— Delirious New York Diary

日差しの強い週末の昼下がり、見慣れた道が舗装し直しのために夜の間に表面が削られ、全く違う姿になっているのに出会った。

表面を削る時にできた細かい筋が強いコントラストをなし、削られて出てきた砂粒が強い日差しを反射してキラキラと眩しい。いつもはない道路からの照り返しを感じながら、見慣れた風景が一変してまるで白中夢にあるかのような感覚にとらわれた。

細かい筋と荒れたアスファルトが、日本の古寺の石庭のようで、それを思い出した時一瞬都会の喧噪が掻き消えていったような錯覚に陥ったのかもしれない。

いつもは目立たないマンホールのふたが、鉄の輝きを取り戻して石庭の石のように散らばっている。

少したって同じ場所に戻ってみると、道路脇の街路樹が傾きかけた陽の中でいつもより柔らかな影を落としていた。

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地階の中庭に面している部屋からは、殺風景で何もない、狭い中庭が見える。向かいのいくつかのアパートは長いこと改装中なのか、誰も住んでいないようで、窓にはベニヤの板が打ち付けられている。気が滅入るかのような風景なために、スクリーンをおろしたままにすることが多い。

景色が見えない分、スクリーンを通して刻一刻と移り行く光と影のさまに時々見入ることがあった。まるで自分の精神状態を映し出すかのような、あるいはそんな光と影の作り出す光景に自分の心を重ねているのか、そのどちらでもあるのだろう。

空虚で透明であるかのような空間に、自分という精神が波のように広がったり収縮したりしながら充溢している。光と影のうつろいと揺らぎが息苦しさを和らげてくれるのを感じながら、静けさがどこまでも透明な空気に変わっていくのを見つめている。その中に流れる時はさらに空間を満たして、停滞ではない、充足の空間を現出させている。


何かを見ようとすることで見えるのか、何かが見えるはずなのに見えていないのか、窓に映る影やそれを生み出す光の光景を眺めながらただぼんやりと考える。

 

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監督のペドロ・アルモドバルは彼の作品を通して、ある一定のテーマを貫いているように思う。

まず、「社会の中」でタブーとされるものや、社会のスタンダードとされるものから外れ手しまった人たちがストーリーの中心におかれる。そしてそのタブーに生きる人間、社会の日陰に押し込まれた人間たちが社会的には弱者であり、虐げられる人たちであることが「前提として」語られる。それゆえに、トランスセクシュアル、トランスベスタイト、ゲイといった人々がアルモドバル作品にはよく取り上げられるが、聖職者による虐待やシングルマザー、といったテーマも同じ視点で取り上げられる。(「Bad Education」「All about my mother」などで描かれる)

しかし、性同一性障害、あるいはトランスセクシャルにアルモドバルが注目する理由はさらに根源的なものに思われるのだ。彼の映画は、そういった社会的タブーの周辺に生きる人々の生き様を捉えたドラマとしてだけでも鑑賞できるけれども、それを超えて、すべての人間が持つ肉体と精神の関係に端を発する問いに対してアルモドバルは向かい合っているのではないか。

肉体という容れ物はその存在そのものによって社会における位置を規定する。男性である、女性であるという違いは最も根本的な存在意義の違いを表す。では性同一性障害者、あるいはトランスベスタイトにとっての肉体はどういった意味を持つのだろうか。彼のドラマ作りのうまさは物語としてのわかりやすさにつながっていくために、彼らが社会的に特異な存在であるという社会の固定観念が生み出す摩擦部分が強調されやすく、そこにのみ注目して終わってしまう危険性をも秘めているように思われる。

「トーク・トゥ・ハー」では、肉体と精神の関係を問い直すさまざまな人々と彼らの関係が描かれる。冒頭、映画はドイツのヴッパタール舞踊団の舞台振付家ピナ・バウシュによるダンスのシーンから始まり、彼女の肉体が、精神世界の広がりとそれを映し出す鏡として描かれる。
彼女の肉体の動きは、舞台に障害物のように置かれた椅子の群れを変容していく。(実際には、彼女の動きに影響を受けるかのような一人の男が彼女の行く手にある椅子を押しのけていく。光を放つかのような彼女の存在を尊び、その行く手の障害となるものを人知れず除いているかのように見える)彼女の他にもう一人が舞台で踊り、バウシェの波動を受け取ったかのように彼女の動きを受け継いでいく。その肉体から放たれる精神世界が舞台を超え、観客の一人である主人公マルコの涙を誘う。

