Delirious New York〜超高層というタイポロジー

忙しさが一段落したので、完璧に忘れ去られていたこのDiaryに少しは注意を向けたい。(時間が空きすぎて前回のテーマをそのまま引き継ぐのはちょっと難しくなったのと、いくつか質問されたことを受けて、まずは考えをもう一度まとめてみようと思っています。) 時間がかなり空いたので、前々回のエントリの一部を引用して始めたい。 ”リベスキンドの打ち出すコンセプトが「正しい」ものであるのか、その方向性はユダヤ人の歴史やホロコーストといった過去の<記憶>を伝え行く上で本当に意義を持つものなのか、そしてそれを建築という言語によって翻訳し、表象することにどのような意味があるのかという問いを、彼の建築そのものが投げかけてくる” リベスキンドの計画案が世界貿易センター復興計画において選ばれた大きな理由は、同時多発テロを建築によって翻訳し表象するその手腕を買われたからだと考えられる。当時はまだ復興計画に携わる人間とそれを待ち望む人々の思惑が「メモリアル」を作るという一定の方向性のもとに集約し、倫理的/道義的な意味合いも手伝って、計画にリベスキンド本来の詩的なコンセプトが反映されることが許されていた。 左:リベスキンドのオリジナル提出案/中、右:リベスキンドとディベロッパーとなったSOMが共同で修正を加え提出した訂正案。オリジナルから変更されたが、タワーの基本コンセプトである空中庭園はまだ盛り込まれている しかし、彼の案は計画が進む中で次々に改変され、今やほとんどその原案をとどめないものとなりつつある。アメリカ独立の年を示す「1776フィートのタワー高」といったわかりやすい記号性のみが残り、その覆いの下でリベスキンドの問いかけた本来の意味は骨抜きにされている。力の誇示ではないことを宣言し、メモリアルとしてのタワーとするために途中から空中庭園として、ボイドとして存在するはずだったタワー部分がいつの間にかその全体をオフィススペースの占める、復興計画における実質的な中心部分に変更された。 左:SOMによりさらに変更が進む/中、右:左の案に見られる裾広がりの形が、周辺に空きスペースを作り警護しやすくするという理由で却下、新たな案はテロ以前の建物よりも意匠としてすら後退した 現実的にオフィススペースの需要は大きく、メモリアルなどではない実利的な有用スペースを求める声が計画の初期からあったことは事実だ。しかし、そうした土地の効率利用を声高に叫ぶならば、タワーという力と富のシンボル性と今や同義となったスタイルにのみ固執する理由はもはやない。逆に言えばタワーというスタイルが、この復興計画においては扱いを間違えれば全く違う意味を発信してしまう危険性をはらんでいる。そのシンボル性のはらむ矛盾と誤解の素地は、同時多発テロを理解する上でもカギとなることに目を向ける必要があるのではないか。 ーーこのブログのタイトルのオリジナルである「Delirious New York」において、建築家レム・コールハースは超高層という建造物をカリカチュアの視点と憧憬の念の両方から描き出している。 ヨーロッパや南米、アフリカからの移民が多くを占めるニューヨークにおいて、その民族・文化の多様性は様々なコミュニティーを生み出すと同時に、時に衝突し、時に融和してきた歴史を持つ。それはコニー・アイランドに見られるようなテーマパークによって個々のオリジナルの文化と、ニューヨークの多様性の現状が可視化され、カリカチュアによる黒い笑いが現実における厳しい状況をエンターテイメントのエネルギーに変えるという、ニューヨークのパワーの一つの源となる下地を作ってきた。(例えば、ポルノの集積地だったタイムズ・スクエアが数年で親子連れの闊歩するディズニー・スクエアへ完全に入れ変わることの意味にそれは集約されている) それらの多様性がマンハッタンの狭い空間に一局化した時、それをコントロールし得るのは碁盤の目に走るアイアン・グリッドであり、とどまることを知らない一局化を許すのはその碁盤の目を空へと押し出すことしかない。初期のマンハッタンにおける高層建築は土地をそのまま空へめがけて押し出すことから始まり、やがてそれはドングリの背比べを抜け出すための更なる高層化とシンボル性を求めた形状操作に突き進んでいった。 左:Theodore Starrettによる100階建てビルの構想。有効土地をそのまま持ち上げたビルの究極。(もちろん建てられていない) 1916年のゾーニングレギュレーションによりこうした建物は建設不可能となる。右:Equitable Building, 1915. 奥に見えている建物。39階建ての、持ち上げ型ビル。巨大な量塊に圧倒される タワーとトンガリ屋根のスタイルをという一点突破の形態が高さを競い合い、それが碁盤の目の押し出しという土地の効率利用をともなって、超高層ビルは富の集積と、それを生み出す多様なエネルギーの収束していく場として認められるようになってゆく。その究極の姿が、ロックフェラー・センターであり、クライスラー・ビルであり、またエンパイア・ステートビルであり、「キング・コング」なのだ。そしてしだいに土地の効率利用という実態を超えて、様々な思惑や収束するエネルギーから象徴性や記号性をも身にまといながら、超高層建築はやがて偶像として外部から受け止められる存在になっていったのだ。 1916年に定められたレギュレーションにより、一定の高さにおける容積率などが定められた。建築パースを手がけていたHugh Ferrissは、新たなレギュレーションにより不可避となったセットバックを逆に利用して新たな高層建築のイメージをドローイングによって模索し、実際に多くの高層ビルのデザインに関わりながら多大な影響を与えた(Delirious New Yorkより) 左:Woolworth Building, 1913. 60階建ての、”The Cathedral of Commerce.” タワーというタイポロジーが近代高層ビル建築で現実化された最初の建物。