った人が「Beatles」の楽曲追加と断言し始めた。Wall Street Journalもそのひとつで、その後は発表前からCNNやBBCなど一日中同じ憶測を報道し続けていた。
アナウンスのメッセージはPaul McCartneyのソロ曲のタイトルだとか、時計の並んだメッセージ画面が「HELP!」のジャケットに似ているだとか、一気に「Beatles」説が盛り上がった

結局、iTunesで予告よりも早い時間に配信が始まった。Beatlesのappleレーベルと商標を巡り長年裁判を繰り返してきたAppleだが、とうとう和解し音楽配信サービスに参加したことになる。

そういったことはさておき、今回のやり方は「Apple」らしさに満ちていて素敵だと感じた。「(そんなことだったかと)驚いた」「がっかりした」という意見が特に日本では多いようだが、今回の発表とそのやり方はAppleがただ単にコンピューターやソフト、そしてiPodやiPhoneを売るだけの企業ではないことを強く印象づけるものだった。
以前、Appleは「Think different.」というキャンペーンを行い、著名な人物の写真と合わせ、「想像力」をもとにした「創造力」を生み出すツールとしてのApple製品プロモーションを行った。その時のやり方に似ていなくもない。

「狂った人たちへ。はみ出し者。反抗者。問題児。四角い穴の丸い杭。物事を別の形で見るひとたちへ。彼らはルールを好まず、現状になどかまってない。
彼らを引用してもいい、彼らに反論しても、崇めても、けなしてもいい。でもあなたに出来ないことーーそれは彼らを無視すること。
なぜなら彼らは物事を変える。人類を前進させる。彼らを狂っていると見る人がいる中で、我々は彼らに叡智を見る。
世界を変えることが出来ると考えるほど狂った人こそが、世界を変えていく人だから」

言ってみれば、Appleという会社はBeatlesの曲を聴くためだけにでもiPodを作り出そうとする人たちの集まりだという事かもしれない。それ程、Beatlesを自らのサービスに加えることで世界中の人々がこの音楽を聞くことが大きな意味を持つことなのだよ、というメッセージをジョブスは伝えたかったのだろう。
自己満足との声も聞かれるだろうが、ジョブスはその「自己満足」を、多くの人々もまた、同じように求めているものだと確信している。自分で完結する満足ではなく、世界と繋がっていることから得られる満足を彼は目指しているように思う。Pingサービスを加え、単に音楽を買うだけでなくソーシャルメディアとして他のファンと繋がるツールも加わった。自ら作ったソフトウェアを世界に発信するステージにもなっている。iTunesは巨大な活きたコミュニティーとしての存在を強めつつある。

Apple Computer Inc.を立ち上げ、Macintoshを発売してから36年、彼の意識はほとんど変わっていないように見える。世界に散らばる魅力的なものをコンピューターを通して集めたり、自ら創りだして発信したりするための、それ自体もまた魅力的なツール。そこに集められる世界の魅力的な断片の一つとして、Beatlesは自分のコレクションのみならず、世界の人々の間でシェアされ続けるものだと語りかけているようだ。
仏作って魂入れず。物作りに際して最も大切で、難しいもの。その意味をよく考えるべきなのは誰だろう。

Transparency International の 2010年度 Corruption Perception Index (汚職・腐敗知覚指数)


Transparency International の代表 Huguette Labelleによるブリーフコメント

2010年度版汚職・腐敗体感指数に関するレポート

2010年度版汚職・腐敗体感指数とキルギス及び中央アジア

”キルギスの現状基礎体力” の中で紹介されていたNGO, Transparency International によるCorruption Perception Index (汚職度指数)の2010年度版が発表された。汚職度・腐敗度を0 (汚職度ー高)から10 (汚職度ー低)で表したものである。
キルギスの順位は調査対象178ヶ国中164位という結果となっている。中央アジアではトルクメニスタンとウズベキスタンが172位に同位でランクされているが、残念ながらそれに次ぐ低さだ。その他ロシアとタジキスタンが154位で同位。カザフスタンが2009年の120位から105位まで順位を上げ、中央アジアの中では一番腐敗度が低い結果となった。(それでも2.9レベルである)キルギスの周辺に居るのは、国情が安定しない独立間もないアフリカ諸国などであることも知っておく必要がある。