マルコは以前自ら去って関係を絶ったある女性への思いを断ち切れずにいる。「思い出」として彼の中に依然大きく存在するにもかかわらず、彼女の肉体の不在がその思い出との間に超えがたい深い溝を作るのだ。
そんなマルコの前に、女流闘牛士リディアが現れ、過去から逃れようとしていた二人は次第に結びついてゆく。彼女は、男性の世界とされる闘牛の世界で生きているわけだが、闘牛という儀式の中で牛と対峙する時には男女の差異といったものは消滅する。実際、彼女が試合前に衣装を身に着けていく場面で女性から「闘牛士」へ変わっていく様が描かれる。ここには、トランスベスタイトやトランスセクシャルに対する社会の不条理な固定観念に対するアルモドバルの批判が現れているようにも思う。
彼女が事故により昏睡状態に陥ってしまったとき、マルコは悲しみとともに困惑する。彼女の肉体は生き続けていても、彼を愛した精神は失われてしまった。彼はその精神を失ったリディアの肉体を、彼の知るリディアという存在として受け止めることができない。

彼女が収容されているクリニックには、アリシアという昏睡状態にある別の若い元バレリーナの女性と、彼女を完全介護する看護士ベニグノがいる。愛する者がともに昏睡状態にあるという立場から、次第に彼らには友情が芽生えていき、その友情が映画の軸になってゆく。
アリシアの心は醒めない眠りについているにもかかわらず、その肉体は若さと美しさを保っている。事故以前につかの間知り合ったアリシアに恋していたベニグノは、眠り続ける彼女に彼の経験の全てを語って聞かせ、彼女への愛の証として献身的に介護する。まわりのものにはセクシュアルに映る彼の彼女の肉体に対するマッサージや体を拭く行為も、彼が介護士であるという事実や、彼女が植物状態にあること、そして彼がついた自分はゲイであるという嘘によって周囲から強く問われることがない。いかに我々が社会的立場という面において周囲とぎりぎりの関係を結んでいるかを、アルモドバルはこの設定によって描き出す。その上で、ベニグノの愛情表現と昏睡状態にあるアリシアとの関係が異常なものなのか、あるいは純粋なものなのかという問いを見る者に問いかける。そしてその答えを導くのが、見る者自身の感情なのか、それとも社会に生きる上で身に付けていった社会常識や固定観念によるものなのか、その見極めを自身で判断することができるのか、といった問いをも同時に突きつけながら。

ベニグノが見たサイレント映画も肉体と精神世界の乖離を表していた。愛し合う男女のうち、男が薬によってだんだん小さくなっていくという事態に陥る。愛は消えずとも、彼女は小さくなった彼をベッドの上で押しつぶしてしまうかもしれない。そして肉体を通しての愛情表現の手段を失ってしまった彼は、絶望する。
アリシアにバレーを教えていた、母親代わりのような存在の女性(ジェラルディン・チャップリンが演じる)が、アリシアに新しいバレーのテーマを語るシーンがある。とある戦場での生と死をバレーで表現しようとするのだが、兵士の死を男性が演じ、その後女性が生命の再生を表す精霊を演じる、という設定だ。実際にバレーのシーンは描かれないが、バレーという肉体を通して肉体存在以上のものを表現しようとする行為、あるいは表現しようとする精神が肉体とその動きを規定することによってのみ生み出される「美しさ」が、アルモドバルのテーマに重なっているのだろう。バレーにおいては、男性と女性の肉体が規定する動きの先にその真髄を見据えることになる。闘牛は男性世界と考えられる中で儀式として昇華され、その中で性別というレベルは消滅する。どちらも肉体という現実から、精神や儀式という世界を規定していく。

ベニグノはその後一線を超え、眠り続ける彼女を妊娠させそれが発覚して投獄される。ここで興味を覚えたのはそれに続くシーンだ。彼が投獄された刑務所をマルコは訪ねるが、設備は囚人への配慮から刑務所のイメージからはほど遠く白く清潔で、まるで病院のような監獄にマルコは驚く。事実、そこでは収監者を囚人とは呼ばない配慮までなされている。このイメージは、アリシアが病院という空間に望まないながらも収容されベニグノの愛情表現から逃れられない状況に在ったのが逆転し、今度はベニグノが肉体的に逃れられない世界に閉じ込められた、ということを暗示しているようにも考えられる。肉体がとらわれることでアリシアを中心にした彼の精神は生きる世界を失い、ベニグノは自ら肉体の存在を断つ。

我々の肉体と精神は切り離すことの出来ないつながりを持っている。そして、精神世界のひろがりと、肉体の規定する存在意義の間には重なり得ない違いも存在する。その差異は認識し得ても解決されるものではないだろう。人としての、最も大きなパラドックス。肉体存在に関する社会のタブーの数々は、そんなパラドックスに向き合う上で生まれてきたものであるのかもしれない。それを超え得るのは、精神世界の広がり、それのみと言うことはできるのだろうか。

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映画「誰も知らない」はニューヨークでも広い範囲で高い評価を得ていた。高級紙(NY Times, Washington Postなど)やインディー系に強い関心を示すNYのVillage Voiceなど、かなりの紙面を割いて評論しており、この映画に対する関心の強さをうかがわせた。

カンヌ映画祭での最年少主演男優賞受賞という事実を前提にしたものではない、映画自体を評価しようという態度が見て取れたことにまず好感を持った。アメリカにおいてはカンヌ映画祭自体に対してアカデミー賞ほどの体温上昇を感じさせないということもあるが、賞の受賞をナショナリスティックなものとして取り扱い、少なからず経済効果を狙うかのような日本でのメディアの受け取り方より冷静で公正な評価態度だった。