右:Empire State BuildingとBryant Park Hotelの冠部分。 Madelon Vriesendrop, Flagrant delit.(Delirious New Yorkより) しかし世界貿易センターに目を移したとき、それは過去の象徴性を持った超高層建築とは異なる性質を持っていたことに注目すべきだ。実際の土地効率利用やオフィススペースとしての能力を見た時、建物のシンボル性に費やされる部分は次第に有用性を持たなくなっていったし、力や富の誇示としても「高さ」以外に示せるものがなくなりつつあった。世界貿易センターはそれらすべてをいったん別の次元に引き戻そうとした、ある意味で過去の超高層建築とは一線を画すものであったと言える。 テロ直前の世界貿易センタービル。一時世界最高の高さを獲得したが、象徴性という点では目立たない存在だった。”ツインタワー”の愛称で呼ばれ、端正な姿と双子の塔は、逆に空の広さを際立たせ、自信の存在はそれほど主張しない まず、タワーが空を指し示すことを象徴/表象化するトンガリ屋根/キャップが廃され、”アイアン・グリッド”の透明性に準ずるかのような土地の重層化を究極に突き詰めた完全な押し出し形態(直方体)が採られている。それだけでも過去の超高層タイポロジーが作り上げた「象徴性」を打ち消すパワーがあるが、この直方体を同形のまま隣にコピーしミラーイメージとすることで、「唯一無二」と宣言することがテーマの超高層タイポロジーの象徴性を否定、あるいは”宣言すること”自体を無意味化するかのような態度を示した。(高層建築のツインタワー化はその後タイポロジーとして定着した)そしてまた、鋼鉄とガラスの可能性としてのモダニズム高層である6th Avenueやパークアベニューのビルの数々(ex. ミースによるシーグラムビル)とも一線を画す、鋼鉄の固まりであることを感じさせない表皮=カーテンウォールの扱いも、建造物の象徴的あるいは物質的な存在のどこにも焦点を集めさせない。もちろんアメリカ経済力の在処としてのシンボルとして捉えられてはきたが、世界貿易センタービルは何物かの象徴となることをその物質性と肉体においては静かに否定していたとは言えないだろうか。 X, Y, Z Buildings, 6th Ave. ロックフェラーセンターに戦後加わった追加ビル群。マンハッタンの高層ビル文化を受け継がない、ある意味で世界貿易センタービルの原型となった高層ビル群といえる(Delirious New Yorkより) それでも、前回の世界貿易センター爆破事件を含め、繰り返しテロの標的になった。以前の意識ならば、キングコングが上り詰めるのは、頂点のはっきりした、唯一無二のエンパイアステートビルでなくてはならなかったし、「ディープ・インパクト」で地上に崩れ落ちるのも、クライスラービルの冠である必要があったわけだ。(実際、世界貿易センタービルがそうした象徴として捉えられることはあまりなかった)そうした中アル・カイーダが、象徴性以上に世界貿易センターの実効性とその無効化による効果を計算にいれてこのビルに対するテロを幾度も実行に移したことは、単なる憎悪の発露といったレベルを超え、アメリカ人のみならず一般人が普通に考えるアメリカの象徴(例えばエンパイアステートビルやホワイトハウスなど)への攻撃とそれによる精神的ダメージという想像可能なレベルを超えた、二つの超高層ビルへの波状攻撃をTVスクリーンのフレーム内で効率的に視覚化し、イラク戦争後に現実化した”混乱状況の現出”に通じるさらに高次のカタストロフの視覚化を目的としている点に注目しなくてはならない。そしてメディアというフィルターを通して事件を知る我々は、超高層ビルのような定式化したタイポロジーが”望まずとも”提示してしまう象徴性が、今やいくらでも受け手によってイメージ操作され別種の象徴として発信されてしまうほどに中途半端なものとなり、可能性を持ってしまったということをもっと真剣に受け止めるべきだ。そうした制御の範囲を超えた象徴性の扱いの難しさがさらに増す中で、表面的に象徴としての世界貿易センターを復興させようとリベスキンド案を翻し、明らかに前時代的な案へ改変している勢力のテロの理由や現状に対する認識の甘さには危機感を覚える。 (クリックで拡大)レム・コールハース率いるOMAによる、北京に計画中の中国中央電視台本社ビル。超高層というタイポロジーを抜け出し、プログラムの詳細なリサーチと形態スタディを繰り返した末に生み出された新たな都市建築は、高さ競争などによる示威行為をはるかに超えた強烈な存在感を生み出し、都市とその多様性そのものを内包させる容れ物としての都市建築を実現させる。右はループする建物の内部に従来の超高層とは違ったプログラム配置がされていることを示すダイアグラム(designbuild network.com/JA OMA CCTVより) リベスキンドのみならず、多くの設計競技参加者が提示したメモリアルという”方法”は、だからこそそうした対立やそれに対する反抗を求める構図となりかねない力の示威としての(もちろんそれが復興への意思と希望だと100歩譲って認めたとしても)超高層タワーとそうした象徴性の利用とは別の次元をそのコンセプト自体が作り出す可能性と多様性の幅を持っている。現在の案では地上メモリアル部分がタワーの存在に従属する程度の規模に抑え込まれ、多くの建築家の参加によってまるで湾岸戦争多国籍軍のようにイメージ戦略で逃げ切る構えを見せているが、リベスキンド本来の、タワー部分そのものが高層になればなるほど空洞化し空中庭園となることで、示威行動として空を目指す従来の超高層建築となることをその起源から回避し、テロへの敵対対抗ではない、別の出発点からのより豊かな未来への希望としてのタワーというコンセプトは失われてしまった。 何のための設計競技だったか、参加者が提案した多くの案がどのように受け取られ、扱われているのか、我々が知ることは今以前にも増して必要になってきている。幾度かにわたって競技参加プランをとりあげてみたい。