Transparency Internationalのレポートは厳しい論調でこの順位について指摘しており、「このレベルの汚職・腐敗度のままであればキルギスは進歩することはできない。経済的にも、科学的にも、技術的にも、あるいは社会的向上についても望むことはできないだろう。もしこのままの状態が続けば、国の将来のために投資され得た財産まで食いつぶしていくだろう」と厳しく批評している。
「今年はキルギスにとって非常に重要な年となっている。国は移行段階にあるが、汚職や腐敗に対する反作用が通常の手続を踏んだ改革では解決できず、現在と未来のための真の戦いといったレベルに達している現在、国民の誰もがキルギスに山積している難しい問題について認識している」
「社会は既に選択を行なった。今非常に重要なのは、キルギスの政府機関、政府関係者、法執行機関、判事や検察官らが、自分たちはどちらの味方に立つのかについて意識することだーーキルギスのためか、個人的な利益のためか」

<最後に述べられている、「自分たちはどちらの味方に立つのかについて意識することだ」という部分は、単に事の善悪として理解すべきレベルの問題ではない。汚職度の高さを第三者の立場から俯瞰することは、汚職そのものを解決していくことより容易なのは確かである。問題となるのは、「ではどのように汚職や腐敗を廃していくか」ということにある。
この順位と汚職度指数が示すのは、日常的に、その度合に関わらず汚職行動が行われていることである。ーーこれは個人的にも経験する。殆どの人はそれを残念ながら受け入れなくてはならない状況に陥り、真剣に解決に向け動くことも個人ではままならない。その根本には個々人の充分でない収入の問題や、権力機構への権限の集中がそのまま搾取構造になっている点がある。教育の問題、民間機構の弱さなど、社会が権力機構を中心に回る古い体質から抜け切れ無い。

これらの点については、残念ながら多くの人が汚職度指数が高く透明度が高いとされるデンマーク(1位)やニュージーランド、シンガポール、スウェーデンなどの社会スタンダードを知らない、という点も無視できない。(それは自分を含め多くの日本人も同じだが)
政府という組織が社会の一端であり、全てではないという状況すら実感することができない。民間が経済活動を行うにも政府の大きな干渉がある。そして、この経済活動の中でもさらにまた腐敗の慣習がはびこっている。ネガティブ・スパイラルに陥って、あるキルギスの専門家はキルギスを評して「底なしのブラックホール」と述べていたのは印象深い。
今後民間組織による監査や、ジャーナリズムによる自由な批評、政策立案を左右していく社会構造や経済の自律性が成長していかない限り、閉じた世界は永久に開かれることはないだろう。


ーー中央アジアの長い歴史は、東西の中継点として常に他国の新しい文化や強力な異文化要素が通過し、取り込まれながら、世界を知る機会があったと思われる。もちろん自らの独自性を守ることにも精力を払ってきた事だろう。語弊を顧みずに言えば、現在のグローバル化やグローカルな動きとは、こうした過去幾度も襲ってきた嵐やその反動に似たところがあるのではないだろうか。そして、キルギスの人々も、好むと好まざるに関わらず既にその嵐の中に居り、生活の利便性や質向上などその多くをこの嵐に負っている点は事実である。

キルギスは積極的に海外を知る機会を必要としている。かつて我々日本人が明治維新前夜に遭遇した西洋という大波は、多くの人々の目を開かせ、日本の遅れを認識するきっかけとなった。日本も同様だ。そこから学ぶべきことは今こうした状況であるからこそ必要だろう。内に閉じて萎縮する現状の中から新たな世界が開けていくことを望むのは難しい。出来合いの製品や物資を取り込むだけでなく、社会システムや公正な経済システムを積極的に導入できるよう諸外国との関係体制を整え、諸外国もその立場をもって関係を結んでいく必要があるだろう。日本が不平等条約を改定していった取り組みや、社会・経済システムを導入していった過程は、現代でも学ぶことは多いと思われる。キルギスにそれを伝えていくことはできないものだろうか>