宣伝効果と結びついた映画評ばかりが目立つ日本のメディアには、実は多くの人が辟易としているのではないだろうか。この映画をいかに取り上げるかということは、実は非常に複雑で細やかな態度が必要なものであることを映画を見た人は感じるだろう。その目には、誠実さに欠けるメディアの態度が底の浅いものに映ったとしてもおかしくはない。(NY Timesやインディー系のVillage Voiceなどは、アカデミー賞に対してすら一定の距離を置く)

「誰も知らない」の批評について
アメリカでは多くの批評が映画の中での「距離感」について評論していた。対象である子供たちへの、そして母親にたいしても一定の距離を保っている映画の作りに対して、いい意味であるとか悪い意味であるとかいうのとは別次元に「冷めた距離」という言葉をNY Timesでは用いていた。
補足になるが、NY Timesは驚くべきことに地方紙であり、にもかかわらず世界中の読者に対して発信するために実際常に世界中からニュースを集めてきている。さまざまな文化やそれを背景にした事柄をできる限り偏ることなく論評するために、記事は高いレベルの批評眼と第三者的な距離感を必要とする。その距離感が、是枝監督のとったテーマに対する態度と非常によく似ていることに彼らは気がついていた。ジャーナリスティックなテーマを扱い、虚飾なく、感情に流されることなく社会に提示することー是枝監督のこの態度は、特にマスメディアに携わる人々の共感をえたのだとも考えられる。

もちろん、映画のテーマそのものは我々日本人にとってより真実味を持つ、また持つべき問題であり、アメリカ人としては第三者的な外側からの客観的視点を持たざるを得ない。しかし、そのテーマとの「距離」は、事実をほとんど黙殺し知らないままでいた我々多くの日本人と、アメリカ人批評家との間で果たして異なっているのだろうか?

あくまでこの映画とその提示する問題の意義は、「個人」がどこまでそうした「距離」の存在する事実を受け止め、その意味を問うかにある。是枝監督はそこまで考えた上で映画を作り上げたのではないだろうか。そしてアメリカ人批評家たちはテーマの意味合いと重要性を映画を通して受け止めつつ、それを可能にしたであろう彼のある種ジャーナリスティックな映画作りを大きく評価したように思われる。

アメリカにも深刻な家庭の問題はたくさんあり、社会問題ともなっている。「誰も知らない」の提示する事件は日本という社会が生み出した特殊なケースであることは事実だが、こういった社会的な家庭問題が”存在する”という現実はアメリカでも日本でも同じである。その上で、どういった類いの社会のひずみがこれらの問題を引き起こし、どうすれば解決していけるかということは映画自体では語られていない。アメリカにはシングルマザーが多いし、貧困問題も非常に大きなものだ。その中でこのケースに似た事件は起りえるし、実際起っているかもしれない。しかし、そういった問題に何らかの「結論」なり「解決策」を導き出すことは、この映画や新聞というメディア(少なくともNY Times等)では避けられている。それは見る者/読むものにゆだねられ、それが大きな波となって社会の中で動いていくことを最終目的としているからだ。

「あの母親はひどい」とか、「周りの人間はなぜ気づかなかったか」と語るにとどまることは、彼らと同じであることに気づかないでいるだけのことかもしれない。「社会問題」となる、あるいはされるべき事柄や事件は、漠然とした社会という空間にあるままで個々自らの次元に引き寄せられないならば、いつまでも問題として事柄/事件が認知されることすらないだろう。それをこの映画は提示しているのだ。そして、もしやっと認知されたとき、我々はいかにそれに対峙しえるか。その先は、見る者にゆだねられている。それはある意味、ジャーナリズムの本意といえるのではないだろうか。

補足:
アメリカでは新聞の評論や評価は絶大な影響力を持っている。特に(土地柄、そして経済的理由からNY TimesやVillage Voiceしか目を通していないが)NY Times紙は映画、音楽、本、演劇、アートなどの評論が独立して別紙になっており、特に週末の新聞はものすごい厚さになる。
その分多くの紙面を評論に割くことができ、それを一流の専門ライター陣が執筆している。彼らの評論は確かに鋭い。そして演劇やミュージカルなど、NY Timesで酷評されれば実際1週間もせずに幕を閉じることもあるほど、影響力も強い。
高級紙と呼ばれるNY Timesがアメリカの知識層の判断基準を決定していると言っても過言ではないが、それには政治力や経済力を超えた第三者の視点を貫いているということが支持される最大の理由となっている。もちろん、New Yorkというリベラルで知識層が最も集中している、アメリカでも特殊な都市の新聞、ということは考慮すべき点ではあるが。(アメリカの総意ではないということ)
幅広い視点と許容力を持つことが第三者的視点を保ち得る方法だとして、ニューヨークはさまざまなものを受け入れる受け皿となる。その上で、客観的判断と批評がそれらを淘汰し、さらに高い批評眼を得ることにつながっていく。ある意味で、最も厳しく、だからこそ公正な批評がここでは行われているように思われる。