閑話休題

最近忙しさにかまけて更新不足なので、写真を何枚か。  道に、無造作にガラスが捨てられていた。板ガラスを、地面に捨ててから割ったのかもしれない。断片となった一つ一つの破片が、地上と空を微妙に違った角度で映し出していたのだろう。  校舎の壁面が青空の下夕日に浮かび上がる。直接の光ではなく、別の校舎の反射する光をその淡い石の模様の上に受け止めていた。そこに偶然木々の影が重なり、いくつかの出来事が一つの場面で出会う光景に立ち会うことになった。 なんだか光の樹。 古く緑青の浮き出た銅の門扉にも、柔らかな夕陽と木々の陰影が淡く投げかけられていた。時の流れを感じながらも、それが一瞬停止するかのような午後。

西洋建築史再考~3. リベスキンドの描く世界

今回は、前回最後に引用した磯崎新の言葉から始めてみようと思う。 「庭園を<自然>の虚構として構成した時代から始まって近代と呼ばれる知の一つの形成が波紋のように世界を何度か襲ったあげくに、その虚構をあらためて虚構として描くほかに採用する手段の無い時代を私たちは生きさせられている。記号が実態から剥離して時元と位相をかえて操作可能になるべく再配列させられている。その記号の波のさなかに投企される新しい記号はあくまでも、揺らぎを起こし、波紋を増幅するだけなのだが、それが、オーバーレイされたマルチスクリーン上の映像のように、際限のない振動を続ける。それ故に…18世紀中期に始まる<建築>の危機も、その危機の内容こそが実像であって、それを説明する諸事実は、スクリーン上の映像のように、流動し点滅せざるを得ない。”廃墟図”というクリシェも異なる文脈の中で意味を変え、しばしばレトリックとして政治的な作動をする。それが未だに有効な手段にしうることにこそ実は注目すべきであって、この虚構を虚構として描く時代がやはり、あの18世紀中期の”危機”に始まる近代の連続である証拠の一つと言えるのだろう」 ーー過去を<イベント>の蓄積とその記録として客観性を与え、<歴史>として解釈や引用の自由を得たかにみえる<現在を生きる我々。> もちろん、そうした事実とされる<イベント>を再定義し体系化していくことが過去を可視化し、認識し、イベントの連なりを見いだす指針になることは確かだ。しかしそうして再構成されたものは、我々が取り上げ、解釈し、引用する過程においては記号としてその意味するところを限定され、また実態とは異なった意味や物語性を与えられる危険性をはらむ。ではその定義化/体系化を促す推進力となるものはいったい何なのか。そこでは常に外部からの影響力が及び、認識の歪曲が起こる危険性を常にはらんでいる。あるいは逆に体系化の隙間をこぼれ落ちていった見えない事象は、現在と未来に影響を及ぼすすべを全く失ってしまうのだろうか。その取捨選択を行う理由は、権利は、能力は、現在の我々にあると言えるのか? この写真を掲載することもはばかられるところではある 我々は同時多発テロやホロコースト(あるいはヒロシマ、その他多くの過去の記憶)をメディアの目を通して「理解可能な物語/体系化された歴史の流れ」として知り、それらを過去のものとして距離を保ったまま安全な場所から眺めながら、過去を記録として固定し<現在の我々>との関わりを知らず断ってしまうことに加担しているのではないのだろうか。 <現在>の我々が過去を扱う難しさと責任は、重い。 前々回は Jewish Museum Berlinを紹介したが、その理由はリベスキンドのコンペ案が世界貿易センター復興計画案として採択された経緯には、彼がユダヤ人であり、その文化的背景を色濃く反映させることで完成したJewish Museumの存在が大きいからだ。ユダヤ系移民の多いニューヨークでは、彼の背景とJewish Museum誕生の経緯を、同時多発テロと復興計画に重ね合わせたいところがあるとは考えられる。 しかし上でも述べたように、リベスキンドの作品やプロジェクトを読み解く中で、彼のユダヤ人としての生い立ちや経緯に重点を置き、彼の使命や創造の源泉の在処を問うことは、彼のプロジェクトの想起や展開をうかがい知る手がかりとなることは確かだろうが、同時にそれのみを注視すると彼のプロジェクトの持つ可能性や問題提起の視点を限定してしまう可能性があることも明記しておく必要がある。 リベスキンドのプロジェクトに限らず形式を踏まえたところで活動することを余儀なくされるポストモダニズム全体に言えることだが、リベスキンドの打ち出すコンセプトが「正しい」ものであるのか、その方向性はユダヤ人の歴史やホロコーストといった過去の<記憶>を伝え行く上で本当に意義を持つものなのか、そしてそれを建築という言語によって翻訳し、表象することにどのような意味があるのかという問いを、彼の建築そのものが投げかけてくる。もちろんそこには何を可視化し、建築の肉体としてゆくのかという問いも当然生まれ、ポストモダン的記号論に対する批判と同様にリベスキンドのテーマの取りあげ方と取り扱いに対する批判ともなっているが、リベスキンドはそうした誤解の可能性や拒絶反応をも含む数多くの過去と、我々の過去への関わり方ーー目に見えるだけでなく、記憶、思考、感情/詩性といった不可視であるものも全てーーを新たな言語によって再構成し表象する際のテーマとしてコンセプトの想起プロセスに内在させ、歴史的形式や定型化した建築言語によって表象されてきた「建築」を解体し、知と記憶の融合と構築を模索する新たな肉体と精神を建築として創造しようとしているのではないか。我々は抽象性という言葉を容易に使うが、その意味するもの、抽象性がもたらす影響とは何かを問うことで、彼は<過去の記憶>という、”客観的事実の記録ではない過去”に向き合う意味を我々に再考させる。 脱構築主義という運動は、ある意味でこうした様々な批評/解体活動をすべて盛り込むことを目指し、実践しようとした、不安定で転覆の危険をはらんだ運動であると言えるかもしれない。その上さらに過去の歴史や記録、あるいは記憶をも取り込み、建築がそれらを記述する言語として、あるいは空白、不可視なもの、無意識といったものさえわれわれに認識させる可能性の言語として、脱構築主義はあった。その意味では、磯崎が語るように、脱構築主義は「記号が実態から剥離して時元と位相をかえて操作可能になるべく再配列させられている。その記号の波のさなかに投企される新しい記号はあくまでも、揺らぎを起こし、波紋を増幅するだけなのだが、それが、オーバーレイされたマルチスクリーン上の映像のように、際限のない振動を続ける」という<状況>を現出し、そうして可視化された建築の肉体性は常に解体し変容し続ける運命を背負っている。 次回は、実際にリベスキンドがどのように不可視なものを扱うかについて、いくつかの例を取り上げながら見ていく。