なお、中間値の5レベルに満たない国が世界の3/4を占めることも忘れるべきではない。もちろんこうした指数や指標で全てを判断することは出来ないが、国家が経済的にも自立し成長していく上でこの透明度が重要な指針であることは確かと思われる。先日お伝えした報道の自由度指数も含め、人々の日々の暮らしの質や未来への希望などが育まれる社会の形成の根本には、こうした指数で表される状況が大きく影響していることは間違いない。

Transparency International はさらに、国際競争力指数とこの汚職・腐敗度指数を組み合わせたある指標を提案してもいるが、例えばこの指標でトップに位置するスイスは、国際競争力が高いにも関わらず透明度を保っている。日本がキルギスのような国に対して対応していく方法について、大きなものを示唆しているように思えてならない。<綺麗事とは、それを綺麗事と知りながら通すことで本物の綺麗となるかもしれない。それは、悪事を悪事と知りながら通してもなにも変わらないこととは比較にならない大きな差があるものだ>

失われる氷河

変化する環境

今年の夏、ラフティング(川下り)ガイドによれば「水位が高すぎ、危険過ぎた」と語っている。初心者のグループをガイドした際、いつもはキルギスでもおすすめの川であるにも関わらず、今年は初心者の手に負えなかったそうだ。

増水した河川上流や貯水池のあちこちで水が溢れ、関係省庁は発電に必要なときに貴重な夏季の水が失われたことを嘆いている。
この原因と考えられているのは、氷河の融解速度の加速だ。世界中で起こっている氷河の減少と同様、キルギスの氷河の多くも危険な速度で減少している。

キルギスの氷河系

<International Fund to Save the Aral Seaの資料によると、キルギスには8208もの氷河が存在すると言われる。2008年時点では国土の 4.2%に及ぶ8,400平方キロメートルものエリアが氷河で覆われている。氷河の総水量は5800億立方メートルにも及ぶといわれている。(全国土を3mの水深で覆う量に相当)その中でも最もよく知られているのが、東部天山山脈にあるキルギス最高峰のポベダ山(7439m)とハン・テングリ(6995m) の大山塊にあるイニルチェク氷河で、大山塊の北部及び南部に分かれて存在する。なおいくつかの氷河はビシュケク市から程近いアラルチャ国立公園内にあるアク・サイ山(3500m) やアディゲネ山(3200m) にも見られ、そこから流れだす豊富な水がビシュケクを潤している>


アラルチャ国立公園には、水量の豊富な河川がいくつも流れる

氷河後退の様々な調査結果

ドレスデン工科大学の地図調査機関による調査で、T.ボッシュは、カザフスタンとキルギスタンの国境に位置する北部天山山脈の気候変動と氷河の後退は、地球全体で見られる気温の上昇傾向と密接に関係していると見ている。1960年から1975年の間には氷山の後退はわずかであったが、1970年代以降急速に後退速度が上昇していることがわかった。2005年度の調査報告で、ボッシュは「氷河面積の35-40%が失われた」としている。
また、国連環境プログラム(UNEP)と世界氷河観測事業 (WGMS) による2008年の共同調査がまとめた「世界的な氷河の変化:事実と数字」では、20世紀の間に、天山山脈の25-35%もの氷河が消失したと発表している。

写真はタジキスタンのものであるが、キルギスより南部にあるタジキスタンは気温がより高い。写真は氷河に削られた部分の砂礫が氷河を覆わんとしている所。氷河を覆う土砂などがさらに融解を早めているという

キルギスの機関による調査では、ビシュケクの国立科学アカデミーの水資源問題・水力発電研究所のヴァレリー・クズミチョノクが1970年代後半から2000年の間に20%近い氷河が消失したという調査がある。現在の氷河消失速度は1950年代の3倍に近いという。
環境NGO、BIOMのアンナ・キリレンコは、キルギスの主要水源は氷河に直結したものであるため、この氷河後退プロセスは非常に大きな問題になっていると述べている。(先日の「キルギスの電力事業 2. 水力発電」で一部データをお伝えしたとおり、ここ数年のトクトグル貯水池の水位の上下動は非常に大きく、2008年には夏季の水位低下により水力発電に支障が出て、計画停電が起こったことをお伝えした)
キリレンコによれば、氷河後退によって水系のバランスが確実に崩れており、河川の状況や、山系周辺のエコシステムが変化していくだろうとしている。