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マッキントッシュで知られるアップル社の創始者であり現社長のスティーブ・ジョブスが、スタンフォード大学の卒業式でスピーチを行った。その全文を読むことができたのだが、いろいろと思い出すこと、考えることがあったので、少しパーソナルな内容に触れつつ自分のMacintoshとの関わりなど書いてみようと思う。

原文のリンク
http://news-service.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505http://news-service.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505

さらにビデオで彼のスピーチを聞くこともできる。

さて。
父親が海外勤務になり、ワシントンDC近郊バージニア州に家族で移った。英語学校に通った後、ある州立大学に入って一般教養のクラスをとり始めたのが1993年頃のことだ。
大学のコンピューターラボはほとんどMacで、それでペーパー等を書いたし、当時広まり始めていたインターネットでメールを書いたりネットめぐりなどを始めた。ネット利用を、ネットサーフィン(死語…)などと呼んでいたのもこの頃だ。

その頃家でも家族共用にコンピューターを買おうということになり、ならば学校でもよく使われているMacがいいと親に話したところそのまま決定した。東京にある父の勤める本社ビルの一階には以前NECとキャノンのショールームがあって、子供の頃会社を訪ねたときにいろいろなパソコンに触れる機会があったのを覚えている。当時Macはキャノンが代理店となって日本に入ってきていた。国産のNECのものでも子供のおもちゃには高すぎるものだったし、まして輸入品であるMacは車一台買えるほどの値段だった。Macintosh Classicなど、Macは当時知った他のどのパソコンとも異なった特別な雰囲気を持っていたのと、それらマシンの別次元の価格とで記憶のどこかに残ったのだろう。

そんなわけで、うちに来た初めてのパソコンはMacだった。Centris 650というマシンで、メモリーは8MB, ハードディスクは80MB (!) という今では信じられない内容だったけれど、当時それでもいろいろなことができたし、Macは自分にとって”魔法の箱”になった。
以来、パソコンはMac、ということになった。学校で時々使わざるを得なかったWindows3.1はどうしてもなじめない。(あの時のことがトラウマとなってウィンドウズにはどうしてもなびけない。(笑) ) その後寮に入ったとき学校のアップルストアでQuadra 610を学割で安く買っのだが、そのとき実際には一世代前のCentris 610をオーダーしたのに、新しいモデルが出たからか性能も上がっているはずのQuadra 610を差額請求もなく送ってくれた。アップルという会社に思い入れが出来たのはその頃ではないだろうか…

その後ニューヨークの美術/デザイン系大学であるParsons School of Designに入学したが、やはりデザイン系のためほとんどのコンピューターがMacだった。当時値段と性能の面で勝っていたMacのクローンに浮気したりはしたけれど、MacOSからは離れなかった。
そして大学にいる間に、あの歴史的な初代iMacが登場した。アップルをクビになった創始者のスティーブ・ジョブスが、新しい風とともにアップルに復帰したのだ。マシンとしては少し馬力が足りなかったのだが、大学にもサブマシンとして一気に増えていった。特に色違いのiMacが出てからは。それからだ、停滞していたアップルが変わり始めたのは。

その頃、アップルはかなり行き詰まっていた。シェアは落ち、株価もどんどん下がる。どの会社がアップルを買収するか、そんな噂がよくささやかれた。OSの開発も遅れ、Windows95には追いつかれた。それを、アップルを作ったジョブスはどんな思いで見ていただろう。iMacの爆発的な人気にもかかわらず、アップルに対する周囲の態度は冷ややかだった。あからさまなバッシングもよく耳にしたし、メディアもそういう態度が一般的だった。それはiPodが出て、再び爆発的なヒットとなるまで続いたが、iPodとiTunes Music Storeの成功はとうとうそんなネガティブな評価を打ち砕いて、好調な、成功したアップルのイメージを再び社会に定着させた。

彼のスピーチによれば、自ら作ったアップルを首になったおかげで、打ちのめされながらもまたゼロからスタートする機会を得たと言っている。その悔しさをバネに、彼はNeXTという別のコンピューター会社と、コンピューターアニメーションの制作プロダクションであるPixarを立ち上げた。彼はアップルへの復帰の条件に、NeXTのOSをMacに採用することを呑ませ, それは後に現在のOS Xになっていく。沈みつつあったアップルを、再び軌道に乗せるきっかけをiMacとOS Xによってもたらした。ジョブスの復帰はアップルの第二の出発となったのだ。ある意味、アップルはジョブスそのもの、ジョブスはアップルそのものなのかもしれない。