西洋建築史再考〜2.モダニズムとポストモダニズム

前回を引き継いで、今回はモダニズムとポストモダニズムの関連について考えてみようと思う。 西洋世界の長い歴史の中では、社会や文化を根底から覆すに至る変革や革命を促す事件が時に起こってきた。時の権力や体制は社会的な中心として求心力を持つものをわかりやすい形で提示する責務に駆られる。こうした時代の変化の中で、建築は社会体制/権力の確立を可視化するために利用された。それはその体制や社会に於ける新たな言語の模索の一環であり、建築はその中でも最もはっきりと多くの要素を可視化しえる言語である。 ではモダニズムとポストモダニズムを差異化するものは何だろうか。 前回見たように、モダニズム期には社会体制やその中核を担う人々が急速に変化し、また同時に新しい素材や技術の革新が進んだ。古い体制を革新することで生まれた新しい社会では、人々は新たな世界を体現できる自らの正統を目指すために、過去の遺産である形式や様式を再製することは望まない。そこで意識的にもたらされた言語の空白は、白紙から何かを生み出す期待と、未完である未来の世界をユートピアとして空想させる自由をもたらし、新たな技術の持つ可能性と相まって無限の自由を手にしたかのように思わせる魅力を放っていたかもしれない。また、過去の形式からは建築の根本にある普遍性を持った要素を抽出し学び取る合理性をも得る事で、形式の持つ様々な付随要素ー神聖性や権力性ーの呪縛からは解放されつつも、抽象性や純粋性を表現し新たな正統となり得る素地を手にしていく。ここで人々は未来という新たなベクトルをその視線の先に見いだすことが出来た。モダニズムは希望の時代であり、その輝きそのものが正統性を担った時代であったのだ。 しかし技術革新の行き着いた究極は二つの世界大戦である。ユートピア思想は幻想として廃墟を前に力を失った。ポストモダニスト達はここにモダニズムの求めたものの限界と終わりを認め、この廃墟に建築の未来の姿を見いだす負の視線をもって歩き始めている。 フィリップ・ジョンソン、「Glass House」1947. モダニズムとポストモダニズムの両方の言語を用いたかに見えるフィリップ・ジョンソンも、最もモダニズム建築を体現しているとされる「Glass House」について語ったとき、そのインスピレーションを爆撃で破壊され基礎や骨組みをむき出しにしたヨーロッパの市街から得たと暗にほのめかしている。彼は後ほどポストモダンに移っていくが、あるいはもともとそういったポストモダン的思考によって建築に取り組んでいたのかもしれない 社会や一般の人々へ還元されるべく目的を定めていたモダニズム本流の活動も、様々な壁に突き当たりながら次第に求心力を失っていく。例えば、ミースの求めた抽象的な純粋性は、建築の肉体性を解体し尽くし、霧散させてしまうために、実践や実用の観点からは広く受け入れられなかった。(その思考方法はポストモダニズムの中に吸収されていくことになるが)建築の純粋性に不必要であるとされその過程で削ぎ落とされていった様々な要素は、ある意味でわかりやすい一般性や人間性を反映するものでもあったのだ。 そうしたミースの方向性に対し、コルビュジエは我々人間にとっての建築の機能性を求める方向性を取りモダニズムが社会に受け入れられていく先駆けとなったが、彼の生み出した原型が現実社会で複製され乱造される中で、機能の単純化をコストダウンの方法にのみ集約したために人間性や本来の機能性を求める姿勢を次第に失い、無機質な建造物で都市をあふれかえらせる循環に陥ることになってしまう。 後に世界貿易センターを設計するミノル・ヤマザキにより設計され、1951年に完成したセントルイスの高層アパートメント「ブルーイット・アイゴー団地」は、コストや機能性などに考慮したモダニズム建築であったが、住み心地や使い勝手に対する住民の不満は高かった。低コスト住宅としてしだいにスラム化し犯罪の巣窟となったために、最終的には住民自身の手で、1972年7月15日ダイナマイトで破壊された。モダニズム建築の終焉を象徴する事件として記憶される ーーモダニズムとそれ以後について考える時、その語が示唆するようにポストモダニズムがモダニズムそのものに対して何らかの変化を目指したものと考えることはたやすい。しかし、ポストモダニズムの様々な手法や方法論を見渡すと、それらがモダニズムの目指したものと直接対峙しているというよりは、モダニズムの活動をルネッサンス以降西洋に於ける正統と考えられてきた古典主義的精神の回復運動の一つとして捉え、西洋美術/建築史で時に見られた、そうした正統主義に対しての反応/反動活動であると考える事もできる。 例えば歴史に於ける変化は、新たな正統となろうとする求心的な動きによる場合と、中心を担う正統から次第にずれていく分化、あるいは異化といった変化とに分けられる。前者の場合、用いられる言語は既に正統と定められ一定の訴求力をもった形式や様式を再現するか、またはそうした過去と決別し得る大きく異なった新言語を求める。過去の正統の再現、そして未来に向けての正統となるべき宣言であり、ルネッサンスやモダニズムの求めた方向性だ。 対して後者のような変化は、正統とされるものの周辺で、あるいは正統に対する外部よりの影響力によって起こる。そこには正統とのずれが存在し、そのずれによって異化が表出する。ずれが極大化すれば、新たなスタイルとして分化する可能性もあるだろう。ここに、モダニズムに対してのポストモダニズムの意義を考えるポイントがあるのではないか。 ジュリオ・ロマーノ、「パラッツォ・デル・テ」1526-35.  力を失いつつあった教皇のローマは1527年、「Sacco di Rome」と呼ばれる破壊と略奪を受ける。中心を失いつつあった時代背景の中で、パラッツォ・デル・テは正統建築要素からの異化と逸脱を駆使し逸楽の館として作られた。左:中庭から東側ファサードを見る. 普通、パラッツォは2階建て以上の建物であり、2階部分(ピアノ・ノービレ)が主生活空間なのだが、ここではピアノ・ノービレ(列柱飾りのある面)が下にずり落ち、地階(ルスティコ/粗い石組み部分)にスーパーインポーズされている。逆に、ペディメント(ゲートの上の三角部分)の内部にルスティコが侵入している。右上:列柱の中間の格間(列柱上の水平部)からトリグリフがずり落ちている。右下: 西側ファサードのペディメント。中央のキーストーン(アーチを固定する中央の石)が肥大化し、バランスをとるはずの要素がバランスを崩している 事実、ポストモダニストの多くが参照するのは、ルネッサンスによる古典の再定義化/中心化という主流から離れ、異化していく中から生まれたマニエリスム、また建築要素の装飾化が進んだバロック/ロココ様式に対して18世紀中頃起こった古典主義復古活動のNeo Classicism (新古典主義)の中に生まれた変種的スタイルである。 ごくごく手短かに言えば、前者の建築におけるマニエリスムは ”古典主義によって定義化された美しいとされるプロポーションを歪め、引き延ばし、黄金比のようなバランスを崩してまでも要素の対置によるダイナミズムや新たなスケールへの対応を目指した手法” である。 また後者のNeo Classicismは、古典主義復古の運動として始まりながら、フランス革命の気運の高まりに乗って新たな社会の創造としての建築が模索される中で数々の独創的なプランを生み出したことで知られる。その多くは実現されることはなかったが、古典主義の表現言語を受け継ぎつつ新たなプログラムや社会性を体現する建築を目指したために、しだいに古典主義の表現言語やプロポーションそのものに対する大胆な翻訳/変容が提案された。こうしたNeo Classicismの活動は後に起こる市民革命や産業革命の中でその意思を受け継がれながら、モダニズム、あるいはポストモダニズムにも影響を与えていったと言える。 エティエンヌ・ブレー、「ニュートン記念堂」1784. プラトン立体を用い理想空間を形象化しながらも、その空間に抽象性を充溢させることで自然物理学を体現し、かつ体験し得る新しいプログラムを提案している新古典主義の変種 クロード・ニコラ・ルドー、「モーペルチュイの畑番の家. 球のような純粋形態を一般人の家に用いるという大胆な試みがなされた。 では、ポストモダニズムとはいったい何なのか。 ポストモダニストの立場は、マニエリスムや新古典主義に見られた、正統/本流から距離を持つ視点によるそれら正統の客観的な読解と、距離を認識した主観に乗って読み取ったものを解体し、再構築していく異化を伴う行為とその手法をまずは踏襲すべき位置にあった。歴史的形式としての、実態を伴った形としてのモダニズムはそうしたアプローチによってなんとか消化し得るかもしれない。しかし、激烈な近代という記憶をどのように捉えるか、また捉え得るのかといった問いの狭間で揺れ続けてもいる。モダニズムのような正統への希求行為も、またそれによって取捨選択されとり残されていったものをも同時に、また同列に受け止める中から始める責務を負ったポストモダニズム。正統の意味するものは宙づりにされ、モラトリアムや停滞すらが活動としてにじみ出る。立ち位置すら距離や差異を意識させる所にあり、異化を強調することでしか存在意義を表象し得ない。現代にとって過去の建築は形式・要素の墓場であり、それらを解体し再構成して出来上がる建築は廃墟を見据えることで実存の意思表示を拒否しながら過去・現在・未来の狭間に漂流する。それがポスト・近代の生き方であるとポストモダニズムは語る。今や建築は何物かを体現するために何かを読み、記述していくメディアとしての方法を、不可視で、無意識の彼方に広がる、あるいは記述不能である記憶の領域まで拡げる責務を負ったのだ。 左:ジョセフ・マイケル・ガンディ、「イングランド銀行廃墟図」1830. 右: 磯崎新、「つくばセンタービル廃墟図」1983. 当時イギリスで起こったピクチャレスクは、意図的に設計された廃墟を人間の手で疑似再現された自然内に点在させ、虚構の自然を作り出した。イングランド銀行を手直しした建築家サー・ジョン・ソーンは自らの建築が遺跡のように発掘される様を描くことで、古代建築の崇高さ、アルカディア的な理想モデル、パラディオの明快な空間秩序に比すものと宣言しようとした。磯崎はそれを手法として用いている。 磯崎新は上述の廃墟図に関して次のように語っている。それは、あるいはポストモダニズムの存在意義を言い表しているように思える。 「庭園を<自然>の虚構として構成した時代から始まって近代と呼ばれる知の一つの形成が波紋のように世界を何度か襲ったあげくに、その虚構をあらためて虚構として描くほかに採用する手段の無い時代を私たちは生きさせられている。記号が実態から剥離して時元と位相をかえて操作可能になるべく再配列させられている。その記号の波のさなかに投企される新しい記号はあくまでも、揺らぎを起こし、波紋を増幅するだけなのだが、それが、オーバーレイされたマルチスクリーン上の映像のように、際限のない振動を続ける。それ故に…18世紀中期に始まる<建築>の危機も、その危機の内容こそが実像であって、それを説明する諸事実は、スクリーン上の映像のように、流動し点滅せざるを得ない。”廃墟図”というクリシェも異なる文脈の中で意味を変え、しばしばレトリックとして政治的な作動をする。それが未だに有効な手段にしうることにこそ実は注目すべきであって、この虚構を虚構として描く時代がやはり、あの18世紀中期の”危機”に始まる近代の連続である証拠の一つと言えるのだろう」