氷河が流れた跡が見えるが、現在は消えている

中央アジア応用科学研究所のリスクル・ウスバリエフによれば、氷河は偏在しているために融解速度などに差が生じるため、ある地域では変化が緩やかだとしても、特定の地域では急速なエコシステムの変化の影響を受ける可能性があるとしている。例えば、チュイ渓谷の西側では急速に水不足が進んでいる。また、クンゲイ・アラトー山脈の南斜面の氷河の後退はキルギスの他の地域と比べても著しく速く、またエコシステムへの影響も大きくなると予想されている。フェルガナ盆地周辺の氷河融解も同様に懸念されている。

加えて、UNEPとWGMSの調査では、砂礫が氷河を覆う機会が多くなり、太陽光の熱吸収を高めて氷の融解を促進していることを指摘しているだけでなく、氷河のうねりに遮られて生まれるダム湖の出現が増加しており、決壊により周辺地域に洪水を起こす危険性も警告している。
中央アジア応用科学研究所の予測では、現在の気候変動がこのペースで持続すると、キルギスの50から70%の氷河が消失すると見ており、河川の水位低下から水供給不足に陥るとしている。
またビシュケクの国立科学アカデミーのクズミチョノクは、今後20年から30年で氷河消失は重大な局面を迎え、今世紀末には10%程の氷河しか残らない可能性もあるとしている。

国際政治問題への発展〜水資源問題

中央アジアの水資源は、その80%をキルギスとタジキスタンに依存していると見られている。キルギスよりも山岳地帯が多くを占めており、キルギス同様水資源に電力事業を依存するタジキスタンや、氷河を源流とするキルギスの河川の下流に位置するカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンも農地灌漑用水を河川に依存しているため、氷河後退が直接的な影響を及ぼし始めている。

こうした水資源をめぐる摩擦が、より大きな国際問題に発展しつつある点は、近い将来水資源をめぐる摩擦が世界中で起こっていく事を予感させる。お伝えしたキルギスの水力発電所建設を起因としたウズベキスタンとの摩擦と同様の問題が、タジキスタンのダム建設計画を発端にウズベキスタンと間でも起こっており、タジキスタンによるログン大規模水力発電所建設再開ーーキルギス同様資金不足による建設停止が再開されるーーにおけるダム設置について、ウズベキスタン政府は非常に強い危機感を募らせている。ウズベキスタンのタシケントからタジキスタンへ通じる鉄道の貨物利用が事実上停止される事態となっている。既に2010年8月時点で既に7ヶ月目に入り、さらにタジキスタンからウズベキスタン国境を超えるトラックにも追加税が検討されているため、燃料や小麦の輸入も滞っており、燃料不足などからタジキスタンの(特に)農産業に大きな支障が出始めており、さらに穀物価格が15%近く高騰している。


タジキスタンの首都ドゥシャンベから車で1時間程のところにあるヌレーク貯水池の端部。山から流れこむ土砂が混じり、色が変わっているのがわかる。キルギスから流れるバクシュ河(キルギスではキジル・スー河と呼ばれ、いずれも「赤い河」を意味する)をせき止めており、5つのダムによるヌレーク水力発電系を形成している。なおヌレークダムはソビエト時代、1961年より20年近くかけて建設された高さ300メートルに及ぶ堤防高は世界一位である。なお上述のログン水力発電所用ダムは、これを上回る規模で計画されており、40億ドルもの建設費がかかるとされる。

この状況により、北部供給ネットワーク(Northern Distribution Network: NDN) による物資輸送に頼るNATO軍のアフガニスタン作戦は、一部物資がウズベキスタンを通じてタジキスタンに送られ、さらにトラック輸送でアフガニスタンに供給されているのだが、この物資がウズベキスタンに滞っているために物資供給において支障が出る事態に発展している。
その他にもタジキスタンの他の小規模水力発電所に投資・建設参加しているイラン企業の物資輸送に関する不満を受けて、イラン政府もウズベキスタンへの苛立を強めている。