いくつかのエピソードをジョブスはスピーチで取り上げている。
アメリカの私立大学の学費は日本のものよりかなり高いのだが、その学費が両親の蓄えの大部分を持っていってしまうことにジョブスは心を痛めていた。(ジョブスは養子として生まれた時に引き取られたのだそうだ)それに見合うだけのものを、大学に見いだせなかったとも言っている。(卒業式だから、言ってもいいか…入学式には言えないでしょう (笑) )何をしたいかも定かではなく、そんな中興味のない授業に多額の学費を両親に払わせることに大きな矛盾を感じたという。

だから大きな不安は抱きつつも一大決心をして、大学を中退する。そしてお金をセーブするために、ジュースのビンをいつも返却して還ってくる5セントをためたり、週末には10キロ以上歩いてある寺院に出向き、週に唯一のまともな食事を食べさせてもらったりした、と話す。それはつらいことではなく、すばらしいことだったとジョブスは言う。そういった数々の経験が、後に大きな価値を持つようになったと。
大学をやめた後、最初に興味を持ったのがカリグラフィーだったそうだ。キャンパスに貼られたさまざまなポスターや掲示板が、きれいなカリグラフィーによって書かれていたのだそうで、それに惹かれたジョブスはカリグラフィーのクラスをとり、後にその経験がMacOSにいろいろなフォントを使えるようにしたり、バランスよく表示させるようにしたりすることにつながったと言う。このエピソードは、何かをする時に事務的にできればいい、というのではなく、いかにエレガントに、スマートに行えるかというアップルらしさの源がかいま見える気がする。
アップルを首になった時も、自分の求める物にたいする誠実さを失わなかったために再出発がはかれたという。本当に自分の求めるものでなければ、本当の喜びは得られない。見つからないならば、探し続けるべきで。妥協してしまうべきではない。それは彼がさまざまな壁にぶつかったことで逆にそれを糧にすることを学んだ彼の生き方だ。

さらに彼は続ける。彼は去年、膵臓ガンを患い、一時は三ヶ月から半年の命と宣告されたことを告白した。死を覚悟し、家族に別れを告げ、社会的責務の整理を行うよう告げられたという。幸運なことに、彼の症状は珍しいもので完治できることがわかり、術後しばらくの休養の末職務にも復帰した。この経験を通して考えたことを興味深い言葉で言い表している。

”death was a useful but purely intellectual concept…death is very likely the single best invention of life.”

そして、死は時の流れを示す指標であり、最後の到達地点であり、古いものを消し去って新しいものの生まれる余地をあたえるものでもある、と言っている。”死”の前では、自分のものでない考えも、どんなプライドも、失敗を恥じ、恐れることもその意味を失う。何かを失うかもしれないと恐れ、立ち止まってしまう罠から逃れるにも、”死”という概念は力になる、と言うのだ。失うものなど何もないからこそ、自分を、自分の求める何かを見つけ出さねばならない。そしてそんな自分なら、信ずるに足るだろうーー。ジョブスの潔さと人を引きつける強さは、そんなところから来ていると思う。

彼の言葉が実感を持って響いてきた。自分も28の時、がんを患い、手術、治療、再発、そしてよくなった今も再発への恐れは消えていない。OK、自分はこれらを経験した。ではその後で、何が自分にとって大切なことなのか、何をすべきなのかーそれを常に考えようとしている。いや、考えざるを得なくなった。もちろん、四六時中とはいかないけれど(笑)

アップルの魅力にとらわれた者として、そのさまざまな製品によってインスパイアされ、単なるツールとして以上の力を借りてきたように思う。それはこれからも変わることはないだろう。自分にとって、アップルの製品は本当の意味でパーソナルなコンピューターとなった。

最近また、ジョブスはCPUをIBMからIntelに移すという大英断を下したが、そのプレゼンテーションもいかにも彼らしいものだった。

“We will be very excited to keep pushing the frontiers, and tell you about Leopard, (the next OS) the next time we meet next year.
Because more than even the processors, more than even the hardware innovation that we bring to the market, the soul of Mac is its operating system. And we are not standing still….”

今の成功におごることなく、常により良く、新しいものを創り出そうとする姿勢。それはコンピューターという世界にとどまらない、生きる人としてのあるべき姿でもある。

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“what’s this war in the heart of nature?”

このモノローグとともにこの映画は始まる。映画は太平洋戦争中期、ガダルカナル島における日本軍とアメリカ軍な激烈な戦いをもとに描かれるのだが、冒頭のシーンではまるで戦争とは無縁のような、何千年も繰り返されてきたであろう原住民たちの姿が豊かな自然を背景に映し出される。
青く透明な海が照りつける南国の太陽に輝き、白い砂浜と、豊かな森の中で原住民たちが暮らしている。その中に、アメリカ兵らしい二人の若い白人が混じり、原住民らと拙いながらも心を通わせている雰囲気をうかがわせる。そんな中で、そのアメリカ兵がつぶやく。“what’s this war in the heart of nature?”