西洋建築史再考〜1. ポストモダニズムまでの西洋建築史

リベスキンドの一連のプロジェクトは、「脱構築主義」というスタイル(形式ではなく)にカテゴライズされる。本来、脱構築主義は定型化し形骸化した(故に問いかけることなく乱用される)建築の言語、形式などを解体し、問い直す過程が建築プロセスとして視覚化した、批評を内包した方法論である。(哲学者ジャック・デリダが言語において提唱し実践しようとしていたことに影響を受け、連動する形で建築においても実践された) 脱構築主義を掲げ活動する多くの建築家は、ロシア構成主義などのモダニズム創成期に興った、過去に対する批評的な方法論やその実践、またその創造のエネルギーや社会への関わり方に大きな影響を受けた世代であり、その主義主張を受け継ぐ形で彼らは形骸化していった過去の形式/様式に対しての批評的方法論としてその活動を興している。脱構築主義という命名は、(上述したように)この運動がまず過去の建築とその成立様式を読み取るために形式における様々な要素を分化/解体し、それを批評/翻訳する行為に由来するはずであった。 今回はここで脱構築主義について見てみる前に、その活動の前提となっている、西洋における建築の成立と、ポストモダニズムに至るまでの経緯について駆け足で再考してみようと思う。 ヨーロッパが西洋文明として成熟していく中で、その成熟の度合いと強度を示すものとして建築は成立していった。ギリシャ・ローマで成立した古代の建築様式はいったん歴史の水面下に影を潜めたが、宗教と権力を体現しながら中世のゴシック建築は技術的/美術的観点において最初の頂点に達する。 その後ルネッサンス期に透視図法の発明により、幾何学に基づくプロポーションの純粋性や透明性が空間において実現されるようになる。それはギリシャ・ローマ建築様式の純粋性を再発見することにつながっていった。中世までに確立された建築技術や形式を吸収し、それまでのプロポーションの再考がなされ、目に見える装飾要素や表現方法を置き換えていった。クラシック形式/様式(古典主義/Classicism)として体系化されながら急速に浸透し、いくつかの反動運動を招きながらも産業革命前後まで続く。 Piero della Francesca and Luciano Laurana, “View of an Ideal City.” 1460. 透視図法で描かれた空想上の理想都市。透視図法によって建物のプロポーションを求め、パースペクティブの消失点に建物の中心がきている 次第に装飾的性格に論点が移り建造物の純粋性や透明性の議論から離れていったていったClassicismは、修辞性や象徴性を表す徽章の役割を持つものとして再び広く社会的な利用がなされるようになる。(Neo Classicism。最たる例として、後にナチス・ドイツはClassicismを国家の理想の象徴として利用した) しかし、国力の高まりを目指す中次第におこっていった産業革命は、新たな素材や技術を次々に生み出しながら、それらが社会に還元される中で労働者革命をも引き起こして、急速に社会を変革していった。技術的な革新が労働者革命の描くユートピア思想に盛り込まれていく過程から、必然的にモダニズム運動が起こってくるのである。 モダニズム運動においてまず求められたのは、建築の技術的/表現的パフォーマンスを根底から覆し拡大する新たな素材と技術を手にした上で、どのような建築が可能なのかを模索することだった。ガラスや鉄などの工業マテリアルは、石造りの重厚で不透明な壁によってのみ可能だった大規模建築を、軽く透明な素材で作り出すことを可能にした。そうして生み出された新たな建造物は、Classicismの修辞的/象徴的/装飾的性格に対して強い疑問を投げかける。 セント・ピエトロ寺院のプラン断面図。左は最初の設計者ブラマンテのもの、右がミケランジェロのもの。分厚い壁をカットして現れる黒塗りの部分を「ポシェ」と呼ぶが、ブラマンテはポシェを描くことから設計を始め、細部のディテールを建物のmassに集約し、肉体化していった。内部空間よりも、建築の肉体性の地位が高くなったことを示す ここでモダニズム運動のとった行動は、ルネッサンス期になされたギリシャ・ローマ建築の純粋性の再発見が建築の再考につながっていったことに習い、まずは「重力に抗い建ち上がり、そこに内部あるいは外部空間を創出する」という建築の原点に回帰する活動であった。 モダニズムの騎手の一人であるル・コルビュジエは、ギリシャのアクロポリスに建つパルテノン神殿の姿に建築のオリジナルとしての姿を見ている。それは、神聖域として定められた水平面を地面上に作り、その聖域を列柱によって取り囲み、またその列柱によって聖域を覆う屋根を持ち上げた、最も基本的でありながら原点であるべき建築の姿であるとしている。そして、コルビュジエは水平なスラブ(床)を地面に置き、もう一つの水平スラブを柱によって持ち上げることで内部空間を生み出す「ドミノ・システム」という建築の原型をまず宣言した。こうしてサンドイッチされた内部空間は自由に設計することができ、装飾要素以前に空間の性格を考え得る基本言語を作り出したのだ。 ル・コルビュジエの「Dom Ino」(ドミノ)システム。水平スラブを「持ち上げ」2平面の間に自由空間を作る。これにより「壁」によって立ち上げていた今までの建築から壁を解放し、自由な壁の配置、そして建物の表皮が自由になる ヘーリット・T・リートフェルト. シュローダー邸。壁はmassというより面として捉えられ、空間において自由に拡散/配置され、素材とその大きさ、厚み、透明性、色等様々な意識化/可視化された壁の違いによってその存在意義が定義された。真ん中はテオ・ファン・ドースブルグによるドローイング「反構成」 もう一人の旗手ミース・ファン・デル・ローエは、コルビュジエの原型に近い考え方を持っていたが、原型というオリジナルに回帰するというより、原型の持つ透明性、純粋性という性格を始点、あるいはゴールに定めている。ミースは「Less is more」という方向性を建築に求めた。では、まずここでの「Less」とは何を意味し、表しているのだろうか。 ガラスや鉄などの工業マテリアルを用いることで物理的な透明性を獲得するのみならず、グリッドの均質空間に数学的規則性やプロポーションバランスを体現した抽象空間を作り出すことを求め、意識と認識における透明性をも獲得しようとした。 Mies van der Rohe、イリノイITT Crown Hall, 1950~56. 対称性、均等性などから無限に繰り返すグリッドの抽象性が想起される。こうして水平スラブの空間が形而上的に無限に拡がり、拡散していくエントロピーを夢想させる ミースの目指したものは、この二つの透明性の形而上の認識による空間を限定する建築の消失=エントロピーであり、一つの建築の解体であったと言える。この流れを汲んだ、グリッド、フレーム、パターンなどを多用し反復させることでエントロピーを目指す建築の解体方法も、ポストモダニズムの一スタイルとして力を持っていく。 シェルピンスキーのスポンジ/四角形の側面の穴は、その1/3サイズの8つの穴に囲まれている。それら8つの穴も同じ法則で8つの穴に囲まれている。その操作が無限に反復される結果、全体積はゼロに近づきながら逆に全側面面積は限りなく増加していく。そうしてこの立方体は二次元と三次元の立体の狭間に存在することになる 次回、ポストモダニズムと脱構築主義を取り上げる。

