イエール大学のArt Museum

古くからある建物の増築がカーンの仕事なのだが、残念ながら改築中でそちらは立ち入り禁止だった。古い部分もよかったのでその写真を紹介する。


外側は以前教会の建物であったことをうかがわせる。長い歴史を持つイエール大学の生い立ちを知ることができる。

ギャラリースペース。窓には薄く色のついた古い手作りのガラスがはめ込まれ、壁や床に淡い色の光と波のような模様を描いていた。

新しく増築中の一部。ガラスとフレームで、極力古い部分とのギャップを目立たないよう配慮されているように感じた。


古い中世の教会のような階段部分。

アメリカは歴史が短い分、ヨーロッパの伝統の完成部分をできる限り取り込み、大事にしてきた経緯がある。洗練や正統には強い主張がないという弱さもあるが、アメリカにはそれを補う新しさの追求があって、そのバランスやせめぎ合いが何かを作り出してきた。ニューヨークも旧さと新しさの同居する街だけれども、そこにノスタルジーの懐かしさと新しいもののエネルギーが同時に満ちあふれた魅力ある都市の姿がある。

ルイ・カーンによるイエール大学のBritish Art Gallery 1

今学期中にコネチカット州ニューヘイブンにあるイエール大学を訪れ、ルイ・カーンのいくつかの建物と、ポール・ルドルフの建築学科の建物を見学した。そのときの写真をいくつか。


建物の外側は酸化皮膜処理された鉄のパネルで覆われていて、ほとんど窓がない。天窓から取り入れられる外の光が建物の空間を満たすようになっている。水平に取り付けられた鉄の飾りibeamがコンクリートのフレームのところで途切れ、美しい表面を持つ鉄のパネルに光の影を投げかけていた。

 


天窓からの光が建物内部から外に漏れている。ドアを開ける前の静かな、高揚感のある瞬間。

アトリウムスペースの天窓。太いコンクリートの梁が天井を4つの窓に区切り、陽が動くにつれ光の差し込む様子もうつろってゆく。この光が、暖かみと冷たさを同時に持つコンクリートのフレームと鉄のパネル、そして柔らかい色を持ち、精緻に組上げられた木のパネルを結びつけている


天窓の投げかける光と影。陽の移り変わりによって、内部空間が緩やかに、しかし確実に変化する

内部の階段は筒状のコンクリートで周りから独立しているが、ここも天井にガラスブロックのはめ込まれた天窓があり、コンクリートの肌にプリズムのような光を投げかけている

ルイ・カーンの建物にあるのは、単に無機的な素材の塊にとどまらない、精神的–といっても孤高の気高さというより、すべての人を包み込むような充実感のような–もので満たされた空間だ。表面的でない、人の感覚と精神の深みに沈む建築、とでも言えようか。

「誰も知らない」

日本より遅れること半年、とうとう全米で公開が始まった。

2時間の間、息が詰まるほどの緊張感が続く。これは何処から来るのだろう。
観客はこの映画が実話をもとにしていることをたいてい知っているだろう。その時点で、是枝監督の目論見はすでに見る前から半分達成されている。この映画に登場する、見て見ぬ振りの傍観者である大人達と観客は同じ視点にあり、そこから子供達を見続けることをこの映画は強制する。それは監督自身も同じであるのを知っていて、だからこそカメラは子供達の繊細な心の動きや動作を見逃すことなく捉えようとする。

もちろんこの映画のテーマが今の日本の社会の「かさぶたの出来ない傷」のような影の部分を扱っていることにも大きな意味がある。でもそれに対して感傷的/感情的な反応を求めることをせず、(そうしてどうなるというのだろう?「まっとうな親になろう」と考え直させること?)子供と大人、観客ー監督と子供という状況/立場関係をはっきりさせることで見る者の視点を同一の次元に引き戻す。それは傍観者という立場を観客に強いることで超えがたい距離のあることだけは自覚させられながら、感情はどこまでも対象である子供たちと自らが属する大人世界の身勝手さにとらわれ続けるよう仕向けられた罠なのだ。無自覚こそが弱者の存在そのものをも消し去ってしまうことを喚起することーそれを達成した時点でこの映画の持つ力は静かに、だが確実に広がってゆくように思える。

「見る」ということーEmpathyとSympathy

どちらも英和辞書を引くと”共感”という単語がまず目に入ってくる。

ただ”Sympathy”は一般的に”同情”という意味で使われることが多い。”共感”と”同情”という、二つの単語の意味の相違に、自我とその外部との関わりにおける重要な鍵が隠されている。いわば、全ての始まりとなるべき最も大切な鍵。

Sympathyにおいては、外界の事物・事象そのものの存在を受け止めた上での、自らの心象に自動的に発生した”鏡像”への受動的共感・同情である。それに対して、Empathyは外界に対し、自ら働きかけることによってそれら事物・事象を抽象化/認識/理解/再構成/構築というプロセスを通して自我に内在化させる。ここでの”共感”は、自我内部に自動的に発生したイメージに対してのものではなく、事象の内在化プロセスー自発的な自我の働きかけを指しているのだ。

建築においても写真においても、いやあらゆるものに対して、Empathyを持って外界に踏み出すこと、それが鍵になる。Existence–外への/スタンス/一歩。 全ては、そこから始まる。

写真という建築手法

写真という3次元あるいはそれ以上である空間を2次元に封じ込めるメディアは、諸刃の剣となりうる。

実際空間の視覚にとどまらない様々な情報をいかに捉えるか。自らの外部に存在しつつ、時間と記憶の地平へと覚醒していくempathyをいかに見る者の内部に呼び起こすことが出来るか。

写真が視覚を足がかりに様々な知覚と個人の記憶を刺激していくこと。それは空間を理解し、自らの中で再構築し実際空間との関係を作り上げる建築においての空間認識と変わるところはない。

全ての写真というものは、建築手法そのものなのだ。視覚によって促される刺激とは、見る者のそれに対する反応とは何なのか。そこに厳しい問いのメスが入っていない写真はまた与えるものも限られている。