このアメリカ兵ウィットは大いなる自然と、その中に生きる原住民たちの暮らしとに完全な調和を見いだしている。生の源たる、優しくそして恐ろしい自然と、ごく当然の摂理として身近に存在する生と死。それらを、彼らは彼らなりの方法で真摯に受け止め、対峙している。
その自然の摂理の外側で繰り広げられる戦争という人間の行為に、ウィットは意味を見いだすことはできない。降り注ぐ木漏れ日の中に、彼は桃源郷の白中夢を見ようとしているのだ。原住民たちとのふれ合いが、つかの間であるとはいえ彼の求めているものと重なる。そこに、彼を戦争の現実に引き戻すアメリカの軍艦が現れる。

ウィットの上官であるウェルシュ(ショーン・ペン)は歴戦の末、数々の修羅場を目のあたりにし、それをくぐり抜けてきた。生き残る確率を増すには、戦闘するマシーンにならなくてはならないと頭では理解しているし、戦場で生き抜いてきた経験は彼をより戦闘マシーンに近づけていった。
そんな彼の目に、ウィットは他の者と違った存在に映る。生き延びるためには、彼の考える戦争という現実=”見ず知らずの敵を殺す戦闘”、そして”調和を乱す部外者を拒絶する自然”との戦いを繰り返さざるを得ない。その戦いの中で、彼のまわりの人間は傷つき、命を落としていく。しかしウェルシュは、果てしなく続く戦闘の中で生き延び続けることによって、傷つき失われる命を機械のように無感覚に受け入れるようになってしまうことを恐れているのだ。実際、死んだ僚友を目にして「何も感じなくなった」とつぶやく別の兵隊の言葉に動揺する。だから、ウィットが”戦闘の現実”を超えたところに生と死の問題を見いだし問いかけているところに惹かれ、そこに彼自身の現実の手がかりを見つけようとする。

中隊を指揮するスターロスは、強固な反撃の中突撃を命令する上官トールに逆らう。次々と部下が命を落とす中、彼は神に問いかけ、答えを示すよう求めるが、それに対する確たる啓示はなかった。しかし、繰り返される戦闘の中”問いかけることそのもの”が、生への希求として、あるいは自らが、そして彼の率いる部隊が生き、(生き残っている)存在していることの意義を確かめるための行為として語られる。戦争に身を置いたことによって、死は彼にとって喪失を意味するようになった。

ベル二等兵は、残してきた若い妻と過ごした日々を次々と回想する。戦闘が激しければ激しいほど、その回想はノスタルジックに美しく昇華され、詩的なものになっていく。その”詩的な”ものは、スターロスと同じように、生への希求そのものなのかもしれない。彼も自問する。”戦争を終え彼女のものへ戻ることができたとき、自分は元の自分に戻りたい。しかし戻れるだろうか?” と。彼の回想が美しければ美しいほど、それは失われたものであることを意味し、元の彼には戻れないであろうことを示唆する。戦争はベルにとって、自分を根本から変えてしまったものとして彼の現実となる。
この映画は、いわゆる戦争映画、反戦映画といったものとは異なるように思う。大学で哲学を教え、ジャーナリストとして雑誌等に寄稿していた監督のテレンス・マリックは、映画という手法を用いて彼の表現したいものをいかに見る者にとって意味のあるものにするかを求めていると言えるのではないか。
同時期公開された「Saving Private Ryan」では、リアリスティック=(リアルではない)に戦闘シーンを描き、かつセンチメンタルなストーリーの帰結によって戦争があったという事実を感情に訴えることで後世の人々に伝えようとした。しかし、「Thin Red Line」のテーマは、我々人間が何かに対峙することによって初めて何かを認識しようとし、それを現実として捉えるということを示すことだったように思えるのだ。歴史においては事実として存在する「戦争」というものに対し、後世に生きる戦争を経験していない我々はどう対峙するのだろうか。戦争の酷さに対する感情は、戦争をしてはならないという理性を育てるかもしれない。しかしそれはあまりに楽観的なあいまいなものでもある。

「Thin Red Line」におけるさまざまな登場人物のさまざまなモノローグ、自然の摂理の内側に生きる原住民の自然との関わりと暮らし、光、透明な水、豊かな森ーーこれらすべてが詩的に語られ、我々見るものは映画というメディアを通してそれを詩的に捉えるすべを与えられる。”詩的”とは個人個人の、感覚を通した”世界”の認識のプロセスであるとするならば、「Thin Red Line」のテーマがもたらす詩的なイメージは今を生きる我々にも強く提示されて受け止められ、その意味について個々に対峙する機会を与える。そうして認識されたものは感情のみで一時的にあおられたものより、強く我々を突き動かすのではないだろうか。

戦後60年の節目である今年、戦争を経験として知る人は年々少なくなってきている。そんな中、我々は戦争を現実として捉えるすべをあまりにも知らないし、全ての人間を巻き込んだ出来事であったことを忘れ、一面的な見方で強引に捉えようとする態度を強くしている。その結果が靖国参拝問題であり、昨今みられる感情に訴えることのみに注力した戦争アクション映画である。センチメンタルな感情によるメッセージは、一時的なものしか生み出さない。我々の中の何か大きなものが失われてしまっているのではないかという問いを、「Thin Red Line」という映画は呼び起こす。