ダニエル・リベスキンド〜1. ベルリン・ユダヤ博物館

グラウンド・ゼロ計画コンペで採択されたダニエル・リベスキンドの案。今回はまずこのリベスキンドが一体どのような人物かを探るとともに、ユダヤ博物館を取り上げる。 リベスキンドは1946年、戦後のポーランドで生まれた。ベルリンからわずか数百キロ東のウッチという街だ。事実、ユダヤ人の家系であるリベスキンドの家族は、そのほとんどを戦時中ホロコーストによって失ったという。しかし彼の父はホロコーストを生き延び、リベスキンドは生まれた。自身の存在を自らの意志に関わりなく規定し、またこれからも規定し続けるであろうホロコーストの記憶は、彼のみならずすべてのユダヤ人に、またすべてのドイツ人に求心力を持ち続けるだろう。そしてそのような過去を生み出した「場」は、それを消し去ることなく内包したまま、現在、そして未来へと存在し続ける。現在に生きる我々は、どのように過去の記憶やそれを内包した空間に向き合い、その認識を現在へ、また未来へ向かうベクトルへと変えていくのか。その問いかけは、彼の作品やプロジェクトの想起に強い軌跡となって立ち現れている。 彼の父はリベスキンドが生まれた後イスラエルに移住し、リベスキンド自身はイスラエルで作曲を学びながら、1965年にアメリカ国籍を取得している。アメリカに移住後さらに作曲を学んだが、その後音楽を離れ、ニューヨークのCooper Unionで建築を学んだ。現在はロンドンに拠点を移している。 奇しくも1999年の9月11日、リベスキンドが設計したJewish Museum Berlinがオープンした。彼はこのコンペに際し、「Between the Lines」というコンセプトでプロジェクトに挑んでいる。それは果たして、どのような内容なのだろうか? Jewish Museum Berlinの中庭から外壁とそれに続く空を見上げる “Between the lines.” ”I call it this because it is a project about two lines of thinking, organization and relationship. One is a straight line, but broken into many fragments; the other is a tortuous line, but continuing indefinitely.” 上のドローイングには、いくつかのテーマがメタファーとして埋め込まれている。 記憶を内包した「場」には、目に見えずともさまざまな影響力が作用し、その作用の拠り所をたどる行為が軌跡としてこの場において出会い、時に衝突し、時に反発し、時に融合しあう。リベスキンドはいくつかの強い影響力を持つテーマをすくい取りながら、同時に、場に満ちている目に見えない、言葉によって表すことのできない数多くの影響力の存在している事実をいかに表象するか模索している。 例えばこのドローイングには、まっすぐでありながら細かく途切れた線と、蛇行しつつもどこまでも続いていく線が、「思考/構成/関係」といったテーマを表している。さらにその上にはユダヤ人の象徴であるダビデの星が、この場を満たす記憶と、ホロコーストの事実を語るmatrixとして重ね合わされる。星型はこの土地から去っていった、あるいは連れ去られたユダヤ人達の行き先によって歪み、崩れていったのだ。 “Architectural Alphabet.” その上で彼は「Architectural Alphabet」という上のドローイングにおいて、常に作用する外部からの力、あるいはそれに対する内部からの反応を「連続」し、「継続する」空間表象の可能性としてアルファベットという「一連の」言語として構成することを試みている。これらは実際に3次元空間に建ち上がる建造物の構成言語として利用された。そのため、建ち上がったJewish Museumという「プロジェクト」は、この場所に特定の過去の記憶を現出させながらもそれをシーンとして固定する(従来の美術館/博物館のような)ことを拒み、常に連続し継続する流れと変容のエネルギーに満ちた空間として現れる。そして展示順路の最後には27mの高さに及ぶコンクリートの空隙が上部からのみの自然光に沈み、訪れるもを吸収し、あるいは「時」の中に拡散する… 内部空間。左は二本のラインの空隙を進む階段「継続の階段」と、その空間に切り込む軌跡が構造体として見えている。右は「Holocaust Void」へ通じる最後の経路 内部展示室。数々の「記憶」と、変容と連続性を強いる空間の連なりが床、壁、天井のあらゆる部分に表出する プロジェクトのプラン図。ダイアグラムとしての、あるいは付記や注釈等がこのサイトに存在するinvisibleな力として描き込まれている 建ち上がるものはmassとしては固定されつつも、絶えず作用する影響力の軌跡がmassを刻み付け、変容し続ける可能性をはらんでいる。現在の空間に存在しながら、過去の記憶と、未来へのベクトルを垣間見せながら常に揺らぎ振幅し続ける存在。リベスキンドのプロジェクトには、物体としても、また我々見る者の内部に映し出される精神の像としても揺れ続ける。 Museum本館のプラン。ゆがめられたダビデの星、二本の線の間に取り込まれ、空間に満ちた限りない記憶が建物の要素となって現出する Jewish Museum Berlin全景。隣にあるバロック様式の建物はプロイセン時代の法廷「Kollegienhaus」で、リベスキンドはここをJewish Museumの入り口に定めた 道路側ファサード。隣接する法廷建物は異質なる姿を見せるものの、建物スケールや建物に刻まれた”亀裂”のスケールは連関性を保っている

Ground Zeroプロポーザル 〜4年の後に〜

グラウンドゼロ跡地の計画コンペでダニエル・リベスキンドの案が採択されてから、3年近くが経つ。 全米、そして世界中がニューヨークの象徴であった世界貿易センターの復興への連帯感を強める中、リベスキンドの案は非常な好意と期待を持って受け止められた。「フリーダム・タワー」と名付けられた、アメリカ独立の年をその高さとする(1776フィート/541メートル)メモリアルタワーを中心とした彼の案には、テロ直後に出された機能的に現実的だが事件の記憶をとどめるには凡庸で印象の薄いいくつかの計画案と違った、未来への期待を抱かせる強い意志が込められていたのだ。 最初期の計画案。過去のタイポロジーをバリエーションとして取り上げただけで、テロの記憶をとどめるメモリアルとしてのイメージはない。誰が見ても凡庸と感じられるとして、知事や市長を含めた計画当局から却下され、コンペのやり直しが命じられた この第2次コンペには第1次コンペと違い世界中から多くの建築家が参加した。グラウンド・ゼロはニューヨークとアメリカに限られたテーマではないだけに、多くの参加があること、さまざまな案が提案されることそのものに意義が生まれる。テロの事実と記憶に対峙するアプローチとして、また現在を生きる我々の未来への展望と希望として、建築は新たな言語となり得るのだろうか。 これから幾度かに分けて、さまざまなコンペ案を紹介していくつもりだ。 ダニエル・リベスキンドによるコンペ採択案。現在のプランは大きく変更され、この姿をとどめていない。

「普通の道」にて思う

「地図」という言葉において、図は道とその境界を表し、地をその境界に生み出す。 人は生きるために常に何処かに向かい、辿り着こうとする。道はその指標であり、何処かへ辿り着けるだろうという希望でもある。「初め地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」と、魯迅は言った。道は途中とどまるための駅/宿場を次第に周囲にまといながら、「図」の部分を埋めて行く。そしてさらなる道が、他の目的地へと辿り着く道が生まれていく。 やがて寂れていく道もあるだろう。人通りが途絶え、とどまる人の絶えた道、そして取残された路傍の建造物。それでも道は過去へ通じ、還るべき人を待って静寂に沈む。朽ちている壁が、時の経過を刻んでゆく。 マンハッタンのBroadwayは、ネイティブインディアンの通う道であったという。アイアングリッドを切り裂き、飛び地を生み出しながら、過去と現在が交差する。そして今世紀、人々は目的地を空に定め、高層ビルは新たな次元へと伸びていった。 地上の道から遠く離れ、やがて足下を見失いかけた。地上から見上げる空は、壁に遮られて見えなくなっていた。わずかな隙間から射してくる陽の光は、辿り着く所の未だ遠いことを物語る。それでも、そのわずかな光を受け止めた瞬間が、未来へのベクトルへと変わっていく。 やがて辿り着く場所は、到達点というより、”home” であることを望みたい。「ただいま」の声に、「おかえり」と応える声を求め、信じながらオデュッセイアは旅を続けた。 自らが求め、自らを迎え入れてくれるゲートは、何処かに、もしかしたら見逃しているすぐそばに開いているのかもしれない。