キルギスの今後の電力事業

ビシュケクの国立科学アカデミーのクズミチョノクは、水源の90%を氷河から得るキルギスが電力事業の90%を水力発電に依存しながら、さらに水力発電事業に投資しようとするソビエト時代の延長にある政府の考え方に、大きな問題があるとも述べている。30億ドルもの巨額投資を必要とする1,900MWtの発電能力を持つカンバル・アタ-1、360MWtのカンバル・アタ-2水力発電所はソビエト時代に計画され、1986年に建設が始まった計画であり、多くの専門家はこうした巨大水力発電事業では今後長期にわたって電力供給を安定させることは出来ないという意見で一致している。
アメリカ、ペンシルバニア州のバックネル大学で環境政治学と政策について教鞭をとるアマンダ・ウッデンは、バキエフ政権の下で不透明な資金繰りによって進められた大規模水力発電事業の事業運営の透明化を進めなければならないとした上で、さらに気候変動による水資源の減少や枯渇の問題を今後受け入れ、それに対処する計画を建てていかなければならないとする。他の方法による電力事業を計画し、水力発電に依存する現状を変えていく必要がある。例えばキルギス国立科学アカデミーの地震研究所所長のカナット・アブドラクマトフは、地熱エネルギーの豊富なキルギスにおける地熱発電についてその可能性を指摘し、地熱発電所はカンバル・アタ発電所の約半分の予算で建設可能であり、周辺諸国との摩擦も引き起こさないなど、環境や政治問題を踏まえてもより効果的であると述べている。
<アブドラクマトフは実現可能性として、ロシアは水力発電事業へ注力している点から興味を示さないだろうが、中国の興味を引くことが出来れば建設事業に引き入れられるだろうと述べている。ここで日本の名前が出ない点は、地熱エネルギー大国の日本としては口惜しいところだーー>


わずかな山からの水流の先には小さいながらもデルタが拡がり、より大きな川に流れ込んでいる。こうしたところにも人の営みが行われていることを忘れるべきではない

キルギスの電力事業計画には、近隣諸国への輸出売電が大きな柱となっている。現在は豊富に見える水資源を利用して発電し、その発電事業のために周辺諸国に水不足の可能性を生じさせる事態となれば、近隣諸国が輸出売電事業を受け入れるかどうかも定かではなくなる。さらに氷河の後退により水資源不足が加速し、水力発電事業そのものに大きな支障が出て来る恐れも高い。水力発電事業に完全依存する形での現在の電力事業は、こうした様々な理由から大きな危険性をはらむものと言えるのではないだろうか。

一方、国連のLIFEプログラムと小規模融資プログラムのキルギス内コーディネーターであるムラット・コショエフは、水資源の不足から今後想定される食料生産・供給不足の問題を真剣に検討する必要があるとしている。実際には、キルギスの食料生産の問題は旧式化した灌漑システムと水資源の非効率的な利用にあるとする。
「特に小麦の生産など大規模な灌漑を必要とする中で、より水資源を効率的に、また無駄を省いて水資源を節減する灌漑システムをできるだけ早く導入する必要がある。早ければ早いほど、食料生産の安定性を確保することができるようになるだろう」
こうした問題は、もはや一国で解決できる問題ではない。より具体的な方策を考える際に、日本の知識や経験、技術をもって参加していくことができれば、と願う。

参考:
IRIN humanitarian news and analysis
Asia Plus news
Eurasianet.org
国連環境プログラム/世界氷河観測事業

報道の自由度指数に思う

先にお伝えした「報道」の自由度指数について考えながら、その本質である「ジャーナリズム=批評精神」と拡大してみたとき、ジャーナリズムの自由度が高いということはどういう事か、考えさせられた。というのも、この所日本のみならず、アメリカなどでも新聞社が経営的に苦しい立場に立たされているニュースをよく聞くようになってきたからだ。アメリカにおける地方新聞社の倒産が相次ぎ、ジャーナリストの間では第三者による政府や地方行政の批判能力が落ち、行政の質が悪化することを懸念する声も高まっている。

メディアとは器であり、媒体であるからには、技術の革新などでその姿は変わっていくべきものだ。それ故にマスメディアとしての新聞がテレビに押され、インターネットに押されていくのは必然とも言える。それによってマスメディアのビジネスモデルが変化し、ジャーナリズムの場もそれに伴い変化していくことは、避けられるものではないだろう。新聞社が潰れているという事実は、「対価」という我々の根本的な社会的基盤と、「自由な批評の機会」というジャーナリズムの本質がぶつかっている点に問題がある。