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ニューヨークでは輝かしい過去も、刺激的な今も、変わらない人々の日常も街の空気に自然にとけ込んでいる。この街に住む人、訪れる人が、その時々、思い思いにそれらを見いだして、人それぞれのニューヨークの姿を描き出す。

何気ない建物の前でふと立ち止まると、驚くほどに凝縮された時間の蓄積を見ることがある。普段目には留まらない、そこにあるだけの存在が、自分の心境とシンクロするかのように強い存在感を持って再び目の前に立ち現れる。

自然にしろ人工であるにしろ、光はそんな在るだけの物にも投げかけられ、輝きとともに影を与える。そして、そこにはさらに時の流れを蓄積していった重層された記憶が込められている。自分の中にある何かが、その輝きと影に惹かれていく。

いつもそんな微細な声を聞き取れるかはわからない。強い誘惑と刺激に満ちたこのニューヨークでかき消されそうな存在に、実は多くのものが含まれている。それを見いだす心の繊細さを、この街で保ち得るだろうか。

 

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ニューヨークを中心に活動する建築家を少しずつ紹介していこうと思う。第1回目は、コンピューターによる建築の位置づけを考察しながら、コロンビア大学大学院建築科出身の二人によるユニット、CAP (Contemporary Architecture Practice) の作品を紹介する。

1990年代前半、ハリウッド映画界でコンピューターグラフィックスが本格的に導入され一般化し始めた当時、建築分野にもようやくコンピューターによる3次元モデル環境がひろく受け入れられるようになった。ここで言う3次元モデル環境とは当時すでに一般的になりつつあったCAD(Computer Aided Design/Drafting-コンピューターによる2次元図面描画/設計) からさらに踏み込んで、3次元空間をコンピューター上のバーチャルな環境で解釈し取り扱うものだ。シリコングラフィックスによるワークステーションや、エイリアスなどの3Dコンピューターグラフィックソフトウェア(現Maya)が一般にも手の届く存在となり、コロンビア大学建築科にも大量に導入されたのを覚えている。

これらの新しい3次元モデル環境は、バーチャルな環境で「空間」と「物質」を取り扱うために、従来の既成空間/物質概念の再解釈の必要性を生み出した。加えて、「バーチャル」という言葉の表す意味を考察する必要性から、またこれらのソフトウェアが「アニメーション」に特化したものであったことから、「時間」という概念が空間の解釈を拡張するものとして建築においても重要性を増していったのだ。その上でアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズら哲学者の時間概念もInter disciplinaryの必要性の高まりとともに多いに参考にされた。これは従来の建築が建築という独自の、完結したスタティックな存在であることを根本原理としていたことを考えれば、非常に大きな変化と言える。

近代までの西洋建築は、archetypeを定義することで建築の存在意義と物質的性格を同時に固定したうえで、’Sublime,’ ‘Melancholy,’ ‘Rhetric’といった建築の性格的な概念と、’Gravity,’ ‘Ornamentation’などの物質的な概念が相互に補完し合いながら、その地位を芸術的にも社会的にも昇華させていくことを可能にした。
それに対し、20世紀前半にミース・ファン・デル・ローエは固定化されたarchetypeをいったん分解し再解釈し、さらに建築というフィジカルな存在を成立させる「場」をも分解解釈することで既成建築概念を抽象化してモダニズムの先駆けとなる。それは、ルネッサンス期に発明された透視図法が、そこに表される空間と物質の関係を抽象化することを可能にし、新たな空間認識を生み出したことを受け継いだともいえる。当時透視図法の求心性は神の存在、あるいは人間存在を明示化することに利用され、抽象性はその永続性と普遍性を表現することを可能にしたが、ミースはそこからさらに抽象性を押し進め、空間と建築そのものの普遍性を求めようとした。(その意味では西洋文明を定義し続けた宗教色をついに排除することを可能にした、ともいえるのだが)
透視図法やミースのもたらした、建築/場の概念と物質性の抽象化は、ある意味「バーチャル」という言葉を用いて表される3次元モデル環境に通じている。そこに時間という概念が、人間の感情にではなく、(”ノスタルジー”という時間/空間感覚は西洋建築において建築の美的/社会的存在意義を高めるために常に重要な意味を持っていた)空間作用として加わることで、建築は物質的にスタティックな存在から自由になる可能性を獲得しえるのではないか。

3次元モデル環境の導入初期には、3次元モデルの要素をそれらソフトウェアの持つ時間軸上で操作し、スタティックな物質形態を物理的に変容させる試みがなされた。そこでは既成建築概念を解体するために形態操作する脱構築主義とも距離を置き始めていたと思われる。(ピーター・アイゼンマンらはコンピューター以前から、新しい形態言語を生み出すため、また確立された建築概念を解体するために手作業で取り組んでいた。2者の中間を行っていると言える)そこに空間のプログラム的要素とその時間性を掛け合わせることで、さらに空間とその現象化である形態が変容する。サンフォード・クウィンター、イグナシ・デ・ソラ・モラレスら理論家はこれらの「建築操作」を「リキッド・アーキテクチャー」と名付けたが、今ではさまざまな要素を掛け合わせて建築が成立することから「ハイブリッド・アーキテクチャー」とも呼ばれている。