攻殻機動隊シリーズの魅力

今では世界中でカルト的人気を誇るようになった映画監督押井守が、漫画家士郎正宗のコミック作品をもとにすでに2作のアニメ映画を作った。アメリカでもビデオ売り上げ1位を記録し、多くのフォロワーを生み出してきた。今回は「攻殻機動隊〜Ghost in the Shell」コミック版、テレビシリーズ、映画版、そして映画版2作目の「イノセンス」をもとに書いてみようと思う。 コミック作者の士郎正宗は、エンターテイメントとしての枠を保ちながら、人間の精神活動を抽象的な存在としてではなく、様々な形で具象化することを試みている。近未来に訪れるであろう身体のサイボーグ化と、それに伴う精神と肉体のさらなる乖離を描くことで、普遍的な問いである人間の精神と肉体の関係がいったん解体され、問いとともに組み直される。 主人公は高度な身体能力を得るために、自らの脳以外の全身をサイボーグ化(義体化)する。それを可能にするのは、すべての精神活動の仕組みが科学的(化学的)に解明され、デジタル化されることによる。デジタルデータ化/コンテンツ化された精神活動ーー思考や夢、記憶、欲求などーーは、コピーすることもできるし、模倣したり新たに作り出すこともできる。現在我々が「ヴァーチャル」といって区別できる仮想世界は、高度化すればするほど、我々人間はそれを「現実」と認識し始めるだろう。現代でも、音楽のCDによる再生や、ホームシアターのサラウンド再生など、かなりのレベルの仮想経験が体験できるようになった。「アナログ」という概念も、人の認識の上でのものでしかないのかも知れず、身体による知覚とその認識のプロセスが、電子デバイスによる状況情報の高度なデジタル化と違うのかどうかーーもしデジタル化の精度が人間の身体能力の限界を超えたとき、その差異は定かではなくなるかもしれない。 0と1というデジタルの基準は確かに抽象的だ。しかし、例えば音を例にとってみれば、それをアナログであると定義する空気振動にしても物理現象としてはサイン波、コサイン波といったデジタル的な波動の変形の結果である。それを受け止める人間の耳はそのデジタル的な波動を受け止めたのちデジタルな電気信号に変換して脳に送り、その電気信号が音として認識される。それを純粋に身体のアナログ的知覚プロセスと定義できるのかどうか。 人間脳の活動が基本的には電気的パルス以外の何ものでもない、人間の精神活動もパルスの伝達とその記録保存に「すぎない」と言い切ってしまうことに従来の哲学感では倫理的な問題を感じてきた。しかし科学的見地に立てば、パルス伝達そのものの構造や伝導プロセスに人間の能力としての存在意義を見いすことができる。実際現代科学が解明する人間の、あるいは我々を取り巻く自然の能力は計り知れないし、それを目の当たりにすることは神秘的ですらある。その上で、我々人間は持てる技術によって、その能力をさらに拡大する方向に向かうかもしれない。近い未来、我々はその行為に対する倫理問題に再び立ち会うことになるだろう。 そういった意味で、このシリーズのテーマである「義体化」のまず最初のポイントは「知覚」におかれる。知覚という時点で既に、入力情報は電気パルスとして伝達され、それを認知し記録するのは「脳細胞ネットワーク」でできた「インターフェイスの構造」である。「攻殻機動隊」ではそれら一式を組み込み納める身体とその活動を「個人/ゴースト」とするわけだ。だから、高度なサイボーグ社会では、個人もさらに大きなインターフェイス構造に直結することで、個人という限界を超えるインフラが近未来に整備されることはインターネットの普及を見ても容易に想像できる。 「攻殻機動隊」によく出てくる、有線による外部ネットワークへのアクセスもその「構造」と階層化の概念化をわかりやすく説明する。「外部ネットワーク」へのアクセス自体が、自分の中で物事を認識するための「脳構造」へのアクセスと、システムとしては同列になっていくのだ。シリーズを通して出てくる、アクセス制限を超えて侵入してくる悪意のある侵入者に制裁を加える「攻性防壁」も、ネットワーク構造間での障壁と構造自体のどちらが上位性を主張するかという問題を喚起していて面白いし、TVの2ndシリーズのテーマである、「ネットワークの集積化=外部記憶の集中化」を移民問題などのタイムリーな社会問題と絡めて考えた時、新たなカリスマ性や求心力の生まれ得る状況として注目している点が面白い。 その上で、「攻殻機動隊」がユニークなのは、そういった高度構造体がネットワークで膨大な外部記憶情報の海の中から新たな独立した存在を生み出すかもしれないし、それが生命の定義を根底から覆すかもしれない、というようなパンクな提案をしているところだ。宗教世界とは実はそんな高度ネットワークの上位体であり、その上位体へのチャネリング(…)による宗教体験が一部で経験されてきたのが宗教ではないかなどといろいろエンターテイメントな提案を作者はしている。サイバーパンクの到達点として、そこは過去のパターンを突き抜けていて面白い。 「個人」の集まりでない、高度な知覚/記憶インターフェイスを持つ人工的な外部ネットワーク/外部記憶が実現した時、言い換えれば自発的に機能するAIのような存在となった時、では人間の「精神」と呼ばれるもののAIに対する優位や差異はあるのだろうか? バーチャルという疑似体験の真偽が今後ますますあいまいになっていく中で、記憶の意味とはなにか? そして「記憶」と「記録」の差異は残るのだろうか? ロボットやAIの人間への隷属化は、よくSF映画のテーマとなることからもわかるように起ることが予想できる問題だし、彼らが人間の欲望や利己主義の受け皿としての存在になることは想像に難くない。「イノセンス」では、人型タイプのロボットは、人が新しい関係を持つためものとして作り出すロボットが人の形に似せて作られることの意味を問うものとして用いられている。人間が自身の存在を「ゴースト」という精神活動の源となる神秘的存在によって実存を定義するもの、という考え方が倫理的立場からなくなることはないだろうことを考えると、ロボットやAIはその点に固執することで差異化、言い換えれば差別化される。「イノセンス」では、ロボットが「ヒトに似ている」と認識できるレベルに形態がとどめられ、完全に人型であることを意図的に避ける人間の利己的な一面を見せる一方で、義体化を押し進め、疑似体験に埋もれるヒトは、自己を確立する定義や現実の欠如につねにさらされることを描き、人間存在定義そのもののあいまいさをあぶり出す。 「イノセンス」の中で、登場人物(バトーとトグサ)が何かと啓句や詩句を口にするのは、「外部記憶」に瞬時にアクセスして引用するようになることで我々人間が思考ではなく情報を蓄積/記録し、それをピックアップするだけの思考停止状態へ陥るという既に現実となりつつある現実を示しているのではないだろうか。百科事典的な記録へ人間が従属することになるというのはアレキサンダー大王の太古から言われてきたこととはいえ、インターネットは万人に外部記憶化を促す最大のきっかけとなったことは疑いがない。それ故に、ブログという新しいツールが、忘備録的側面だけでなく、つながりの連鎖、人と人との間をつなぐものになることを願いたい。 「攻殻機動隊」が描き出す世界は、ある意味既に現実化してきている状況だ。「我思う、故に我あり」とは、現代においては警句であるのかも知れない。最後に、いくつかの啓句で締めくくりたい。これも、百科事典的「引用」に過ぎないのだけれども。 “To be is to do.”  ソクラテス ”To do is to be.”   サルトル ”Do be do be do” フランク・シナトラ