ジャーナリズムの自由度とは、確かに上述の「国家や権威主義」に対するジャーナリズムの自由度という点がまずは前提となる。<換言すれば、ジャーナリストという立場を理解し、社会や国家がその活動を阻害しないこと、となるだろうか>
この点は理解できるのだが、現在のマスメディアの利用を前提としたジャーナリズムーー1. 活動の資源が広告主からの収入で成り立つビジネスであること  2. 新聞、ラジオ、テレビ、インターネットと進化してきたが、マスメディアはあるレベルの技術的環境に左右されるメディアであることーーが高い自由度を持ち得ているかと聞かれれば、疑問を持たざるを得ないのである。もちろんここでは報道ジャーナリズムという狭義の意味ではなく、ジャーナリズムがメディアにおける批評の手段であるという、その本質的な意味において考え、広義に捉えている。
これまでは、新聞やメディアがマスメディアとして一般人の知識や社会の判断基準を緩やかに規定してきたが、今やインターネットが膨大な情報の断片を生のまま、即応的にネットワーク上に現出させるようになった。我々はーーこの記事のテーマからするとごく一部の幸運な部類に入るかもしれないがーーこうした生の情報にアクセス「しやすく」なったことは確かである。また個人が何らかの情報を発信することもしやすくなり、このように自分も何かを発信しようとしている。

このような技術的な側面から拡大した情報環境の中で、言論統制を必死に守ろうとする上述の国々や、ノーベル平和賞受賞者の報道を制限するような中国政府の人為的行動は、世界中にはりめぐされたネットワークの前ではもはや完全を期すことは不可能だろう。無論、それを保ち得るのは法的な処罰や教育 による思考の方向付けだけであり、この順位はそうした行動を反映した順位でもある。


しかし、さらに視点を移して見たとき、Raw Dataに近い生の情報へのアクセス機会が増えたという点そのものが、批評の機会の増大や質の向上につながるわけではない、とも感じるーーその可能性が広がったとは考えたいところではあるが。百科事典が生み出された時、その外部記憶としての存在意義について大きな議論がなされたというが、情報が膨大に存在し、整理され、アクセスしやすくなったとしても、それだけで我々の知が増大したわけではない。
我々の脳は、機械的な即応や既知感に対しては活発に活動しないことが既に知られている。そうした経験は雑然として深く印象に残ることは少ないし、ましてや深く読み込んで、考察のプロセスや知識を共有し、様々なものの側面を見出す手助けとなるものは稀である。インターネットが訴求する即応性や即効性は、コンピューターやウェブの百科事典的汎用性と相まって、やはりじっくりと情報を経験する種類のメディアでは(現時点では)ない。能動的に考えないということであり、受動的入力に慣れ過ぎて機械化する危険性を手にすることである。こうした受動的要素を持つマスメディアの問題は、これまでも常に問題視されてきたが、特にインターネットの膨大な情報が持つ受動という従属の罠によって、我々の思考や行動を規定し、時に利用され、様々な形で我々を囲い込み、思考の限定や停止をもたらす危険はさらに大きくなっている。


個々人がある独自の意思の下に情報を選別し、集約し、考察と批評を加えて様々な側面を持った情報へと昇華することのできる環境とはどのような状態なのだろうか。これは言い換えれば、そうした環境が社会にもたらされ、その社会的拡がりの中においてしか我々個々人が情報を得、判断し、考えることは出来ないという本質に我々を立ち返らせる問いでもある。それ故に我々個々人は社会基盤の形でのマスメディアを必要とするわけだが、それを保持し、自由度を守るのは社会を形成する個々人であり、国家や特定の一部ではない。マスメディアとその手段である本質としてのジャーナリズムは、社会の総体を映す鏡として、その内包する全てーー我々自身を含むーーの動脈硬化を防ぐために存在すると言えるだろう。その自由度を保持し、手段として用いることができるよう整備していくことは、個々人の問題なのだ。

その意味で、ジャーナリズムの自由度とは、非常に多くの側面から定まっていくものであると感じた。そして順位が高いという事そのものがジャーナリズムの質について言及しているのではないという点も、忘れてはならないだろう。