ハイブリッド・アーキテクチャーにおける形態の変容は、建築の物質的要素の既成概念をも変容させる力を持つ。例えば、「壁」という要素が従来持っていた、床から垂直に空間を隔てるという定義も変容し、そこでは床が盛り上がって壁になり、壁面はさまざまなプログラム要素、例えば家具としての機能も伴わせ持つかもしれない。そういった試行錯誤が繰り返されることで、新しい生活様態や空間認識が生まれていく可能性も生まれる。
以前はコンピューターやソフトウェアの限界などから制約も多かったハイブリッド・アーキテクチャーのコンセプト化が、昨今急速に進化している。Ali Rahim率いるニューヨークのContemporary Architecture Practiceはその一端を担っている。その作品の一部を紹介したい。これらの空間が「何」なのか、それは定義されるものではないので、自由に想像していただきたい。



Fashion designer’s Resident project


Reebok Store Beijin


Olympic House

コンセプトや動画など、さらに興味があれば彼らのホームページをお勧めします。
http://www.c-a-p.net/

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投げかけられた光と、自ら発光する光。影を作り出すのか、影を照らし出すのか。


光と闇は対極にあるものではない。人が介在すれば、その意味も人それぞれによって意味を変える。



谷崎潤一郎の「陰影礼賛」は海外において日本の伝統美を知る上で日本以上に親しまれているように思われる。それは、暗がりに鈍く光を放つ人の生活の証と人の生き方そのものに対する谷崎のノスタルジックな憧憬が描き上げた世界だ。西洋式の生活に慣れていた谷崎本人にはその憧憬世界そのものに住むことはもはや苦痛だったようだが、彼の精神の拠り所として心の中に存在したそれらの心象風景は、彼のその後の生き方と文学作品において大きな意味を持っていた。

美を侘/寂という、時の流れの感覚として捉えた日本の美意識は、西洋における、廃墟という過去への憧憬を促すロマンティシズムの感覚に、実は近いのかもしれない。その意味でも、谷崎は伝統そのものに生きるというより近代的に伝統を捉えたのだった。

 

ニューヨークがなぜこれほどまでに過去への憧憬をかき立てるのか。ユートピアを夢見て造り上げられたこの都市が、その過去を受け継ぎながら未来へと変貌している証なのだろうか。ニューヨークという存在に、我々は光と闇とを重ねることでその存在を捉えようとする。人それぞれが、一つ一つの心象風景としてのニューヨークを持っている。

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アメリカが「自由の国」と謳われた時代は、ニューヨークという鉄と移民と高層ビルの「都市」に結実したと言ってもいい。それほど、ニューヨークは「近代」の都市として完結している。アメリカの一都市というのではなく、世界の一都市、一個の独立した存在だ。


エンパイアステートビル エントランス

アメリカにおいて鉄の時代は、貧しく未熟ながら新たな時代への希望に満ちた、若くとも最も精神的に豊かな時ではなかったか。ニューヨークの摩天楼はその希望が形となって立ち上がっていった姿なのだ。疲弊したヨーロッパの人々を移民として受け入れることで、混沌とした中にも新たな別天地としての発展著しかったニューヨークは、そのエネルギーを空へと拡大し摩天楼を築き、アメリカ中に散ってゆく軌跡として鉄道を延ばしていった。それは富の集約された結果としてだけではなく、数知れぬ名も無き人々の積み重ねていった人生の結晶でもある。


ニューヨークライフビル

20世紀初頭に興った”アール・デコ”は時に美術史にとってはさほど重要でないといった捉え方をされるが、さまざまな神話や宗教の精神的偉大と、人間の肉体的存在とその可能性の讃歌として若きアメリカを彩り、支えた。

クライスラービルエントランス

栄え行く産業の代名詞だった鉄も、時代を築く影の立役者だった鉄道も、やがて第一線を追われ静かに役目を終えていく。廃墟としてのわびしさ以上に、その担った役割と人々に与えた希望の姿としてよみがえってくるような場所が、ニューヨークとその周囲のそこかしこに残されている。

リバティーステート島 旧鉄道駅舎 エリス島で移民として受け入れられた人々がこの駅からアメリカ中に旅立っていった

そして、次第に富の集積としての姿と土地効率利用に限定されていった高層ビルは、9/11という日を迎えることになる。どこかで失っていった、歴史を積み重ねていくことの地道で謙虚な歩みと、精神的な豊かさとそれを支える力強い希望。テロが肯定されることは絶対にあり得ないとしても、グラウンド・ゼロに残された鉄の十字架はさまざまな何かを静かに、しかし強く訴えかける。

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