ドリアン・ドリアン〜中国の変化

中国東北部の地方都市牡丹江から香港近郊の経済特別区シェンチェンに出稼ぎに来ていた少女イェンが、家族にも内緒で3週間の香港滞在ビザを取り、大金を得るために娼婦として働いている。ストーリーはそんなところから始まる。 香港を描く上でありがちな、超高層近代ビルと人々がひしめく猥雑なマーケットとを比較するような映像は出てこない。彼女の行動範囲は、寝泊まりしブローカーからの連絡を待つ安アパートと、呼び出し場所のホテルに限られている。香港の若者がたむろする繁華街へと足を伸ばす時間も体力も、多分興味もほとんどない。そんな彼女の姿を、カメラは感情を持たずに追い続ける。けれどそこに映し出される彼女の姿からは、不思議なほど暗い影が見えてこない。どこまでも若い彼女は食べては男の相手をし、男の体を洗い、そして帰ってきて寝る。感情の入り込む隙もなく、香港の路地裏は、そこだけで世界として完結している。 この路地裏に、シェンチェンから出稼ぎにきている足の不自由な男の家族が暮らしている。男は既に出稼ぎで金を貯め、シェンチェンにはきちんとした一軒家すら持っているが、妻と、不法滞在となってしまう小さな娘ファンと男の子をつれて、香港に再び出てきた。路地裏で皿洗いの仕事をしながら、妻と子供達は幾度となく家に帰るイェンの姿と案内役の若い男の通り過ぎるのを目にする。不法滞在のため路地裏の狭い世界に行動範囲の限定されたファンにとっては、イェンと男の姿は数少ない外部とのつながりだった。ある日不法滞在者を摘発しにパトロールにきた警官から一緒に隠れたイェンとファンは、初めて言葉をかわす。イェンにとって小さな妹のようなファンと、つかの間心が通う。 やがて滞在期間の切れたイェンは実家のある東北地方へと帰郷する。染めた髪を切り、地方の空気に慣れるよう雰囲気の変わったイェンが、同級生で結婚予定のシャオミンと新しい住まい探しをしているシーンから帰郷後の生活が描かれる。質素な中にも、生活感のあるアパート。香港の殺風景な部屋と、まるで正反対の雰囲気をかもしている。切り替わっていく暮らしの中で、やがて今まで語られなかったイェンの心の中が淡々と描かれていく。 香港では極悪の生活環境でも金は地方の平均よりも圧倒的に稼ぐことができる。しかし、中国の地方都市ではそれほど金がなくても皆が平均的な暮らしをしており、生活自体は豊かなものだ。本土の故郷に帰り、イェンも周りの人々のように普通の生活を始めるべく商売を始めようと考えたり、以前在籍した京劇学校でのことを思い出したりする。しかし地方においては大金である蓄えを得てしまったイェンには、地道なもうけの安い商売をやっていく意味がなくなってしまっている。イェンは、生活のためではなく自分の居所を定めるために商売をしたいと思っている。それでも実際行動を起こすほどのものがなかった。通帳に貯まった大金を見て、自分がどうしようか、何をしようかわからない将来への不安にかられる。生活苦を克服した今、自らの存在意義を考えることに目覚め、そのために生まれるモラトリアム。これは経済成長に湧く現代中国のこれからを問う鋭い洞察に思えるし、今日本の若い世代を飲み込んでいる問題でもある。 「ドリアン ドリアン」で、主人公のイェンが香港と郷里で同一人物と思えないように描かれているのは監督の意図するところだとしても非常に驚いた。ただ、今までの中国/香港映画にありがちだった、外部の人間にわかりやすい、広大な中国の大地に根ざした人々のたくましさ、あるいは香港の底辺にある猥雑な世界の持つ生命エネルギーというステレオタイプは、本当のようであってもすでに現実ではないものになりつつあるのかもしれないと感じた。 以前シェンチェンを訪れた時あらゆるところで見かけた、行き場もなく店に何人も固まって何するでもなくつまらなそうにしている若い女の子達の姿を思い出す。(2003年当時、シェンチェンの人口の3/2が女性で、さらに平均年齢は17才前後であったように思う)シェンチェンという巨大な経済実験場に形骸的にかり出され、空っぽの近代ビルの1階で雑貨の山の影で佇んでいた。自分が消費する側には決してなれず、うまくしても自分が消費されるモノであることを知って消費されることを待つ、悪くすればそんな機会さえ与えられない。そのただ中に放り込まれた彼女らの心の、どうしようもない温度の低さ。それを第三者として外部から見つつ、若さのエネルギーを語ることはどうしてもできないことだった。 郷里に帰ったイェンは香港での生活について口をつぐむ。イェンよりさらに若い従姉がダンスを学びたいために香港に連れて行ってほしいと願っていることを叔母から告げられ、それを素直に応援してやれないイェン。香港での仕事仲間から仕事の誘いを受けても香港に戻る気はしない。そんな煮え切らない状況の中で、夫のシャオミンともすぐに離婚する。この辺りの描写は、中国の地方でもすでに家族についての価値観や、親子関係が変化しつつあることを浮き彫りにする。 学校の級友たちとの温度差を感じながらも、やはり同年代として一番心が通いあうことをイェンは感じている。ある日皆で線路わきにたたずみながら、大声で歌を歌う。昔のおおらかな文化や暮らしぶり、人間関係をユーモラスに歌う姿は、自分の過去に対しての後ろめたさやつらさを吹っ切りたいというよりは、金だけを安易に、自分勝手に貯めてしまったことへのある種の照れ隠しととれなくもない。彼女のような、水商売で一気に金を稼いでしまったような人ほど、あるいは資本主義のストレートな光と影を同時に体験してしまうのだろう。彼女がスポーツのように男をこなしていくというのは、よくあるstereotypicalな「彼女のたくましさ=香港の生命力」を描いたというよりは、経済なんて大仰な振りをしていても実は安っぽいギャンブルのように、数や時間をかければこなせてしまう程度のものだと言っているような感じがする。かなり乾いたユーモアではないだろうか。 この映画には、とにかく意味深なシーンや描写がたくさんある。タイトルとなっているドリアンも、何らかのメタファーとしていくつかのシーンで登場する。大きなとげだらけの固い殻を持った東南アジアを代表するフルーツだが、殻を割るのは固くて大変で、さらに独特の悪臭がある。ファンの父親が娘の誕生日にと以前食べてうまかったというドリアンを買って帰るが、殻を割るのに手こずり、さらに悪臭のため家族にはとても不評だった。ある時には、イェンの案内役の若い男が突然後ろからドリアンの実で殴られ、大けがをする。またイェンが故郷に帰った後、つかの間心が通い合ったあのファンからドリアンが届けられる。 ドリアンという名前や「果物の王様」という評判は知っていても、身を食べたことのある人は実際少ない。ドリアンのその固いとげだらけの殻を目の前にして、「中を割って見てみよう」、あるいは強烈な悪臭をこらえてさらに進んで「食べてみよう」とすることは言ってみれば勇気のいることだ。ドリアンはこの映画の中で、そういう行動を起こすことがいかに難しいかを示している、物事の本質のありようを示す中国故事のような隠喩と言えなくもない。物の本質を悟った振りをして沈黙し行動を起こそうとしない賢者、何も考えることなくただ目の前の現実を受け入れ従う平民、そんな中、当たり前とされる世の中のルールを問い直すために、それを破壊することをいとわず実行する愚者。ドリアンはそんな愚者の出現を待つ、試金石のような物なのか。 実はドリアンで案内役の男を殴ったのは路地裏に共に暮らす不法滞在であろう中東系の男であることをファンは見ていた。多くは語られないが、中東男のもつある種の生真面目な正義感が、(無害だけれど)テリトリーに侵入してくる、単に若くて、それを利用もせず無為に空気吸うだけのチンピラ香港男を殴らせた、と勝手に想像してみた。そして、ドリアンが不法滞在をとがめられ強制送還されてシェンチェンに帰ったファンから送られてきて、これをどう扱うか苦労するイェンや周りの人たちの姿が、彼女の、そしてすべての中国人のこれからの生き方の複雑さを示唆しているようにも思えた。 ドリアン以外にも隠喩のようなシーンがいくつもあって興味深い。香港滞在時、イェンが客の体を洗いすぎて手や足の皮が剥けてしまう。それに対するかのように若いチンピラ風の入れ墨を彫った男が出てきて、入れ墨は一時の痛みでさほど苦しまずに手に入れられると言う。それは、一度手にしてしまえば形となってずっと残るけれど変えることの出来ない=逃げられない世界を示唆しているように見えるのに対し、若い彼女の皮は剥けてもすぐになおる=生まれ変わり新しい生活に入れると言っているようにも思えた。 最後のシーンは京劇の屋外ステージでの公演のシーンが映され、イェンがその世界に戻ったかのように示唆して映画が終わる。ハッピーエンドであるとか、そういう映画的/物語的な捉え方ができない、これから始まり続いていくであろう人生の試行錯誤の予感という描き方が、中国の今と今後の姿に対する含みを持っているようで面白い。 今までの中国映画は、ハッピーエンドや悲劇的結末というエンディングを用意することで、一つの区切りを作って、そこに現在との切断ーーノスタルジーへの没入という描き方のものが多々あった。それはそれでいいとして、そろそろそういった描き方では現在を描けないことを知り始めている世代がいる、というのは特筆されるべきではないかと思う。 同じ香港映画監督でも、例えばウォン・カー・ウァイは「天使の涙/Fallen Angel」などで見られるように、鬱屈した内向的な乾きや倦怠感が外に向けて一気にほとばしり出る様をスタイライズして描き、その乾きをさらに鋭く昇華させる。一方、台湾のホウ・シャオ・シェンなどは逆に乾きと倦怠感をスタイライズせずに距離を持って冷たく見つめる視線を保ち、その乾きや倦怠感を見る者に共有させることで作品はある種のドキュメンタリー的側面を得て現実感を増す。「ドリアン ドリアン」もその傾向を持った映画で、カメラの視線と被写体の距離感が冷たく、かつ透明になってゆく。こういうアジア映画界の流れを見ても、アジアの都市の混沌とした姿が生のエネルギーの源泉だという今までのアジア観は確かに古くなりつつあるように感じたのだが、どうだろうか。